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2011年4月30日

放射能汚染による初めての農産物の出荷制限・作付制限-11.04.30-

 原発事故のあとすぐに頭をよぎったのが、放射能に汚染された農産物のことである。私は事故の翌日の3月12日土曜日に、直ちに担当者に対応を命じた。ところが、13日日曜日夕方の何回目かの対策本部会合で、厚生労働省と連絡が取れずにまだ何も進んでいないということが知らされた。

<第一に体内被曝を抑え、第二に風評被害防止>
 こうした措置は一義的には厚生労働省の所掌だが、こんな緊急事態にはそんなことは言っていられない。国民の体内被曝を抑えることが第一、それから生産者のことを考えて風評被害を防ぐ必要がある。そのためには汚染されて危険な農産物は絶対市場に出回らせず、その代わり市場に出て店頭に並んでいるものは安全と消費者に分かってもらうしかない。厚生労働省を動かし、速やかに対応していかなければならない。

<設けられていなかった規制値(基準値)>
 いろいろな食品安全基準があるが、放射能汚染ということが予想されたにも関わらず、厚生労働省も食品安全委員会もこの基準は作っていなかった。ここにも「原発安全神話」がはびこっていたのだ。
事務方同士では話が進まないので、政務二役が連絡をとり合い事を進めた。筒井農林水産副大臣も岡本厚生労働政務官も食の安全議員連盟の仲間であり、小宮山・大塚両厚生労働副大臣も電話で通ずる仲である。緊急時の対応は、まさに政治主導が働いた。

<勘所のいい大臣の号令>
 3月15日、16日と続けて、官邸の原子力対策本部会合では鹿野大臣から基準値の早期認定を強く主張していただき、枝野官房長官(原子力災害対策特別措置法担当)、蓮舫消費者担当大臣、細川厚生労働大臣の四関係閣僚会合で大筋を決められ、本格的対応が始まった。

<日本の消費者は世界一放射能に敏感>
 食品の安全性について各国民はかなり違った行動をとる。例えばアメリカ国民は、BSEや遺伝子組み換え(GMO)にはあまり関心がなく、O-157には非常に関心が高い。イギリス国民は、BSEで科学的医学に不信を持ち、GMOには拒否反応を示す。日本人の場合は、世界で最も食の安全に敏感な国民であり、特に放射能には拒否反応が強い。放っておいても風評被害は確実に予想される。
 規制値を設けていなければ北関東なり東北の野菜はすべて拒否されて、市場や店頭はてんやわんやになる可能性がある。逆に、放射能汚染度合い等の情報をすべて公開し、規制値を上回るものは市場に出さず、市場に出ているものは安全だということを徹底すれば、日本の優れた消費者はいつか分かってくれるという自信があった。

<前広に汚染野菜・原乳の出荷制限>
 もたもたしていると大騒ぎになるので、早ければ早いほどよかった。ようやく両省の話がつき、JCO事故後の2000年に原子力安全委員会がこういう場合の「めやす」として作っていた「飲食物摂取制限に関する指標」の数値を暫定規制値として使うことになった。チェルノブイリ原発の後の輸入基準としては370ベクレル/kgという数値があったが、それとは別に定められた国際基準に沿って認められたものである。ただ今回は、何事も原子力災害対策特別措置法(原対法)に基づく内閣総理大臣指示で行わないとならなかった。そこで3月19日(土)に私が官邸に出向き、最終調整を行った。

<初の出荷制限>
 こうしてやっとのこと、市場が動き出す3月21日(休日の月曜日)には暫定規制値を公表し、規制値より高く汚染されたものは出荷を制限するということにした。福島・茨城・群馬・栃木のホウレンソウ、カキナの葉物野菜は降下した放射性物質が葉に付着しやすく規制値を超えていた。福島と茨城の原乳も出荷制限となった。農産物の産地表示は一般に都道府県名であり、都道府県単位とした。これだと被害もそれほどないのに何で出荷制限するのかという問題が生じるのはわかっていたが、地域ごとの検査体制も整えられず、きめ細かな仕組みは無理だった。ともかく急ぐ必要があり、どのみち当初は相当の買い控えが予想されたことから、県単位とし、解除はきめ細かくすることを考えていた。

<東電による損害賠償>
 その一方で自らの責任がないのに出荷できなくなった農家に迷惑をかける訳にはいかず、その損失は全面的に補償するということを同時に進めていた。こうした被害に対しては、原子力損害賠償法(原賠法)により、一に東京電力、二に政府が補償することになっている。酪農家は餌だけ与え原乳は出荷できず捨てなければならず、経費がかかって収入がないため当座でも困る。そのため仮払いの必要があり、農業関係金融機関のつなぎ融資の仕組を設けた。

