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2010年06月23日

-口蹄疫と国家的危機管理- 10.06.23

〈私の意見から報告中心へ〉
 私のメルマガ・ブログは新聞で言うと社説・論説にあたり、事実の報告やその簡単な解説といった一般記事的なものはほとんどなかったと思う。しかし、副大臣となった今は、政策についてのご高説はなるべく控え、報告調のものも書かせていただくことにする。

〈宮崎での一日〉
 6月10日朝から、宮崎のホテル・メリージュに泊り込み、口蹄疫対策に奔走している。いきなりの赴任である。なかなか大変だが全力で当っている。
 朝8時45分、車の迎えで宮崎の観光名所の1つとなっている県庁前に到着。
 9時から、県庁の本部と合同での打ち合わせ。毎日、口蹄疫発生状況、患畜・疑似患畜の埋却状況、各地の消毒作業等の状況報告を受け、1日の対応を確認。
 9時50分から毎日、20~30人の記者のブリーフィング。通常役人がメモを作ってくれるが、そんな余裕のある現地本部ではなく、事実関係の説明を受け、私が自分の判断でやりとり。
 最初の4日は、口蹄疫が発生した市・町を訪問し、関係者に状況を聞き、意見交換。その間、菅総理(6/12)、北沢防衛相(6/17)が現地入り。お二人とも駆け足の現地視察、懇談で、現地スタッフは大忙し。
 5月17日に設置された現地対策本部は、県庁3階の会議室をあてがわれている。農林水産省消費安全局及び畜産部を中心に、内閣、警察、防衛、国交、厚労、経産、消費者庁等各省から数名ずつ派遣され総勢40名前後。私がそのトップ、小川総理補佐官がナンバーツー。
 1ヶ月経過し、農水省は3週間いる者もいるが、大体2週間交替。他の省庁は、1週間交替、最も長期は小川副本部長。

〈急がれる埋却〉
 消毒現場等の視察、知事・市町長等との意見交換は一通りすみ、今は残り少なくなってきた疑似患畜の埋却(埋めることを畜産関係でこういう)、ワクチン接種した牛、豚の埋却と消毒作業の徹底に力を注いでいる。梅雨期に入り、地盤が緩み、埋却作業がなかなかはかどらないのが悩みの種である。
 現地対策本部と言っても、私がウィルスを運んではならないことから、処置や埋却の現場に足を踏み入れることはままならない。逆に北沢防衛相は防護服に身を包んで自衛隊を激励している。

〈過密飼育と口蹄疫〉
 私の役人生活はかなり片寄っており、エリートコースの一つである(?)畜産局と構造改善局は一度も勤務しておらず、畜産行政に直接携わったことがない。したがって、引き継ぎもままならぬまま、いきなり口蹄疫の真っ只中に放り込まれて、少々面食らっている。
 世界でも例を見ない形で発展してきた日本の「加工畜産」(鉱物資源を輸入してそれを加工して海外に輸出する加工貿易立国をもじり、飼料穀物を輸入して農家が肉、卵、牛乳に加工していることを称して20年前から使い始めている)について、私はその矛盾を追い続けてきた。問題点が山ほどある中で、口蹄疫が発生してしまい、しまったという気持ちにならざるを得ない。
 2001年5月18日、BSEと口蹄疫に悩むイギリスを他山の石として日本の畜産も見直すべき、と朝日新聞の「私の視点」に書いている。それ以来10年振りの口蹄疫である。
 6月22日現在、処分対象が牛6万8000頭、豚20万8000頭は尋常ではない。それでも1998年のオランダの豚コレラ900万頭や2001年イギリスの口蹄疫400万頭に比べると一桁少なくてすんでいる。家畜の伝染病はそれほどに伝染が強く、初動を誤ると大惨事になってしまう。世界でも並はずれた過密飼育の日本で、まだ宮崎県から他県に飛び火していないのがむしろ奇跡に近い。

〈緊張連続の現地対策本部長〉
 私の役目は現場で指揮をとり、蔓延を食い止めるのが第一であり、それに農家の不安を取り除き、その後の経営再建、農業の振興を図ることへと続く。
 手塩に掛けて育てた牛を一瞬のうちに失う切ない気持ちは手に取るようにわかる。28万頭もの犠牲は前代未聞のことであり、何とも言えない悔しさが残る。
 私は、現地対策本部長として、外に対してあれこれ言える立場にはない。そうした中でお許しをいただき言えることは、二度と再びこうした不幸を作らないためにも、万全の防疫体制をしき、今回の経験を何10年後かに起こるであろう事態に伝えるべく、きちんとした報告を作成しておくことである。
 私は、今日も緊張の中で1日1日を過ごしている。

