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2011年07月27日

夏休み学童疎開で福島の子供を被曝の危険から救う -11.7.27-

<食べ物への異様なこだわり>
 農水省と厚労省は食べ物を通じた内部被曝を避けるため、暫定規制値を超えた野菜があれば、全県の同一野菜を出荷停止するなど安全確保には厳しく対処してきた。そうしたことから、「流通しているものは食べてよい」ことが消費者にも理解され、スムーズに動きつつあった。
畜産物についても万全を期すため、事故直後の3月19日には干し草等は原発事故以前に収穫したものしか与えてはならないと通達した。かなり早めに手を打っていたのだ。
ところが、7月8日南相馬市の肥育牛農家が、原発事故発生後野晒しになっていた稲わらを2ヶ月にわたり給餌した牛を出荷し、汚染されていることが判明した。300 Bq/kgの規制値を超えた汚染稲わらを給餌され出荷された牛の数が、毎日新聞紙上に踊っている。そのため、牛肉そのものが500 Bq/kgの暫定規制値を超えているのは23頭と少ないにもかかわらず、2900頭余が汚染されているかのように誤解されている節がある。
7月19日には、福島県内全域の食肉が出荷制限され、全頭検査や汚染の恐れのある牛の全頭買上げといった言葉が飛び交っている。

<忘れられる農家の農作業被曝>
日本は食べ物を通じた体内被曝(経口的)には異様ともいえる神経質な対応をしている。ところが、本宮市の69万Bq/kgに汚染された稲わらを長期間にわたって牛に与え続けた農家の体外被曝(経皮的)や吸引による体内被曝(経気道的)には、ほとんど目が向けられていない。牛舎の2階に山と積まれた稲わらを毎日下に降ろし、それを牛に与える作業をしている農民が一番危険に晒されているのだ。そして、子供も傍らにいたら大変なのだ。
後述するが、ウクライナの立入禁止区域の外の2番目に危険な移住義務区域は、農作業による土埃が問題視され、農作業が禁止されている地域である。つまり農作業に伴う吸引被曝や住民への悪影響を問題視しているのだ。

<放置される子供の救済>
 一方、7月13日、菅総理は、具体的道筋は示されていないという批判はあるものの脱原発を宣言した。日本は、世界の流れに沿って原発依存社会から脱却する方向に向かいつつある。当然のことである。
 牛の餌である稲わらの汚染ばかりが喧伝されているが、稲わらが69万Bq/kgに汚染されているなら、地域で暮らすことが安全なのか、そうしたところでできた作物を子供まで食べていいのかどうかということがさっぱり問題にされていないのが不思議である。感受性の強い子供は、あらゆる種類の被爆の危険に晒されているのだ。それにもかかわらず、子供の被曝の回避には何の手も打たれない。不公平もいいところである。
抽象的な脱原発宣言よりも、食べ物への過度なこだわりよりも、何よりよりも真っ先に対応すべきことが忘れられている。

<大人より放射能の感受性の強い子供>
若ければ若いほど細胞分裂が盛んなことから、子供は放射線の影響を受けやすい。放射能に弱い。だから、EUも6ヶ月未満の幼児の基準値は厳しめにし、日本でも飲料水の規制値については、子供は大人の1/3の100 Bq/kgとしている。
IAEA(国際原子力機関)は、チェルノブイリ事故による健康障害として、唯一小児の甲状腺癌を関連ありと認めている。その他、免疫力の低下、特殊な呼吸器疾患、血液の異常等様々な障害が知られている。

<菅谷松本市長の警告>
菅谷昭松本市長は、ウクライナよりも汚染が深刻ともいわれるベラルーシで5年間小児甲状腺癌の医療支援活動をしていた。それによると甲状腺癌は10年目にピークとなり、最も高度に汚染されたホメリ州では通常の130倍になったという。首筋に残るL字型の手術跡はチェルノブイリ・ネックレスと呼ばれ、一生残ってしまう。最近、大人の患者も増えているという。
それにもかかわらず、日本では福島原発のごく近くで平気で4月新学期を開校しているし、学童を安全な場所に一旦移動させる話が全く進んでいない。日本の原発事故対応で最もひどいのが、子供への配慮、救済である。

<1986年5月のキエフより汚染度が高い福島県中通り>
こういうと、「いや放射線量が違う。日本はたいしたことない。」という反論が予想される。曰く、福島で放出された放射線量はチェルノブイリの10分の1に過ぎないし、今は収束しつつある。
キエフの国際会議の資料の中に、86年5月10日のセシウム137の土壌汚染地図が残されていた。文科省の11年4月25日のセシウムの蓄積状況と比較してみると、飯館村付近でキエフの20~60倍、伊達市で6~12倍と、福島県の中通りの方がキエフよりずっと汚染度合がひどいことがわかる。かなりゆるめの屋外活動制限基準の3.8μSvを超えた小中学校が50を超えているのだ。
土壌汚染と空間線量は相関関係にあり、8月末には完成する土壌汚染地図により、日本でも食品の汚染や人の被曝を測れることになる。福島も相当汚染されていることを忘れてはならない。

