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2010年10月29日

近くて遠い国、韓国 ―韓EU FTAの波紋と日本の突然のTPP参加検討 -10.10.29-

<突然の慌しい韓国出張>
韓国がEUとのFTAの正式署名をし、来年の7月から米の16品目(関税分類)を除いて10年以内に関税ゼロにして自由化されることになった。韓国は膨大な農業予算を使って、農業政策を講じながらチリ、米国、EU等と次々にFTAを締結してきた。この関係で、鹿野大臣から私は、突然9・10・11の三連休の間の韓国出張を命じられた。
韓国も9・10の土日は休みなので、日本の連休の11と12の2日間で行ってきたが、12日の夜大事な会合があるため、実質的には1日半という本当に忙しい出張であった。

私は、長らく国際関係の仕事をしているが、韓国とは縁が無く、30年間の農林水産省の勤務の間、ついに一度も韓国に出張することはなかった。国会議員になってから日韓米議員交流会で、これまた慌しい一泊二日の韓国出張があったが、どうも韓国とは縁遠いようである。
 韓国では5人、正確にいうと5つのグループの皆さんからじっくり話を伺った。韓牛協会、韓国農協中央会、FTAを推進した梨花女子大学教授、私が最後に勤めた農林水産政策研究所長のカウンターパートにあたる韓国農村経済研究院の院長、そして最後は韓国農林食品部の第一次官である。ビックリしたことに、全員が「韓国は農業が大事だ。しかし、今のところ国益のためにある程度我慢している」穏やかな答だった。そして一番反対していいはずの農協中央会から「今、対策が講じられているので当面静かにしている」という傍観振りだった。これが正直意外だった。

<日韓、本物の双子>
韓国の農業の現状を見ると日本と瓜二つである。ウルグアイラウンドの頃は、2カ国揃って、米は自由化出来ないと言うことを行っていたので“Ugly Twin”(醜い双子)というあだ名がついていた。その双子ぶりは相変わらずである。
自給率が韓国は最近10年間で53%から44%に減っている。ただ一昨年は米の大豊作で48%に上がったというが、自給率の低落傾向は変わらない。90年と比べると、農地面積は211万ha.から178万ha.と減り、農家人口は177万戸から120万戸と減り、65歳以上の農業従事者は高齢化している。何もかもが瓜二つで、まさに本物の双子といえる。

<韓国の危険な試み>
違いは、両国のFTAに対する態度である。韓国は、盧 武鉉政権の頃から、舵を大きく切ったようにみえる。つまり、韓国はある意味では、香港・シンガポールの延長線上の国でいいと決断したのかもしれない。日本と違って人口は4000万ほどで国内市場は限られている。北朝鮮という危うい隣国を抱えている。そうした中でのやむにやまれない方向転換かもしれないが、非常に危険な試みであると思う。

<韓国FTA36% 日本16%>
チリとのFTAが最初であった。日本とも似ている。失礼であるが、あまり影響の大きくない国である。しかし、その後が違っていた。アメリカとのFTA交渉に入り、なんと2007年には米の16品目を除き、合意にこぎ着けている。そして次がEUである。従って、大きな貿易相手国の中では、日本と中国を除き、貿易の36%がFTAの範囲に入るという突出振りである。ちなみに日本は最近のインドまで12カ国と結んでいるが、FTAの範囲は16%にすぎない。

<米国の突然のTPP参加検討宣言>
 米国はまさか韓国とFTAを結べるなどとは思っていなかったのであろう。政府は署名したが議会の承認が得られないまま棚晒しである。自動車工業界やその他の工業界が韓国製品の大量の輸入を恐れ、承認しようとしていない。オバマ大統領は、この11月中旬、日本のAPECの前に開かれる韓国ソウルでのG20前には承認を得たいとは言っているが、雲行きは怪しいものである。
その一方で、オバマ大統領は中間選挙もあり、昨年秋に輸出を倍増させると宣言し、あまり関心のなかったTPP(環太平洋経済連携協定)に参加すると宣言し、10年3月から交渉を始めている。そして、日本にもこれが波及した。10月1日、臨時国会の菅総理の所信表明演説に突然「TPP交渉等への参加を検討し、アジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)を目指す」という文言が入った。