<次々に決められていく新しいルール>
 こうして市場や店頭での大混乱は避けられた。先手必勝であり、3月21日の夕方には、流通団体等の関係団体に対して、政府が出荷制限したもの以外は市場が受け取り拒否等してはならないという通達を出した。尚且つ22日には流通業界、小売業界の皆さんに集まっていただきその旨を要請した。
予想されたとおり、風評被害は相当なものとなったが、JCO事故の時のように東京の市場が茨城県産の野菜の入荷を拒否するといったことは起こらなかった。

<海の魚にも広がる汚染>
 その後検査が進むにつれ、他のものも汚染されていることがわかり、福島の場合はキャベツ、ブロッコリー等も制限されることになった。7日(木)には魚のイカナゴにも広がった。魚には半減期8日のヨウ素の規制値は定められていなかったが、野菜と同じ規制値とした。4月28日には、セシウムも規制値を超えた。海は広く速やかに希釈され、魚はそれほど汚染されないと思われていた。
 ところが、東電は4月21日に少なくとも4700テラベクレルと年間限度の2万倍に相当する汚染水が流出したとあと出しで明らかにした。海は世界につながっており、猛批判を受けることは間違いない、日本は、汚染水の海への流出も厳しく押さえていくのが国際的責務である。

<徐々に整備されていく解除ルール>
 その後、出荷制限解除についても概ね3週間連続で規制値を下回った場合に解除されることになった。また、都道府県単位ではなく市町村等の地域ごとに制限や制限解除ができるようにした。このあたりになると、ほとんど役人ベースで話が進み、我々政務三役は前面に出なくともよくなる。私は、本件も政治主導と事務方の連携の見本ではないかと思う。
 第一回目の解除が、4月8日に福島県会津地方の7市町村で生産された原乳と群馬県産のホウレンソウ、カキナについて行なわれ、今は福島の葉野菜と原木しいたけと茨城の北部のホウレンソウの出荷制限を残すだけとなっている。
 徐々に一連のルールが定着し、市場に出ているものは安全と消費者に認められるようになった。オイシックスのアンケートによると、77%の人が規制値以下であれば購入すると答えている。これも予想通りである。後手後手に回る原発の対策の中では、この出荷制限についてはそこそこうまく行ったのではないかと思う。

<難しい作付制限ルール>
 降下する放射性物質の付着による農作物の汚染は一時的である。それに対し、半減期の長いセシウム(30年)やストロンチウム(29年)による土壌の汚染は長期間に及び、そう簡単には解除できない。
稲については長年の研究成果により、土壌中の放射性セシウムの10%を吸収してしまうこと(移行係数ないし指標0.1)がわかっている。従って、穀類のセシウムの規制値が500ベクレル/kgなので、10倍の5000ベクレル/kgに汚染された土壌で栽培した米は、もとから出荷できないことになる。

<避難区域にある作付制限区域>
 そこで4月8日に、稲については5000ベクレル/kg以上に汚染された土壌での作付を制限することに決めた。翌週に各地の土壌調査結果が明らかになった時点で地域を指定することにした。ところが、官邸がその元となる避難区域等の決定に手間取り、延び延びになった。22日にやっと原発事故に伴う「警戒区域」、「計画的避難区域」、「緊急時避難準備区域」が決められたところ、5000ベクレル/kgを上回る地域はすべてこれらの区域内にあったことから、そのまま稲の作付制限対象地域とし、約7000戸、1万ha(5万t分)が作付けできない。
 他の作物については稲と同じ知見がないこともあり、今回、作付制限は設けられていないが、収穫後の検査で規制値を超えた場合は出荷制限される。(ブログでは報告順が逆になったが、こうした知見を有するウクライナに研究者等を送り情報収集させることにした。)

<必要な食品安全庁>
 折衝の過程でわかったことだが、官邸も厚労省も規制値を設けて出荷制限することに、農林水産省が反対すると勘違いされていた。事実は最も積極的に今回の措置を進めたというのに、誠に心外なことであった。厚労省は省庁統合により大きくなり過ぎており、年金、介護、医療に大わらわで、食品安全行政は二の次になってしまっているとみられる。
 今回のように、緊急を要する放射能がらみの食品安全行政を素早く遂行していくにも、やはり世界と同じに、食品安全行政を一括して担当する(Single agency)ようにしていかないとならない。世界はBSEやGMOの対応で既に農業生産担当部局に一元化が行われているが、日本は未だにバラバラである。民主党がマニフェストに食品安全庁の設立を挙げているのは、まさに当然であり、我々はこの実現を急がないとなるまい。

