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2011年02月21日

しのはら孝 新年国政報告会のお知らせ

日頃から篠原孝の政治活動にご理解とご声援を賜り心より厚く御礼申し上げます。
国の財政・地方の財政が厳しい中、皆様におかれましてはそれぞれの地域において国民の生活を守るため、確かな施策を真摯に取り組まれていることに、心より敬意を表します。
つきましては、今年も恒例となりました国政報告会・新春交歓会を下記の日時にて国会議員2名のゲストを招いて開催致します。
ご多忙のところ誠に恐縮に存じますが、何卒お繰り合わせの上、ご参加賜りますよう宜しくお願い申し上げます。

2月27日(日)
 午後時~ 木島平村村民センター
 午後時~ アップルシティーなかの

特別ゲスト
 松木けんこうさん
 (衆議院議員、農林水産大臣政務官)
 http://kenko-matsuki.jp/index.html
 田中美絵子さん
 (衆議院議員、厚労委、決算行政監視委員、倫選特委)
 http://www.tanakamieko.jp/

市民権に次いで「村民権」も得た金子さんの有機農業 -2011.02.21.-

今、政局で揺れている。この件についても私のこうしたらいい、あるいは、こうすべきというのは山ほどあるが、内閣の片隅にいるので直接触れるのはやめておく。
 その代わり、心が晴れ晴れすることを報告したい。本当は2011年の年始のメルマガ、ブログにする予定だったが、例によって時間がなく今になってしまった。

(有機農業による村づくりで天皇杯)
昨年末、12月26日(土)、私は久しぶりに埼玉県比企郡小川町にいた。私の30年来の友人、金子美登・友子ご夫妻の霜里農場のあるところであり、平成22年度農林水産祭むらづくり部門天皇杯受賞のお祝いに駆けつけたのだ。金子さんは、私と同世代の農業者大学校の第1回卒業生で、1971年以来ずっと有機農業をやってこられたが、それが集落全体に広がり、関東農政局管内では久方ぶりの村づくり部門天皇杯に繋がったのだ。

(変人扱いされた有機農業)
金子さんの霜里農場は、有機農業の世界ではとっくの昔から有名である。研修希望者は引きも切らず、外国人も惹きつけられて来る。いってみれば、埼玉県の隠れたパワースポットなのだ。本人は人格者であり、決して愚痴ったのも聞いたことがないが、近所の農家にはなかなか受け入れられなかった。1975年、金子さんはヘリコプターによる農薬散布に反対し、村人からは変人扱いされていたこともあり、農家は見向きもしなかった。

(徐々に手を差し延べる近所の仲間)
 有機農産物の産直は当然行なわれており、金子さんにはファンは多くいたが、近隣で最初に手を差し延べたのは、晴雲酒造の無農薬酒「おがわの自然酒」、小川精麦の「石臼挽き地粉めん」であった。それでも、20年近く経っていた。
 ようやく近隣の農家で金子さんの有機農業を皆で学ぼうという姿勢が出てきたのは、金子さんの就農から30年後の2001年である。当時の安藤郁夫下里機械化組合長が、有機農業を学びに若者の集まる金子さんに指導を頼みに行ったのである。こうしてやっとのこと有機農業を柱とした村づくりが始まった。
 それから天皇杯までの10年はまさにトントン拍子だった。大豆から始まった有機農業の対象も03年に麦、06年には米にまで広がった。03年には昔から小川町で作られていた大豆の在来種「青山在来」も復活した。

(大変貌を遂げる下里地区)
 約30haの田畑が、小さな丘にすっぽりと囲まれた下里地区は、大変貌を遂げる。安心安全を求める人たちは、下里の大豆も米も麦も相場の倍以上で買い取ってくれる。例えば、今年度下落が著しく、1万2000円ぐらいになってしまった米も1俵3万円である。農林水産省はTPPで関税ゼロにされたら、米もコシヒカリ等の超高級米の10%しか残らないと試算しているが、下里の米は、まさにこの残る10%に入る米である。
 
(拡がる支援の輪、復活する自然)
そして、農村の有縁社会を地で行き、オクタという会社が、社員に有機栽培米を届けることで協力を始めた。農薬をやめたときからトンボの種類も増え、カブトエビ等も増えてきた。09年には直売所もできた。畦道には彼岸花も植えられ、散歩に来る人たちも増えたので、休むベンチもでき、住民同士の交流の輪も広がった。07年には農地・水・環境対策も取り入れられた。10年には、30戸の全農家が参加する有機農業の里となった。