<危険な汚染土壌による被曝>
日本では、汚染された農作物を食べることによる体内被曝を未然に防ぐため、例えば米は5,000 Bq/kg以上汚染された地域では作付制限を行うことにした。ところが、ウクライナの作付制限は、農作業により舞い上がる土埃による汚染の危険を防ぐことに主眼が置かれた。セシウムは、地表の15cmぐらいが汚染されているだけだ。ウクライナは降雨量も日本の3分の1の600mm程度しかなく、乾燥した農地は耕運により余計に土埃をたてることになる。このため、農民ばかりか近隣の住民の被曝量が増大する。また、吸い込む体内被曝の危険も増大する。日本で背の小さい小学生の校庭や通学路の汚染による被曝が懸念されるのと同じである。

<親の不安は増大の一途>
4月19日、原子力安全委員会の委員が、子供については基準値を厳しくして大人の半分の10ミリシーベルトに抑えるべきだとしたが、文部科学省は翌日撤回した。また、4月29日、この分野における日本一の権威である小佐古敏荘内閣官房参与も政府のあまりに杜撰な対応に抗議の辞任をしてしまった。
福島とフランスのNGOが5月30日には福島市内の子供10人の尿の検査をしたところ、全員の体内被曝の事実が明らかとなった。こうした検査は、ホールボディカウンターを備え、日本国政府が責任をもってしなければならないことだが、やる気配がない。日本では、人間(子供)より牛肉や稲わらや農作物の方が念入りに検査されているのだ。
(7月24日、福島県が18歳以下の子供36万人の甲状腺検査を生涯にわたり実施すると決めたのは朗報である。)

<温かい手が差し伸べられたチェルノブイリ付近の子供>
7月2日の私のブログのとおり、キエフからは、24万人の学童が、1ヶ月以内に全て疎開して、放射能の大量被曝から逃れている。
菅谷市長によると、ポーランドは、4日後の86年4月30日には人口の9割を超える100万人以上の子供にヨウ素剤を投与した。子供が汚染されたミルクを飲むことを禁止し、4歳以下の子供には粉ミルクを配っている。そのため、ベラルーシより甲状腺癌に悩む人の数がずっと少なくてすんでいる(「子どもたちを放射能から守るために」(亜紀書房))。
ベラルーシでは、汚染地域(4段階の最も少ない地域も含む)の子供を、清浄地域の療養所で政府が全額負担して療養させている。同行する親も無料か1割負担となっている。また、小規模校は学校全体で療養を実施し、移動先で授業も行っている。更に汚染地域の子供に対して、給食は無料としている。
低線量の被爆の影響ははっきりと分からない中、いずれの国も被曝の恐れのある子供には温かい援助の手を差し伸べているのだ。

<初動を間違い、今も何もしない日本>
それに対し、福島では、ヨウ素剤は70万人分用意したものの、政府は何も指示せずにほったらかしにしている。日本政府は、いざという時の避難についても旧ソ連諸国等の先例に学ぶという謙虚さに欠け、子供たちを放射能に晒さないという温かさ、慎重さが感じられない。
大半の汚染は3月中旬の爆発とその後の雨によるものと思われる。そうなると初動が何よりも必要だったのに、それが全く不備だったことが悔やまれてならない。

<夏休みを契機に学童疎開>
4ヶ月後の今ではすべてが遅きに失し、10年後にヨウ素による甲状腺癌が急激に増加しているかもしれない。セシウムの方は定かではないが、体内被曝も進んでしまっており、後遺症に悩まされる人が増えている可能性が高い。
今も放射能の漏出が完全に終息しておらず、放射能の降下も続いている。土壌は汚染され、校庭も通学路も表面はかなり汚染されている。前述のとおり、全国に相当の子供を迎える準備はできている。これから夏休みに入るが、これが最後の機会である。思い切って汚染地域の小中学生を各地に疎開させ、子供がいない間に校庭や通学路の除染を段階的に行い、秋学期には少しでも安心して通える状態にしないとならない。除染除去度合や収束状況を見極めた上で、母校に戻ってくればいいのだ。

<子供の命と健康を守る>
 今既に、経済的余裕があったり遠くに親戚のいる者は、子供を福島から離れさせている。新聞各紙が夏休みとともに続々と長期キャンプ等に出かけていると報じ、7月27日読売新聞は、1面トップで福島市の小中学生310人(全体の1.3%)が県(市)外に転校し、郡山市からも既に553人が転校していると報じている。当然の動きである。そうした余裕もなくツテもない子供が、被曝の危険に晒されたままというのは許されることではない。
チェルノブイリは4つの区域の指定は事故から30年後の2016年にしか見直されない。それどころか、ロシアの専門家は、日本ではむしろ立入禁止区域を拡大すべきだと提案している。それをステップ1が過ぎただけなのに、20~30km圏の緊急時避難準備区域の縮小解除について地元と協議に入るなどと甘い言葉が出始めている。やるべきことを完全に履き違えている。