2011年4月28日

原発の墓場チェルノブイリ再訪 ―大平原で人類の行末を考える―-11.04.28-

<6年前の無謀なチェルノブイリ入口訪問>
 4月23日(土)、2005年11月に原田義昭外務委員長と入り口まで行って写真を撮って以来、6年振りにチェルノブイリを訪れた。ただし、今度は人類の犯した重大なミスの一つといえる石棺のすぐ近くまで行くことができた。2010年から、特別なツアーを認めており、今年までに7500人が訪れたという。
 2005年11月は、外務委員会の旧ソ連諸国の議員視察で、キルギスとウクライナを訪問した。もちろん正式の日程には入っていなかったが、団長の原田さんと私だけが皆が眠っている午前6時ごろホテルを出発し、120kmのデコボコ道を猛スピードで飛ばして30km圏の立ち入り禁止のゲート前で写真をとり、出発時間の9時に戻っただけのものであった。2人ともどうしても近くに行ってみたかったのだ。このことは原田さんのブログ(2005年11月18日「チェルノブイリ原発を訪ねる」)と私のブログ(2005年11月8日「霧の中のチェルノブイリ」)に詳しく書いてある。

原田団長と.jpg

<日本のレベル7>
 しかし、今回は全く事情が違う。
 第一に、日本は福島第一原発事故という、チェルノブイリと同じレベル7の大事故を起こしてしまっている。日本でも20km圏内が警戒区域となり、立ち入り禁止地域が設けられている。その扱いを巡り日本も対応を考えていかなければならなくなっている。この目で30km圏内の実情を確かめておかないとならない。
 「菜の花学・楽会」で20年近くの付き合いになる藤井絢子さん、チェルノブイリで菜の花プロジェクトを進める「チェルノブイリ救援・中部」の神野美知江さんと例の写真をとっただけの入り口で待ち合わせた。キエフからのデコボコ道はすっかりきれいに整備されていた。20日に行なわれた25周年記念行事で潘基文国連事務総長の訪問に備えたのかもしれない。


<キューキュー音を立てる測定器>
 私の癖だが、原田さんが同行の作田竜一技術安全室長に変わっただけで、全く同じアングルで写真を撮った。

立ち入り禁止ゲート.jpg

 入口で登録し、2台の車で管理事務所に直行し再び登録。軍隊服を着た非常事態省のガイドに案内され、車で3時間半もかけて丁寧に観て回った。随所で放射能測定器で調べたが、とこでも不気味にキューキュー音を立てていた。石棺の近くでは22.5マイクロシーベルトを示していた。目に見えない放射能の恐ろしさを実感する半日となった。

ガイガーカウンター.jpg


<18歳未満は立入禁止>
 チェルノブイリはニガヨモギという意味で、この辺によくはえている草からとった地名である。西暦1000年に歴史に登場する古い街で、人口20万人が3市91町村に住んでいた。30km以内の約13万5000人は避難し、今は約5000人が原発関連で働いており、60km離れた隣の市から電車通勤している。危ない仕事は原則2週間交代で勤務している。本当は住んではいけないのだが、高齢者が戻り始めて最高で約2000人、今は約250人が集団で住んでいる。サマショール(自主的故郷帰還者)と呼ばれ、10年前くらいまでは退去しろと命じたが、5年ほど前から仕方なく黙認している。ただ、18歳未満は強制的に住ませない。従って学校もなし、入院できる病院もない。18あった教会も、今は1つ残るのみ。鹿、猪、狼等の野生生物が増えている。馬を7~8頭放したが、今は10倍ぐらいに増えていて、川魚も取る人がいないので大きい鯉や鯰がたくさんいる。


<二重の石棺で放射能を封印>
 30km圏内といっても広い。目指す石棺は入り口からは相当端のほうにあった。機密地区もあり、撮影禁止の建物もあったが、あまり厳しくいわれないので、作田室長に片っ端から写真を撮ってもらった。
 近くでは、2200億円をかけて更に石棺を被うための工事が行われており、機械の音が晴れ渡った空に虚しく響く音いていた。25年経ち、鉄筋の腐食が進み、今にもくずれそうになった石棺を支えるべく横に壁も造られていた。離れたところで作ったシェルターの一部を一気に石棺の上に持って行き、繋ぎ合わせ巨大な鋼鉄のシェルターを完成させ、今後100年は封印するという。200tの核燃料から放射能が出続けており、近くで長く作業するわけにはいかないのだ。

石棺.jpg


<福島のことが頭から離れず>
視察しながら、頭にはいつも福島第一原発はどうなのかという心配がよぎる。気のせいか胸苦しくなり、体もフラフラした。藤井さんは「お昼の時間なのに食べていないからよ」と励ましてくれたが、心は晴れない。カメラの前ではあまりしかめつらにならないように心掛けたが、ファインダーは正直に私の気持ちを捉えているに違いない。
 あちこちにモニュメント(記念碑)があり、4月26日、大爆発のあった日には、その一つで大統領も出席して記念式典が開かれるという。今週末は4月24日復活祭(イースター)であり、キエフは慌しい日々となる。24日の早朝4時にホテルを出たところ、日本の大晦日と同じく、いわゆる二年参りで教会に行き聖水をかけてもらう行事にも出くわした。どこでも同じような風習があるのだろう。


