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通学区域の変更の誤解と真実 田麦の竹馬の友に団結力が生まれた理由 -10.10.20-

(中野市周辺の方以外は読まれても何のことかわからないと思いますのでパスしてください。)

 副大臣としての仕事が超多忙でへとへとに疲れていたので、10月2日(土)はゆっくり眠ることにしていた。ところが、金曜日の夜中に長野に戻って翌日の日程をみると、「午前9時、高社中学創立50周年記念式典、対応:欠席・メッセージ」とあり、胸が騒いだ。なぜなら、私が行きそびれた切ない中学校だからである。しかし、疲れをとるのが先だとすぐに眠りについた。

<涙を流した50年前の北信タイムズ記事>
 ところが、朝早く目覚めて地元紙「北信タイムズ」の特集を何気なくみて、私はもう居ても立ってもいられなくなってしまった。私が高社中学へ行けなくなった通学区域の変更に関する50年前の記事が、克明に引用されていたからである。
 中野市は隣の須坂・飯山市と同じく、合併して数年後に統合中学ができあがったが、隣の2市の3つの中学はほぼ同じ規模だったが、中野市は規模も時期もバラバラという失政であった。小学6年の私は、その北信タイムズを読みながら暗澹たる思いになっていた。我々田麦の南側は、田麦の北半分、厚貝、壁田、古牧の同級生とは別の中野平中に行かなければならなくなりつつあったからだ。

<大票田旧中野町に媚びる市政>
 まず、南宮中という巨大校ができた。旧中野町全体を通学区域とする巨大な中野と延徳、日野の3小学校が集まる、いわば町の中学である。そして次が高丘、平野の中野平中、最後が私の母校・長丘、平岡、科野、倭の高社中である。
 ところが、私は、高社中ではなく中野平中に行かされたのだ。
 50年前の北信タイムズには用地買収が難航し、高社中の建設が遅れたとある。それもあるだろうが、一番の原因は、何でも大きな人口(すなわち票)を抱える旧中野町の言うことを聞き、そこの中学を一番初めに造ったことにある。私なら、不便な僻地の統合中学を先に造り、便利な町部を一番後にする。規模を同等にするのは当たり前のことである。しかし、歴代市長も市議も大票田に媚びたのだ。どこの市町村にもある見苦しい失政である。

<巨大校中野小、南宮中>
 ところが、巨大な中野小は同じ中学へ行かなければならないという要請が出て、それに負け、1学年11~13クラスもの巨大な南宮中が出現する。そもそも中野の町の小学校が一つなのがおかしいのだが、その後、中野小のあまりの巨大校ぶりが問題になった時も、中野市は結局旧中野町の住民の声に押され、2つに分けることはなかった。今、国会見学の案内をしているが、飯山小も須坂小も飛びぬけて大きい小学校ではない。長野市でも大きくなりすぎた小学校は分けて適度なサイズの小学校にしている(例えば古牧小から緑ヶ丘の独立である)。

<雪道を通わせたくないという親心>
 「田麦に通学区変更運動」という見出しの記事は、高社中ができるまで中野平中へ入れるとする人たちと、高社中学長丘分校でいいとする人たちで対立が生じたことを報じている。
 当時はブルドーザーもそれほどなく、冬は南へ向かう吉田へ行く道は雪かきが行なわれたが、田んぼの向こうにある高社中への道は、父母が雪踏みをして道付けをしなければならなかった。優しい親たちは、吹雪の中を子供たちを通わすわけには行かないと、通学区の変更を主張したのである。
 悪いことに長丘中(小)は田麦の南の端にあった。35年4月、我々田麦の南側の10数人は、遠く北から自転車に乗って通ってくるかつての級友の学ぶ学舎を通り過ぎて、南の新しい校舎の中野平中へ通った。帰りにまたその前を通り、まだ残っている旧友と駄弁ることになる。親心は皆わかっていたし、何のわだかまりもなかったが、私は古い校舎の友を捨てていくようで、すまない気持ちでいっぱいだった。

<新しい友の優しい同情>
 中野市教育委員会や市側は自らの失政をよそに、平野と高丘(大俣も含む)の通学区以外からの中野平中への通学を認めなかったが、我々は通学区の親戚に寄宿して通学するという合理的方法(?)で切り抜け、実力行使した。こうした背景を知り、平野小、高丘小卒の巨大な数の新しい友は、我々圧倒的少数派に同情し温かく迎えてくれた。今風のいじめとかは全くなかった。日本人がまだ優しさに満ち溢れていた古き良き時代だったのだ。

