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2008年10月28日

私の記事が『読売新聞10月28日』に掲載されました08.10.28

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2008年10月27日

盟友 故青木一市長を偲ぶ-2008.10.26-

-去る10月26日 故青木一市長の市葬がとりおこなわれました。代表の一人として奉読した弔辞をご紹介します。-

本日、ここに、故青木一市長の市民葬が執り行われるに当たり、中野市民としてまた友人として、謹んで哀悼の意を表し、御霊に申し上げます。
 青木市長、君は本当に市長にぴったりの性格、そして体格でした。巨体をゆすりながら積極的に市政に邁進する姿は、中野市のシンボルとなりつつありました。今、こうして君を失ってみると、君の存在感の大きさがまざまざと感じられます。
 顧みれば、君と私は、高校の時から四十五年の長い付き合いでした。君は、あのころから恰幅が良く、やせこけた私から見ると羨ましい限りでした。長野電鉄に乗って、長野と中野を往復する間のお喋りは楽しいものでした。君の回りにはいつも明るいほのぼのとした雰囲気が漂っていました。君の天性の明るい性格の故です。
 君は吹奏楽班に入り、大きな体で、一番前でクラリネットを吹いていました。作曲家・中山晋平と作詞家・高野辰之の故郷で、音楽に理解のある市長が誕生し、中野市の音楽活動が更に盛んになりました。吹奏楽班が野球の応援で球場に必ず行っていたことから君は野球通にもなり、四十年後、市長としてグランセローズの誘致を実現したのだと思います。そして、グランセローズの応援のため、多忙な公務の中、足繁く中野市営球場に通う君の姿と、母校の応援のため必死にクラネットを吹いていた君の姿とが二重写しになりました。
 

在りし日の市長としての働きをみるにつけ、青木家を初めて訪ねた日の出来事を思い出します。君のお母さんは初対面の私の為に、確か魚屋に出向いて寿司ネタを仕込んできて、自ら寿司を握ってくださいました。私への特別待遇に、君が疑問を覚えたことを今でも忘れません。
 その日か、別の日か忘れてしまいましたが、私は太郎さんに「一という簡単ないい名前は、選挙の時に書きやすいようにつけられたのですか」と聞いた事があります。ニコニコ笑ってしっかりとは答えられませんでしたが「一をよろしく頼む」とおっしゃられました。
 私は、こうした君のご両親の願いに応えるべく、遠くから、ある時は近くから、私なりのアドバイスを続け、青木一をいつか市長にしなくてはと、ずっと思い続けてまいりました。ただ、君には七〇ちょっと前に市長を辞める時を考えて、五十代の半ば以降までは市長になるな、と言い続けてまいりました。それは、太郎さんが若くて市長になられ、その後二回の市長選でご苦労されたことを知っていたからです。旺盛過ぎる食欲に対するアドバイスは聞いてくれたかどうかわかりませんが、市長就任の年齢については五十五歳で就任し注文どおりとなりました。 
 また、私は君が市長就任後は「二期八年で燃焼しつくすべし」と再び余計なことを申しておりました。そして、中野市の場合は合併もあり変則的な九年になりますが、青木中野市政の仕上げの段階に向けて準備中であった筈です。多分、三期目には対抗馬は出なかっただろうと思います。それほど、君の市長としての仕事振りは際立っていました。そうした中、まさかのこのような急逝は、無念としか言いようがありません。
 君は何かにつけ市長の仕事を楽しんでいました。そして、私には「市長の職が俺には、こんなに向いているとは思わなかった」と正直に言いました。それから、選挙が好きで、話すのが好きだったのでしょう。「篠原はたいへんだなぁ、衆議院議員であちこち自分の車で挨拶しにいかなくてはならなくて。俺は恵まれているよ、公務で毎日多くの市民の方々と直接触れたり、挨拶ができる、毎日選挙運動しているようなものだ。」卒直な青木君の心に残る名言であります。愛嬌のある笑顔と、朗らかな人柄で市民の誰からも愛された中野市長でした。まるで市長になるために生まれてきた申し子のようでした。

 今になってみると、五十代中頃以降にしか市長になるななど余計なことは言うべきでなかったと、悔やまれてなりません。故人の冥福を祈るばかりです。
 青木君は今頃、父君太郎さんとお母さんにしっかりと市長を務めてきたと報告しているに違いありません。私が思いがけず衆議院議員となり、君とは自民党と民主党と少々分かれた政治活動となりましたが、天から見ていたご両親は全てを承知されているはずです。