<原発都市プリピャチの悲劇>
 だれも住む人がいなくなった寂しい村々の家屋はいやというほど見せつけられたが、原発から3kmのプリピュチ市のアパート群の廃墟は想像を絶するものであった。5万人を超える原発関係者の住まいであり、ソ連の到る所から希望に燃えた若者が集まり、一つの都市が出来上がっていた。平均年齢26歳。
大爆発は4月26日の午前1時、放射能が出続ける中土曜なので普通の市民生活が行われていた。一部の人は突然とんでもない大事故が起きたことを知り、家族にこっそり逃げるように命じた。大半の市民は翌27日に突然の退去を命じられ、わけもわからず身の回りの物だけを持って直ちに逃げ出した。2、3日で戻るはずが二度と帰ることがなかった。10階建てのアパート、集会場、映画館、そして哀れを誘うのは5月1日のメーデーの日に開園予定だった遊園地である。一度も子供たちに使われなかったゴーカート、観覧車が、鉄が長らく放置されたらばこのように錆びるのかといわんばかりに赤茶けていた。

アパート群.jpg

遊園地.jpg


<家のお墓>
 それでも残骸がのこっているだけましなようだ。途中、村の中に丸く盛り上がった土の上に黄色の小旗が立っている箇所に車が停まった。廃墟があまりにも放射能汚染がひどく危険なので、壊して土に埋めてしまったのだという。黄色の小旗は、家のお墓の印しだった。ここでは街が一瞬に消えた広島、長崎とほぼ同じことが起こっていたのである。
 放射能を全身に浴びながら必死で消火に当った消防隊のモニュメント、放射能の嵐の中で必死の作業をして亡くなった人たちの名が刻み込まれた高台の記念碑、我々一行は要所要所を粛々と案内してもらった。

消防士の像.jpg

私は、どこでも静かに手を合わせてお祈りをせずにはおれなかった。日本では、私に何かと目をかけてくれた田中宏尚元事務次官の葬儀の日であり、田中さんの霊前へのお祈りの意味もあった。原稿を書き、講演に行くことを苦々しく思う上司たちの中で、ずっと私をかばってくれた田中さんをチェルノブイリで偲ぶことになった。


<30km圏外に放射能を出さないための検査>
今年は福島第一原発事故のあと見学者が増え、日本からも3月11日以降我々まで数週間で50人ぐらいが訪問しているという。2度目の30km圏内入りという大使館の松平さんによると、いつもよりずっと丁寧であちこちを案内してくれたという。
 帰りには2度登録した同じ場所で放射能を測定された。汚染を外に持ち帰り、迷惑をかけてはならないという検査なのだ。つまり、我々はそれだけの危険を冒して20世紀の恥ずかしい遺物をみたことになる。体に良くないだろうが、私はもう60歳を過ぎた身。石棺はこれから子孫を残す人は近づくべきところではない。


<気が遠くなる半減期>
見学の注意を聞いた部屋には、近辺の土壌の汚染度合いが大きな地図に印されていた。危険な区域は4分割され、一番きつい立入禁止区域(Exclusion zone)は21万ha、作付が制限される強制避難区域(Compulsory relocation zone)は18万ha、任意移転区域(Zone of guaranteed voluntary relocation)・モニタリング区域(Zone of enhanced radioecological monitoring)を含めると535万haが危険な区域とされている。日本の総耕地面積459万haを凌ぐ広さだが、大穀倉地帯のウクライナからみるとごくささいな面積なのだ。半減期30年のセシウム、29年のストロンチウム、そして432年のアメリシウム、2万4千年のプルトニウムまである。チェルノブイリの歴史が1000年というのに何ということだろうか。我々の子孫が何万年も前に穢れなき大地をズタズタに汚した先人に対し、どう思うだろうかと心配になる。いや2万年後に原子力という際どいエネルギー源を見つけ、勝手な振る舞いをした人類は滅んでいるかもしれない。そんなことを思うと、またまた気が重くなった。


<反原発の本の事故予測>
 私は有機農業や食べ物の安全性との関連で、原発関係の事象をずっと追い続けてきた。スリーマイル島事故の1979年以降1986年のチェルノブイリ事故の後くらいまで原発関係の本を乱読した。私は、どの本も批判的な眼で読む。いつものとおり原発本も、どうせ大袈裟なことを書いているのだろうと思いつつ読んだ。特に過激な広瀬隆ものはそうだった。そして、スリーマイル島やチェルノブイリと同じような事故は起こって欲しくないと願っていた。ところが、残念なことに津波により冷却装置が働かなくなり、メルトダウンは起こるという警告(「危険な話」(1987))はドンピシャ当ってしまった。むさぼり読んだ槌田敦・劭兄弟、室田武等エントロピー学派の本を再読したが、どれにも地震と津波による危険が指摘されていた。