(市民権から村民権へ)
 金子さんは全国の有機農業のリーダー的存在だったが、やっと近くの人たちにも受け入れられたのである。有機農業は1992年に農水省に有機農業対策室が設営するなど、それなりの市民権は得ていたが、やっと村民権を得て集落でも受け入れられるようになったのである。近くの人に受け入れられるのが1番むずかしいのだ。安藤さんも農業をやって50年、初めて農業が楽しくなったという。そしてついに国も天皇杯をもって有機農業を認知することになった。1人黙々と有機農業に取り組んだ金子さんにとっては、それこそ長い道のりであったに違いない。
 
(霞が関出張所員)
40年前は、有機農業は変人・奇人のやること。有吉佐和子さんの「複合汚染」が広く読まれたのは35年前の1975年、日本有機農業研究会が設立されたのは1971年、私が初の論文「21世紀は日本型農業で」をきっかけに、一楽照雄会長に全国あちこちの有機農業の会合に引っ張りまわされ始めたのは1982年。その頃に初めて金子さんの農場を訪れている。従って私と金子ご夫妻の付き合いもかれこれ30年近くになる。それ以来、日本有機農業研究会「霞が関出張所員」(メンバーがつけたあだ名)を務め、国会議員になってからは、ツルネン・マルティさんと並んで有機農業の大応援団を形成している。

(政界の金子さんの有機農業グループ)
 私は金子ご夫妻との縁で、多くの仲間と知り合いになった。OECDにいた頃、金子さんに日本の環境NGOの1人として来てもらったが、そこに一緒に来られたKさんは、お医者さんの奥さんで食の安全から有機農業の信奉者で、ずっと付き合いさせていただいている。感度のよい五十嵐文彦衆議院議員は、忙しいのに有機農業の会合によく顔をだしておられた。参議院議員となる前の小川敏夫さんに初めて会ったのもこの頃である。私が選挙に出ると知ったこのグループの皆さんは、わざわざ長野まで応援に来てくれた。縁は異なもの金子友子夫人は菅総理の20代からの友人ということもあとで知った。すべて金子さんの有機農業が引き合わせてくれた縁である。

(健気な役所の後輩に心も晴れ晴れ)
 年末の押し迫った26日、私は県議選を控え、地元にすぐ帰らなければならなかったので長居はできなかったが、お祝いの会合には町長や松崎哲久衆議院議員も参加したなごやかなものであった。地産地消よろしく地元のおいしい食べ物がテーブルに並び、おいしい酒も土産にいただいた。
 心があたたまることがもうひとつあった。
 この祝賀会は研修としての公務出張ではなく、ひとりで出かけた。会場に着いてみると、農林水産省の現役官僚も何人もいたのでオヤッと思った。
 宮本関東農政局長、埼玉県農政課長に出向経験のある山田審議官、松尾農業環境対策課長等である。彼等も公務と関係なしにお祝いに駆けつけていたのである。皆、金子さんとの個人的付き合いからの出席であり、金子さんの人徳のなせる業であろう。
 天下りで叩かれ、給料が多いと叩かれている役人だが、こうした交流をしている役人は他の省庁にはそれほどいまい。農林水産行政が人の交流とともにある証左である。
 大事な年末の休日をわざわざ潰して出席していることに頭が下がり、彼らの健気さにほっとし、晴れ晴れとした気持ちになって会場を後にした。

2011年02月04日

一泊三日のダボスのWTO非公式閣僚会議出張 -2011.2.4.-

(格調高いダボス会議)
スイスの保養地・ダボスには、毎年1月、世界中から2,000人を超える政治・経済界のリーダー達が集結する。通称「ダボス会議」に出席するためだが、正式には「世界経済フォーラム(WEF)年次総会」という。1971年にスイスの経済学者クラウス・シュワブ氏が、欧州の経営者を集め議論の場を作ったのが始まりとされ、今年は、メドヴェージェフ露大統領、サルコジ仏大統領などの各国首脳、潘国連事務総長、ラミーWTO事務局長など国際機関の長、著名投資家のジョージ・ソロス氏などが出席した。