2010年06月22日

-農林水産副大臣拝命- 10.06.21

6月9日、私は農林水産副大臣を拝命した。午後4時30分頃、着慣れないモーニングを着て認証式も済ませた。身の引き締まる思いである。

〈慌ただしい宮崎入り〉
 その後すぐ、農林水産省に戻り、モーニングから平服に着替え、省内の口蹄疫対策本部会合、そして官邸の第3回口蹄疫対策本部会合に出席。その直前に宮崎の現地本部の副本部長小川勝也首相補佐官(参、比例区、3期)から翌10日朝1番に宮崎入りすべしという通告を受けていた。何とも急な話で、それこそドタバタの着任であった。小川さんの言うとおりに宮崎入りし、そのまま宮崎に居続けており、私が副大臣になってから農林水産省にいたのは1時間足らずという有様である。

〈疲弊した農林水産業の立て直し〉
未曾有の「国家的危機」(菅首相)である口蹄疫の問題は別稿に譲るとして、まず副大臣拝命の初心を述べておきたい。
 正直言って骨の折れる難問ばかり山積しており、今この時点で農林水産省入りすることに胸を踊らせているわけではない。日本の農林水産業、農山漁村は今は青息吐息である。今手を打たなければ、日本の地方経済も、食料安全保障も成り立たず、地域社会が崩壊してしまう。もっと露骨な具体的なことで言えば、私が2004年以来手がけてきた農業者戸別所得補償が相当歪んだ形で実施されんとしており、これを正さないと、農村は更に混乱してしまう。現在の政策はモデル事業と銘打っており、2011年度の本格実施に向けて新しく変えられるが、更に変なふうにされたらたまらない。立案者の1人として敢えて「火中の栗を拾う」決意をした次第である。この修正は、こうした書き物でなく2011年度に向けた本格実施の政策立案の過程で明らかにしたい。

〈初の菅人事〉
 菅首相による初人事は、ポロポロと予測が新聞に出回り、あまり好ましいとは思わなかったが、首相自ら副大臣、政務官人事をしていたことは二重丸である。初の民主党政権である鳩山内閣では、副大臣、政務官は各大臣により指名され、内閣で協議して決められていた。政務三役が気心が知れた方が良いというのが理由である。今回の国家公務員制度改革で、部長、審議官以上の600人の候補者リストを内閣で作成し、官僚トップの人事も内閣が関与し、睨みをきかすというのに、肝心の副大臣・政務官を各大臣に任すというのは矛盾も甚だしい。 

〈なぜか遅れた農林水産大臣人事〉
私は、鳩山政権下でのような大臣任せの人事は1回限りとし、副大臣、政務官の人事は首相自らしっかりとやるべしというペーパーを作成し、それなりの関係者に配布していた。今回は、私の提案が効いたのか少なくとも私には菅首相からの直々の電話があった。
赤松さんは、この機会に農林水産大臣の辞任を申し出ており、最も早く後任が決められてもよかったが、現実には他の閣僚人事と比べて逆に一番遅くなっている。その辺の事情は私の関知することではない。私は副大臣としての職務を全力を尽くして全うするしかない。

〈捨て身の政治活動〉
1996年、今から14年前の秋、羽田孜元首相から政界入りの声をかけられてから長い歳月がたった。民主党の政権獲りに協力してくれ、農政は君に任す、絶対当選させてやる等々いろいろ誘惑の言葉をかけられたが「政治家になれば君が本に書いている理想の政策を、10倍、100倍の力で実現できる」という一言も耳に残っている。今は農業者戸別所得補償がその典型と納得している。
私は55歳で政治家の仲間入りをした。ある同僚に言わせると、渡辺恒三さんに次いで捨て身で何でも自由に言える立場にあり、現にそうしているという。つまり、後のことは考えずに思い切り発言し、政治活動ができるということである。

〈菅内閣の一員として〉
役人生活30年、十分に仕事をしたと思っている。その後は、私にとっては余業であるが、16万人もの有権者に私の名前を書いていただき、日本の政治を託されたのである。今までもいつも政治生命を賭けて発言、行動、発信してきている。副大臣として内閣入りしたため、有権者ばかりでなく菅内閣の一員としての大事な責任もあり、今後は少しセーブしなければならないが、基本的には私のペースを崩さないで全力を尽くすつもりである。
メルマガ・ブログをお読みいただいている皆様の、今後更なるご支援、ご助言をお願いする次第である。