<日本が世界に見本を示す>
 原発関係者はマグニチュード9と14mの津波は想定外の天災だと一様に言訳をする。しかし、事実は何よりも雄弁である。大半の反原発の書はまさにこのことを心配していたのである。その意味では、1Kw7円の発電費という効率に目がくらみ、やみくもに原発に走った関係者全員の引き起こした人災となった。
 今、福島第一原発のいつ終わるともわからない放射能漏れを目の当たりにし、そして、チェルノブイリの残骸を直視するにつけ、これ以上の危険を冒すのはこりごりである。時間がかかっても、まず日本で原発は廃止し、世界に見本を示していかなければなるまい。

放置された原発.jpg

2011年4月27日

チェルノブイリに来い、菜の花の春 -11.04.27-

<いつもながらの強行軍の海外出張>
 農林水産副大臣になって3回目の海外出張だが、いずれも、現役の役人時よりずっと強行軍であり、1泊2日の韓国TPP問題出張は、5団体と意見を聞いた。1泊3日のダボス会議のWTO問題の閣僚会議は、たった1日のスイス滞在、飛行機に乗っている時間が大半だった。今回は少々ましだが、夜中に出て早朝に帰るという点では同じだった。
 有権者の皆さんや友人たちから細身の体を案じてか、「体に気をつけて」とよく言われるが、国会議員になって命を縮めていることは確実だ。しかし、せっかく与党になり、仕事をさせてもらっているので、期待に応えるべく骨身を削って仕事をしている。

<チェルノブイリ原発事故25周年>
 その点では今回の出張は、私が蒔いた種であり、文句は言えない。
 クォーター(4分の1、25)という言葉があるせいか、欧米は10周年、20周年よりも25周年を重んじる。今年の4月26日がチェルノブイリ25周年なのだ。国連の行事があることは承知していたところへ、旧知の藤井絢子 菜の花学会・楽会会長が、この機にチェルノブイリの菜の花プロジェクトの現場視察に行くことが分かった。一方で、出荷制限の解除のルールが確立、4月8日には、難題の作付制限のルールも確立し、あとは官邸の避難区域の設定をみて決めるだけとなり、一区切りがした感があった。そこで、国際会議に合わせてチェルノブイリの研究結果を学ぶべく、研究者も含めた技術陣の出張を命じ、藤井さんの一行とも連絡をとるように促した。その過程で急遽私も追いかけていくことになった。


<残念な閣僚クラスの欠席>
 原子力爆弾というとヒロシマ、ナガサキであり、原発事故というとかつてはスリーマイル島、チェルノブイリだったが、今や福島第一原発のニュースが世界を駆け巡っている。常識的にみて、チェルノブイリの25周年記念式典には、潘基文国連事務総長の次に出席すべきは、我が日本国の首相だろう。私が関係閣僚なら、菅総理に出席を進言し、さもなければ自ら出向き、世界に向けて福島の現状を説明し、世界の救援に対し感謝の意を述べる。チェルノブイリの対応を福島が学び、ともにこの困難を克服していきたいと訴えるだろう。それが外交というものだ。いつになったらもどれるのかと不安にかられている避難されている方々への強いメッセージともなる。


<首脳外交に必要な副首相>
 ところが、日本では毎度お馴染みの国会審議優先で、高橋外務副大臣しか出張していない。もし、国会があるとしたら、日本は首脳外交を補佐するため自由に動ける副首相(副総理)をもたなければなるまい。アメリカには副大統領がいる。韓国やフランスには大統領と首相がいるし、中国には国家主席と首相の他に副首席も2人いる。日本も国際政治の世界で他国並みに振舞うとしたら、首脳外交を担う副首相が必要である。
 例年だと夏休み以上に海外出張が集中する4月下旬から5月下旬だが、国対筋から厳しい自粛が迫られており、ゴールデンウィークを返上し第一次補正予算を上げる予定となっている。


<飛び入り学会報告の効果>
 かくして、4月21日は、0時35分羽田発のエールフランスでパリ経由キエフ入り。科学者会議の土壌汚染関係会合で飛び入りで、私から福島原発事故の現状や対応を報告し、チェルノブイリの経験を学ばせてほしいとお願いした。9割近くがウクライナ語やロシア語の発表で、英語通訳があるものの性能のよくないどでかい音のマイクが邪魔し、なかなか疲れる会合だったが、それぞれの発表は、日本にすぐ役立つものばかりであった。
 ただ、副大臣という高官の会合出席はそこそこ評価され、日本の真剣さは伝わったようだ。私の発言後すぐ立ったカシュバロク国立生命環境大学のウクライナ農業放射能学研究所長は「すべての情報データについて日本に協力提供する。これが我々の責務だ」と応じてくれた。
 私の帰国後も6名は現地に残り、情報収集することになっている。

