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2007年12月04日

全国後援会報告07.12.04

11月19日 4回目の全国後援会を開催しました。ご参加くださった方々、今年も全国後援会に入会してくださった方々に心よりお礼申し上げます。幹事の皆様方、いつもながらお疲れ様でした。
実は今回は皆さんがよくやっている2万円のパーティ券を購入してもらう、いわゆる政治資金パーティにしたかったのですが、いろいろな事情でやめました。

<超楽観的見通し―すぐ政権交代し、すぐ大臣に>
後援会幹事の皆さんは、小沢一郎党首とは全く違う楽観的な見通しで、民主党はすぐ政権を獲るに違いない。次に篠原はすぐに閣僚になるにちがいないという願望、期待の入り混じった楽観的見通しでした。

<突然の悲観的見通し>
ところが、ここから急に悲観的というか防禦的になります。大臣とか、政務官とかなりますと、いろいろ資金的な面も洗い出されます。その時に、いろいろ問題のある企業にパーティ券を購入してもらっているとよくない。例えば、今食品偽装で問題になっている企業とかありますが、私の場合は農林水産省行政という仕事柄、食品関係企業の人たちにおいでいただくことになる。その企業が偽装問題で問題になると、手心を加えたのではないかというようなかたちでつつかれる。だからやめようということになりました。
パーティ券を20万円(10枚)以上買ってもらうと政治資金収支報告書に公表する義務がありますが、そのパーティ券を購入してもらった分を返却するというのがよく行なわれています。最近で言うと、山田洋行から6年分220万円パーティ券を買ってもらっていた額賀福志郎財務大臣の例があります。そういう事を篠原にさせてはならないと、今度は非常に悲観的な心配をして、結局、折角本を作ったことでもあり、出版記念パーティも兼ねての国政報告会開催となりました。

<久し振りの政治家招待>
 “花の都パリ「外交赤書」”は、そもそも私の資金管理パーティのお土産用に作ったものです。政界用語、まあ自民党用語だと思いますが、「まんじゅう本」というのだそうです。パーティを開いた時に、まんじゅうをお土産に出すかわりに、本を持って帰っていただく、そういった類の本です。私は某農林水産大臣のまんじゅう本のゴーストライターをしたこともありますが、自分のまんじゅう本を自分で作るとは予想していませんでした。私は、暖めていたパリの話を書きました。
今回は、久方ぶりに政治家の皆さんにも来てもらいました。初回に一部の同僚議員をゲストに招いたのに次ぐものです。それからパリのOECDの関係者で、いろいろお付き合いいただいた方、特に登場人物については是非お許しを請いつつ、お招きなければならないと、招待しました。
 この手のパーティとしては非常に盛会で、たくさんの人に来ていただきました。ただ、いつも言われることですが、「そこそこの食事を出しているのに、これで採算がとれるのか?」と資金管理パーティと思っている方がまだたくさんいました。お土産には、私の本のほかに、長野で農業をしている弟の作っているりんご「ふじ」を持って帰っていただきました。

<知らないことだらけの政界ルール>
それから、後で初めて知ったのですが、いろいろな後始末が残りました。私は、この手のパーティには空いている時だけ適当に顔を出していました。ところが、今度、新たに採用した政策秘書は自民党の某議員の秘書を長らくしていて、いろいろなルールを知っています。ご招待は全同僚議員に出し、招かれた議員は、本人が出席するか、代理を出席させるか、メッセージを出すというのが常識だそうでして、何もしない議員はそんなに多くはないということを教えられました。民主党も同じだそうです。
私は今まで、秘書を代理で出席させたこともなく、まして読まれることのないメッセージなど全く出したこともありませんでした。たまに空いていて出席すると、必ず本人が名刺を持って御礼に来るのには気づいていました。何と儀礼の手厚い世界かと不思議に思っていましたが、今度は私が3つの議員会館をこまめに走り回る羽目になりました。なかなかパーティも大変だという事がわかりました。

<まじめな報告会の今後>
 私の全国後援会のパーティでは、今年も50ページ弱の冊子を作って、30分間ほど説明しました。自ら言うのもなんですが、こういう事をしている議員はそれほどおらず、後々の国政報告会の資料としても役立つものです。
 来年のことはわかりませんが、資金管理パーティをしろと周りから言われています。それはなんの為かと言うと、やはりお金が足りない。何に足りないかというと、地元の政治活動費です。もっと端的に言うと、第一に一生懸命働いてくれている地元の秘書の皆さんの給料を少しでも多くしてあげたいというのがありますし、もうちょっと拡充したいというのもあります。
 次に、私の活動を知ってもらうべく、国政報告をもっとたくさんの方々に頻繁に出したいという願いがあります。郵送代も含め、1部100円が相場ですが、3万戸に郵送すると、1回300万円になります。私は、年に2回しか出していませんが、できれば4回は出したいと思っています。
ただ、パーティ券を買ってくれる企業探しはもっと大変だろうなと想像がつきますし、やはりこのまま国政報告会だけにするのか迷うところです。

