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被災地石巻の視察 -11.04.17-

<急な総理随行>
菅総理が10日(日)に石巻に視察に行くというので、鹿野大臣から水産業の復興プランについて説明しておくように命じられ、8日(金)に説明に行った。TPPや食と農林漁業再生本部会合関係では頻繁に官邸に行っていたが、震災後は少々遠慮していた。
 中堅の事務方を連れて行ったが、彼等を帰した後、最近の諸々の情勢について40分余意見交換をした。その帰り、石巻での話は漁業関係者が中心になるだろうし、私が付いて行った方がいいのではないかと思い、総理に随行を申し出て、急遽同行することになった。

<自衛隊機、ヘリコプターで石巻に着陸>
 10日早朝官邸に集合、猛スピードで羽田空港のタラップに直行。十数人乗りの自衛隊機(U4)で原発の上を避け、山形上空を経由して松島基地に向かった。そこからは、本来は荷物を運ぶために使われている、20数人乗りの恐ろしく大きな音のする巨大なヘリコプターに乗換え、石巻の中心街の広場に降り立った。途中、海上捜索活動をしている自衛隊の艦船にも上空から敬意を表した。

<市役所での会談>
 まず、閉店したデパートにある市役所へ直行した。後述するが、私の副大臣秘書官の皆川治が偶然石巻で被災し、それ以降ずっと市役所の手伝いをしていた。約1ヶ月ぶりに顔を合わせた秘書官は花粉症でマスクをしていたが、下は髭面であり、1ヶ月に及ぶ避難所暮らしを物語っていた。
 亀山石巻市長、阿部東松山市長、安住女川町長、それぞれの議会議長、村井宮城県知事、こちらは菅総理、東防災担当内閣府大臣、小川防衛副大臣、阿久津内閣府政務官、市村国土交通政務官と私。地元の安住国対委員長の司会で意見交換が始まった。
 石巻市長は、瓦礫の撤去、仮設住宅の建設雇用の回復の必要性の3点について訴えた。東松山市長は、全く被害を受けていない上流の水田で米を作っても下流に水が行き、排水がうまくいっていないところで住宅にも水田にも迷惑をかけることになるので、作付しようかどうか迷っているということを訴えた。

<女川町長の建設的意見>
 もっとも明快な要請は女川町長だ。まず12の漁港があるが、全部は回復しなくていいといい、そのうちの数漁港を回復して欲しい。そのために、日当1000円でもいいので漁業者に漁港や海岸の瓦礫の処理の仕事をさせてほしいというものだ。陸の目に見える瓦礫は分かるが、港や海岸にも膨大な瓦礫が残っており、これを撤去しないと漁港はできない。是非これを水産庁が中心でやってほしい。12の漁港はいずれも使い物にならないが、全部を元通りにとはいわない。選んで少しでも早く荷揚げできるようにしてほしい。それから1000隻以上あった漁船が、160隻しか残っていない。だからといって小さな船を全部復活することはしたくない。共同でいいから少し大きな船で資源管理しながら漁業をしたい。そういった方向に国がもっていってほしい、と極めて建設的な意見であった。

<道すがらのやりとり>
菅総理は、農林水産副大臣が付いていることを告げ、いろいろと答弁をしたが、私が答える時間はなく、道すがら3人の首長さんに説明し、意見を聞くしかなかった。
 魚市場では、旧知の須能石巻魚市場社長が大きな声で菅総理に窮状を訴えた。地面が1.5m沈んでおり、まだ水がたまっている。何千人も働いている水産加工場も国にバックアップして復活してもらわなければならないこと等であった。

<私の秘書官皆川の変貌と偶然の活躍>
行く先々、皆川秘書官が先回りしていた。彼は、偶然3月11日、奥さんの父、つまり岳父のお葬式で石巻に来ており、この震災に遭遇した。妻子ともに高台に逃げて無事だったものの、義父の棺は流されていた。彼とは2日目に連絡がついたが、私は彼に東京に戻ることなく石巻市役所で貢献せよと命じた。彼は避難所生活をしながら獅子奮迅の活躍で、今や詳細な皆川レポートは農林水産省と石巻市役所をつなぎ、省内でベストセラー(?)となっている。また、機能を果たせなくなった市町村役場に国の職員が出向して復旧復興に貢献する見本とされている。震災直後の農林水産省の対応は、現場の状況を頭において食料・水を送ることだったが、衛星FAXで送られてきたレポートは貴重な情報源となった。電話も通じない中、言ってみれば、石巻と農林水産省のホットラインという形である。

<市町村出向経験を役立てる>
菅総理に「彼からはいろいろドギツイ報告が多いのです」と紹介したら、「秘書官も仕える人に似てくるんじゃないですか」という冗談を返された。彼は入省3~4年目に福岡県大和町(現柳川市)役場に2年間出向しており、市町村役場が県や国に対してどのように振舞ったらよいのかということも体に染み付いて覚えていた。だからすぐに市役所の一員として働くことができたのだろう。今や奥さんと子どもは東京に戻っているが、どうも市役所が放したがらないため、もうしばらく居てもらうことにした。この間、私も秘書官なしの不便は甘んじて受け入れた。

<高台から見た殺伐とした光景>
一度はこの目で悲惨な状況を見ておかなければならないとずっと気にはなっていたので、この随行はちょうどよい機会であった。ほっておくと現地に出向いている余裕がなくなるからだ。
視察の途中、高台の日和山の頂上から石巻の全貌を望んだ。海側は、まるでそこにあった生活がなかったかのように、まっ平らにすべてのものが消え去っていた。本来なら見渡す漁港の向こうにきれいな海を見通せる絶景だそうだ。今は津波に何もかも奪い去られてしまっていた。川の中洲にある石森章太郎記念館が流線型であるが故に潰れずに残っていた。その他には2階まではほとんど使えないビルもポツンと立っていた。人の息吹が感じられない殺伐とした荒野のように見えた。
復興への道のりは険しいが、何としてもやりぬかなければならない。

<機中で仮眠する菅総理>
漁港の町、石巻から仙台駐屯地にヘリコプターで行き、自衛隊と米軍の両方に感謝を述べ、またU4自衛機で東京に戻った。自衛隊員の各地でのきびきびした動きは見ていて心強いかぎりであった。帰りは午後2時くらいになったが、機中の昼食はコンビニのおにぎりとパンで、被災地の皆さんと同じ食事。総理は疲れて眠っていた。激務なのである。夕方は、民主党政権大得意の全閣僚・幹部の大勉強会。私はメインメンバーではなく失礼した。

<惨敗した長野県議選>
 私もかなり疲れていたが、農林水産省の副大臣室で残務整理した後、開票を迎える県議選が気になり、当選祝いには出たいので長野に戻った。残念ながら、4人の民主党公認候補のうち当選はたった1人という結果に終わった。民主党の現状を考えたら仕方のない結果であろう。10人区の長野市などは9人の現職と1人の元職と、新人には冷たい結果となった。中野・下高井地区も民主党公認の新人が2人の現職に挑戦したが、現職には591票及ばなかった。飯水と須高は無投票でかくして私の選挙区内の県会議員は元職が1人返り咲いただけで、あとは全員現職という結果になった。投票率は50%を割り、県政に感心を持たない県民が多くなったのは確かだが、やはり震災が影響したのだろう。こんな時に選挙なんてやっていられるかというムードが漂っていたに違いない。私が震災後1ヶ月間危機管理対応に集中し、選挙区に帰れなかったのもひびいているに違いない。民主党は私も含め、地方組織の拡充という課題を抱えたまま政治生活をしていかなければならない。