土壌汚染関係会合.jpg


<菜の花プロジェクト現地視察>
 歳を重ねると、時差調整がしにくくなり疲れる。そして私は3月11日以来ずっと緊張状態が続き、正直体はクタクタだった。疲れた体をなだめながら、6人の先発隊と合流して2日目のナタネ栽培とバイオ燃料プラント視察に出かけた。
 「チェルノブイリ救援・中部」が2004年から「菜の花プロジェクト」に取り組んでいる。チェルノブイリから70km西のナロジチ地区地方行政庁前で、神野美加江さんと、藤井さんを待ち、行政長(町長のようなもの)と会談。その後、現場に詳しいティードフ国立ジトーミル農業生態大学地域エコロジー問題研究所長の案内で早速ナタネ園場に向かった。
 日本同様、汚染度合いによりゾーンを分けてあり、ナタネは居住、作付が禁止されている廃村の園場で作られていた。乗り換えたパリのシャルルドゴール空港周辺は、丁度菜の花が満開で、黄色がまぶしく映えていたが、同じ緯度でも内陸のウクライナはまだ開花には程遠かった。ライ麦、小麦、そばと輪作され、放射能の減り具合も研究されていた。

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<目を覆いたくなる廃村の惨状>
 途中、廃屋がいっぱい見られ、生まれ故郷を捨てなければならなかった農民の気持ちを思うと気が重くなった。3万人いた人口が1万人強に減り、高齢者ばかりが多い村となった。日本と同じく、もともと高齢化が著しい上に、原発事故が拍車をかけたのだろう。人影もまばらだった。ナタネ畑へ行く途中も悲惨だった。道路は整備されずデコボコだらけ、その上道路脇もゴミがあちこちに捨てられて、目を覆いたくなった。通訳のオリガさんも言葉を失い、一言「恥ずかしい」と述べただけであった。

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 事故後25年、セシウムの半減期は30年、ストロンチウムが28年、汚染度合いは相当改善されていいはずだが、一番酷い時とくらべ、4割しか下がっていないという。10年後に仮に居住・作付制限が解除されても、一体誰が耕すことになるのか。考えると頭が混乱してくる。チェルノブイリ原発事故が起きた1986年は旧ソ連時代であり、そもそも農地が私有されていない。従ってだれの土地でもなく、強制的退去を命じられても何の補償もされなかった。ただ、移転者にどこかの場所で粗末な住宅があてがわれただけのようである。


<出荷制限のルール>
 青空の下、何の変哲もない農村のようだが、放射能量は高く、草むらに足を踏み入れないように度々注意を受けた。また、日本では作付制限は収穫した後の内部被爆の観点から行われようとしているが、農作業を行う農民は、土ぼこりにより一般人の3~4倍の内部被爆の恐れがあり、この面からも作付制限が必要という。汚染レベルに応じて4つのゾーンに分けられているが、作付制限されている地域は40万haに及んでいる。
 私の担当は、農業であり食料だが、原発事故の想像を絶する後遺症を考えると立ち尽くす。500ベクレル以上の穀物(米)は出荷してはいけない、食べてはいけないというが、本当のところ一体どの程度我々の体に影響があるのかよく分かっていない。
 それに対し、作物については研究が進んでいる。一つは、今回の作付制限によく出てくる移行係数、つまり汚染土壌から何%の放射能を吸い上げるかは、米については10%という結果が出ている。そのため5000ベクレル以上に汚染された農地では、作っても出荷制限されるので無駄となり、作付制限したほうがいいということになる。


<ナタネ油には放射能がなくなる>
 他には、ナタネがセシウムやストロンチウムを吸収しても、油には何にも残らないことがわかっている。だからナタネやひまわりは汚染地域で作っても商品化できる。食べるのには抵抗感があっても、少なくともバイオディーゼル燃料にしても何の健康被害も生じないことになる。
 しかし、人体への影響はあくまでも推計である。例えばチェルノブイリ地区で生まれた14歳の少女が健康で、成績もよいことがキエフで報じられている。さすが平日は30km圏外に住み、週末には両親の元で過ごしているという。
 原発のプリピュチ市で被災した人たちやその子どもは、ずっと健康診断を受け、後遺症等にさいなまれている。ただ、どの病気が放射能に由来するものか分かっていない。これでは不安をいっぱい背負って生きることになる。日本でもこの後遺症とやらに悩む人が出てくるのではないかと考えるとぞっとする。私は少なくとも食べ物による体内被曝を最小限に抑えるために、ウクライナまで情報収集にきているが、肝腎の体外被曝の問題や避難の方法が不透明のままであり、どうもチグハグで歯がゆいばかりである。


<援助してきたチェルノブイリに学ぶ>
 ナタネの油粕やガラ(茎)と糞尿をもとにバイオガス発酵し、メタン発酵残渣から放射能物質を除去する手法など、それこそささやかな試みかもしれないが、日本の基金でナロジチで着々と進行中である。今まで日本が援助してやっていたことを、今度はそのまま日本でやらなければならなくなったのだ。いってみれば皮肉な巡り合わせである。