<子ども手当の一部を原発学童疎開の支援に充てる>
全国各地から避難者を受け入れるという申し出が寄せられている。それなのに、肝腎の国が本気で守ろうとしないのは怠慢以外の何ものでもない。コンクリートから人への標語の下に、子供は社会全体で育てるものという理屈で設けられた「子ども手当」も霞んでくる。放射能から子供たちを守るための学童疎開に「子ども手当」予算の一部を使ったところで、国民は文句を言わないはずだ。むしろ、日本の母親たちはそれを望んでいるはずである。

<福島を放射能研究のメッカに>
子どもは、国全体社会全体で守ってやらねばならない。原発災害対応の一つに、福島県内に放射線被曝の医療機関や研究機関を設置し、子供の健康を長期的に守っていくことがあげられる。それと同時に環境や農林漁業等への影響も研究する一大拠点とし、そこから世界に検証結果を発信していくことを目指すべきである。そうすることが大事故を起こしてしまった日本の世界に対する責任でもある。

<6月2日の代議士会での菅総理の約束>
 6月2日正午、菅内閣不信任案への対応を巡り、民主党代議士会が開催された。政局がらみの虚しい駆け引きが続く中、原口一博・川内博史の議員両名が菅政権を支持する条件として、福島の子供の健康・命を守る措置をとるべきと唯一の政策的注文を念押しした。菅総理も前向きに返答したが、マスメディアは何の関心も持たず、政局報道しかされなかった。菅総理が問題の辞任云々はともかくとして、子供の対策を未だもって何もしていないことこそ重大な約束違反である。

<将来に禍根を残す子供の被曝>
 菅総理は、自社さ政権時代に厚生大臣として薬害エイズ事件で名をあげた後に、政治家としての飛躍のキッカケをつかんだ。薬害エイズ事件は、アメリカ等の事例から非加熱製剤の危険を承知しておきながら、日本では禁止せず放置したことからエイズ患者が拡がる原因となった。そして安倍英医師らが刑事責任を問われた。
 原発災害対応では、メルトダウンは早くから予想されたものの、本当のところよくわからないことばかりであり、対応の不備はある程度致し方ないことかもしれない。
それに対し、子供の被曝の事実を把握しながら何も手当しないのならば、薬害エイズ事件どころではない大失態となり、今度は逆に菅政権も原発対応担当者も10数年後に刑事責任を問われることになるかもしれない。皮肉なことである。ところが、このアナロジー(類似性)に気付いている人は少ない。

<国の宝、子供を絆と国家で守る>
 戦争中の学童疎開もウクライナの原発疎開も、強権発動のできる国家体制だからできたのかもしれないが、今の日本は、強権の代わりに日本人としての「絆」があり、助け合う精神が健石である。全国各地から津波の被災者や原発避難民を受け入れるという申し出が多数寄せられている。あとは、国の宝の子供たちを守る気概、国家危機管理等、国の意志一つなのだ。
事故の態様は異なるが、レベル7という危険度は同じであり、少なくとも子供を守るための対応は、チェルノブイリの25年前と今の福島は同じように対応していかなければならない。
(「キエフから児童・生徒が消えた1986年5月 2011.7.2」の続編)
(本稿はチェルノブイリ出張から帰国した直後の4月下旬にまとめ、予算額や手法も含めた詳細な学童疎開案とともに関係者に子供の救済の必要性を訴えていた。遅ればせながら発信することにした。)

【今夜】TV出演のお知らせ

本日7月27日(水)の下記番組に しのはら孝 が生出演します。

畜産農家が肉牛に高濃度の放射性セシウムを含む稲わらを餌として与えていた問題は、全国へと影響が拡大しています。
放射性セシウムについて、食品からの摂取への懸念が広まるなか、国は国民の食の安全をどのように守り、また生産業者に対する補償をどのように行っていくのか?
2時間の生放送で討論します。是非、ご覧ください。

番 組 : BSフジ LIVE PRIME NEWS
日 時 : 7月27日(水)夜20時00分~21時55分(生放送)
テーマ : 「牛肉から放射性物質セシウム検出…食の安全はどうなるのか?」

キャスター: 反町理(フジテレビ報道局政治部長)
       八木亜希子(元フジテレビアナウンサー)
解説キャスター: 山本周(フジテレビ解説委員)
出 演 : しのはら孝(農林水産副大臣)
       大塚耕平(厚生労働副大臣)
       山口英昌(美作大学大学院生活科学研究科教授)

放送局 : BSフジ(BSデジタルチューナー内蔵テレビ、ケーブルテレビ、スカパーにて視聴可)

2011年07月17日

脱原発社会を創る30人の提言 -2011.7.17-

7月中旬、「脱原発社会を創る30人の提言」という本がコモンズから出版された。私は30人の中の1人として「政治は脱原発を実現できるか」という提言を書いている。表紙にあるように、他の29人は各界の良識ある人たちである。皆さんの達見をぜひご覧いただきたい。
脱原発社会を創る30人の提言.jpg
出版社のサイトhttp://www.commonsonline.co.jp/datugenpatu30.html