<党内の根回し、調整不足>
これを押し進めるべきだと主張する朝日新聞の社説は、TPPという名前に馴染みが無かったことから、“太平洋FTA”という珍妙なタイトルで社説を書いた。それほどTPPは知られていなかったのだ。もちろん鳴り物入りでスタートした民主党の政調部門会議では、どこの部門会議でもただの一度も議論されたことが無い。部会できちんと議論が行なわれたうえで政策が決定されていた、自民党政権ではありえないことである。当然、何も知らされていなかった党内にも波紋が広がった。根回し、調整の欠如は否めない。
慌しい日程であったが、帰ってきた日には予算委員会が開かれており、翌日13日には宮腰光寛議員の質問を受けることになった。この詳細についてご関心のある方は、衆議院のビデオライブラリーでご覧いただきたいが、私は見てきたことを素直に説明した。

<韓国農業界の漠然とした不安>
韓国は満足しているかということについても、3つの観点から不安を持っていると答えた。一つ目は、農村経済研究院の研究者が計算した数字であるが、影響を受ける値が小さすぎるということ。二つ目はまだ実際に自由化されていなくて対策が講じられているが、実際自由化された場合にはその2倍から3倍の予算が必要であること。三番目は規模拡大・競争力の強化ということで必死に取り組んでいるが、いくら拡大したところで、米国、オーストラリアと抗していけることにはならないのではないかという、日本でも当然提起される疑問である。それからTPP推進派に嫌味に聞こえたかもしれないが、韓国はTPPに入る気持ちは毛頭なく、二国間で自由が利き、例外ももてるFTAでいくという戦略を持って取り組んでいる。

<9カ国に増えたTPP交渉国>
TPPはこれまた失礼にあたるが、シンガポールやブルネイといった小国、4カ国(他にNZ、チリ)が全ての物品の関税を10年以内にゼロにすると約束して協定を結ぶという自由化度の高い協定である。ブルネイに酒、タバコ、小火器とかいう宗教上の例外はあるがほとんど例外は認められていない。そこに米国、オーストラリア、ベトナム、ペルーの4カ国が加わり、最近マレーシアが加わって9カ国が2ヶ月に1回交渉を始めている。

<理屈のない日本のEPA・FTA>
日本はというと、つい最近インドとのEPAの合意にこぎ着け、12カ国と結んだが、貿易量の16%にしか達しない。私は3年間の外務委員会の間に、この点についても質問し、稲田朋美さんや野党時代の菅直人さんばりのきつい汚い言葉(?)で「日本は結びやすい国とだけしか結んでいない。何の哲学も無いということで、『入れ食いEPA、ダボハゼFTA』ではないか」と安直な姿勢を批判した。
それは今も変わっていない。日本の貿易相手国で、1番の中国、2番の米国とはEPA・FTAを結べず、近隣の韓国とも結んでいない。ところが、財界が来年7月から韓国の自動車・家電製品との競争力を失ってしまうと衝撃を受けたのが韓EU・FTAである。なぜかというとそれぞれ10%、14%の関税が日本製品にはかけられるのに対して、韓国製品はゼロになるからである。そして、FTAの遅れを一気に取り戻そうとしたのが、突然のTPP交渉への参加の検討である。あちこちから拙速すぎるとの反対意見が沸騰しているのは仕方あるまい。
私は、APEC(11月13.14日)の首脳会合に向け、農林水産副大臣としてこの問題にかかり切りである。

