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束の間の棚田サミット(西伊豆.松崎町)出席でTPPを考える ―江戸末期の来訪者の開国への疑問と自由化一辺倒の現代―10.11.11

(棚田サミットの誕生)
 10月22日(金)、環太平洋経済連携協定(TPP)をめぐる議論がかまびすしくなる中、私は、慌ただしい日程の合間を縫って西伊豆の松崎町で開催された第16回全国棚田(千枚田)サミットに出席した。この棚田サミットは、最初、高知県の檮原で開催された。1995年、今から16年前のことである。高度経済成長時代、米余りが深刻化する中で、全国あちこちで水田が耕されなくなり、遊休農地化していった。なかでも大規模化が進まず、機械化なども考えられない棚田が真っ先に捨てられた。そうした事態に胸を痛めた方々が、全国棚田(千枚田)連絡協議会をつくり、それが棚田サミットにつながっている。

(ふるきゃらとの縁で棚田学会理事)
 そういう心ある人たちの中に、「ふるさときゃらばん(ふるきゃら)」というミュージカル劇団を主宰している脚本家の石塚克彦さんがいる。あちらこちらの田舎を歩き回るにつけ、棚田が荒廃しているのを捨てておけなかったのであろう。行動力溢れるオーガナイザーである石塚克彦さんの尽力により、石井進会長(東大教授、中世史)の下ふるきゃらを事務局にして棚田学会が誕生した。私も拙書『農的小日本主義の勧め』を教材にしたふるきゃらの勉強会に講師として招かれて以来、応援団の一人となっていた。こうした縁で設立当時の棚田学会の理事を仰せつかり、棚田の重要性を訴え、側面から支援を続けてきた。

(忙中閑の棚田サミットへの参加)
 石井先生の後を引き継いだのが、現在の棚田学会会長の中島峰広早稲田大学名誉教授で、今回のサミットの開催に当たって、わざわざ副大臣室にお見えになり、是非参加して欲しいとの要請を受けた。また、旧知の川勝平太静岡県知事も講演されるというので、疲れた体にムチを打って出席した。その日、朝7時半からのEPAに関する副大臣会合を終え、8時26分発のこだまに飛び乗り、現地に向かった。美しい棚田の地は、三島駅から車で2時間弱の遠い所だった。
 棚田サミットの開会式では、地元松崎小学校2年生による「棚田に行こう!」の元気な歌と踊りでの歓迎を受け、川勝知事の基調講演を拝聴させていただいた後、標高120m~250mのなだらかな傾斜地に広がる石部(いしぶ)の棚田を視察した。

(江戸末期の来訪者も絶賛した石部の棚田)
 川勝知事は、幕末、日本を訪れた異人は、駿河湾を眼下に富士山を眺望できる石部の棚田の美しさに息を飲んだはずである、と語っておられたが、私も石積みの棚田と逆さ富士のように見える海のコントラストの美しさに感銘を受けた。
 非常に美しい景観を見せる石部の棚田も、江戸時代より前から昭和40年代頃まではきちんと耕作が行われていたが、全国の棚田と同じように、高度経済成長の時代の変化の中で平成11年頃には大変荒れた原野に近い状態になっていたという。その後、先人たちが苦労して気付いた棚田を残そうと地域の有志が立ち上がり、棚田オーナー制度の導入などにより、最盛時の半分近くではあるが美しい状態を取り戻したという。

(中山間地域直接支払い、農業者戸別所得補償)
 農林水産省の動きはいつも遅い。棚田に焦点をあてたわけでないが、中山間地域、すなわち過疎地、山間僻地が廃れていくのはよくないと気付き、2001年から中山間地域に対する直接支払いという制度を導入した。これはヨーロッパではとっくの昔から行われていた条件不利地域に対する直接支払いの日本版である。
 2004年、菅直人代表、鹿野道彦NC農林水産大臣の下、私が事務局でとりまとめて打ち出した政策が、現在の農業者戸別所得補償である。野党の提案という形で、ずっとしつこく主張し続けた。民主党の代表は、今の菅総理で6人目となるが、この政策は終始一貫変わらず、政権交代をしてやっと実現にこぎ着けた。これも棚田の保全には有利に働くこととなる。