2011年07月16日

04年の菅代表演説と菅総理の政策の一致と乖離-2011.7.16-

まず以下の演説原稿をお読み頂きたい。

<曲がり角>
 04年、今年は世界的にも日本にとっても大きな曲がり角にあります。歴史上日本は、目標が明確であれば厳しい条件下でもそれを達成してきました。しかし目標達成後、失敗した歴史があります。富国強兵を達成した後の軍国主義化による太平洋戦争への突入、経済大国を達成した後の官僚主導政治による財政破綻と急激な少子化がそれです。私達は自らの手で健全な日本社会を取り戻す新たな目標を定めなくてはなりません。目標とすべき日本の姿を模索する議論の中で、過去の日本の伝統的価値を見直そうという機運が強まっています。しかし参考にすべき日本的伝統とは何でしょうか。明治維新において、日本は列強に対抗して近代化を急ぐため、廃仏毀釈に象徴されるように神道イデオロギーを軸に天皇中心の中央集権国家を強引に創り上げました。当時としてはやむを得ない選択であったかもしれませんが、その結果、江戸時代まではぐくまれてきた八百万の神といった多神教的伝統は破壊されました。
 江戸時代は200年余り、戦争のない平和な時代でした。生活水準も水稲栽培が中心で比較的豊かで、社会は秩序が保たれ安定し、高い識字率が庶民に親しまれた浮世絵に象徴されるように文化的にも同時代のヨーロッパよりも優れていました。私たちがこれからの日本社会を考えるにあたって参考にすべきは、明治以来の近代化に合わせた、大量生産、大量消費、大量廃棄の生活スタイルではなく、その前の江戸時代の、地産地消の「スローライフ」と呼ぶべき生活スタイルにあるように思えます。日本の農産物を食べ、木材を使うことがひいては日本の自然をまもり、農山村を子育てに適した地域として復活することになります。

<民主党政権誕生のきっかけとなった名演説>
この演説原稿を見た皆さんは、私のどこかの講演の発言と勘違いされるかもしれないが、これは紛れもなく、04年1/13の党大会での菅代表の演説原稿である。
菅さんの街頭アジ演説はやりなれており流石だが、長い演説となると、話があちこちに飛び、どうもいまひとつピンとこなかったが、原稿をもとにしたこの演説は菅さんの価値観なり理想社会が伝わってくるなかなかなものであった。
私は、この演説の中味を実現してくれるならば是非総理になってほしいと、菅さんを支えてきた。この前に経済、財政、農業政策という項目があり、この後、私は農業再生プランの作成が命じられ、鹿野道彦NC農林水産大臣の下、必死でこれを取りまとめた。そして農業再生プランが07年の参院選を1人区23勝6敗という大勝利に導くきっかけとなった。その意味では重要な演説だったのである。


<エコロジスト菅直人のこだわり政策>
 再生可能エネルギー法案を通し、固定価格買い取り制度を実現することを3つの条件の一つに加えたことについて、延命の手段として飛びついただけという批判があるが、そうではない。菅総理の最もしたいことの一つがここにあることは、この演説原稿を見れば明らかである。長崎大学の坂井教授の木質系バイオマスをエネルギーとして活用する研究成果に惚れ込み、これについて語りだすと止まらなくなるのは、周りの者が皆承知している。
福岡高裁の諫早湾干拓の開門判決に対して、上告せずに応じることにしたのもエコロジスト菅の為せる技である。
だから、これをもって菅首相をなじることは見当違いも甚だしい。

<いつの間にかしぼんだ高速道路の無料化と脱官僚>
ところが、菅総理が実現したはいいが、なかなか政策が実現していない。言うことややろうとすることがぶれているのである。例えば、03年秋の菅代表の下での初めてのマニフェストによる選挙、一番の目玉公約は高速道路の無料化だった。今は自民党から4Kバラマキと言われる中で、一番評判が悪い。風見鶏というのか変わり身が早いというのか知らないが、国民の支持を政権維持の要と考える菅総理は、今やほとんど高速道路の無料化については発言していない。
その代わり、脱がつく政策で言うと、圧倒的に世間を騒がしているのは脱原発である。

<脱原発も中途半端でピシッとせず>
私は、さる会合で菅総理に対し浜岡原発の停止は漢字の間違いで、廃止のはずではないかと半分励まし、半分嫌みを言った。菅総理にとっては本当は再稼動も本意ではないことも明らかである。だから急にストレステスト(耐性評価)などと言い出している。総理になったのだから自分のしたい政策を次々に実現していけばよいはずだが、経済界の反応を見ながら、おそるおそるやっているようにしか見えず、いま一つピシッとしない。
私は曲がり角演説にもられた理想の日本の実現のため、僭越だと思いつつ農林水産行政の分野を超えて総理にいろいろ、進言・諫言してきたが、どの程度受け入れられたのか定かでない。