2010年10月21日

10月19日日本農業新聞に記事・インタビュー記事が掲載されました―10.10.20-

◆1面 記事
日農10.10.19.jpg

◆3面 インタビュー
自立型経済の発想2img033.jpg

2010年10月20日

通学区域の変更の誤解と真実 田麦の竹馬の友に団結力が生まれた理由 -10.10.20-

(中野市周辺の方以外は読まれても何のことかわからないと思いますのでパスしてください。)

 副大臣としての仕事が超多忙でへとへとに疲れていたので、10月2日(土)はゆっくり眠ることにしていた。ところが、金曜日の夜中に長野に戻って翌日の日程をみると、「午前9時、高社中学創立50周年記念式典、対応:欠席・メッセージ」とあり、胸が騒いだ。なぜなら、私が行きそびれた切ない中学校だからである。しかし、疲れをとるのが先だとすぐに眠りについた。

<涙を流した50年前の北信タイムズ記事>
 ところが、朝早く目覚めて地元紙「北信タイムズ」の特集を何気なくみて、私はもう居ても立ってもいられなくなってしまった。私が高社中学へ行けなくなった通学区域の変更に関する50年前の記事が、克明に引用されていたからである。
 中野市は隣の須坂・飯山市と同じく、合併して数年後に統合中学ができあがったが、隣の2市の3つの中学はほぼ同じ規模だったが、中野市は規模も時期もバラバラという失政であった。小学6年の私は、その北信タイムズを読みながら暗澹たる思いになっていた。我々田麦の南側は、田麦の北半分、厚貝、壁田、古牧の同級生とは別の中野平中に行かなければならなくなりつつあったからだ。

<大票田旧中野町に媚びる市政>
 まず、南宮中という巨大校ができた。旧中野町全体を通学区域とする巨大な中野と延徳、日野の3小学校が集まる、いわば町の中学である。そして次が高丘、平野の中野平中、最後が私の母校・長丘、平岡、科野、倭の高社中である。
 ところが、私は、高社中ではなく中野平中に行かされたのだ。
 50年前の北信タイムズには用地買収が難航し、高社中の建設が遅れたとある。それもあるだろうが、一番の原因は、何でも大きな人口(すなわち票)を抱える旧中野町の言うことを聞き、そこの中学を一番初めに造ったことにある。私なら、不便な僻地の統合中学を先に造り、便利な町部を一番後にする。規模を同等にするのは当たり前のことである。しかし、歴代市長も市議も大票田に媚びたのだ。どこの市町村にもある見苦しい失政である。

<巨大校中野小、南宮中>
 ところが、巨大な中野小は同じ中学へ行かなければならないという要請が出て、それに負け、1学年11~13クラスもの巨大な南宮中が出現する。そもそも中野の町の小学校が一つなのがおかしいのだが、その後、中野小のあまりの巨大校ぶりが問題になった時も、中野市は結局旧中野町の住民の声に押され、2つに分けることはなかった。今、国会見学の案内をしているが、飯山小も須坂小も飛びぬけて大きい小学校ではない。長野市でも大きくなりすぎた小学校は分けて適度なサイズの小学校にしている(例えば古牧小から緑ヶ丘の独立である)。

<雪道を通わせたくないという親心>
 「田麦に通学区変更運動」という見出しの記事は、高社中ができるまで中野平中へ入れるとする人たちと、高社中学長丘分校でいいとする人たちで対立が生じたことを報じている。
 当時はブルドーザーもそれほどなく、冬は南へ向かう吉田へ行く道は雪かきが行なわれたが、田んぼの向こうにある高社中への道は、父母が雪踏みをして道付けをしなければならなかった。優しい親たちは、吹雪の中を子供たちを通わすわけには行かないと、通学区の変更を主張したのである。
 悪いことに長丘中(小)は田麦の南の端にあった。35年4月、我々田麦の南側の10数人は、遠く北から自転車に乗って通ってくるかつての級友の学ぶ学舎を通り過ぎて、南の新しい校舎の中野平中へ通った。帰りにまたその前を通り、まだ残っている旧友と駄弁ることになる。親心は皆わかっていたし、何のわだかまりもなかったが、私は古い校舎の友を捨てていくようで、すまない気持ちでいっぱいだった。