2010年06月14日

-やっと菅首相が実現- 10.6.7

<久方振りの叩き上げ庶民宰相>
 鳩山首相の突然の辞任により菅首相がやっと実現した。最後に大仕事をした鳩山首相については、別途書くことにして、ひとまず菅首相の実現を喜びたい。
 ずっと2世なり、総理の孫とか子とかが首相になっており、政治家直系以外では、鈴木善幸首相以来のいわゆる叩き上げ首相なのだ。田中角栄さんも同じだが、全く性格が異なる。
 同級生の一人が団塊の世代として菅首相の誕生を歓迎したいとメールを寄せてくれた。いわゆる全共闘世代でもあり、少なからず学生運動にかかわった人たちは何となく菅さんに魅かれるものがあるのかもしれない。
 私は学生時代には学生運動に寧ろ反感を持っていた方だし、今や菅さんが余りにも身近な存在になってしまったのでそのような感じはない。政治家としてしか見えなくなっている。

<初の菅選対>
 私が政界に入ってからは、菅さんと深くかかわりを持ち、一緒に政権交代の目標に向かってきたので、菅首相の誕生は嬉しくてたまらない。はじめて、菅選対とやらに出向き拙い電話で投票依頼をした。長野1区の有権者には何ともないが、同僚議員にはどうもテレ臭くてよく言えなかったが、「菅さんのファンだからお願いしている」と言って、隣りで電話を掛けている同僚議員から笑われてしまった。私の菅さんへの思いはそんなものである。他に言いようがない。

<田舎の兄ちゃん>
 菅さんは都会のませた政治青年なんかではなく、山口県宇部市で生まれ育った田舎の「兄ちゃん」で、高校2年の時に、父親の転勤ではじめて東京に出てきたにすぎない。私の育ちと大して変わらないと思っている。
 最初の社会運動は農地にかかわるもので、それに対する本(「新・都市土地論」1988年)まで書いている。(その後の本も目を通してみたが、国会質問の延長や、あまり論理的でないご高説が多くて印象に残らない。ただ、この本はしっかりしている。)

<最初から総理を目指す>
 市川房江さんの選挙を手伝ってからのサクセスストーリーは大体の皆さんがご存知のことと思う。中曽根康弘さんが、最初から総理を目指してノートに何をするか書いたり、自分が総理ならどうするか、とか考えていたそうだが、全く違う立場から菅さんもずっと総理を目指していたという。私はその政策を首相として思い切り実現して欲しいと思っているし、しっかり支援したいと思っている。

<はじめて会った長野駅前演説>
 私は長い農林水産省勤務の間に、いわゆる農林族の先生方とは与野党を問わず数多く知り合いになった。それが縁で今、国会議員になっているが、全く違う分野で活動していた菅さんとは役人時代はただの一言も口を利いたことがなかった。
はじめて話したのが03年11月6日木曜日、長野駅前の街頭演説の時である。私はよく知らなかったが、対立候補と接戦しており、そうした選挙区だけに代表が応援にいくことになっており、新潟の2人の女性新人候補(西村智奈美、菊田真紀子)を応援した後、チャーターしたヘリコプターで松本入りし、下条みつさんの応援をした後、特急しなので長野入りしてくれたのだ。私はわずか40数日前まで役人である。演説などには全く縁がなかった。
 こぶしを振り上げて大声で話す菅代表の姿をポカーンと眺めていたことを覚えている。アジ演説の見本である。これでのし上がってきたのかと感心して見ていた。私は、菅さんのような話し方は今もできないでいる。

<農業再生プランの作成>
 その後、年が明けて04年1月13日の党大会で、菅代表は突然、農業再生プランを作って7月の参院選を戦うと宣言した。そのお鉢が回ってきて、鹿野道彦NC農林水産大臣の下、その作成に全力をあげた。それと同時に、菅さんが農山漁村行脚しだし、1月17日の秋田県大潟村視察に同行した。その後、南ドイツのシュバルツバルト(黒い森)視察にも一緒に行き、旅の道すがら、しょっちゅう話し込み、人間菅直人と触れ合うことになった。私は役所時代、よく上司に叱られたが、イラ菅と呼ばれる菅さんなのに、私にはただの一度もそうした態度を示したことがない。うまが合ったのかもしれない。

