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2011年08月28日

鹿野道彦さんの確かな政局を見る眼 -05年8月8日の小泉郵政解散を予測(05.09.15のブログを再編)- 11.08.28

<05年9月の鹿野さん、苦汁に満ちたお祝い電話>
 9月11日の総選挙は、民主党にとって結党以来の大敗北となる無惨な結果だった。
郵政解散・総選挙という事態を予想しきれず、準備できなかった民主党の重大なミスが招いたものだ。
9月13日(火)午後9時頃、苦杯をなめた鹿野道彦さんから当選祝いの電話があった。私は慰めたいもののどう話したらよいかわからず、電話をできずにいたのに、自分のことには全く触れず、ひたすら大逆風の中での私の再選を喜び、民主党の改革、政権奪取、日本の再生について頑張るように励まされた。私には、とてもできない芸当である。当選10回(当時)、自民党時代に農林水産大臣、総務庁長官を務めたベテランのその気配りに頭が下がった。一つも愚痴は言わなかったが、はらわたが煮えたぎっていたに違いない。無念の敗北だったからである。

<05年3月に小泉郵政解散を予測>
 私は、民主党は幹部の政局判断ミスにより、かくも大量の落選者を出したことを明確にすべきだと思い、既に05年9月15日、ほぼ同様のブログを書いたが、今回の代表選に及び、鹿野さんがいかに政治を知っているかを知ってもらいたいので、少し書き直して再び紹介する。
 鹿野さんが私に小泉純一郎首相の郵政解散を最初に話したのは05年3月のことであった。次のようなやりとりの会話があった。
   「この次の選挙に向けて支持者訪問してるだろうな、小沢さんの言うとおりドブ板をやらないとダメだぞ」
   「はい、罪滅ぼしもあって、中山間地域を回りだしたんですが、あまり山の中で二度と来れないようなんで、支持者訪問を全戸訪問に切り替えて、谷から谷へと回っています」
   「バカ、何を悠長なことをやってんだ。この国会の会期末で小泉は郵政解散に打って出るはずだ。もっと人の多いところを早く回らないとダメだ」

<はずれ亀井予測と対抗法案まで準備した鹿野さん>
 8月だって亀井静香さんは、郵政解散なんて150%ないと言っていたのに、鹿野さんは3月に予測していたのだ。政治の師匠なので、私は半信半疑で里におり、鹿野さんのアドバイスどおり新興住宅の中でも人口稠密地帯を回った。
 鹿野さんは、郵政問題が国会で対立軸となる初夏には、民主党の郵政の対抗法案を用意し、先の国会に提出すべきだと主張し、かつ行動を起こしていた。口先だけが先行する政治家が多い中、鹿野さんは民主党の危機を察知し、素早い行動を起こした。まさに未熟な民主党議員の中にあって稀に見る先見の明のある熟練政治家なのだ。

<信念を貫く潔い政治家>
 他の同僚が次々と自民党に戻ったり、自民党と手を組んだりする中、ただひたすら二大政党制による政治改革の目標を追い続けた。その点、羽田さん、北沢さん、等と同じ筋を通す信念の政治家なのだ。
ところが、その鹿野さんも不運にも辞めた秘書が悪さをし、新聞ダネとなってしまった。そのため民主党に迷惑をかけないよう潔く離党した。これが原因で、それまで選挙には滅法強く、今同僚の近藤洋介さんの父近藤鉄雄さんと同じ選挙区でもほとんど負けたことがなかったのに、その後は小選挙区で負けるはめになってしまった。そして、前述のとおり05年選挙では議席を失った。

<赤プリの対抗法案作成会合>
 94年に自民党を飛び出してから11年、「今ほど政権奪取の好機はない」と意欲満々だった。「国民の為にも政権交代し、日本を再生せねばならず、小泉政権を早く終わらせなければならない」と民主党の煮え切らない対応に苛々していた。そして、そういう思いを同じくする同志と赤坂プリンスホテルで会合を持ち協議し、当時の幹部にも対抗法案の提出を促した。鹿野さんは、私に法案作りを命ぜられたが、農業再生プランもあったので断ったが会合には参加した。その結果、中野譲議員等が主要メンバーとなり対応法案も作り上げた。

<鹿野さんの必死の対抗法案をふみにじった、政局オンチの執行部>
 両院総会では、末松義規さんが鹿野さんの主張や対抗法案の必要性を訴えたが、岡田克也代表、仙谷由人政調会長等の執行部は、四の五の長々と言訳し、我々の主張を受け入れなかった。
鹿野さんは「小泉は昔からよく知っている。友人もいない。郵政民営化が趣味だ。国民のことも国家のことも考えていない。自民党のことも考えていない。自分の趣味の方が大切なんだ。だから常識も何も通用しない。解散でも何でもやる。それなのに何も準備しない民主党はボロ負けする」と珍しく嘆いた。

