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チェルノブイリに来い、菜の花の春 -11.04.27-

<いつもながらの強行軍の海外出張>
 農林水産副大臣になって3回目の海外出張だが、いずれも、現役の役人時よりずっと強行軍であり、1泊2日の韓国TPP問題出張は、5団体と意見を聞いた。1泊3日のダボス会議のWTO問題の閣僚会議は、たった1日のスイス滞在、飛行機に乗っている時間が大半だった。今回は少々ましだが、夜中に出て早朝に帰るという点では同じだった。
 有権者の皆さんや友人たちから細身の体を案じてか、「体に気をつけて」とよく言われるが、国会議員になって命を縮めていることは確実だ。しかし、せっかく与党になり、仕事をさせてもらっているので、期待に応えるべく骨身を削って仕事をしている。

<チェルノブイリ原発事故25周年>
 その点では今回の出張は、私が蒔いた種であり、文句は言えない。
 クォーター(4分の1、25)という言葉があるせいか、欧米は10周年、20周年よりも25周年を重んじる。今年の4月26日がチェルノブイリ25周年なのだ。国連の行事があることは承知していたところへ、旧知の藤井絢子 菜の花学会・楽会会長が、この機にチェルノブイリの菜の花プロジェクトの現場視察に行くことが分かった。一方で、出荷制限の解除のルールが確立、4月8日には、難題の作付制限のルールも確立し、あとは官邸の避難区域の設定をみて決めるだけとなり、一区切りがした感があった。そこで、国際会議に合わせてチェルノブイリの研究結果を学ぶべく、研究者も含めた技術陣の出張を命じ、藤井さんの一行とも連絡をとるように促した。その過程で急遽私も追いかけていくことになった。


<残念な閣僚クラスの欠席>
 原子力爆弾というとヒロシマ、ナガサキであり、原発事故というとかつてはスリーマイル島、チェルノブイリだったが、今や福島第一原発のニュースが世界を駆け巡っている。常識的にみて、チェルノブイリの25周年記念式典には、潘基文国連事務総長の次に出席すべきは、我が日本国の首相だろう。私が関係閣僚なら、菅総理に出席を進言し、さもなければ自ら出向き、世界に向けて福島の現状を説明し、世界の救援に対し感謝の意を述べる。チェルノブイリの対応を福島が学び、ともにこの困難を克服していきたいと訴えるだろう。それが外交というものだ。いつになったらもどれるのかと不安にかられている避難されている方々への強いメッセージともなる。


<首脳外交に必要な副首相>
 ところが、日本では毎度お馴染みの国会審議優先で、高橋外務副大臣しか出張していない。もし、国会があるとしたら、日本は首脳外交を補佐するため自由に動ける副首相(副総理)をもたなければなるまい。アメリカには副大統領がいる。韓国やフランスには大統領と首相がいるし、中国には国家主席と首相の他に副首席も2人いる。日本も国際政治の世界で他国並みに振舞うとしたら、首脳外交を担う副首相が必要である。
 例年だと夏休み以上に海外出張が集中する4月下旬から5月下旬だが、国対筋から厳しい自粛が迫られており、ゴールデンウィークを返上し第一次補正予算を上げる予定となっている。


<飛び入り学会報告の効果>
 かくして、4月21日は、0時35分羽田発のエールフランスでパリ経由キエフ入り。科学者会議の土壌汚染関係会合で飛び入りで、私から福島原発事故の現状や対応を報告し、チェルノブイリの経験を学ばせてほしいとお願いした。9割近くがウクライナ語やロシア語の発表で、英語通訳があるものの性能のよくないどでかい音のマイクが邪魔し、なかなか疲れる会合だったが、それぞれの発表は、日本にすぐ役立つものばかりであった。
 ただ、副大臣という高官の会合出席はそこそこ評価され、日本の真剣さは伝わったようだ。私の発言後すぐ立ったカシュバロク国立生命環境大学のウクライナ農業放射能学研究所長は「すべての情報データについて日本に協力提供する。これが我々の責務だ」と応じてくれた。
 私の帰国後も6名は現地に残り、情報収集することになっている。

土壌汚染関係会合.jpg


<菜の花プロジェクト現地視察>
 歳を重ねると、時差調整がしにくくなり疲れる。そして私は3月11日以来ずっと緊張状態が続き、正直体はクタクタだった。疲れた体をなだめながら、6人の先発隊と合流して2日目のナタネ栽培とバイオ燃料プラント視察に出かけた。
 「チェルノブイリ救援・中部」が2004年から「菜の花プロジェクト」に取り組んでいる。チェルノブイリから70km西のナロジチ地区地方行政庁前で、神野美加江さんと、藤井さんを待ち、行政長(町長のようなもの)と会談。その後、現場に詳しいティードフ国立ジトーミル農業生態大学地域エコロジー問題研究所長の案内で早速ナタネ園場に向かった。
 日本同様、汚染度合いによりゾーンを分けてあり、ナタネは居住、作付が禁止されている廃村の園場で作られていた。乗り換えたパリのシャルルドゴール空港周辺は、丁度菜の花が満開で、黄色がまぶしく映えていたが、同じ緯度でも内陸のウクライナはまだ開花には程遠かった。ライ麦、小麦、そばと輪作され、放射能の減り具合も研究されていた。