<新しい友の優しい同情>
 中野市教育委員会や市側は自らの失政をよそに、平野と高丘(大俣も含む)の通学区以外からの中野平中への通学を認めなかったが、我々は通学区の親戚に寄宿して通学するという合理的方法(?)で切り抜け、実力行使した。こうした背景を知り、平野小、高丘小卒の巨大な数の新しい友は、我々圧倒的少数派に同情し温かく迎えてくれた。今風のいじめとかは全くなかった。日本人がまだ優しさに満ち溢れていた古き良き時代だったのだ。

<地方では通学区が付き合いの原点>
 ところが、私の1学年下(私の弟もいた)は、予想より早く高社中の新校舎ができたのでもう中野平中へは来ず、我々には後輩はいなくなった。地方では通学区がその後の地域の付き合い、例えば農協や商工会議所の区域につながっていく。すべての地域社会活動の区分けの原点なのだ。だからこそ通学区の変更は大問題となる。その意味で旧中野町民が巨大校の批判をよそに、平然と一つの小学校にとどめたがるのもわからないではない。しかし、小さな小学校への思いやりが全くないのが問題なのだ。
 大きい旧中野町がずっと一つなのに対し、弱小な旧長丘村は、はるか昔に七瀬が平野に行き、大俣が高丘に行ってしまった。この寂しい気持ちがわからないのだろうか。そして、それに輪をかけたのが他の中学に通わされ、後輩もいなくなるという我々十数人のやるせない喪失感である。ただ、お蔭で3年間3kmの道を一緒に歩いて通った友の団結力は否が応でも強まった。

<信じがたい公立小学校通学区の自由化>
 10数年前から通学区の自由化とやらが主張され、2006年の調査では、小学校で学校選択制を導入しているのは240自治体で、そのうち、すべての小学校から選択が可能な「自由選択制」を導入しているのが24自治体(うち東京都が9自治体)となった。私にはとても信じられないことであり、もともと地域社会の絆が少なくなっているところに、追い討ちをかける愚かな制度だと思う。教育にも自由競争が必要であり、生徒が少なくなった小学校の先生たちは反省し、教育の質を良くする・・・とても聞いていられない理屈である。こんなところまで市場原理・競争原理という政策にはとてもついては行けない。東京都○○区で生まれたときからバラバラで、竹馬の友も何もなくなってしまうのではなかろうか。これでは地域の絆は生まれまい。

<ミッテラン大統領の地縁へのこだわり>
 3年間住んだパリのまん真ん中には一戸建て住宅はない。皆アパート暮らしだが、代々そこに住んでおり、表通りの裏側は、近所付き合いが残る。学校制度の違いだが、住んでいる地区で、小中学校だけでなく、高校も自動的に決まる。だから、近所は皆同窓生であり、知り合いなのだ。
社会福祉には力を入れたミッテラン大統領(社会党)が、こうした制度を是とし、増えつつあった私立小・中・高(当然通学区はない)への補助を一切認めなかったのは、都会の絆も学びの場から生まれることを熟知していたからに違いない。
 貿易の自由化が声高に叫ばれ、教育の場にも変な動きが浸透してしまっている。こうして日本人が故郷や隣人を愛する気持ちが少なくなりつつあるのは、嘆かわしいことであり、いずれこの国をダメにする根本原因となるかもしれない。国が力を入れるべきは、金儲けの手助けよりも、こうした日本の劣化を防ぐことのはずである。

<中学の同窓会がなくなった?>
 時を経て私は国会議員となってしまった。そして、知らない高社中の通学区域の人たちから「篠原さんは長丘小なのになんで中野平中・・・なんかに行ったんだ」と冷たい視線を浴びせられる。一方、中野平中は既に50周年記念式典を終えているが、私が同窓生(卒業生)という認識がなかったようだ。両中学から蚊帳の外に置かれることになり、人一倍、地縁・血縁と縁にこだわる私には悲しいことである。