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 22日にイギリスの研究者が指摘したとおり、思いもよらないことだが、チェルノブイリと福島は今後世界で並んで語られることは間違いない。かくなる上は、意を決して手に手を取り合って試行錯誤を繰り返していくしかあるまい。


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パリ郊外のナタネ畑

2011年4月25日

テレビ出演のお知らせ -11.04.25-

日頃より衆議院議員しのはら孝の活動に対し温かいご支援ありがとうございます。
この度の東日本大震災・長野県北部地震で被災された皆様に謹んでお見舞い申し上げます。
21日から25日の日程で、ウクライナで開く「チェルノブイリ25周年祈念国際科学会議」に出席し、放射性物質による農地汚染対策などの情報収集にあたりました。

帰国後、しのはら孝が討論番組に出演し、震災・風評被害の問題や今後の農業復興のために何をすべきか、生放送で語ります。

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テーマ:『どうする?農業の復興 津波・風評の対策は… JA会長・農水副大臣』
出演: しのはら孝 農水副大臣
    茂木守 JA全中会長
    冨士重夫 JA全中専務理事
    髙野秀策 JA仙台代表理事組合長(前半のみ)
    庄條徳一 JA福島中央会会長(後半のみ)
司会: 八木亜希子、反町理、島田彩夏
日時: 【今夜】4月25日(月)20:00~21:55(生放送)
番組: 『PRIME NEWS』
放送局:BSフジ

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緊急な大ニュースが入らなければ、放映いたしますのでぜひご覧ください。
皆様のご意見もお待ちしております。
頂戴したご意見はしのはら孝が目を通し、政治活動の参考にさせて頂きます。


尚、民主党長野県連では、引き続き東日本大震災義援金を募集しています。
お振込の方は下記口座へお願いいたします。

 八十二銀行 県庁内支店
 店番号212
 口座番号 (普通)664240
 名義 民主党長野県連募金口座


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2011年4月17日

被災地石巻の視察 -11.04.17-

<急な総理随行>
菅総理が10日(日)に石巻に視察に行くというので、鹿野大臣から水産業の復興プランについて説明しておくように命じられ、8日(金)に説明に行った。TPPや食と農林漁業再生本部会合関係では頻繁に官邸に行っていたが、震災後は少々遠慮していた。
 中堅の事務方を連れて行ったが、彼等を帰した後、最近の諸々の情勢について40分余意見交換をした。その帰り、石巻での話は漁業関係者が中心になるだろうし、私が付いて行った方がいいのではないかと思い、総理に随行を申し出て、急遽同行することになった。

<自衛隊機、ヘリコプターで石巻に着陸>
 10日早朝官邸に集合、猛スピードで羽田空港のタラップに直行。十数人乗りの自衛隊機(U4)で原発の上を避け、山形上空を経由して松島基地に向かった。そこからは、本来は荷物を運ぶために使われている、20数人乗りの恐ろしく大きな音のする巨大なヘリコプターに乗換え、石巻の中心街の広場に降り立った。途中、海上捜索活動をしている自衛隊の艦船にも上空から敬意を表した。

<市役所での会談>
 まず、閉店したデパートにある市役所へ直行した。後述するが、私の副大臣秘書官の皆川治が偶然石巻で被災し、それ以降ずっと市役所の手伝いをしていた。約1ヶ月ぶりに顔を合わせた秘書官は花粉症でマスクをしていたが、下は髭面であり、1ヶ月に及ぶ避難所暮らしを物語っていた。
 亀山石巻市長、阿部東松山市長、安住女川町長、それぞれの議会議長、村井宮城県知事、こちらは菅総理、東防災担当内閣府大臣、小川防衛副大臣、阿久津内閣府政務官、市村国土交通政務官と私。地元の安住国対委員長の司会で意見交換が始まった。
 石巻市長は、瓦礫の撤去、仮設住宅の建設雇用の回復の必要性の3点について訴えた。東松山市長は、全く被害を受けていない上流の水田で米を作っても下流に水が行き、排水がうまくいっていないところで住宅にも水田にも迷惑をかけることになるので、作付しようかどうか迷っているということを訴えた。

<女川町長の建設的意見>
 もっとも明快な要請は女川町長だ。まず12の漁港があるが、全部は回復しなくていいといい、そのうちの数漁港を回復して欲しい。そのために、日当1000円でもいいので漁業者に漁港や海岸の瓦礫の処理の仕事をさせてほしいというものだ。陸の目に見える瓦礫は分かるが、港や海岸にも膨大な瓦礫が残っており、これを撤去しないと漁港はできない。是非これを水産庁が中心でやってほしい。12の漁港はいずれも使い物にならないが、全部を元通りにとはいわない。選んで少しでも早く荷揚げできるようにしてほしい。それから1000隻以上あった漁船が、160隻しか残っていない。だからといって小さな船を全部復活することはしたくない。共同でいいから少し大きな船で資源管理しながら漁業をしたい。そういった方向に国がもっていってほしい、と極めて建設的な意見であった。