<菅総理を支える側や国民のストレス>
G20の農業大臣会合に関連した日本農業新聞のインタビューで、政権についての感想・評価を聞かれ、私は松木謙公前農林水産大臣政務官の「一分一秒でも早く辞めていただきたい」というのをもじり、「最後の一分一秒まで支えきる」と述べた。閣僚も民主党の執行部もそうあるべきだと思っている。
それには総理が方向性を明確に打ち出し、それを敢然と実行してもらわなければならない。ところが、この原発をめぐるドタバタを見ても、ストレステストも唐突であり、一本筋が通っていない。これでは支える側には疲れがたまり、ストレスが増えるばかりである。それよりも国民のストレスはもっと高くなっている。
ただ、脱原発も林業政策への肩入れや再生可能エネルギーの重視と同じく、紛れもなく曲がり角演説の延長線上にある。ドーヴィルサミットとOECD 50周年の首脳会合で、家庭用太陽光発電を1000万戸にし、20年代早期に再生可能エネルギーの発電割合を20%にすると大見栄を切っている。
(このように7/11の長野駅前街頭ビラに書いておいたら、7/13夕方の記者会見で脱原発、原発なき社会を目指すと堂々と述べた。具体的道筋が不明と言われているが、菅総理でなければできないことであり、評価すべきことである。)


それに対し曲がり角演説との大きな矛盾は、昨年10/1の突然のTPP交渉への参加の所信表明である。つまり日本で出来たものを食べ、地産地消、スローライフ、日本の材木で日本の家を建るという目指すべき社会からは、外国との貿易を完全に自由化するTPPなど全く見えてこない。
07年の参議院選挙の一人区において、23勝6敗となり、自民党政権下でいわゆるねじれ国会が誕生した。それは我々がずっと提案し続けた直接支払い、すなわち農業者戸別所得補償を中心とした民主党農政に対し、全国の農業関係者が期待して政権交代の芽を作ってくれたのである。政権交代は09年8月の衆議院選挙でやっと実現し、そのスタート時点は、農民の明白な民主党への支援であった。

<羽田元総理の心配事>
私の政界入りは、羽田孜元総理から口説かれたからである。07年7/14のブログで触れたが、ここでもう一度繰り返ておく。「政権交代は出来ても、政権交代したあとの第一回目の選挙を勝ち抜かなければ、細川さんと自分の10ヶ月の非自民政権の繰り返しになってしまう。都市政党のままでも政権交代ができるだろうが、都市の有権者はブレが大きく与党への批判勢力になり、都市部の議員は落選する者が多い。自民党を長く野党にしておかないと政治改革はできない。そのためには、民主党農政を打ち立て、律儀な田舎の有権者に支持を拡げ、農村部に同僚議員を増やさないとならず、そのためには農政が必要だ。しかし、農政をする中堅議員がいない。君に農政を任せるから民主党に入って欲しい」と、しつこく8年間も勧誘され、03年11月の総選挙に出馬して政界入り、民主党入りした。羽田さんの目論見どおり、今のところはうまくいっている。

<すべてをぶち壊したTPP>
ところが、唐突なTPPへの参加所信表明により、07年の参議院選挙で投票してくれた農民を裏切ることになってしまった。そのためか10年の参院選の1人区は8勝21敗の大敗となった。そして羽田さんの恐れたとおり、民主党政権はブレ通しで都市の有権者は離れ、農民も愛想をつかしてしまった。
私は、これは大変ということで、官邸に設けられた「食と農林漁業の再生推進本部」でリカバリーショットを打つべく、日本の農林水産行政の大幅な転換も予算を減らされ続けてきた農政へのテコ入れをすべく全力をあげて取り組んできた。そこに3.11の大地震、津波そして原発災害である。またもや狂いが生じてしまった。
農民の菅政権不信はただならぬものがあり、TPP反対の署名は1100万人を突破している。長野県に至っては200万県民の3割61万人の署名がたちどころに集まっている。民主党農政を担ってきた私に対する反発も著しく、「民主党を支持しないどころではない。篠原さんをはじめ民主党議員を落としてやる」と叱責されている。長野一区での週末の支持者訪問時の「嫌菅振り」にはただならぬものがある。さんざん甘いことを言っておいて、政権を取ったら全く逆のことを言い出したのだ。田舎の人は律儀だからこそ、このような裏切りに対する反発が倍加してしまっている。

<04曲がり角演説の原点に立ち返るべき>
菅総理は市民運動育ちとよくいわれるが、それも政治の一環であり、つまるところ政治以外は何もしてこない政治オタクなのだ。そして幸せなことに、その政治の頂点に立てたのである。今あちこちから味噌くそに言われながら総理の座にしがみついているのも、菅総理には政治以外の人生など考えられないからであろう。
私は、菅総理の所信表明演説は、総理に就任してからの3回ではなく、野党第一党の党首として脂の乗り切った曲がり角演説にあると思っている。
残された菅政権の時間はどのくらいか不明だが、04年の菅代表演説の原点にもどり、政策の実現に猛進してほしいと願っている。