(『逝きし世の面影』の伝える田園風景の見事さ)
 この棚田の重要性なり素晴らしさは、江戸末期から明治にかけて日本に来た外国人がとっくの昔に気付いていた。ペリー、ハリス、イザベラ・バート、モース、オルコック等その多くが日本紀行文なり日記を残している。それを渡辺京二が『逝きし世の面影』という名著にまとめて紹介している。皆が日本の礼節や美術品や風景の美しさを賛美している。ペリーは西伊豆の山々をはじめて見たのだろう、「森また森の国」というふうに書き出している。赤茶けたカリフォルニアと比べたらまさに緑の国だったのだ。この近くではプチャーチンが地震の津波で船が大破して、戸田村の皆さんにたいへんお世話になって、川路聖謨との交流が生まれたことが吉村昭の小説『落日の宴』に詳しく書かれている。

(開国要求に躊躇した幕末の欧米人)
 この他にも重要なことを指摘している。欧米諸国は通商条約を結べと開国を迫り、下田、函館、新潟といった田舎の港も開かれることになる。しかし、何人かの開国を迫った人達が、自分のしていることが正しいことなのかと疑問を感じ始め、それを正直に書き留めている。
この美しい日本、非常に心の温かい文明化した国が西洋以外にあるとは知らなかった。ゴミも落ちていない。子どもを皆が大事にし、お祭りを楽しみゆったりと生きている。足るを知る人々。こんなにいい理想郷を我々が開国を迫り、別のルールを持ち込むことによって、東洋の楽園が壊れていくのではないか。そんなことはしたくない。仕事としては開国を迫らなければならないけれども、その迫った結果、この美しい理想郷が壊れ、この人情味豊かな国民性が失われ、西洋と同じ何の変哲もない国になってしまうのは耐えられない。
良心の呵責にさいなまれ、悩んでいたのである。できることならこのままそっとしておきたいと心情を吐露している。
(注:『逝きし世の面影』から引用)
 ハリスが、1856年9月4日、下田玉泉寺のアメリカ領事館に「この帝国におけるこれまでで最初の領事旗」を掲げたその日の日記に「厳粛な反省―変化の前兆―疑いもなく新しい時代が始まる。あえて問う。日本の真の幸福となるだろうか」としるした(略)
 その2年後、下田に来泊したイギリスのエルギン使節団の一艦長に対して、彼は「日本人へのあたたかい、心からの賛辞」を洩らすとともに、「衣食住に関するかぎり完璧にみえるひとつの生存システムを、ヨーロッパ文明とその異質な心情が破壊し(略)

 ヒュースケンは有能な通訳として、ハリスに形影のごとくつき従った人であるが、1857年12月7日の日記に、次のように記した。「いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ。この進歩はほんとうにお前のための文明なのか。この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない」。(略)
 自分がこの国にもたらそうとしている文明が「日本古来のそれより一層高い」ものであることに確信をもっていた。しかし、それが日本に「果たして一層多くの幸福をもたらすかどうか」(略)
日本に対する開国の強要は、十分に調和のとれた政治が行なわれ国民も満足している国に割り込んで、「社会組織と国家組織との相互関係を一挙に打ちこわすような」行為に見えた。(略)

(日本の良心の支え、棚田サミット)
 鎖国状態の江戸時代の末期ではあるまいに、「平成の開国」といった言葉が踊り始めた。熟議の国会と言いつつ、与党側の議論も全くせずにいきなり所信表明でTPPが飛び出し、民主党内で議論が沸騰した。GDP1.5%のために98.5%が犠牲になっていいかなどという閣僚も現れた。
開国を迫りながら、日本人の幸福にならないのではないかと心配したヒュースケン。それを今、全国紙の社説の全てが超開国(?)のTPP推進を主張している。こうした中で、美しい風景と日本人の心を残す市町村が、既に5年先まで棚田サミットの開催を決めているのにほっと一息ついた次第である。