<雨天の友>
 途中は省くが、菅さんは例の保険料の未納で代表の座を退き、無役となってしまった。私は、この時、社会保険庁の不始末なり、役所のミスが原因であり、絶対辞める必要はない、とメモを渡したりして危機を救わんとしたが、少々ずれてうまくいかなかった。
 民主党では代表が自動的に○○本部長に就くことになっており、岡田克也農林漁業再生運動本部長だったが、岡田さんが不熱心なので、私が岡田さんに直談判して菅さんになってもらった。お遍路さんに行ったりしてすることがなかった菅さんに農山漁村を回りやすくしたつもりである。これが07年の1人区での勝利に直結していることはあまり知られていない。
 その一環で、菅さんが現場も知りもしないで、好い例としてあげていた栄村の田直し、道直し、下駄履きヘルパーを見せるべく、秋山郷の民宿ひだまり荘の一泊視察をセットした。失意の底にあった菅さんの、いわば雨天の友であった。菅さんに菅グループの勉強会の参加を強く勧められ、いつしか「国のかたち研究会」の常連になっていた。

<預言的中の代表代行>
 無類の政策マンだが、政界に長くいるにしては政局絡みではまずい対応が目立った。その後もやたらと、代表選には出たがった。07年4月のポスト前原の小沢さんとの一騎討ちの時は、「こんな難局は小沢さんに任せて恭順の意を示し、03年民・由合併とは逆に小沢代表、菅代表代行で行くのが良い」と強く進言した。しかし、私の言うことには耳を傾けず、また出馬しまた負けて代表代行になった。しばらくして、「代表代行なんて篠原さんしか言わなかったが、僕には丁度いいポストだよ」と代表代行を楽しんでいた。

<組織人としての経験不足が心配>
 その後は小沢・鳩山・菅の3人のトロイカ体制が続き、今を迎えた。大変な時の首相就任だが、さんざん辛酸をなめてきた菅さんなら何とかやってくれるだろうと思う。ただ、組織人として働いたことがないせいか、人事なり、人の動かし方は下手である。弁舌は知られているが、アジ演説や国会論議と政権与党としての政策の実行は全く異なる。そのところがどうも分っていないのは、民主党のいわゆる論客全員の共通する欠点である。

<次期衆院選は菅首相で迎えたい>
 しかし、政策には明るく瞬発力も抜群である。菅さんは口癖のように「鳩山さんには4年間やって欲しい」と言っていたが、その言葉にそのまま菅さんにもあてはまる。組閣、党役員人事で躓かなければというのが今の心境であるが、長期的には次の衆院選は菅首相で迎えたいというのが私の切なる願いである。

-普天間基地問題と北沢防衛大臣の功績- 10.5.31

※ 6月8日菅直人新総理が誕生し、翌6月9日に行なわれた副大臣指名で、農林水産副大臣を拝命しました。それ以前にブログの原稿は書いていましたが、鳩山総理の辞任・菅新総理の誕生・農水副大臣の就任に伴うドタバタでアップが大変遅れてしまい、読者の皆さんにはご心配をおかけしましたことをお詫び申し上げます。遅ればせながら、原稿2本アップさせていただきます。


<東奔西走の激務防衛大臣>
 北沢防衛大臣は激務である。歴代防衛大臣の中でも、ここ数十年の間で最も忙しい大変な大臣になっている。
 5月21日(金)、帰長のあさま車中で久しぶりに同席し、諸々の懸案を話し合った。二人とも初めて招かれた土地家屋調査士会の会合に出席するため、私の場合はいつもよりずっと早い列車だった。
しかし、北沢大臣は翌22日(土)に官邸に呼び戻され、普天間基地問題の関係閣僚会合が開かれ、24日(月)にはゲーツ国防長官との日米合意の交渉のため急遽訪米した。
そこで、6月5日の韓国軍の哨戒艦沈没事件に関する日米韓3カ国の防衛大臣会合(シンガポール)も決められた。27日(木)には、28日(金)の普天間基地問題について安全保障委員会の審議に間に合わせるため帰国し、時差調整もつかない間に9時から14時までに4時間15分の集中審議である。
29日(土)に信濃教育会の会合での挨拶は風邪により声がつぶれていた。傍らでみていると、なんとか支えないとならないという気持ちがますます強まってくる。