(体にこたえる1泊3日の海外出張)
この「ダボス会議」に多くの通商・貿易担当の閣僚が集まるため、2003年から、WTOの非公式閣僚会合が開催されており、農林水産大臣も2006年から毎回出席していた。今回、1月28日(金)から1月30日(日)にかけて、1泊3日の強行軍でWTO非公式閣僚会議等に出席するため、スイスのダボスに出張してきた。副大臣になってからは、1泊2日のTPP関連の韓国出張についで2度目である。もともとは鹿野農林水産大臣の出張が検討されていたが、高病原性鳥インフルエンザの発生が宮崎から鹿児島、愛知へも拡大する中で、急遽、大臣の代理として慌ただしく現地へ向かうこととなった。

(航空自衛隊の政府専用機)
役人の現役時代サミット出席の折、まだJALの旅客機をチャーターした政府専用機には2度乗ったことがあるが、航空自衛隊の政府専用機になってからは初めてであった。アメリカにはとうの昔から“Air ForceⅠ”と呼ばれる大統領専用機があり映画も作られているが、多分それを真似たものなのだろう。菅総理、海江田経産相、福山官房副長官、随行の役人、同行記者団が乗客であり、客室乗務員も航空自衛隊の女性自衛官である。真面目さが伝わってくるサービスであり、心地よいものだった。

(現役よりも殺人的スケジュール)
ただ、1泊3日というのは強行軍で、つくづく政治家は酷使されていると痛感した。現役役人時代の最も強行日程ですら3泊5日にすぎない。それを現地1泊機中1泊というもの。現地の夕食もなし。菅総理は、3日連続で衆参の本会議答弁を終えて、18時に飛び乗る形の出発、12時間のフライト、チューリッヒ一泊、朝6時起きでダボスへ車で2時間半、朝食は大使館の用意してくれたおにぎり3個、演説をして帰国、翌31日(月)は1日中予算委員会の質疑、ダボス滞在はたった6時間という強行スケジュールである。総理は私が鹿野大臣の代理で政府専用機に乗り込んでいることを知らず、サービスで同行者に挨拶に来た折に気付き、それなら一緒に食事でもしながら話をしようと切り出されたが、席に着いた途端疲れて眠り込んでしまったようで、福山官房副長官が慌てて中止の連絡に来た。受け身(答弁)に弱い菅総理は(?)余程疲れていたのであろう。菅総理が苛立つのを「イラ菅」などと言うが、こういう状況で嫌な質問をされては、イライラするのも仕方あるまいと同情を禁じ得ない。

(WTO会合の合意を目指して)
私はG10と呼ばれる農産物輸入国の大臣会合に1時間、20数カ国のスイス主催WTO非公式閣僚会合に2時間半出席し、日本のWTOに対する基本姿勢を述べた。
G10閣僚会合には、スイス・アマン経済大臣、ノルウェー・スレート外務大臣、韓国・キム通商交渉本部長などが出席した。私からは、各国のセンシティビティーに配慮した貿易ルールの構築を目指す上で、G10の結束を強化することが重要であると発言した。G10として、一致団結して戦略的に今後の交渉に望むことを確認し、プレス声明を発出することとなった。
WTO非公式閣僚会合には、日本からは海江田大臣と私、米国・カーク通商代表、EU・デ・グフト貿易担当委員、中国・陳商務部長など23カ国の閣僚のほか、ラミーWTO事務局長、ウォーカー農業交渉議長などが出席した。私からは、2011年末の合意達成に向けて、世界各国の「多様な農業の共存」を可能とする貿易ルールづくりが必要であること、我が国は、世界最大の食料純輸入国として、関税や国内支持の大幅な削減の議論に積極的に加わるなど、既に最大限の柔軟性を発揮してきていること等を発言した。議論の総括として、アマン経済大臣から、2011年中にラウンドを終結するため、4月までに全分野の改訂テキストを揃え、7月までに実質合意を目指すこと、今まで得られた成果を基礎として、全ての分野で野心の高い合意を目指してギブ・アンド・テイクの議論を進める必要があることなどが確認され、会合の成果として取りまとめられた。