<北信タイムズに感謝>
 上記のことも少しは祝辞で触れられると、疲れた体と眠い目をこすりながら数時間かけて記念式典に出かけていったが、その機会はなく、徒労に終わった。自らが卒業生の校長が父兄の寄付による学校建設という陽の部分を長話していたが、当然のごとく蔭の部分に触れることはなかった。こうした中で、唯一の救いは、北信タイムズが50年前の出来事を詳細に報じ、一部の読者に通学区域変更騒動を思い起こさせてくれたことである。長野に戻る車中で北信タイムズ社に電話し、お礼を述べた。
 政治は、二度と私のような思いをさせる中学生を作ってならないと肝に銘じた。

2010年10月14日

10月9日日本農業新聞に記事が掲載されました―10.10.14-

平成2210月9日 日本農業新聞
「関税ゼロ交渉は念頭にない―篠原副大臣存在感増す」
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10月13日毎日新聞に記事が掲載されました-10.10.14-

平成22年10月13日 毎日新聞
「霞ヶ関ウオッチャー―口蹄疫温情策の蔭に」
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2010年10月07日

2011年県議選・市町村議選の候補者を公募します。

2011年県議選・市町村議選の候補者を公募します。
詳細についてはこちらをご覧ください→<候補者募集ページ>

2010年10月05日

日本型根回し・調整の達人岩倉具三氏の死を悼む –一生かけて日本の農政を下支えた-10.10.05

 私がブログで、友人・知人の追悼を寄せるのは、尊敬する後輩 永岡洋治、自民党の若き宰相候補であった中川昭一(元財務大臣・元農林水産大臣)、青木一 前中野市長についで4人目だと思う。
 自民党の農林水産分野の裏方をずっと務め、政務調査会事務部長などを歴任してきた岩倉具三さんが73歳の若さで亡くなった。明治の元勲 岩倉具視さんの玄孫だという。同じような名前なので、多分その血筋かなぁと思ったが、鼻が大きく、ちょっと日本人離れした風貌であった。ドイツ人の血も混じっているという。

<農政の陰に岩倉あり>
 農林水産省で仕事をしていて、岩倉さんの世話にならないものはいない。何故かというと、農林部会・水産部会の取りまとめを岩倉さんが仕切ってきたからである。自民党の最も自民党たるゆえんは農林族である。米価闘争の頃などは1週間、いわゆるベトコン議員たち(米価値上げを要求する農村地帯を地盤とする議員:「米価問題懇談会」をもじって呼ばれるようになった)が騒ぎまくった。自民党農林族は、古くは中川一郎、渡辺美智雄が農政をリードし、その後は羽田孜、加藤紘一、 保利耕輔に引継がれ、中川昭一、松岡利勝と続いた。

 米価審議会の会場である三番町分庁舎、あるいは自民党本部や議員会館の中でそれは熾烈な議論が行われた。
 政治を巻き込んだ米価闘争ははるかかなたの昔の話になってしまったが、政策決定の見本が農政であることに変わりはない。うるさ型の農林族議員の間を走り回り、それを取りまとめてきたのは、他ならぬ岩倉さんであり、まとめられたのは類い稀なる能力とお人柄の故である。

<岩倉具視を引継ぐ政策調整のDNA>
 日本型組織、日本型社会の中では、根回しや調整が大事だが、皆が一家言を持つ農政というややこしい分野であり、大変だったに違いない。ご先祖の岩倉具視さんも公家でありながら明治新政府の中で重きをなした。たぶん、岩倉さんは政策調整のDNAをきっちり引継いでいるのであろう。
 余談になるが、政界のDNAの偉大さには驚くことが多い。小泉進次郎氏の父親似は誰もが頷くであろう。ワンフレーズのうまさ、当意即妙の応答と瓜二つである。一方、我が民主党でみれば、田中真紀子さんの角栄さんを凌ぐ迫力や、羽田雄一郎参議院国対委員長の誰にも嫌われることのない人柄は、それぞれの父君と瓜二つである。