(( )以外、7/11午前1時30分脱稿)

2011年07月04日

政権を支えた伊東・後藤田 二人の同僚(友人)官房長官 -2011.7.4-

<補い合った鈴木・宮沢コンビ>
 私が、鈴木善幸内閣の総合安全保障関係閣僚会議担当室に出向し、官邸に出入りしていた頃は、将来の首相候補の宮沢喜一官房長官であった。会議の司会をし、本当にわかりやすい記者レクをされ、感心するばかりであった。近藤元次さんが指摘するように、宮沢さんは調整・根回し等の汗かき仕事は不得意だったが、自民党には他に国会運営のノウハウを身につけている議運・国対の専門家が多くいたこともあり、宮沢さんは政策に専念できたのである。ちなみに、鈴木善幸総理は大平総理の急死により突然できた内閣であり、総務会長5回のまさにまとめ役の総理であり、派閥の長ではなかった。従って、2人のコンビは、少々異質だったかもしれない。

<二人の元官僚トップの官房長官>
 マスコミが仙谷前官房長官を大物ともてはやしたてた関係で、今回の改造内閣人事では誰が相応しいかということがいろいろ取り沙汰された。しかし、情けないことだが、宮沢政権の近藤さんのような方がいなかったのだ。
仙谷前官房長官は、菅総理の同僚(友人)といった類であった。出しゃばり過ぎて仙菅内閣とか、仙谷内閣とか言われたが、対等の政治家同士の組み合わせとして思い浮かぶのは、大平正芳-伊東正義、そして中曽根康弘-後藤田正晴のコンビである。
 二人は組織(それぞれ農林水産省、警察庁)のトップを極めた人である。そして、二人の総理とも元官僚である。なぜ二人が元官僚のトップを官房長官にしたか。私の推測であるが、大平さんも中曽根さんも相当若い時に政界に転じ、役人道を全うできなかったことにどの程度か分からないが、ある種の後ろめたさを感じていたに違いない。政治家としては当選回数で上回っていても、むしろ自分よりできる人と尊敬していたのではないか。そうした中で、霞が関の組織のトップを極めた二人に、役所の幹部トップとしての経験を存分に活かしてほしいという願いから、内閣という組織の要としてまとめ役を託したのである。

<民主党の人材不足と少ない目利き>
ただ、事務次官経験者であれば皆官房長官が務まるという訳ではない。出しゃばったりケンカを売ったりするタイプは不向きであり、相沢英之元大蔵事務次官、奥野誠亮元自治事務次官は、政治家として立派ではあっても、官房長官というタイプではなかろう。 自民党にはそもそも人材が多く、総理は自ずと目利きとなり、人材を適所に配置することに長けていたのではないかと思う。それに比べると民主党は人材不足もあるが、どうも目が利く人は少ないようだ。

<マサヨシ同士の盟友関係>
 上記の鈴木内閣の翁久次郎官房副長官とは、数回会食をともにし、官邸の話を伺ったが、大平・伊東の二人の友情を絶賛されていた。以下は翁さんからの話。
 2人は若い役人時代、満州(興亜院)に出向した当時からの同僚で、名前も同じマサヨシで気が合い、伊東さんが農林事務次官の後に、大平さんに勧められて政界に入ることになった。
派閥の長である池田勇人に「大平派から出馬する」と挨拶しに行ったという。そのくらい固い関係だった。世間にはあまり知られていないが、大平首相は伊東さんに頭があがらず、大平内閣こそ伊東官房長官に動かされていたのだという。

<大平首相のスケジュールに載らないゴルフ>
 例えば、大平首相は運動神経が鈍く、官邸のソフトボール大会をしても、バットに球が当たらなかったが、ゴルフが大好きでしょっちゅう行っていた。それに対して、伊東官房長官は釘を刺し、金持ちしかやらないゴルフをしてはいけないと苦言を呈したそうだ。大平首相自身、宴会好きの池田勇人総理には「寛容と忍耐」を説き、料亭政治を自粛させていたからだ。しかし、大平首相は、伊東官房長官の目を盗んで日程にゴルフを入れないようにして、出かけていたという。伊東さんはそれを承知で「大平は止まった球しか打てないから仕方ないか」と見て見ぬ振りをしていたという。
 伊東さんは清廉潔白な役人で、農林次官時代に業者とのゴルフを禁止したこともあり、絶対にしなかった。ズボンの後ろポケットに手拭を入れて、汗を掻きながら仕事をしていたという。翁さんは、私に農水省の先輩の伊東さんがいかに立派な人物、政治家か滔々と話をしてくれた。