<地方では通学区が付き合いの原点>
 ところが、私の1学年下(私の弟もいた)は、予想より早く高社中の新校舎ができたのでもう中野平中へは来ず、我々には後輩はいなくなった。地方では通学区がその後の地域の付き合い、例えば農協や商工会議所の区域につながっていく。すべての地域社会活動の区分けの原点なのだ。だからこそ通学区の変更は大問題となる。その意味で旧中野町民が巨大校の批判をよそに、平然と一つの小学校にとどめたがるのもわからないではない。しかし、小さな小学校への思いやりが全くないのが問題なのだ。
 大きい旧中野町がずっと一つなのに対し、弱小な旧長丘村は、はるか昔に七瀬が平野に行き、大俣が高丘に行ってしまった。この寂しい気持ちがわからないのだろうか。そして、それに輪をかけたのが他の中学に通わされ、後輩もいなくなるという我々十数人のやるせない喪失感である。ただ、お蔭で3年間3kmの道を一緒に歩いて通った友の団結力は否が応でも強まった。

<信じがたい公立小学校通学区の自由化>
 10数年前から通学区の自由化とやらが主張され、2006年の調査では、小学校で学校選択制を導入しているのは240自治体で、そのうち、すべての小学校から選択が可能な「自由選択制」を導入しているのが24自治体(うち東京都が9自治体)となった。私にはとても信じられないことであり、もともと地域社会の絆が少なくなっているところに、追い討ちをかける愚かな制度だと思う。教育にも自由競争が必要であり、生徒が少なくなった小学校の先生たちは反省し、教育の質を良くする・・・とても聞いていられない理屈である。こんなところまで市場原理・競争原理という政策にはとてもついては行けない。東京都○○区で生まれたときからバラバラで、竹馬の友も何もなくなってしまうのではなかろうか。これでは地域の絆は生まれまい。

<ミッテラン大統領の地縁へのこだわり>
 3年間住んだパリのまん真ん中には一戸建て住宅はない。皆アパート暮らしだが、代々そこに住んでおり、表通りの裏側は、近所付き合いが残る。学校制度の違いだが、住んでいる地区で、小中学校だけでなく、高校も自動的に決まる。だから、近所は皆同窓生であり、知り合いなのだ。
社会福祉には力を入れたミッテラン大統領(社会党)が、こうした制度を是とし、増えつつあった私立小・中・高(当然通学区はない)への補助を一切認めなかったのは、都会の絆も学びの場から生まれることを熟知していたからに違いない。
 貿易の自由化が声高に叫ばれ、教育の場にも変な動きが浸透してしまっている。こうして日本人が故郷や隣人を愛する気持ちが少なくなりつつあるのは、嘆かわしいことであり、いずれこの国をダメにする根本原因となるかもしれない。国が力を入れるべきは、金儲けの手助けよりも、こうした日本の劣化を防ぐことのはずである。

<中学の同窓会がなくなった?>
 時を経て私は国会議員となってしまった。そして、知らない高社中の通学区域の人たちから「篠原さんは長丘小なのになんで中野平中・・・なんかに行ったんだ」と冷たい視線を浴びせられる。一方、中野平中は既に50周年記念式典を終えているが、私が同窓生(卒業生)という認識がなかったようだ。両中学から蚊帳の外に置かれることになり、人一倍、地縁・血縁と縁にこだわる私には悲しいことである。

<北信タイムズに感謝>
 上記のことも少しは祝辞で触れられると、疲れた体と眠い目をこすりながら数時間かけて記念式典に出かけていったが、その機会はなく、徒労に終わった。自らが卒業生の校長が父兄の寄付による学校建設という陽の部分を長話していたが、当然のごとく蔭の部分に触れることはなかった。こうした中で、唯一の救いは、北信タイムズが50年前の出来事を詳細に報じ、一部の読者に通学区域変更騒動を思い起こさせてくれたことである。長野に戻る車中で北信タイムズ社に電話し、お礼を述べた。
 政治は、二度と私のような思いをさせる中学生を作ってならないと肝に銘じた。