2007年12月03日

『花の都パリ「外交赤書」』番外編・・・ボツ原稿「ヒューストン・サミット(1990年夏)と次官人事」より抜粋07.12.03

『花の都パリ「外交赤書」』の書評もインターネットに2つ載り、MIXIに3つほど書かれています。
 私は、パリ以外のものも書き留めていましたし、もっとほのぼのとしたものが多かったのですが、講談社の編集方針とやらで、役人のドタバタ話ばかりになってしまいました。
 元の原稿には1990年夏のヒューストン・サミットの随行の話もあり、そこに、先輩の田中宏尚農林水産事務次官(1956年入省)が海部総理の慰留を振り切って退任することを書いていました。本はパリの話ばかりになり、この原稿は当然ボツになりました。
しかし、今、守屋武昌前防衛事務次官の4年在任が取りざたされ、逮捕という不祥事になっています。そこで、私の敬愛してやまない田中さん退任劇を幾分加筆修正して皆様にお届けします。いつもと比べ長くなりますが、好対照をみていただけたら幸いです。
 『花の都パリ「外交赤書」』をお読みいただいた方はお気づきと思いますが、この本には、これから紹介するような「いい話」はほとんど削除されてしまっています。それを補うべく、ここにお送りいたします。

<大島官房副長官の突然のお呼び出し>
ヒューストン・サミットの随行最後の夜、コロラド州の瀟洒なログハウスでバーベキュー・パーティが開かれた。各省の随行者はあちこち回っているうちに一人消え二人消えほとんどいなくなっていた。つまり、官邸の随行者と我々ぐらいであった。その官邸の随行者の中に大島理森官房副長官がいた。河本派の若きホープであり、官房副長官に抜擢されていた。農林族であり、私もよく知っている仲だった。楽しくビールを飲んで肉を食べていると、大島さんから私にお声がかかった。
「篠原、ちょっと来い」
ちょっといつもと雰囲気が違う呼び出しだった。その会話の中味は今でも鮮明に覚えている。
「篠原、お前のところのT次官はそんなに悪いのか」
という質問が浴びせられた。私は何のことかよくわからなかったが、たぶん何かいろいろ問題があるのだろうと思って、ふと考えて、
「ええ、T次官は私と同じように痩せこけているのに、大酒のみで、一回入院して相当体ががたついたにもかかわらず、やっぱり好きなものはやめられないんでしょうねえ。どうも飲み過ぎでだいぶ悪いようですよ」
と半ば事実だけれど、それほど確かでもないことを答えた。すると、大島さんは
「そうか、やっぱりなあ。そうすると、だめか」
「何があったんですか」
と私は訊ねた。
「うん、なに、年末にブリュッセルでウルグアイ・ラウンドの閣僚会議があるんで、関係省庁全員に通例の夏の人事を延ばすように総理から命が下ったんだ。他の全省庁は皆いうことを聞いたのに、農林水産省のT次官だけはいくら言ったって聞かないんだ。それで海部総理が怒って、『大島、お前は農林族なんだろう。農林族ならちゃんと言うことを聞かせろ』と言うので、俺がT次官に言ったんだけれども、『だめだ』と言うんだ」
私も忠実な役人だった。T次官の意向を通すようにしないとならない。
「ああ、そうですか。それはそのとおりですよ。T次官のお体ではもう務まらないんじゃないんですかねえ」
と、追い討ちをかけた。

<春先の変則的人事>
「それだけじゃないんだ。なんかよくわからないんだけど、T次官は、『同期が次官をやり、自分は2人目なので、長くやるわけにはいかない。ただ、ウルグアイ・ラウンドが膠着状態になることが予想されたので、先手を打って国際関係の人事は既にやってあり、磐石の体制となっているので、7月の異動はなく、大丈夫だ』と言うんだが、本当か」
と聞かれた。私は、すぐあれだと気がついて説明した。
「3月にA審議官が南米に行っているときに突然人事異動があって、A審議官が退官し、その後にB経済局長、C総務審議官、D国際部長、E予算課長という人事がありました。異例の時期の幹部人事でした。それは絶対本当です」
「ふーん。それが絶対本当というと、病気のほうは嘘のように聞こえるな」
と言って、大島さんは私のほうを向いて、にやっと笑われた。政治家の恐ろしい勘であり、どうも本当に嘘をつけない私の拙さである。