<総理の声にも耳を傾けなかった無欲の人>
 その伊東さんは、鈴木内閣では外務大臣になったが、日米同盟は軍事同盟ではないとする鈴木首相に辞表を提出している。その後、リクルート等で政界がゴッタ返した時に、金権政治とは無縁のクリーンな実力者ということで、竹下首相退陣後に総理の声があったが、「本の表紙を変えても中身を変えなければダメだ」とガンとして受けなかった。その後、後藤田さんに請われ党政治改革本部長を務め、政治改革のためコンビで取り組んだ。お互いに惹かれ合っていたのである。
 後藤田官房長官も重しのある黒子として徹しており、後藤田内閣などとは呼ばれることはなかった。ただ、田中角栄元首相のあまりの影響で田中曽根内閣と呼ばれていた。後藤田さんは当初は内務省の二年後輩で君付けで呼んでいた者の下には就けないと固辞していたが、きちんと総理として立てていたのである。そして後藤田さんもリクルート事件の後、総理という声が上がったが、腰を上げることはなかった。
 伊東さんも後藤田さんも、大臣の声がかかるともったいぶった理屈を付けて飛びつく大臣病の政治家や若くして政界入りし、分不相応に総理を目指す政治家とは一味も二味も違う政治家だったのだ。

<民主党政権にこそ必要なドラッカー>
 民主党政権はどうもガタピシしていて、政権運営も国会運営もうまくいっていない。私は民主党が政権を獲れても、経験不足から相当すったもんだするだろうということは分っていた。特に政治主導、脱官僚政治とか言っているが、とてもそれを前面に打ち出しては、政治は出来ないと思っていた。ずっと野党だったのだし、ノウハウを持ち合わせていないので仕方がないにしても、少々ひどすぎるような気がする。
 政権内部の片隅にいる者として、深く反省し、なぜかと思いをめぐらすと、いろいろなことが分かってくる。原因は組織人がおらず、組織のマネジメントを経験した人が著しく欠如していることである。昨年は「もしドラ」(「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」(岩崎夏海)が200万部に達するベストセラーとなったが、民主党政権こそドラッカーが必要なのかもしれない。

2011年07月02日

キエフから児童・生徒が消えた1986年5月  クリミア保養地への学童疎開 - 2011.7.2 -

(4月下旬のチェルノブイリ出張の時に気になったことがあったが、本業を優先してきて報告が遅れてしまった。しかし、大事なことなので遅ればせながら今回報告する。)

<3回目のキエフ>
 キエフは正直なところ、日本とは縁遠い都市である。それでいながら私は今回で3度目の訪問となった。最初は1984年「鉄のカーテン」のソ連時代、行政官などとても入れてもらえなかった頃で、日ソ農業技術交流に紛れ込み、偽の土壌学者として訪れている。留学と赴任を除き3回訪問したのはワシントンDC以外になく、キエフは私にとって偶然馴染みの深い都市となった。
 今回は、通訳にオリガ・ホメンコさんというお喋りで活発な女性がついてくれた。文科省の給費留学生として東大で学び博士号も取得している才女だった。土壌関係の科学者会議では英語で発表していたので世話にならなかったが、ナロジチの菜の花プロジェクト視察はずっと付きっきりで助けてもらった。ウクライナは広く、目的地に行くのに時間がかかる。その車中ずっと喋りどおしだった。

<オリガさんの1986年4月26日>
 「25年前の事故の時、オリガさんはどこで何をしていたの」という質問に対する答は、私もあっと驚くものだった。無駄と思われるお喋りも役に立つことがあるのだ。
 何か大変なことがチェルノブイリで起こったらしい、という噂がパーッと広まった。近所の医者は危険を察知し、息子を遠くの知人に預けるべく空港に向かったが、キエフ脱出を図ろうとする同じような人ばかりでチケットは買えず、列車も満席。やむなく車を1日中走らせて別の都市に行き、そこで飛行機に乗せグルジアの友人のところに送り込んだ。ところがオリガさんは、父は出版社の社長、母は国語の先生であり、父の方針で抜け駆けは自制した。

<突然のクリミア保養地行き>
 すると、5月中旬、突然入学試験を前にした最高学年(日本の中学3年?)を除き、全小・中学生がバスに乗せられ、チェルノブイリから少しでも遠く離れた所(オリガさんの場合はクリミア半島の保養地)に送り込まれた。学校の門の前にバスが止まり、次々と乗り込まされ、何が何だかわからなかった。聞きつけた母親たちが集まり、泣き叫んでいた。子供たちもどこに連れて行かれるのかさっぱり分からず、不安な気持ちで旅立った。
 クリミアの保養地に着いた途端、着ている服は脱がされ、取り上げられた。オリガさんは、その服の柄を今も鮮明に覚えている。いつ帰れるのかもわからず、回りからは被爆者と言われ嫌な思いもした。その一方で、親元から離れ自立しなければならないので、洗濯をし合うなどクラス仲間とは絆が深まり、団結心が培われた。
 チェルノブイリ原発の爆発は10日間で一応おさまり、放射能漏れも少なくなったのだろう。3ヶ月後夏休みも終わりになる頃にはキエフに戻れた。

