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『花の都パリ「外交赤書」』番外編・・・ボツ原稿「ヒューストン・サミット(1990年夏)と次官人事」より抜粋07.12.03

『花の都パリ「外交赤書」』の書評もインターネットに2つ載り、MIXIに3つほど書かれています。
 私は、パリ以外のものも書き留めていましたし、もっとほのぼのとしたものが多かったのですが、講談社の編集方針とやらで、役人のドタバタ話ばかりになってしまいました。
 元の原稿には1990年夏のヒューストン・サミットの随行の話もあり、そこに、先輩の田中宏尚農林水産事務次官(1956年入省)が海部総理の慰留を振り切って退任することを書いていました。本はパリの話ばかりになり、この原稿は当然ボツになりました。
しかし、今、守屋武昌前防衛事務次官の4年在任が取りざたされ、逮捕という不祥事になっています。そこで、私の敬愛してやまない田中さん退任劇を幾分加筆修正して皆様にお届けします。いつもと比べ長くなりますが、好対照をみていただけたら幸いです。
 『花の都パリ「外交赤書」』をお読みいただいた方はお気づきと思いますが、この本には、これから紹介するような「いい話」はほとんど削除されてしまっています。それを補うべく、ここにお送りいたします。

<大島官房副長官の突然のお呼び出し>
ヒューストン・サミットの随行最後の夜、コロラド州の瀟洒なログハウスでバーベキュー・パーティが開かれた。各省の随行者はあちこち回っているうちに一人消え二人消えほとんどいなくなっていた。つまり、官邸の随行者と我々ぐらいであった。その官邸の随行者の中に大島理森官房副長官がいた。河本派の若きホープであり、官房副長官に抜擢されていた。農林族であり、私もよく知っている仲だった。楽しくビールを飲んで肉を食べていると、大島さんから私にお声がかかった。
「篠原、ちょっと来い」
ちょっといつもと雰囲気が違う呼び出しだった。その会話の中味は今でも鮮明に覚えている。
「篠原、お前のところのT次官はそんなに悪いのか」
という質問が浴びせられた。私は何のことかよくわからなかったが、たぶん何かいろいろ問題があるのだろうと思って、ふと考えて、
「ええ、T次官は私と同じように痩せこけているのに、大酒のみで、一回入院して相当体ががたついたにもかかわらず、やっぱり好きなものはやめられないんでしょうねえ。どうも飲み過ぎでだいぶ悪いようですよ」
と半ば事実だけれど、それほど確かでもないことを答えた。すると、大島さんは
「そうか、やっぱりなあ。そうすると、だめか」
「何があったんですか」
と私は訊ねた。
「うん、なに、年末にブリュッセルでウルグアイ・ラウンドの閣僚会議があるんで、関係省庁全員に通例の夏の人事を延ばすように総理から命が下ったんだ。他の全省庁は皆いうことを聞いたのに、農林水産省のT次官だけはいくら言ったって聞かないんだ。それで海部総理が怒って、『大島、お前は農林族なんだろう。農林族ならちゃんと言うことを聞かせろ』と言うので、俺がT次官に言ったんだけれども、『だめだ』と言うんだ」
私も忠実な役人だった。T次官の意向を通すようにしないとならない。
「ああ、そうですか。それはそのとおりですよ。T次官のお体ではもう務まらないんじゃないんですかねえ」
と、追い討ちをかけた。

<春先の変則的人事>
「それだけじゃないんだ。なんかよくわからないんだけど、T次官は、『同期が次官をやり、自分は2人目なので、長くやるわけにはいかない。ただ、ウルグアイ・ラウンドが膠着状態になることが予想されたので、先手を打って国際関係の人事は既にやってあり、磐石の体制となっているので、7月の異動はなく、大丈夫だ』と言うんだが、本当か」
と聞かれた。私は、すぐあれだと気がついて説明した。
「3月にA審議官が南米に行っているときに突然人事異動があって、A審議官が退官し、その後にB経済局長、C総務審議官、D国際部長、E予算課長という人事がありました。異例の時期の幹部人事でした。それは絶対本当です」
「ふーん。それが絶対本当というと、病気のほうは嘘のように聞こえるな」
と言って、大島さんは私のほうを向いて、にやっと笑われた。政治家の恐ろしい勘であり、どうも本当に嘘をつけない私の拙さである。