<自民党総出の告別式>
 自民党の農政の中枢にいた人たちは、皆岩倉さんの世話になっている。70台前半の少々早い逝去であったが、聖イグナチオ教会の告別式には、谷垣自民党総裁、石原幹事長も出席された。弔辞は、石破茂政調会長はどうしても参列できず、事務方が代読した。自民党の幹部総出は、その功績からして当然のことである。我が民主党からは羽田孜最高顧問と私だけが出席した。農政の結ぶ縁である。
 東大時代から空手部の猛者であり、今でも朝稽古をかかさず、その稽古を終えた後に自宅で息を引き取ったという。空手着をまとい一心不乱に稽古に打ち込む岩倉さんの姿が思い浮かぶ。

<友人代表、保利耕輔さんの温かい弔辞>
 友人代表として、保利耕輔さんが切々と岩倉さんの人となりを紹介され、その早い死を悼まれた。その中に、岩倉さんが1992年、私がOECD代表部勤務の頃に来られたことがでてきた。保利農林水産貿易調査会長、大河原太一郎さん、柳澤伯夫さん3人の農政の重鎮が時のGATT事務局長ダンケルに会いに来たのである。

<岩倉さんの気が利いた会談セット>
 ジュネーブにWTO(かつてのGATT)の事務局があるが、ジュネーブでは来客が引きも切らず、行っても各国の代表団がダンケル事務局長と話せるのはせいぜい10数分である。
 そこで一計を案じたのがOECD閣僚理事会の合間の会談である。OECDは格の高い組織であり、GATT事務局長も出席を義務付けられていた。半日は貿易問題で議論するが、あと半日は「世界の経済」とかいうもので、言ってみれば暇な半日である。そこで、岩倉さんと連携して、その間にダンケルvs. 農林幹部会談がセットされた。OECD本部の会議場の横にある小さな部屋でダンケルと農林族3人の代表との懇談が2時間以上に渡って行われた。  
 保利さんは岩倉さんが写真に写っているという話をしみじみと触れられたのだ。多分その写真を撮ったのは代表部の参事官であった私のような気がする。このくだりは拙書「花の都パリ「外交官赤書」」(講談社+α文庫)に書いた。

<すべての重要案件は岩倉さんを通ず>
 私が農政に本格的に関与しかけた頃、もう既に自民党の農林部会は岩倉さんが仕切っていた。農林水産省では、農林族議員の根回しの前に岩倉さんのチェックを受けるのが常だった。つまり、岩倉さんは農政の主要な決定にすべて関与していたのである。英独語に通ずる岩倉さんは、国際的な問題にもピタリのまさに万能の人だった。官僚は2年ごとに異動するが、岩倉さんは、ずっと自民党農政の官房長のような立場であり、生き字引となった。後に、玉沢徳一郎農林水産大臣の政務秘書官も兼任したが、むべなるかなである。

<自社さきがけ連立政権のまとめ役>
 その調整能力を買われ、自社さきがけ政権というややこしい連立政権時に、自民党政務調査会調査役として全体の調整も岩倉さんに任されていた。
 私は民主党の議員になってからも岩倉さんにいろいろご指南役をお願いしていた。民主党の組織、政策決定のあり方がなっていないので、いつもお伺いをたてていたのもその一つである。例えば、農林水産委員長と党の農林部会長と兼任の有無、当選回数の差、役割分担の仕方などつい最近尋ねたばかりであった。