ナタネ園場.jpg


<目を覆いたくなる廃村の惨状>
 途中、廃屋がいっぱい見られ、生まれ故郷を捨てなければならなかった農民の気持ちを思うと気が重くなった。3万人いた人口が1万人強に減り、高齢者ばかりが多い村となった。日本と同じく、もともと高齢化が著しい上に、原発事故が拍車をかけたのだろう。人影もまばらだった。ナタネ畑へ行く途中も悲惨だった。道路は整備されずデコボコだらけ、その上道路脇もゴミがあちこちに捨てられて、目を覆いたくなった。通訳のオリガさんも言葉を失い、一言「恥ずかしい」と述べただけであった。

廃村.jpg

 事故後25年、セシウムの半減期は30年、ストロンチウムが28年、汚染度合いは相当改善されていいはずだが、一番酷い時とくらべ、4割しか下がっていないという。10年後に仮に居住・作付制限が解除されても、一体誰が耕すことになるのか。考えると頭が混乱してくる。チェルノブイリ原発事故が起きた1986年は旧ソ連時代であり、そもそも農地が私有されていない。従ってだれの土地でもなく、強制的退去を命じられても何の補償もされなかった。ただ、移転者にどこかの場所で粗末な住宅があてがわれただけのようである。


<出荷制限のルール>
 青空の下、何の変哲もない農村のようだが、放射能量は高く、草むらに足を踏み入れないように度々注意を受けた。また、日本では作付制限は収穫した後の内部被爆の観点から行われようとしているが、農作業を行う農民は、土ぼこりにより一般人の3~4倍の内部被爆の恐れがあり、この面からも作付制限が必要という。汚染レベルに応じて4つのゾーンに分けられているが、作付制限されている地域は40万haに及んでいる。
 私の担当は、農業であり食料だが、原発事故の想像を絶する後遺症を考えると立ち尽くす。500ベクレル以上の穀物(米)は出荷してはいけない、食べてはいけないというが、本当のところ一体どの程度我々の体に影響があるのかよく分かっていない。
 それに対し、作物については研究が進んでいる。一つは、今回の作付制限によく出てくる移行係数、つまり汚染土壌から何%の放射能を吸い上げるかは、米については10%という結果が出ている。そのため5000ベクレル以上に汚染された農地では、作っても出荷制限されるので無駄となり、作付制限したほうがいいということになる。


<ナタネ油には放射能がなくなる>
 他には、ナタネがセシウムやストロンチウムを吸収しても、油には何にも残らないことがわかっている。だからナタネやひまわりは汚染地域で作っても商品化できる。食べるのには抵抗感があっても、少なくともバイオディーゼル燃料にしても何の健康被害も生じないことになる。
 しかし、人体への影響はあくまでも推計である。例えばチェルノブイリ地区で生まれた14歳の少女が健康で、成績もよいことがキエフで報じられている。さすが平日は30km圏外に住み、週末には両親の元で過ごしているという。
 原発のプリピュチ市で被災した人たちやその子どもは、ずっと健康診断を受け、後遺症等にさいなまれている。ただ、どの病気が放射能に由来するものか分かっていない。これでは不安をいっぱい背負って生きることになる。日本でもこの後遺症とやらに悩む人が出てくるのではないかと考えるとぞっとする。私は少なくとも食べ物による体内被曝を最小限に抑えるために、ウクライナまで情報収集にきているが、肝腎の体外被曝の問題や避難の方法が不透明のままであり、どうもチグハグで歯がゆいばかりである。


<援助してきたチェルノブイリに学ぶ>
 ナタネの油粕やガラ(茎)と糞尿をもとにバイオガス発酵し、メタン発酵残渣から放射能物質を除去する手法など、それこそささやかな試みかもしれないが、日本の基金でナロジチで着々と進行中である。今まで日本が援助してやっていたことを、今度はそのまま日本でやらなければならなくなったのだ。いってみれば皮肉な巡り合わせである。

バイオガスプラント.jpg

 22日にイギリスの研究者が指摘したとおり、思いもよらないことだが、チェルノブイリと福島は今後世界で並んで語られることは間違いない。かくなる上は、意を決して手に手を取り合って試行錯誤を繰り返していくしかあるまい。


パリ郊外ナタネ.jpg

パリ郊外のナタネ畑