 終生の友、青木 一 さようなら。市長という激務から解放され、安らかにお休みになることを心からお祈りし、お別れの言葉といたします。                         
                                                         合掌        

平成二十年十月二十六日

衆議院議員 篠 原  孝
    

事故米発生の2つの重要な原因 08.10.21

今、ジクロルボスに汚染された冷凍インゲンの問題が取りざたされています。この問題も重要だとは思いますが、主食である米が汚染されていたというほうが大問題だと思います。「テロ」に対する備えといわれますが、私は、これは「食料テロ」とも言えると思います。日本は本物のテロによる被害はないのに、食料テロの犠牲になりつつあるのです。

<歪んだ国際約束>
事故米発生には2つの要因があると思います。1つはミニマム・アクセス米の輸入です。ウルグアイ・ラウンドの解決の折に、自由化をしない代償として、消費量の3~5%を輸入しなければならないというルールができました。日本では、米がその約束対象となり、最終的には76万6千トンの輸入義務が生じ輸入され続けています。日本に米が余っているにもかかわらず、外国から買わざるを得ないのです。国際約束の1つです。
これはおかしなルールです。食料危機が叫ばれている折、こんな約束は解消していいのではないかと思います。先のブログで報告しましたが、9月中旬、ジュネーブのWTO関係議員会合で、ラミーWTO事務局長、ファルコナー農業交渉グループ議長に質問する機会を得、ファルコナー議長からは、ミニマム・アクセス米は買わなくてもいい、輸入機会を与えるだけでいいんだという言質をとってきました。日本政府も公式見解では同じ答弁をしています。

<厄介者のミニマム・アクセス米>
このミニマム・アクセス米は哀れな米です。日本は、国家貿易品目の米を国が買わざるを得ないのですが、本音では、なるべく主食市場に出回って欲しくないという願いがあります。つまり、質の悪い米でも何でも、輸入量の義務だけを果たしておけばいいという考えです。これがわかりますから、輸出国側もどうせ主食にならない加工用の米だから、質の悪いいいかげんな米でいいという阿吽の呼吸ができあがります。つまり、ミニマム・アクセス米は、日本では厄介者なのです。
ここで困るのは農林水産省の担当者です。歓迎されない米の保管料を節約するためには、事故米でも何でもなるべく早く業者に売りつけ、いくらかでも税金の無駄使いがないようにしようと考えます。この構造が改められない限り、事故米は発生し続けます。
それからもう1つ、カビによるアフラトキシンは、船底で1週間から2週間置かれ蒸れるわけで、輸入米のほうがずっと発生しやすくなります。
食べ物は地産地消・旬産旬消に尽きるわけで、遠くの国から輸入するということが、そもそも問題ということになります。

<規制緩和で過当競争>
2番目が規制緩和です。昔は米屋さんしか米を扱えませんでした。今誰でも米を売れます。この差です。15年前20年前のお米屋さんたちだったら、こんなモラルに欠けたことは絶対にしなかったと思います。そんなことをしなくても、米屋さんはやっていけたからです。
規制緩和の大合唱のもと、大事な主食を扱うビジネスが誰でもできるようになりました。その結果、過当競争が生じ、米屋さんも廃業が相次いでいるはずです。そして、残っている米屋さんも、あくせくし続けないとやっていけなくなり、食の安全も片隅に追いやられるようになってしまったのです。転売転売でいつの間にか主食米に化けたと言われていますが、その転売に携わった企業の中には、新しく米のビジネスに参入した業者も多いはずです。国際テロの前に食料テロに対して備えておく必要があります。

<主食はモラルの高い業者にしか扱わせず>
昔の食糧庁は、モラルが高く使命感にもえた米屋さんだけを監督していればよかったのです。しかし、その後食糧関係は削減対策の目玉とされ、一頃に比べ12分の1以下にされてしまいました。そこに儲けさえすればよいという新規参入者がかわり、必死で抜け穴を見つ、悪巧みを考える業者が増えました、人数の少ない担当者だけでこうした業界を監督するなどというのは、土台無理な話です。こうしたことが二度と起こらないようにするには、大事な主食のことは、モラルの高い限られた業者しか扱えないようにするという昔の制度に戻るのも一案です。毒を食べさせられないためにも、細心の注意が必要であり、モラルの高い業者しか米を扱えないようにすべきなのです。
規制緩和、官から民へという大合唱の下、規制緩和は善であり、それに反対する者は悪であるということで、すべてが律せられてきてしまいきました。主食はもっと丁寧に扱わなければなりません。