<味のある北沢防衛大臣>
 09年9月16日の組閣の日には、防衛大臣にこれほど激しい仕事が待っているとは誰も予測できなかっただろう。ただ、正直な北沢さんは「国土交通大臣なら目をつぶっていてもできるものの、防衛大臣とは驚きだが、頑張ろう」とつぶやいていた。長野市長選も近づきつつあり、候補者の選定を急いでいたその矢先の防衛大臣指名であった。
 前原国土交通大臣は自他ともに認める防衛通である。北沢さんは国土交通政策に深く関わってきていた。そのことを考えると、前原防衛大臣、北沢国交大臣のほうがすっきりしそうだったが、私は今の配置はなかなか考えた人事だと思っている。前原さんは、言い出したら聞かず、閣内の乱れが生じてしまう恐れがあるが、老練な政治家の北沢さんは、鳩山首相、岡田外相、平野官房長官の調整なり、間をとってしかるべき方向に落ち着けるノウハウを持ち合わせているからだ。

<存在感ある重要閣僚>
 民主党政権の中で閣僚経験者は菅さん(厚相)、中井さん(法相)と亀井さん(建設相・運輸相)の3人だけ。他は皆新人初々しくていい面もあるが、よちよち歩きの新政権の脆さも露呈している。そうした中で安定感あふれる北沢防衛大臣の存在は貴重である。
 岡田外務大臣は、嘉手納への統合を言い出し、平野官房長官が慌ててあちこち候補地を口走り、北沢防衛大臣はじっと黙って落ち所を探り、今回の一応の解決である。

<沖縄への負担のつけ回しはやめるべし>
 私は、野党時代の6年間のうち3年間外務委員会に所属していた。2008年、外務委員会の視察で初めて普天間基地を訪問したが、あまりのひどさにびっくり仰天した。我々委員が説明を受けている間も軍用機が轟音を立てて離着陸を繰り返していた。ラムズフェルド元国防長官が、こんなに住宅地に近接した基地なり空港はないと厳しく指摘して帰ったというのもむべなるかな、である。多分、世界中に類例をみない危険な基地なのだろう。近隣の住民や沖縄県民はこうしたことにじっと耐えてきたのである。我々がこれ以上沖縄にだけ負担を強いられないのは自明の理である。
 しかし、内容については触れないが、手馴れた自民党政権が14年かかってのらりくらりしか進めなかったものを、不慣れな鳩山政権が8ヶ月で解決できるはずがなかったのだ。

<築き上げたゲーツ国防長官との信頼関係>
 そうした中、北沢防衛大臣はアメリカのゲーツ国防長官・ルース駐日大使との個人的信頼関係を着々と築き上げていった。2人とも大人の関係なのだ。
 日本の組織はボトムアップ(下から上にあげる)方式で動くが、欧米社会、特に外交は典型的なトップダウン方式で決まっていく。そういう時に重要なのは、トップ同士の信頼関係である。同じことを言っても、あの人の言うことだから信用できるが、あの人の場合はいまひとつ?というのは日本でも同じだが、恐ろしいことに2国間の重要課題も、トップ同士のそうした信頼関係や交渉で決まる。日本のように下のお膳立てですべて決まっていて、あとは儀式だけという仕組みはない。

<普天間問題で損する防衛大臣>
 そういう意味では、北沢防衛大臣は気付かれていないが、鳩山内閣のヒット人事だったのだ。防衛大臣が、あれこれご高説をたれたり原則論ばかり主張する者(野党に多くみられるタイプ)だったら、普天間問題はもっとグチャグチャになっていただろう。
 北沢防衛大臣のスタンスは、我が国の防衛にとって最善の途を探ることである。関係閣僚の中で最もアメリカ寄りとみられるのもしかたがあるまい。沖縄県の負担軽減は痛いほどわかっていても、防衛大臣としての立場を先に出さざるを得ない。

<長野県連が一丸となって取り組む北沢再選>
 2人区に2人擁立ということで、北沢大臣も選挙活動に没頭したいところだが、5月24日の訪米の後、6月4日からシンガポールであり、政務で時間がとられ、それどころではない。
 幸い2人といっても、どこの県も現職国会議員は現職候補(長野の場合は北沢大臣)を優先で、連合ももとから2人擁立の岐阜県を除けば、連合長野を例外としていずれも現職のみの推薦となっており、2人目は党本部主導で無党派層や野党支持層から得票するというように区分けがなされている。従って、我々民主党長野県連は一丸となって北沢大臣の4選に向けて邁進している。
留守を預かる我々は、北沢防衛大臣に新たに生じた韓国軍哨戒艦沈没事件に関するきな臭い問題に専心してもらうべく、気を引き締めているところである。