WTO非公式閣僚会議.jpg

(私以外は全員大臣)
驚くべき事に、非公式閣僚会合は、私以外は全員閣僚だった。日本の国会の仕組みから、日本だけが閣僚が出席していないという不自然さが目立った。別に答弁している訳でもなく、本会議場のひな壇に座っているだけのために、皆が顔を揃えている閣僚会議に出席できないのだ。民主党が野党時代も閣僚の海外出張を国会軽視だといってなかなか認めなかったが、愚かな形式主義以外の何物でもない。外交は相互主義であり、大臣同士でないと相手に失礼である。これでは国際交渉で遅れをとるばかりである。

(英語の発言と5人の女性大臣)
私は、図々しく、ほとんどの大臣達と挨拶を交わし、名刺を交換した。海江田経産相と相談し、丁度真ん中ごろに発言したが、米、EU、中国といった大国は、皆が発言し終わった後にそれらに応ずる形で発言した。つまり、時間が押してきて議長から発言時間を短くしろと言われる危険と、なるべく後のほうが有利だという発言順を天秤にかけて、微妙な駆け引きが行われていた。2人が通訳入りだけで、あとは全員が英語で発言しており、閣僚レベルでも英語が世界共通語となりつつあることが痛切に感じられた。チリ、タイ等5発展途上国は女性大臣であり、女性の進出度合も日本は数歩遅れているようである。

(久し振りの総理との語らい)
帰国便の中では、菅総理、福山官房副長官と夕食をともにし、一夜明けた後、到着直前には小一時間ほど総理と2人でいろいろ話し込んだ。客観的に見て、アメリカ留学7年の鳩山前総理と比べると国際的な対応は得意ではないが、「開国と絆」というタイトルの演説デビューを終え、ほっとされているのが手に取るように分かった。
2004年、菅代表の頃、日本の農山漁村の現場を2人でよく歩き、日本の農山漁村を元気にするための政策を語り合ったが、旅先での語らいは2007年5月のドイツ出張以来だった。4年の歳月を経て野党の代表代行とネクストキャビネットの農林水産大臣が、総理と農林水産副大臣に変わっていた。しかし、日本の農山漁村への思い入れは、「食と農林漁業の再生推進本部」に結実されている。世の中は確実に動いており、今2人とも動かせるポジションにいるのであり、気を引き締めて着陸用のベルトを締め直した。

07年 ドイツ南部「黒い森視察」CIMG1375.JPG

2011年02月02日

藤井裕久官房副長官は菅政権の下支えと重しの役割を担う -藤波孝生、近藤元次に続く調整役を期待 -11.02.02

<二人の大物官房副長官>
 鳴り物入りの内閣改造が行われた。藤井裕久さんが、渡部恒三さんに継ぐ年長者(78歳)でありながら、官房副長官として菅内閣を支えることとなった。今改造内閣の目玉はこれにつきるのではないかと思っている。私が霞ヶ関・永田町に関わった1970年代以降、大臣を経験した大物政治家が官房副長官に就いたのは、藤波孝生さん(労働大臣)と近藤元次さん(農林水産大臣)の2例しか知らない。通常官房副長官は若手の登竜門にすぎない。

<藤波対加藤の異例の米価折衝>
 今から30余年前は、米価は米価審議会で、与野党、政府、消費者、生産者を巻き込んで、一週間も掛けて決められていた。ある時、最後の折衝は自民党幹事長と官房長官なり農林水産大臣の間で行なわれていたが、中曽根内閣の二階堂進幹事長と後藤田正晴官房長官の超大物の二人は、自民党の将来を担う二人の中堅に収拾を任せた。異例のことだったが、自民党総裁室で、政府の代表の藤波官房副長官と加藤紘一自民党米価対策小委員長の最後の折衝が行なわれた。ちょっとした事情から私一人だけがメモ取りとして同席した。自民党のうるさい農林族とは一線を画し、紳士然とした存在の加藤さんと重厚な藤波さんとの味のある折衝の場が今でも頭の中に焼き付いている。

<藤波さんの加藤さんへの情け心>
 二人ともそれぞれの立場を説明し(言い合い)、熾烈な議論が戦わされた。米価決定に筋書きがあるなどと言われるが、毎年どうなるかわからないのだ。1時間半ほどで話がついたが、藤波さんは「このまま戻ると加藤さんの頑張りが足りないといわれるから、もう少し世間話でもしてこの部屋を出ることにしましょう」と切り出し、1時間以上世間話に費やした。何度も切った張ったの場面を切り抜けてきた藤波さんならではの加藤さんへの配慮である。今の民主党議員に著しく欠ける「人間力」であり、政策決定プロセスへの配慮である。二人だけでなく、自民党の議員は米価決定に関与することで、政策決定の勘所を体で覚えていったのだ。
 その時、後に政界に入り親しくなる松木けんこう農林水産政務官が、すでに藤波さんの秘書をやっていたことは知る由もなかった。