<T次官の帝王学>
 私は、コロラドからワシントンDCへ飛び、F政務次官のアテンドを終え、日本に帰国してから、この件を報告すべく、T次官室を訪れた。一部始終説明すると、T次官は、
「でかした。お前にしてはよく対応してくれた」
とおほめの言葉をいただいた。T次官の意図は概略すると以下のとおりである。
「就任したときから、いかに辞めるべきかということを常に考えていた。1年後に辞めるときに障害になるのは、やはりウルグアイ・ラウンドだということが予想された。そこで、ウルグアイ・ラウンドの決着が先延ばしされそうなので、もっと長くやれなどと言われたら、自分は同期で2人目の次官であり、人事が停滞し後輩たちに相当迷惑をかけるので、そんなことは絶対にできない。そのために、A審議官には悪いんだけれども、突然引導を渡すことになったんだ。篠原、いいか。トップは就いたときから常に自分がいついかに辞めるかを考えていなければいけないんだ」
T次官は私に帝王学を授けてくれた。私は、調整上手なT次官はそれなりに尊敬はしていたし、水産庁長官時代のみごとな手綱さばきには敬服していたと言ってよい。しかし、先の情勢を見通し、ここまで布石を打っていたことに舌を巻いた。まさに芸術的ともいえる見事さである。

<通産省の人事騒動は2年次官の連続が原因>
通産省は、確かウルグアイ・ラウンド後の1月の人事もできず、次官が2年をやることになり、その後2年をやる次官が増え、人事が停滞した。とどのつまりは、後々の四人組事件、すなわち、辣腕次官の息子の衆院選出馬を巡りゴタゴタし、大本命のG産業政策局長が次官になれずに退官するという事件につながっていた。野心家の次官は総理の命でも何でも都合のいいことを奇貨として長くポストに居座ろうとする輩が多く、後進に譲らないケースが多いのだ。それに対して、T次官は周到な計算の上に総理の慰留もなんのその淡々と1年で辞めていったのである。

<次官は君臨すれど統治せず>
私が入省してからは、農林省が新規採用を控え人材が不足していた24年組のH次官が2年やっただけで、当省は次官は1年と決まっていた。つまり、人事は1回しかやらせないルールが定着していた。鈴木善幸総理、金子岩三農相の時に水産庁長官を次官にしようと政治の介入があったが、持ち前のしぶとい対応でルールは厳然と守られていた。私はよくマスコミや周りに
「農林水産行政はよく間違うけれど、農林水産省の人事だけは非常にきちんとしている」
と言っていた。ところが、昭和30年代の後半入省以降の幹部人事となると、かなり乱れ、長く居座る次官が増えてしまった。霞ヶ関の人事が次官を筆頭に通常ピラミッド型となるが、自分より後輩が6年次連続して1人しか残さないという偏執的人事も生じてしまった。この「ろうそく1本人事」と揶揄されるような歪んだ人事が、最近の農政の混迷にもつながっていると思われる。

<退任後も襟を正し続ける潔さ>
 T次官にはせっかく帝王学を授かったが、私には無縁なものとなりつつあったので、親しい先輩にはこの話をして自重を促したが無駄だった。やはり権力は魔物であり、長く居座る方向に動いてしまうらしい。
 その後、退官されたTさんに拙書をお届けした折、本省に会合に行かれるというので車に同乗させてほしいとお願いしたところ、電車で行くという意外な答が返ってきた。次官経験者にはそれに相応しい天下り先が用意され、当然車付きのポストとなる。農林水産省の場合、私の在職時は、各局の庶務課長(筆頭課長)から車付きだったし、次官ともなるとその後ずっと20年近く車付きの勤務となっていた。
 Tさんは、六五歳となり地元の老人会に所属したという。順番に何の仕事をしていたかを話すことになり、農林水産事務次官をしていたことを喋らざるを得なくなった。それからしばらくして、雨の日、黒塗りの車の前で律儀な運転手さんが傘を差して待っていた。車に乗ろうとすると、老人会の仲間のおばあさんから、これみよがしに
「高級官僚はいいわね。退職して10年になるのにお車付きのお迎えで」
と嫌味を言われたという。
 Tさんは、それに恥じて、車を使ってほしいという要請にもかかわらず、その後一切車を使わず電車通勤にし続けた。一事が万事である。立派な人は退職しても立派なのだ。
 ただ、この美しい話を旧知の記者たちにしたところ、今頃気付くなんて遅すぎる、篠原さんらしくないと言われてしまった。私も長年役人をしていると、やはり庶民感覚をなくしつつあるのだろう。しかし、やはり、いくら歳をとっても質すべきは質して行こうとするTさんの姿勢には清々しいものを感じざるを得ない。後輩は見習わなければなるまい。