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追悼 宮沢喜一07.07.13

7月6日記
 はるかかなた昔(?)、1982年から2年間、私は鈴木善幸内閣のお膝元に出向し、安全保障問題を担当しました。その時の官房長官が、政治家としてまさに油が乗り切った宮沢さんでした。池田勇人首相には気に入られ重用されたものの、同じ大蔵省の先輩の大平正芳首相とはそりが合わず、冷遇されていました。選挙中に亡くなった大平さんの後任として図らずも首相になった鈴木さんは、自らの補佐役として宮沢さんを近くに置きました。後の中曽根首相を支えた後藤田正晴官房長官と並ぶ大物・重鎮であり、文字通り内閣の要でした。

鈴木さんは、大平さんの弔い選挙で大勝し、図に乗ってタカ派的体質を強める自民党を苦々しく思っていました。そこに釘を刺すべく内閣に「総合安全保障関係閣僚会議担当室」を設置しました。そこに農林水産省から食料安全保障担当で出向させられていたのが私でした。
 外務省から審議官クラス、通産省から課長クラス、外務と農水から課長補佐クラスが常駐出向し、その他関係各省から併任出向がありました。当時は、閣僚会議も存在しましたが、防衛庁からはオブザーバーで正式なメンバーではなく、鈴木さんの軍事を突出させないという強固な意志が働いていました。
 ところが、伊東正義外務大臣が、そうした首相の意に反して日米同盟を軍事同盟と言い切り、罷免(解任)させられました。同じ派閥で大平・伊東のまさよし(正芳・正義)コンビと鈴木・宮沢には相容れないものがあったようです。25年後の今、集団的自衛権の行使を認めるといった風潮を鈴木さんはどうみておられるか明らかです。
 そういえば、今の自民党は、小泉劇場、目くらまし選挙で、巨大与党になったところは似ています。しかし、首相は鈴木さんのような重厚・老練な平和主義者と正反対、宮沢さんのような名補佐役もおらず、数の力にまかせて強引に事を進める経験不足の首相が、憲法改正まで口にして暴走しています。四半世紀の歳月の流れを感じざるを得ません。
 鈴木さんと宮沢さんは、安全保障についての価値観は完全に共有していました。鳴り物入りでスタートした総合安全保障関係閣僚会議は、マスコミ、特に海外から関心が寄せられ、2ヶ月に1度開かれる会合の後の記者会見は大勢の記者で埋まりました。諸外国には、日本政府が初めて本格的に安全保障問題に取り組んだと映ったのです。
 名うてのタカ派青嵐会の暴れん坊、中川一郎さんが科学技術庁長官で、多分属人的理由で総合安保会議のメンバーでした。意見も過激でした。しかし、司会進行を勤める宮沢さんは、時々自分の意見を散りばめつつ、軌道修正されていました。事務方もほんの僅かしか入れない珍しい秘密会合で、記録は、私と外務省から出向したMさんのメモだけです。必死でメモをとりまとめました。
 ところが、メモに集中しすぎ、どんなやりとりがあったかはメモを見直さないとわからなくなってしまいました。そんな時、宮沢さんの「簡にして要」の記者会見を聞き、今回はこういう議論があったのかと頭の整理ができました。宮沢さんは気を使って司会をしながら、メモも取らないのに要点をきちんと頭の中に入れ、理路整然と説明されていたのです。頭がいいというのはこういう人をいうのかと舌を巻きました。
 後に私が政治家となり、民主党のリベラルの会の皆さんに共感を覚えるのは、この2年間の鈴木・宮沢ラインにどっぷり仕えたからかもしれません。だてに2年間官邸入りし、猪木正道防衛大学校長や高坂正尭教授と勉強会を重ねていたのではありません。
 宮沢さんの薫陶に応えるべく、私も心して安全保障問題、憲法問題に対処していくつもりです。