<近藤大臣の旦那と妻の双方へバランスのとれた配慮>
 近藤さんはパリの好きな人であった。私がOECD代表部時代でも数回は来訪された。近藤農林水産大臣のときには、我々農林水産省出向組に対し、「おまえらだけだとフランス飯はご馳走しないが、奥さんたちを連れてくれば、美味しいレストランでご馳走してやる」と言われた。「日本と違って外国に来ると奥さんの役割が大きい。それをねぎらったりしていないだろう。代わりに俺がねぎらってやる」という温かい配慮であった。
 ところが、夕食中には「俺はパリが好きで、今は大臣で公務出張だが、あんたたちは幸せだ。こんな気の利いた旦那を持ったから、パリに3年もいれる。羨ましいかぎりだ。旦那に感謝したほうがいい」と、逆に妻たちに説教されたのである。食事が終わったあと、妻たちがこそこそ話しているのが私の耳に入ってきた。「そうよね。皆が旅行に来るパリにこんなに長くいられるなんて、大したことないと思ってた夫にも感謝しなければいけないわね」。もっとも、私の妻ではなく、他の誰かの奥さんだったが。

<妻の役割を評価する粋な人>
 近藤大臣は外交官の妻に手当を出す、いわゆる「妻加俸」についても一家言を持っておられ、単身赴任が増えるに従い、その妻加棒が徐々に少なくなっていることに憤慨されていた。「今は奥さんが働いていることも多い。その奥さんが仕事を辞めてくるのだから、逆に手当を上増しして出すべきである。外交官であるにもかかわらず、奥さんが一緒に来ないなどという不届きなことは許すべきではない」。男女共同参画の立場からみるとどうなっているのかは私はわからない。

<宏池会の下働きできる人>
 その近藤さんが「いずれ宮沢喜一政権を作りたい。経世会(竹下派)は議運や国対をやってきて根回しできる調整役がいっぱいいるけれども、宏池会はお公家さん集団で、理屈をこねるのはいくらでもいるが、雑巾がけできるのは俺以外にはいない。だから宮沢政権ができたら、俺が官房副長官になって宮沢政権を支える」とポツリと言われた。私は、なんというか話し易い相手なのだろう。政治家に限らず、よくこういう打ち明けたような話をされることが多い。しかし、私は藤波さんの例をあげ、「近藤大臣のような大物は官房長官でしょう」と反論してしまった。ところが、私がパリにいる間に宮沢政権が誕生し、本当に近藤官房副長官が誕生した。近藤さんは、心底宮沢政権を支えんとする義理固い有言実行の人だったのである。どうやって決まったかは知らないが、多分近藤さんが申し出、それを宮澤総理が素直に受け入れたのであろう。うるわしい仲間なのだ。

<調整役欠如の結末>
 ところが悲しいことに、官房副長官の現職中に政治家として脂の乗り切った63歳で癌で亡くなられてしまった。激務だったのであろう。「コンちゃん」の愛称で親しまれ、一言発すれば皆がうなずき、コンちゃんの言うことなら聞いてやろうという雰囲気を備えていた人であった。格好よく振舞おうとするような人ばかりが多い民主党にはほとんどないタイプの重厚な味のある政治家であった。そして、近藤官房副長官という下支えを失った宮沢政権は崩壊し、非自民の細川政権が誕生した。

<歓迎すべき組織人の登場>
 今回、タイプは全く違うが、再び超大物の藤井官房副長官が誕生したのは大歓迎である。経験不足を指摘される菅政権の中で、最後の奉公をと引き受けられたのであろう。数少ない妥協のノウハウ、あうんの呼吸を知る貴重な政治家である。官庁の中の官庁財務省に22年勤めた人でもあり、官僚組織を動かした経験が政権という組織を動かすノウハウにもつながることとは請け合いである。
政界でも修羅場をくぐり抜けてこられた藤井官房副長官が、菅政権の下支えをしながら、重しになられんことを期待してやまない。