<道すがらのやりとり>
菅総理は、農林水産副大臣が付いていることを告げ、いろいろと答弁をしたが、私が答える時間はなく、道すがら3人の首長さんに説明し、意見を聞くしかなかった。
 魚市場では、旧知の須能石巻魚市場社長が大きな声で菅総理に窮状を訴えた。地面が1.5m沈んでおり、まだ水がたまっている。何千人も働いている水産加工場も国にバックアップして復活してもらわなければならないこと等であった。

<私の秘書官皆川の変貌と偶然の活躍>
行く先々、皆川秘書官が先回りしていた。彼は、偶然3月11日、奥さんの父、つまり岳父のお葬式で石巻に来ており、この震災に遭遇した。妻子ともに高台に逃げて無事だったものの、義父の棺は流されていた。彼とは2日目に連絡がついたが、私は彼に東京に戻ることなく石巻市役所で貢献せよと命じた。彼は避難所生活をしながら獅子奮迅の活躍で、今や詳細な皆川レポートは農林水産省と石巻市役所をつなぎ、省内でベストセラー(?)となっている。また、機能を果たせなくなった市町村役場に国の職員が出向して復旧復興に貢献する見本とされている。震災直後の農林水産省の対応は、現場の状況を頭において食料・水を送ることだったが、衛星FAXで送られてきたレポートは貴重な情報源となった。電話も通じない中、言ってみれば、石巻と農林水産省のホットラインという形である。

<市町村出向経験を役立てる>
菅総理に「彼からはいろいろドギツイ報告が多いのです」と紹介したら、「秘書官も仕える人に似てくるんじゃないですか」という冗談を返された。彼は入省3~4年目に福岡県大和町(現柳川市)役場に2年間出向しており、市町村役場が県や国に対してどのように振舞ったらよいのかということも体に染み付いて覚えていた。だからすぐに市役所の一員として働くことができたのだろう。今や奥さんと子どもは東京に戻っているが、どうも市役所が放したがらないため、もうしばらく居てもらうことにした。この間、私も秘書官なしの不便は甘んじて受け入れた。

<高台から見た殺伐とした光景>
一度はこの目で悲惨な状況を見ておかなければならないとずっと気にはなっていたので、この随行はちょうどよい機会であった。ほっておくと現地に出向いている余裕がなくなるからだ。
視察の途中、高台の日和山の頂上から石巻の全貌を望んだ。海側は、まるでそこにあった生活がなかったかのように、まっ平らにすべてのものが消え去っていた。本来なら見渡す漁港の向こうにきれいな海を見通せる絶景だそうだ。今は津波に何もかも奪い去られてしまっていた。川の中洲にある石森章太郎記念館が流線型であるが故に潰れずに残っていた。その他には2階まではほとんど使えないビルもポツンと立っていた。人の息吹が感じられない殺伐とした荒野のように見えた。
復興への道のりは険しいが、何としてもやりぬかなければならない。

<機中で仮眠する菅総理>
漁港の町、石巻から仙台駐屯地にヘリコプターで行き、自衛隊と米軍の両方に感謝を述べ、またU4自衛機で東京に戻った。自衛隊員の各地でのきびきびした動きは見ていて心強いかぎりであった。帰りは午後2時くらいになったが、機中の昼食はコンビニのおにぎりとパンで、被災地の皆さんと同じ食事。総理は疲れて眠っていた。激務なのである。夕方は、民主党政権大得意の全閣僚・幹部の大勉強会。私はメインメンバーではなく失礼した。

<惨敗した長野県議選>
 私もかなり疲れていたが、農林水産省の副大臣室で残務整理した後、開票を迎える県議選が気になり、当選祝いには出たいので長野に戻った。残念ながら、4人の民主党公認候補のうち当選はたった1人という結果に終わった。民主党の現状を考えたら仕方のない結果であろう。10人区の長野市などは9人の現職と1人の元職と、新人には冷たい結果となった。中野・下高井地区も民主党公認の新人が2人の現職に挑戦したが、現職には591票及ばなかった。飯水と須高は無投票でかくして私の選挙区内の県会議員は元職が1人返り咲いただけで、あとは全員現職という結果になった。投票率は50%を割り、県政に感心を持たない県民が多くなったのは確かだが、やはり震災が影響したのだろう。こんな時に選挙なんてやっていられるかというムードが漂っていたに違いない。私が震災後1ヶ月間危機管理対応に集中し、選挙区に帰れなかったのもひびいているに違いない。民主党は私も含め、地方組織の拡充という課題を抱えたまま政治生活をしていかなければならない。

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