<誰も知らないキエフの大量学童疎開>
 それなりにチェルノブイリものを読んできだ私にとっても、子供が120km離れたキエフから大脱出した話は初耳だった。私は、すぐさまこの件を大使館や日本の関係者に電話で伝えた。私の出張目的は農地汚染による出荷制限や作付け制限、土壌汚染の除去等にチェルノブイリの経験を教えてもらうことだが、その前に子供の優先避難という大問題に出くわしたのだ。そして驚いたことに、私が電話で伝えた関係者の誰一人としてこの計画的学童疎開の事実を知らなかった。
 ウクライナ大使館は早速事実を調べてくれた。旧ソ連時代のことで資料はそれほど残っていないようだが、大使館の現地採用の人たちも皆大量学童疎開のことを知っており、オリガさんの話を補強してくれた。
 オリガさんの説明どおり、4月26日から1ヶ月の5月中旬にはキエフから子供がいなくなっている。幼児はどうしたかについては疑問が湧くが、多分避難させたくても母親も一緒となると施設の問題でできなかったのだろう。幼児は屋内退避できるが、元気盛りの小中学生は外に出るから無理と考えたのかもしれない。また小学校に上がる前の幼児は集団生活ができないため、仕方なく家に置かれたのかもしれない。

<ソ連もウクライナも子供の救出に全力>
 キエフの当時の放射能量は、ソ連政府が秘密にしており、分からないだろうというのがオリガ解説。秘密にし大袈裟にしたくなかったソ連政府とウクライナ共和国の間には、相当凄まじいやりとりが行われたことは想像に難しくない。しかし、子供を放射能汚染から守らなければならないというウクライナ側が、鉄の意志で大決行したのである。これは正確ではないが、オリガさんはウクライナの1人の女性幹部が必死で動いたという。
 農業や土壌について事故対応のことを聞いても、「大体1991年からは・・・」という答えしか返ってこない。つまり1986年はまだ旧ソ連体制下であり、ゴルバチョフの改革の時代と重なり、かつ崩壊寸前の状態でろくな対応策が講じられなかったのが伝わってくる。そうした中で、毅然と子供を救う行動に出たウクライナ共和国の英断、そしてそれを許したソ連邦幹部は危機管理の何たるかを知っていたのである。

<日本の農村が支えた戦争中の学童疎開>
 長野県は戦争中に学童疎開を積極的に受け入れており、関係者の話をたくさん聞いたことがある。
日本の学童疎開は、連合国軍により本土空襲が始まらんとする1944年8月4日に開始された。戦争中の学童疎開は、子供はやはり何としても救わなければと考えた故のこと。大都会の子供は村の有志の家やお寺に住みながら、数ヶ月から数年農村に助けて貰ったのだ。愚かな戦争に走った大日本帝国も、子供を守ることにかけては知恵を絞り、大胆な集団学童疎開を断行した。その数は40万人と推計され、これにより戦火を逃れ、大半は疎開先で終戦の日を迎えた。

<ウクライナの原発学童疎開と日本の子供の受け入れ申し出>
 福島原発のニュースが流れると、ウクライナでは日本大使館に子供の避難を受け入れるという電話が殺到したという。電話を受けた大使館員は、なぜそういう申し出が多いのか理由がわからなかった。キエフからの学童疎開という原体験があり、身につまされてこう申し出ていたのである。ウクライナで見る世界地図上の日本は、小さな点に毛が生えたくらいの広さで右端にある。福島原発事故で全国が汚染され、日本から子供を脱出させなければならないのではと、誤解するのも無理はない。
 日本は広島、長崎のことがあり、チェルノブイリ支援に相当肩入れしてきたが、そのことを何よりもウクライナ国民が承知していた。そして今度は同じようにお返ししようとしてくれているのだ。
日本とウクライナ、学童疎開の記憶には67年前と25年前の差があり、どうも日本では忘れ去られウクライナでは鮮明に残っているようだ。

テレビ出演のお知らせ

7月4日(月曜日)の下記番組に しのはら孝 が生出演します。
福島だけでなく首都圏各地の保護者からは、放射線量の値だけでなく、影響の大きい内部被ばくにについて不安を訴える声が相次いでいます。食事、給食、校庭や公園の地面などから、口に入るものに対しての基準や調査が、どのように定められ、活かされているのか、現状と今後について2時間の生放送で討論します。是非、ご覧ください。

番 組 : BSフジ LIVE PRIME NEWS
日 時 : 7月4日(月)夜20時00分~21時55分(生放送)
テーマ   「内部被ばくのリスクと安心への方策」

キャスター 反町理(フジテレビ報道局政治部長)
       八木亜希子(元フジテレビアナウンサー)

出 演  しのはら孝(農林水産副大臣)
      大塚耕平(厚生労働副大臣)
      西尾正道(国立病院機構北海道がんセンター院長)
      伊藤隼也(医療ジャーナリスト)    他
 
放送局 : BSフジ (BSデジタルチューナー内蔵テレビ、ケーブルテレビ、スカパーにて視聴可)

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