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盟友 故青木一市長を偲ぶ-2008.10.26-

-去る10月26日 故青木一市長の市葬がとりおこなわれました。代表の一人として奉読した弔辞をご紹介します。-

本日、ここに、故青木一市長の市民葬が執り行われるに当たり、中野市民としてまた友人として、謹んで哀悼の意を表し、御霊に申し上げます。
 青木市長、君は本当に市長にぴったりの性格、そして体格でした。巨体をゆすりながら積極的に市政に邁進する姿は、中野市のシンボルとなりつつありました。今、こうして君を失ってみると、君の存在感の大きさがまざまざと感じられます。
 顧みれば、君と私は、高校の時から四十五年の長い付き合いでした。君は、あのころから恰幅が良く、やせこけた私から見ると羨ましい限りでした。長野電鉄に乗って、長野と中野を往復する間のお喋りは楽しいものでした。君の回りにはいつも明るいほのぼのとした雰囲気が漂っていました。君の天性の明るい性格の故です。
 君は吹奏楽班に入り、大きな体で、一番前でクラリネットを吹いていました。作曲家・中山晋平と作詞家・高野辰之の故郷で、音楽に理解のある市長が誕生し、中野市の音楽活動が更に盛んになりました。吹奏楽班が野球の応援で球場に必ず行っていたことから君は野球通にもなり、四十年後、市長としてグランセローズの誘致を実現したのだと思います。そして、グランセローズの応援のため、多忙な公務の中、足繁く中野市営球場に通う君の姿と、母校の応援のため必死にクラネットを吹いていた君の姿とが二重写しになりました。
 

在りし日の市長としての働きをみるにつけ、青木家を初めて訪ねた日の出来事を思い出します。君のお母さんは初対面の私の為に、確か魚屋に出向いて寿司ネタを仕込んできて、自ら寿司を握ってくださいました。私への特別待遇に、君が疑問を覚えたことを今でも忘れません。
 その日か、別の日か忘れてしまいましたが、私は太郎さんに「一という簡単ないい名前は、選挙の時に書きやすいようにつけられたのですか」と聞いた事があります。ニコニコ笑ってしっかりとは答えられませんでしたが「一をよろしく頼む」とおっしゃられました。
 私は、こうした君のご両親の願いに応えるべく、遠くから、ある時は近くから、私なりのアドバイスを続け、青木一をいつか市長にしなくてはと、ずっと思い続けてまいりました。ただ、君には七〇ちょっと前に市長を辞める時を考えて、五十代の半ば以降までは市長になるな、と言い続けてまいりました。それは、太郎さんが若くて市長になられ、その後二回の市長選でご苦労されたことを知っていたからです。旺盛過ぎる食欲に対するアドバイスは聞いてくれたかどうかわかりませんが、市長就任の年齢については五十五歳で就任し注文どおりとなりました。 
 また、私は君が市長就任後は「二期八年で燃焼しつくすべし」と再び余計なことを申しておりました。そして、中野市の場合は合併もあり変則的な九年になりますが、青木中野市政の仕上げの段階に向けて準備中であった筈です。多分、三期目には対抗馬は出なかっただろうと思います。それほど、君の市長としての仕事振りは際立っていました。そうした中、まさかのこのような急逝は、無念としか言いようがありません。
 君は何かにつけ市長の仕事を楽しんでいました。そして、私には「市長の職が俺には、こんなに向いているとは思わなかった」と正直に言いました。それから、選挙が好きで、話すのが好きだったのでしょう。「篠原はたいへんだなぁ、衆議院議員であちこち自分の車で挨拶しにいかなくてはならなくて。俺は恵まれているよ、公務で毎日多くの市民の方々と直接触れたり、挨拶ができる、毎日選挙運動しているようなものだ。」卒直な青木君の心に残る名言であります。愛嬌のある笑顔と、朗らかな人柄で市民の誰からも愛された中野市長でした。まるで市長になるために生まれてきた申し子のようでした。

 今になってみると、五十代中頃以降にしか市長になるななど余計なことは言うべきでなかったと、悔やまれてなりません。故人の冥福を祈るばかりです。
 青木君は今頃、父君太郎さんとお母さんにしっかりと市長を務めてきたと報告しているに違いありません。私が思いがけず衆議院議員となり、君とは自民党と民主党と少々分かれた政治活動となりましたが、天から見ていたご両親は全てを承知されているはずです。

 終生の友、青木 一 さようなら。市長という激務から解放され、安らかにお休みになることを心からお祈りし、お別れの言葉といたします。                         
                                                         合掌        

平成二十年十月二十六日

衆議院議員 篠 原  孝