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原発の墓場チェルノブイリ再訪 ―大平原で人類の行末を考える―-11.04.28-

<6年前の無謀なチェルノブイリ入口訪問>
 4月23日(土)、2005年11月に原田義昭外務委員長と入り口まで行って写真を撮って以来、6年振りにチェルノブイリを訪れた。ただし、今度は人類の犯した重大なミスの一つといえる石棺のすぐ近くまで行くことができた。2010年から、特別なツアーを認めており、今年までに7500人が訪れたという。
 2005年11月は、外務委員会の旧ソ連諸国の議員視察で、キルギスとウクライナを訪問した。もちろん正式の日程には入っていなかったが、団長の原田さんと私だけが皆が眠っている午前6時ごろホテルを出発し、120kmのデコボコ道を猛スピードで飛ばして30km圏の立ち入り禁止のゲート前で写真をとり、出発時間の9時に戻っただけのものであった。2人ともどうしても近くに行ってみたかったのだ。このことは原田さんのブログ(2005年11月18日「チェルノブイリ原発を訪ねる」)と私のブログ(2005年11月8日「霧の中のチェルノブイリ」)に詳しく書いてある。

原田団長と.jpg


<日本のレベル7>
 しかし、今回は全く事情が違う。
 第一に、日本は福島第一原発事故という、チェルノブイリと同じレベル7の大事故を起こしてしまっている。日本でも20km圏内が警戒区域となり、立ち入り禁止地域が設けられている。その扱いを巡り日本も対応を考えていかなければならなくなっている。この目で30km圏内の実情を確かめておかないとならない。
 「菜の花学・楽会」で20年近くの付き合いになる藤井絢子さん、チェルノブイリで菜の花プロジェクトを進める「チェルノブイリ救援・中部」の神野美知江さんと例の写真をとっただけの入り口で待ち合わせた。キエフからのデコボコ道はすっかりきれいに整備されていた。20日に行なわれた25周年記念行事で潘基文国連事務総長の訪問に備えたのかもしれない。


<キューキュー音を立てる測定器>
 私の癖だが、原田さんが同行の作田竜一技術安全室長に変わっただけで、全く同じアングルで写真を撮った。

立ち入り禁止ゲート.jpg

 入口で登録し、2台の車で管理事務所に直行し再び登録。軍隊服を着た非常事態省のガイドに案内され、車で3時間半もかけて丁寧に観て回った。随所で放射能測定器で調べたが、とこでも不気味にキューキュー音を立てていた。石棺の近くでは22.5マイクロシーベルトを示していた。目に見えない放射能の恐ろしさを実感する半日となった。

ガイガーカウンター.jpg


<18歳未満は立入禁止>
 チェルノブイリはニガヨモギという意味で、この辺によくはえている草からとった地名である。西暦1000年に歴史に登場する古い街で、人口20万人が3市91町村に住んでいた。30km以内の約13万5000人は避難し、今は約5000人が原発関連で働いており、60km離れた隣の市から電車通勤している。危ない仕事は原則2週間交代で勤務している。本当は住んではいけないのだが、高齢者が戻り始めて最高で約2000人、今は約250人が集団で住んでいる。サマショール(自主的故郷帰還者)と呼ばれ、10年前くらいまでは退去しろと命じたが、5年ほど前から仕方なく黙認している。ただ、18歳未満は強制的に住ませない。従って学校もなし、入院できる病院もない。18あった教会も、今は1つ残るのみ。鹿、猪、狼等の野生生物が増えている。馬を7~8頭放したが、今は10倍ぐらいに増えていて、川魚も取る人がいないので大きい鯉や鯰がたくさんいる。


<二重の石棺で放射能を封印>
 30km圏内といっても広い。目指す石棺は入り口からは相当端のほうにあった。機密地区もあり、撮影禁止の建物もあったが、あまり厳しくいわれないので、作田室長に片っ端から写真を撮ってもらった。
 近くでは、2200億円をかけて更に石棺を被うための工事が行われており、機械の音が晴れ渡った空に虚しく響く音いていた。25年経ち、鉄筋の腐食が進み、今にもくずれそうになった石棺を支えるべく横に壁も造られていた。離れたところで作ったシェルターの一部を一気に石棺の上に持って行き、繋ぎ合わせ巨大な鋼鉄のシェルターを完成させ、今後100年は封印するという。200tの核燃料から放射能が出続けており、近くで長く作業するわけにはいかないのだ。

石棺.jpg


<福島のことが頭から離れず>
視察しながら、頭にはいつも福島第一原発はどうなのかという心配がよぎる。気のせいか胸苦しくなり、体もフラフラした。藤井さんは「お昼の時間なのに食べていないからよ」と励ましてくれたが、心は晴れない。カメラの前ではあまりしかめつらにならないように心掛けたが、ファインダーは正直に私の気持ちを捉えているに違いない。
 あちこちにモニュメント(記念碑)があり、4月26日、大爆発のあった日には、その一つで大統領も出席して記念式典が開かれるという。今週末は4月24日復活祭(イースター)であり、キエフは慌しい日々となる。24日の早朝4時にホテルを出たところ、日本の大晦日と同じく、いわゆる二年参りで教会に行き聖水をかけてもらう行事にも出くわした。どこでも同じような風習があるのだろう。