<岩倉さんの意外な励まし>
 私は民主党の議員が、調整とか根回しとかいうことに対しての感覚がおよそゼロに近いことを嘆いたところ、岩倉さんに励まされたことがある。
 岩倉さんが自社さきがけ政権の時に一番困ったのは、自民党単独政権ではなく、連立政権であるにもかかわらず、自民党の意向だけを通そうとする自民党議員だったという。その反対に最も話がわかり、村山富市首相を仰いで政権党の自覚を持ち、一生懸命汗をかいてくれたのは旧社会党の皆さんだったという。だから民主党の議員も政権与党となればいずれは変わっていくから心配に及ばず、というものである。約1年前の政権奪取直前のことである。

 ところが、さっぱり与党的意識は芽生えず、丹羽宇一郎中国大使ではないが「成権政治」に陥っているようにしか見えないので、岩倉さんにまたお伺いを立ててみようと思っていた矢先の訃報であった。

<必要な民主党事務局改革>
 なにもすべて自民党の真似はしなくていいが、やはり政権与党のノウハウは自民党に学ばなければならない。私は民主党の体裁が整っていない組織について、あれこれペーパーを書いては関係者に意見を述べている。タネを明かせば、その相当部分は岩倉さんに知恵を借りていたのだ。
 私が党運営の一部を任されたら、真っ先にしたいのは、民主党事務局でも岩倉さんのような人を育成することである。私が民主党に参画してから7年、党の農政担当職員は4人目である。こんなことをしていては、民主党の政調職員に第2の岩倉は誕生しない。今、民主党の政調にはプロが必要である。私は政調職員の研修会の講師第1号は岩倉さんと決めていた。この私の企ても実現できないままになった。
民主党幹部は口を開けば政治主導と言う。しかし、ブログでいろいろ述べたとおり、政治主導は国会議員主導であり国民主導である。岩倉さんは、その一部すなわち与党主導の何たるかをずっと経験し続けた人であった。政治主導の本質も岩倉さんこそ見抜いていたのである。

<退職後も続いた農政への情熱>
 岩倉さんは退職後、発展途上国の農林技術協力に命を掛けておられ、アヘンの原料ケシの生産地であるビルマのトライアングルゾーンにソバ栽培を振興したり、アフリカにネリカマ米を普及するということで飛び回っておられた。その関係で同じようなことに熱心な三原朝彦さんや松本さんと一緒に赤坂のスペイン料理屋で杯を酌み交わしたのもつい最近のことである。

 今、天国に行った岩倉さんは、また持ち前の調整能力を発揮し、根回しをし、先に逝った皆さん方の取りまとめ役を買って出ていることであろう。

2010年10月04日

りんごを再び大衆的果実へ 全国りんご大会(長野)に出席 -10.10.04-

<跡取りの養蚕嫌いをりんごが救う>
我が家は、小学校の途中までは養蚕と米が中心であり、特に「お蚕様」には家中を占領され、祖父母、父母、3兄弟は広い家の隅っこで小さくなって寝ていた。においも強烈であり、私はあまり好きにはなれなかった。長男であり、特に祖父には「跡取り」ということで、えこひいきされて育てられており、跡を継ぐのは当然のことと受けとめていた。そこで密かに俺が当主になったら蚕をやめてやると思っていたところ、いつの間にか養蚕は忽然と消えていった。

<1人前のりんご作業>
昭和30年代(1950年代)には、りんごが一面に拡がり消毒されたので、桑畑にも消毒液が飛び、敏感な蚕は消毒のかかった桑葉を食べられず、養蚕と果樹は両立しなくなった。従って、私が小学生の高学年になり、農作業に一人前に参画する頃は、すっかりりんごが中心になっていた。私のりんご畑の仕事は、剪定された枝を鉈(なた)を使って「枝こなし」することから始まった。その枝を丸めて竃(かまど)や風呂に使った。摘花(果)、袋かけ、消毒、葉摘み、玉回し、収穫、と1年中りんごと付き合い始めた。途中で桃やアスパラ、葡萄が入ったが、我が家の中心は今もりんごである。祖父にはすまないが、私が家を出てしまったので、末弟が跡を継いでくれている。