<T次官の帝王学>
 私は、コロラドからワシントンDCへ飛び、F政務次官のアテンドを終え、日本に帰国してから、この件を報告すべく、T次官室を訪れた。一部始終説明すると、T次官は、
「でかした。お前にしてはよく対応してくれた」
とおほめの言葉をいただいた。T次官の意図は概略すると以下のとおりである。
「就任したときから、いかに辞めるべきかということを常に考えていた。1年後に辞めるときに障害になるのは、やはりウルグアイ・ラウンドだということが予想された。そこで、ウルグアイ・ラウンドの決着が先延ばしされそうなので、もっと長くやれなどと言われたら、自分は同期で2人目の次官であり、人事が停滞し後輩たちに相当迷惑をかけるので、そんなことは絶対にできない。そのために、A審議官には悪いんだけれども、突然引導を渡すことになったんだ。篠原、いいか。トップは就いたときから常に自分がいついかに辞めるかを考えていなければいけないんだ」
T次官は私に帝王学を授けてくれた。私は、調整上手なT次官はそれなりに尊敬はしていたし、水産庁長官時代のみごとな手綱さばきには敬服していたと言ってよい。しかし、先の情勢を見通し、ここまで布石を打っていたことに舌を巻いた。まさに芸術的ともいえる見事さである。

<通産省の人事騒動は2年次官の連続が原因>
通産省は、確かウルグアイ・ラウンド後の1月の人事もできず、次官が2年をやることになり、その後2年をやる次官が増え、人事が停滞した。とどのつまりは、後々の四人組事件、すなわち、辣腕次官の息子の衆院選出馬を巡りゴタゴタし、大本命のG産業政策局長が次官になれずに退官するという事件につながっていた。野心家の次官は総理の命でも何でも都合のいいことを奇貨として長くポストに居座ろうとする輩が多く、後進に譲らないケースが多いのだ。それに対して、T次官は周到な計算の上に総理の慰留もなんのその淡々と1年で辞めていったのである。

<次官は君臨すれど統治せず>
私が入省してからは、農林省が新規採用を控え人材が不足していた24年組のH次官が2年やっただけで、当省は次官は1年と決まっていた。つまり、人事は1回しかやらせないルールが定着していた。鈴木善幸総理、金子岩三農相の時に水産庁長官を次官にしようと政治の介入があったが、持ち前のしぶとい対応でルールは厳然と守られていた。私はよくマスコミや周りに
「農林水産行政はよく間違うけれど、農林水産省の人事だけは非常にきちんとしている」
と言っていた。ところが、昭和30年代の後半入省以降の幹部人事となると、かなり乱れ、長く居座る次官が増えてしまった。霞ヶ関の人事が次官を筆頭に通常ピラミッド型となるが、自分より後輩が6年次連続して1人しか残さないという偏執的人事も生じてしまった。この「ろうそく1本人事」と揶揄されるような歪んだ人事が、最近の農政の混迷にもつながっていると思われる。

<退任後も襟を正し続ける潔さ>
 T次官にはせっかく帝王学を授かったが、私には無縁なものとなりつつあったので、親しい先輩にはこの話をして自重を促したが無駄だった。やはり権力は魔物であり、長く居座る方向に動いてしまうらしい。
 その後、退官されたTさんに拙書をお届けした折、本省に会合に行かれるというので車に同乗させてほしいとお願いしたところ、電車で行くという意外な答が返ってきた。次官経験者にはそれに相応しい天下り先が用意され、当然車付きのポストとなる。農林水産省の場合、私の在職時は、各局の庶務課長(筆頭課長)から車付きだったし、次官ともなるとその後ずっと20年近く車付きの勤務となっていた。
 Tさんは、六五歳となり地元の老人会に所属したという。順番に何の仕事をしていたかを話すことになり、農林水産事務次官をしていたことを喋らざるを得なくなった。それからしばらくして、雨の日、黒塗りの車の前で律儀な運転手さんが傘を差して待っていた。車に乗ろうとすると、老人会の仲間のおばあさんから、これみよがしに
「高級官僚はいいわね。退職して10年になるのにお車付きのお迎えで」
と嫌味を言われたという。
 Tさんは、それに恥じて、車を使ってほしいという要請にもかかわらず、その後一切車を使わず電車通勤にし続けた。一事が万事である。立派な人は退職しても立派なのだ。
 ただ、この美しい話を旧知の記者たちにしたところ、今頃気付くなんて遅すぎる、篠原さんらしくないと言われてしまった。私も長年役人をしていると、やはり庶民感覚をなくしつつあるのだろう。しかし、やはり、いくら歳をとっても質すべきは質して行こうとするTさんの姿勢には清々しいものを感じざるを得ない。後輩は見習わなければなるまい。

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