<原発都市プリピャチの悲劇>
 だれも住む人がいなくなった寂しい村々の家屋はいやというほど見せつけられたが、原発から3kmのプリピュチ市のアパート群の廃墟は想像を絶するものであった。5万人を超える原発関係者の住まいであり、ソ連の到る所から希望に燃えた若者が集まり、一つの都市が出来上がっていた。平均年齢26歳。
大爆発は4月26日の午前1時、放射能が出続ける中土曜なので普通の市民生活が行われていた。一部の人は突然とんでもない大事故が起きたことを知り、家族にこっそり逃げるように命じた。大半の市民は翌27日に突然の退去を命じられ、わけもわからず身の回りの物だけを持って直ちに逃げ出した。2、3日で戻るはずが二度と帰ることがなかった。10階建てのアパート、集会場、映画館、そして哀れを誘うのは5月1日のメーデーの日に開園予定だった遊園地である。一度も子供たちに使われなかったゴーカート、観覧車が、鉄が長らく放置されたらばこのように錆びるのかといわんばかりに赤茶けていた。

アパート群.jpg

遊園地.jpg


<家のお墓>
 それでも残骸がのこっているだけましなようだ。途中、村の中に丸く盛り上がった土の上に黄色の小旗が立っている箇所に車が停まった。廃墟があまりにも放射能汚染がひどく危険なので、壊して土に埋めてしまったのだという。黄色の小旗は、家のお墓の印しだった。ここでは街が一瞬に消えた広島、長崎とほぼ同じことが起こっていたのである。
 放射能を全身に浴びながら必死で消火に当った消防隊のモニュメント、放射能の嵐の中で必死の作業をして亡くなった人たちの名が刻み込まれた高台の記念碑、我々一行は要所要所を粛々と案内してもらった。

消防士の像.jpg

私は、どこでも静かに手を合わせてお祈りをせずにはおれなかった。日本では、私に何かと目をかけてくれた田中宏尚元事務次官の葬儀の日であり、田中さんの霊前へのお祈りの意味もあった。原稿を書き、講演に行くことを苦々しく思う上司たちの中で、ずっと私をかばってくれた田中さんをチェルノブイリで偲ぶことになった。


<30km圏外に放射能を出さないための検査>
今年は福島第一原発事故のあと見学者が増え、日本からも3月11日以降我々まで数週間で50人ぐらいが訪問しているという。2度目の30km圏内入りという大使館の松平さんによると、いつもよりずっと丁寧であちこちを案内してくれたという。
 帰りには2度登録した同じ場所で放射能を測定された。汚染を外に持ち帰り、迷惑をかけてはならないという検査なのだ。つまり、我々はそれだけの危険を冒して20世紀の恥ずかしい遺物をみたことになる。体に良くないだろうが、私はもう60歳を過ぎた身。石棺はこれから子孫を残す人は近づくべきところではない。


<気が遠くなる半減期>
見学の注意を聞いた部屋には、近辺の土壌の汚染度合いが大きな地図に印されていた。危険な区域は4分割され、一番きつい立入禁止区域(Exclusion zone)は21万ha、作付が制限される強制避難区域(Compulsory relocation zone)は18万ha、任意移転区域(Zone of guaranteed voluntary relocation)・モニタリング区域(Zone of enhanced radioecological monitoring)を含めると535万haが危険な区域とされている。日本の総耕地面積459万haを凌ぐ広さだが、大穀倉地帯のウクライナからみるとごくささいな面積なのだ。半減期30年のセシウム、29年のストロンチウム、そして432年のアメリシウム、2万4千年のプルトニウムまである。チェルノブイリの歴史が1000年というのに何ということだろうか。我々の子孫が何万年も前に穢れなき大地をズタズタに汚した先人に対し、どう思うだろうかと心配になる。いや2万年後に原子力という際どいエネルギー源を見つけ、勝手な振る舞いをした人類は滅んでいるかもしれない。そんなことを思うと、またまた気が重くなった。


<反原発の本の事故予測>
 私は有機農業や食べ物の安全性との関連で、原発関係の事象をずっと追い続けてきた。スリーマイル島事故の1979年以降1986年のチェルノブイリ事故の後くらいまで原発関係の本を乱読した。私は、どの本も批判的な眼で読む。いつものとおり原発本も、どうせ大袈裟なことを書いているのだろうと思いつつ読んだ。特に過激な広瀬隆ものはそうだった。そして、スリーマイル島やチェルノブイリと同じような事故は起こって欲しくないと願っていた。ところが、残念なことに津波により冷却装置が働かなくなり、メルトダウンは起こるという警告(「危険な話」(1987))はドンピシャ当ってしまった。むさぼり読んだ槌田敦・劭兄弟、室田武等エントロピー学派の本を再読したが、どれにも地震と津波による危険が指摘されていた。


<日本が世界に見本を示す>
 原発関係者はマグニチュード9と14mの津波は想定外の天災だと一様に言訳をする。しかし、事実は何よりも雄弁である。大半の反原発の書はまさにこのことを心配していたのである。その意味では、1Kw7円の発電費という効率に目がくらみ、やみくもに原発に走った関係者全員の引き起こした人災となった。
 今、福島第一原発のいつ終わるともわからない放射能漏れを目の当たりにし、そして、チェルノブイリの残骸を直視するにつけ、これ以上の危険を冒すのはこりごりである。時間がかかっても、まず日本で原発は廃止し、世界に見本を示していかなければなるまい。

放置された原発.jpg