<ホース引っ張りと土管の撹拌という恐ろしい作業>
今はスピードスプレーヤーが果樹の間を走り回っているが、昔はホースを伸ばして畑中を手で消毒した。子供の大事な役割は、ホースがりんごの木にひっかからないように引っ張ること。そして畑の端にある土管の消毒液の撹拌作業である。消毒液が葉っぱから滴り落ちる中でホースを引っぱり、消毒の粉や液が飛び散る土管をかき回すのである。20~30年後、当時の万能の消毒薬、ホリドールやパラチオンに発癌性や催奇性があるなどと言われて使用禁止されても遅いのだ。私は害毒をたっぷり体に吸い込んでしまった。この悪影響が私の体に、そして子にでているのは悲しい現実である。

<母の本能から消毒作業は免除>
母は、強い消毒をすると翌日は半日寝てないと立ち上がれなかった。そして得た結論は、自分はもう子どもを産み終わっているからいいが、これから成長し、子どもを残さないとならない子どもにはこんな消毒は絶対手伝わせないということであり、以後、私は消毒作業から解放された。
いつの頃からか私は日本有機農業研究会霞ヶ関出張所員と呼ばれるようになるほど有機農業に共感を覚え、食べ物の安全性を追求するようになった。そして講演会で「篠原さんは農水省の官僚でありながら、皆に無視され、しいたげられながら、なぜ有機農業の味方をしてくれるのか」と聞かれることが度々あった。急に聞かれても何も思い当たらなかったが、ふと思いついたのが、母の子や孫を心配する本能の決断だった。

<りんごへの感謝の念>
私の大学資金は、50歳までの父の教員の給料とりんごの収入が支えてくれた。「りんごで育った信州牛」は中野市の畜産会社のキャッチフレーズだが、私はいわば「りんごで大学に行けた男」だった。だから、進んで今回も全国りんご大会に出席した。

<黄デリと紅玉の忘れられない味>
そのりんごも品種は様変わりした。私が手伝った頃は、祝(なるこ)、旭、紅玉、黄デリ、赤デリ、国光と決まっていた。そこに、陸奥、津軽、王林等が参入し、ふじの比率が高くなった。そして今、長野のシナノ3兄弟(シナノゴールド、シナノスウィート、秋映)である。しかし、私は今でも、とりたての黄デリと落下寸前で残った紅玉が忘れられない味である。どちらも地産地消、旬産旬消でないと味わえない味なのだ。
今年は猛暑で前年比140%高だが、やはり農家は困っている。消費は伸びないし、価格は低落傾向が続く。

<丸かじりりんごの復活>
ただ、問題もある。それは、すべてが芸術品のようなりんごとなり、簡単な丸かじりできるりんごがないことだ。あまりに高級化を目指し過ぎたのだろう。大きなふじは4つに切らなければ給食にも出せない。1人で1つ食べるには大き過ぎて、ついつい手が伸びなくなる。
世界中(といっても欧米中心だが)を歩いたが、りんごの皮を丁寧に剥いて4つあるいは8つに切って食べる国はない。大衆的な価格のりんごもなければ消費は下支えされない。その点では、丸かじり用のシナノピッコロへの転換は大歓迎である。

<りんごを食べて健康に>
「An apple a day keeps the doctor away. 1日1個りんごを食べれば医者いらず」とは英語の諺である。果物の秋、思い切りりんごをかじる日本人が増えてほしいものである。
(私は、役所作成の挨拶に上記の2点の話をし、前者に「奇蹟のりんご」の木村秋則さんの話を付け加えたら、いつも私のブログをチェックして意見を寄せてくれる畏友T氏から、あまり皆を刺激するようなことは言わないほうがよいというもっともな忠告をいただいた。誤解を解くために文章にしてみた。)

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