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役人(農林水産省)への未練とWTO農業交渉08.09.19

<M農林水産審議官の初心貫徹>
 9月10日にジュネーブ入りしましたが、同じ時、M農林水産審議官が、WTO農業交渉の再開に向けた事務レベル協議にジュネーブ入りしていました。一年後輩です。在任2年、日本農業の将来を左右する瀬戸際の交渉の事務方の最高責任者です。熊本生まれのまじめな男で、入省直前に我々48年組が招待した49年入省組の歓迎会で、「将来留学したい」と明言していた姿を克明に覚えています。

 私のように偶然留学し、成り行きで国際関係の仕事をした者と異なり、M氏は希望どおりイギリスへ留学し、アメリカ大使館へ一等書記官で出向し、帰国後も国際経済課でウルグアイラウンドを担当し、国際関係の仕事をしてきました。ただ、課長補佐時代は、一年下の年次の後任となったり、私が初代の水産貿易調整官の3代目になったりと少々冷遇されていました。私がOECD代表部にいた時に出張してきたのを捉えて、「農林水産省に見切りをつけて、OECD事務局入りしたほうがいいのではないか」と余計なお節介をやいたのをつい昨日のことように覚えています。

<不透明な役人人事>
 役人の人事はどこの誰がどういう基準でしているのか不透明です。100メートル10秒切るとか、ホームラン500本とかスポーツの世界と違い、誰にもわかる基準がありません。ですから、守屋武昌防衛次官の例にみられるように、いかがわしい役人がたくさん出世していきます。どうも私の見方とポストとは、特に農林水産省の場合大きな乖離があります。私は、彼の能力、誠実な人柄、英語力は高く買っていました。そうした中、いつの間にか実力が認められ審議官になりました。珍しく私の評価と人事が一致し、うれしい限りです。
 残念ながら、ジュネーブではすれ違いで、ゆっくり話す機会がありませんでしたが、頑張れと声援を送り続けています。

<国際交渉で通用する私のアイデア>
役人生活30年、あれをしておけばよかった、これをしておけばよかったというのはあまり考えないようにしていますが、一つだけ、農業交渉だけは自分の手でやりたかったと思うことがあります。OECDで1991年から1994年まで仕事をさせてもらいましたが、私の考える政策なり理屈が農林水産省よりもOECD農業委でのほうが通用するということに気づいたからです。冗談を混ぜつつ説明する私の発想が、各国の代表団に受け入れられたのです。もう一つ、私がURの対応策として1990年頃から考えていた、米と麦のセクター・アプローチを、1993年の最終場面でEUが肉のセクター・アプローチとして打ち出したことがあります。私の発想はEUなり欧米人の方が理解が得られやすいのです。
私は、ちょっとしか発言の機会のなかった日米構造協議や水産庁企画課長時代のロンドン出張で、国際会議の場で正論を吐いて流れを作っていくことにますます自信を持ってきました。私の国会での理論的な質問(?)を知る人たちはそれなりに納得してくれるのではないかと思います。

<国際舞台の根回し>
私は役人としては自由に発言し、過激な農政提言を文章にして出版していましたので、出世というようなことはほとんど考えませんでしたが、農業交渉だけは私に任せてくれたらなあという思いがありました。私が采配を振る時に下にいて欲しいなという人物として、2年後輩の故永岡洋治衆議院議員とK氏、元気のいい4年後輩Y氏を頭の中に描いていました。いずれもアメリカ留学組です。農林水産省の役人は、自民党の農林部会の皆さんばかり根回しに歩いていますが、その根回しのノウハウを国際舞台に活かすのです。理論家の永岡氏、人柄で信用を勝ち得るK氏、馬力で勝負のY氏をそれぞれの国に派遣して仲間を増やすのです。日本に有利な仕組みを世界のルールにすることができる確信めいたものがありました。

<役立たなかった英語の鍛錬>
 OECDから戻って水産庁企画課長になりました。海洋法対策を取り仕切る課で激務でした。自分でスパスパやったほうが早いのですが、課長になったのだからなるべく部下に任せようと慣れない努力もしていましたし、余計疲れました。それでも、通勤にはウォークマンをかかさず、国際部門での再登板に備えて英語力の維持に注意を払いました。しかし、いつの間にか私は国際関係の主要部局に行くこともなく、農林水産政策研究所長を最後に退職し、国会議員になってしまいました。

<政権交代か農業交渉か>
 国会議員になってからは、羽田さんの要請に応えるべく、民主党農政の推進に全力を注いできました。また、私が手塩にかけた直接支払いの「農業者戸別所得補償」が農家に受け入れられ、04年の参議院選では1人区で半分の13議席に勝利し、05年の衆議院でも地方の同期議員はほとんど当選、07年の参院選では29の1人区で23勝と政権交代の実現に向け大きく貢献した自負があります。07年参院選勝利は、年金・政治と金とよく言われますが、第一は我々の農政が受け入れられたのです。
 しかし、私が去った農林水産省は、国際交渉では相変わらず受身で、押されっぱなしでどんどん後退しました。EPA・FTAもオーストラリアとまで話が進んでいます。前述のとおり、国内農政より国際的な圧力に屈しないことこそ日本農業活性化に不可欠なのです。そっちが全くうまくいっていません。
2泊4日という強行日程の中、時差調整の時間もない中、ボーっとする頭の中で、政権交代は他の政治家に任せ、私は農林水産省に残り、国際交渉にあたっていたほうが、日本農業のためになったのではないかなどと、つまらぬことを考えていました。
農林水産省の役人として国際交渉のトップ、あるいは準トップでバリバリやれなかったことが、唯一の心残りです。農林水産省を去って早5年、その意味でも一刻も早く政権交代、そして、私が交渉の第一線の指揮を取れるようにする以外になくなりました。