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【メルマガ】滞在者が大半の国の悲劇(サハリン報告その4)

<元流刑地は係争の地>
 間宮林蔵が島であることを発見し、最上徳内も探検した樺太は、やはり、北海道がアイヌの地だったのと同じく、ウィルタ、ニブヒ、アイヌ等の住む別天地でした。
 日本では八丈島が島流しの地でしたが、1800年代、サハリンは流刑地でした。1890年、日本でも人気のチェーホフは、病を押してサハリンにやってきて大著『サハリン島』を残しています。チェーホフは今風に言えば、行動する作家だったようで、美術館の前に銅像が建てられています。
 1855年の日露通好条約で「雑居の地」とされた樺太は、榎本武揚の活躍により、1875年の樺太・千島交換条約でロシア領となりました。1905年の日露戦争を処理するポーツマス条約で南樺太は日本に割譲されましたが、第二次世界大戦でソ連が侵攻したまま、1951年のサンフランシスコ条約により日本は南樺太を放棄しました。つまり、ユジノサハリンスク(豊原)は、雑居の地→ロシア→日本→ソ連という変遷を辿った歴史的にも憐れな地なのです。

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美術館前のチェーホフの銅像 妻:嘉美と  

<定住者は朝鮮人が中心>
 一部には一旗揚げようとして自主的に来た人もいたでしょうが、多くの朝鮮人が強制的に樺太開発に連れてこられました。そして、戦後、日本人は帰国できたのに、朝鮮人は帰る機会を失い、現在は4万人ほどいるそうです。日本の戦後処理で真っ先に手を付けるべき問題だったのに、と悲しくなるばかりです。
 1970年代に72万人いた人口が、石油・天然ガス開発ブームなのに、52万人と20万人も減っています。ロシア人が8割、ウクライナ人が1割と大半を占めますが、多くはお金を貯めてウラル山脈の西に戻りたいという希望を持っているようで、現に州知事で居残った人はいないと聞きました。つまり、サハリンは、定住者がおらず、ここを慈しみ、良くしようというモチベーションに欠ける人たちの寄せ集まり世帯のような所かもしれません。

<オンロードをオフロード感覚で>
 サハリンでは、走る車のみならず、道の脇の植物や建物も泥とほこりまみれでした。道路の舗装状態が悪くでこぼこで、センターラインも車線も見えません。洗車という行為はなく、道路にしても建物にしても、かなり長く補修していないままのようです。
 さらに、田舎の舗装されてない道路は、こんなものではなく、でこぼこ道は当たり前で、水溜りやくぼ地をよけながら、ジグザグに進まないと、車が横転しかねないほどの道もあります。ロシア通で趣味がバイクという先生は、サハリンの観光資源として「オンロードをオフロード感覚で走れる」と話していましたが、身を持って理解しました。

<日本語学科の学生は優等生>
 サハリン国立大学経済・東洋学研究所を訪問し、日本語学科の先生たちと懇談しました。学科長に、日本語を専攻した理由を尋ねると、一番難しい大学・学科だからという返事で、どうやら、真面目な優等生しか合格しない大学のようです。さらに、教師には卒業生のうち特に優秀な人を残すと臆面もなく答えてくれました。
東洋系の先生がいるので、日本人の子孫かと思いきや、朝鮮系の方でしたが、朝鮮語は全くできませんとくったくなく答える姿にすまない気持ちでいっぱいになりました。
優秀な卒業生の多くは日本に留学しますが、サハリンに仕事がないため、日本で就職したまま帰ってこないとのことで、とても日本との交流をてこに発展することなど先の先のようです。

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倒れたままの日露戦争時日本上陸記念碑 妻:嘉美と

<ひしめく外国人労働者>
 シェル、三井物産、三菱商事の参加する石油・天然ガス開発プロジェクト、サハリン2は、今建設途上で、約9000人が働いています。そのうち約6000人が外国人労働者です。ロシア人の雇用も義務付けられていますが、ロシア人には熟練した外国人労働者の代替はできず、技術を要しないところで働いているのが現状だそうです。
 私は、フォーラムで「今後は、北極での石油・天然ガスの開発もある。氷で閉ざされた極地サハリンの技術が生かされるはずであり、技術者養成をしたらどうか」と提案しましたが、現実には、手っ取り早く、手馴れた外国人労働者が使われています。
 日露戦争の折に日本軍が上陸した碑が無残にも倒された丘の眼下にLNGプラントが建設中でした。そこには何と6000人の宿舎も建てられていました。

<サハリン州の顧問に!>
 私は、役人時代、仕事の傍ら本を数冊書きましたが、退職したら田舎に引っ込み、弟の農業を手伝いながら、大学でたまに講義しながら本を書く予定でした。その一つにロシア関係があり、サハリンにはもともと興味津々でした。
 サハリンの悲劇は、故郷としてサハリンを愛し、良くしようとする人たちが少ないことにあります。本当にサハリンのためを考える人々がサハリン州を運営すれば、見違えるようになるでしょう。
日本語学科で会った副学長は、ユーモア溢れるコロコロ太った典型的なロシア人女性でした。私は、帰りの飛行機の中で、例の副学長に秘書になってもらい、サハリンの発展のため、州政府の仕事をやれたらという夢物語を頭に描いていました。