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政権を支えた伊東・後藤田 二人の同僚(友人)官房長官 -2011.7.4-

<補い合った鈴木・宮沢コンビ>
 私が、鈴木善幸内閣の総合安全保障関係閣僚会議担当室に出向し、官邸に出入りしていた頃は、将来の首相候補の宮沢喜一官房長官であった。会議の司会をし、本当にわかりやすい記者レクをされ、感心するばかりであった。近藤元次さんが指摘するように、宮沢さんは調整・根回し等の汗かき仕事は不得意だったが、自民党には他に国会運営のノウハウを身につけている議運・国対の専門家が多くいたこともあり、宮沢さんは政策に専念できたのである。ちなみに、鈴木善幸総理は大平総理の急死により突然できた内閣であり、総務会長5回のまさにまとめ役の総理であり、派閥の長ではなかった。従って、2人のコンビは、少々異質だったかもしれない。

<二人の元官僚トップの官房長官>
 マスコミが仙谷前官房長官を大物ともてはやしたてた関係で、今回の改造内閣人事では誰が相応しいかということがいろいろ取り沙汰された。しかし、情けないことだが、宮沢政権の近藤さんのような方がいなかったのだ。
仙谷前官房長官は、菅総理の同僚(友人)といった類であった。出しゃばり過ぎて仙菅内閣とか、仙谷内閣とか言われたが、対等の政治家同士の組み合わせとして思い浮かぶのは、大平正芳-伊東正義、そして中曽根康弘-後藤田正晴のコンビである。
 二人は組織(それぞれ農林水産省、警察庁)のトップを極めた人である。そして、二人の総理とも元官僚である。なぜ二人が元官僚のトップを官房長官にしたか。私の推測であるが、大平さんも中曽根さんも相当若い時に政界に転じ、役人道を全うできなかったことにどの程度か分からないが、ある種の後ろめたさを感じていたに違いない。政治家としては当選回数で上回っていても、むしろ自分よりできる人と尊敬していたのではないか。そうした中で、霞が関の組織のトップを極めた二人に、役所の幹部トップとしての経験を存分に活かしてほしいという願いから、内閣という組織の要としてまとめ役を託したのである。

<民主党の人材不足と少ない目利き>
ただ、事務次官経験者であれば皆官房長官が務まるという訳ではない。出しゃばったりケンカを売ったりするタイプは不向きであり、相沢英之元大蔵事務次官、奥野誠亮元自治事務次官は、政治家として立派ではあっても、官房長官というタイプではなかろう。 自民党にはそもそも人材が多く、総理は自ずと目利きとなり、人材を適所に配置することに長けていたのではないかと思う。それに比べると民主党は人材不足もあるが、どうも目が利く人は少ないようだ。

<マサヨシ同士の盟友関係>
 上記の鈴木内閣の翁久次郎官房副長官とは、数回会食をともにし、官邸の話を伺ったが、大平・伊東の二人の友情を絶賛されていた。以下は翁さんからの話。
 2人は若い役人時代、満州(興亜院)に出向した当時からの同僚で、名前も同じマサヨシで気が合い、伊東さんが農林事務次官の後に、大平さんに勧められて政界に入ることになった。
派閥の長である池田勇人に「大平派から出馬する」と挨拶しに行ったという。そのくらい固い関係だった。世間にはあまり知られていないが、大平首相は伊東さんに頭があがらず、大平内閣こそ伊東官房長官に動かされていたのだという。

<大平首相のスケジュールに載らないゴルフ>
 例えば、大平首相は運動神経が鈍く、官邸のソフトボール大会をしても、バットに球が当たらなかったが、ゴルフが大好きでしょっちゅう行っていた。それに対して、伊東官房長官は釘を刺し、金持ちしかやらないゴルフをしてはいけないと苦言を呈したそうだ。大平首相自身、宴会好きの池田勇人総理には「寛容と忍耐」を説き、料亭政治を自粛させていたからだ。しかし、大平首相は、伊東官房長官の目を盗んで日程にゴルフを入れないようにして、出かけていたという。伊東さんはそれを承知で「大平は止まった球しか打てないから仕方ないか」と見て見ぬ振りをしていたという。
 伊東さんは清廉潔白な役人で、農林次官時代に業者とのゴルフを禁止したこともあり、絶対にしなかった。ズボンの後ろポケットに手拭を入れて、汗を掻きながら仕事をしていたという。翁さんは、私に農水省の先輩の伊東さんがいかに立派な人物、政治家か滔々と話をしてくれた。

<総理の声にも耳を傾けなかった無欲の人>
 その伊東さんは、鈴木内閣では外務大臣になったが、日米同盟は軍事同盟ではないとする鈴木首相に辞表を提出している。その後、リクルート等で政界がゴッタ返した時に、金権政治とは無縁のクリーンな実力者ということで、竹下首相退陣後に総理の声があったが、「本の表紙を変えても中身を変えなければダメだ」とガンとして受けなかった。その後、後藤田さんに請われ党政治改革本部長を務め、政治改革のためコンビで取り組んだ。お互いに惹かれ合っていたのである。
 後藤田官房長官も重しのある黒子として徹しており、後藤田内閣などとは呼ばれることはなかった。ただ、田中角栄元首相のあまりの影響で田中曽根内閣と呼ばれていた。後藤田さんは当初は内務省の二年後輩で君付けで呼んでいた者の下には就けないと固辞していたが、きちんと総理として立てていたのである。そして後藤田さんもリクルート事件の後、総理という声が上がったが、腰を上げることはなかった。
 伊東さんも後藤田さんも、大臣の声がかかるともったいぶった理屈を付けて飛びつく大臣病の政治家や若くして政界入りし、分不相応に総理を目指す政治家とは一味も二味も違う政治家だったのだ。

<民主党政権にこそ必要なドラッカー>
 民主党政権はどうもガタピシしていて、政権運営も国会運営もうまくいっていない。私は民主党が政権を獲れても、経験不足から相当すったもんだするだろうということは分っていた。特に政治主導、脱官僚政治とか言っているが、とてもそれを前面に打ち出しては、政治は出来ないと思っていた。ずっと野党だったのだし、ノウハウを持ち合わせていないので仕方がないにしても、少々ひどすぎるような気がする。
 政権内部の片隅にいる者として、深く反省し、なぜかと思いをめぐらすと、いろいろなことが分かってくる。原因は組織人がおらず、組織のマネジメントを経験した人が著しく欠如していることである。昨年は「もしドラ」(「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」(岩崎夏海)が200万部に達するベストセラーとなったが、民主党政権こそドラッカーが必要なのかもしれない。