<安全は規制しないと守れず>
タクシー業界が悪例です。規制緩和の下、新規参入が自由になりました。うまくいったでしょうか。会社は青息吐息の経営状況になり、タクシーの運転手さんは、過当競争の下、ノルマを達成できず、長時間労働を強いられ、収入が減っています。挙げ句の果てに自ら営業して、ビールを振る舞ったりしなければならなくなり、居酒屋タクシーまで生まれました。それで乗客は便利になったかというと、少しも便利になっていません。
こういった公共的仕事なり、安全にかかわるような仕事については、きちんとした規制が必要です。例えば、米穀取引業者の数を限定して食の安全に配慮できる経営環境が必要です。タクシー業界の場合は安全走行に配慮できる環境を保てるようにすることが大切なのではないかと思います。さもないと、我々の安全が脅かされるのです。一罰百戒なり闇雲の一方の論理で走る悪い癖は改めなければなりません。

2008年10月20日

迷走する解散カレンダー 08.10.19

<若手ほど早い事務所開き>
私は、10月4日に事務所開きをしました。10月3日解散、10月26日投票日という説がまことしやかに流れ、新聞の1面トップを飾り、皆それを信じていました。しかし、今や、11月18日公示、11月30日投票日という説が再びまことしやかに言われています。選挙に弱い若手議員が早く準備をしなくてはと事務所開きをし、選挙に強い中堅ベテラン議員はしていません。選挙ではいつも、このような皮肉なことになります。
麻生新総理は「解散権は私にある、私が決める」と言っていますが、決められないでいます。あまりにも「私が決める」と言ったがために、墓穴を掘っているような気がします。憲法・国会法上は、解散権が総理にあっても、総理が国会議員の中から選ばれ、国会議員が国民の投票によって選ばれることを考えれば、民意を無視して勝手にきめるということはできないはずです。

<麻生総理のフライング>
麻生総理は、総理としての重大な禁を犯しました。総理になる前に原稿を書き、文藝春秋誌上で、臨時国会冒頭解散を活字で公言しました。一国の首相としてあまりにも軽はずみなことではないかと思います。総理の軽口は、小泉純一郎総理以来、あまり驚かれなくなりましたが、かつての三角大福中といった総理たちは、こういったことは絶対にしなかったに違いありません。日本の政治家が小粒になり、軽くなったような気がしてなりません。その反面、親しみが持てるということが言われていますが、親しみが持てるということと軽口ということは別だと思います。

<1票で4人の総理>
これによって、国会議員が右往左往しています。私は、絶対に早く解散すべきだと思います。前回の2005年郵政解散選挙以来、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎と4人目です。グリコのコマーシャルに「1粒で2度おいしい」というのがありましたが、「1票で4人の総理」というのは、あまりにもひどすぎるではないかと思います。さすがに自民党もわかってきたようで、大島国対委員長が「この一年間で首相が二人辞めた。たぶん国民には『国民の声を聴く機会を作るべきだ』との気持ちがある。」と10月18日に言っています。当然のことだと思います。

<交替が早すぎる日本の総理>
かつて、竹下登総理が「歌手1年、総理2年の使い捨て」とズンドコ節で歌っていたそうです。しかし、ここ数年は「総理1年」に変わっています。このまま、来年9月の任期満了総選挙となって政権交代が行われると、麻生さんも1年になり、3代続けて総理が1年もたないということになってしまいます。
やはり国の政治というのは、もう少し安定してもいいのではないかと思います。これは比較するとわかりますが、アメリカの場合は4年が任期で、だいたい2期8年やる方が多いのです。したがって、元大統領は、カーター、ブッシュ、クリントンの3人しかいません。イギリスも、サッチャー、メイジャー、ブレアの3人だけです。日本の場合は、何人いるのか数えるのに疲れます。つまり、いかに日本の首相が替わっているかということになります。私は、これはよくないことだと思います。

<政権交代選挙は早く>
かくいう民主党も、かつてはドタバタして党首を何回も替えてきましたが、今は、小沢代表のもと一致団結して政権交代を目指しています。
もう、選挙の時期です。これ以上、この状態がだらだら続くのは絶対によくありません。