<自民党に騙され選挙中にブレて大敗北>
 一方、小泉総理は7月5日の衆議院での採決後、解散の準備を進めていた。私は鹿野さんの予想もあり、また少々こうした予知能力(?)も多少あるほうなので、森前総理の官邸での演技で解散を悟った。官邸で缶ビールはともかく、ひからびたチーズを出すなどありえないことだからだ。皆がまんまと騙されていた。
 民主党は議論をおそれ、守りに入ってしまったのだ。自民党の党を割る議論を高みの見物していたのだ。これでは、国民から見放されるのは当然である。
 選挙戦の最中にやっと気付いた岡田代表や仙谷政調会長が預け入れ限度額を1000万円から700万円とし、500万円にするとか、郵貯・簡保を縮小とか慌てて対案の説明を出した。岡田代表は民営化どころか廃止まで発言した。しかし、すべてが手遅れだった。
 この執行部が今再び幹事長と代表代行にいる。たてて加えて、10年の参院選の最中にも菅総理が消費税を巡り不用意な発言をして敗北した。やはりどうみても拙いのだ。これでは民主党がまた再びガタガタしているのもムベなるかなである。

<鹿野さんが戻ってきたのは天啓>
 この時の口惜しさは、私の当時のブログで表現したほうがよいのでそのまま再掲する。
「何よりも残念なのは、日本政界がこの事態を予測して手を打とうとした鹿野道彦さんを失ったことだ。これで政権交代がまた遅れ、日本の停滞が続くことになってしまった。民主党にとっても痛手で、政局を見る眼のある人がまた一人欠けたのだ。民主党の鹿野さんの必死の叫びに耳を傾けなかった幹部に猛省を促したいと思う。」

 しかし、天は我々をそして民主党を見捨てなかった。鹿野さんは09年選挙で復活した。予算委員長、農相と続けた今、日本の政治が鹿野さんを必要とする時を迎えたのだ。
 今、その時の鹿野さんの確かさを知る議員が鹿野さんを代表、総理にしようと団結して取り組んでいる。

2011年08月27日

鹿野さんと農業者戸別所得補償 -民主党政権交代のキッカケは鹿野NC農水大臣から- 11.08.27

<農業者戸別所得補償の本当の親、鹿野道彦>
私は、常々農業者戸別所得補償の「生みの親」は菅直人、「育ての親」は小沢一郎と言ってきた。代表としてはこの通りであるが、本当に農業者戸別所得補償を作ったのは誰かと問われれば、紙を書いて資料を作ったのは私だけれども、きちんと最初に作り上げた責任者は鹿野さんである。鹿野さんが政策マンであることを皆さんに紹介したい。

<47才で農林水産大臣就任>
私が鹿野さんを初めて知ったのは1989年、自民党政権下で、47歳の若さで農林水産大臣に就任した時である。今は亡き中川昭一さんが51歳で就いたのと比べても、いかに若手のホープであったかがわかる。よく言われているが、安倍派のプリンスだったのである。しかし、元々は運輸族であった。余計なことになるが、自民党は政権与党の知恵で、族議員を必ずしもその大臣にしないことがよくあったが、そのたぐいなのだろう。しかし、鹿野さんはこのチャンスを生かし、それ以降農林族の重鎮となっていく。

<21年前と比べ大忙しの農相>
大臣時代は、ウルグアイラウンド(UR)農業交渉が一番の重要な問題であった。昨年9月12日に大臣就任以来、口蹄疫、鳥インフルエンザ、菅総理の突然のTPP発言、そして東日本大震災、原発対応と非常に問題が多く発生した。これに対して、鹿野大臣は私に「30年も農林水産省にいた人に聞くけど、農林水産省はいつもこんなにドタバタしているのか?俺が21年前いた時は、UR以外そんなにあたふたするのはなかったけどなぁ」としみじみと呟かれた。

<私の民主党入り後の濃密な付き合い>
鹿野さんは別稿で触れるが、94年4月 自民党を飛び出され、野党議員となられ、97年12月には新進党の党首選で小沢一郎さんに惜敗した。その後、民主党に合流され、再び濃密的に付き合い始めたのは、私が03年11月に民主党に参画してからである。
そこで手をつけたのが鹿野ネクストキャビネット(NC)農林水産大臣の下、菅代表から依頼のあった農業再生プランをまとめることであった。鹿野さんの指揮下で、徹底的に50時間をゆうに超える議論の上、文章編は20ページ~30ページ。資料偏になると100ページを超える農業再生プランが出来上がった。うるさ方の意見にも真摯に耳を傾け、ダメなものはダメときっぱり突っ撥ねる。見ていて惚れ惚れする対応であった。それもそのはず民党時代に一週間も続く米価決定に何度も参加した政策調整のプロなのだ。
民主党の看板政策の一つとなる農業者戸別所得補償は、この時の政策をそのまま踏襲したものである。今4Kバラマキなどといわれているが、子ども手当についてはそういった政策資料の一つも存在しない。それに比べたら、いかにきちんとした政策か分かるというものである。すべて鹿野さんのリーダーシップの下であった。

<その頃できあがった鹿野さんと私の役割分担>
当時の野党民主党時代は常に、NC大臣会合で全てが決められていた。先輩の小平忠正さんから「篠原君、大変だぞ。農林関係の案件は、都市部の議員ばっかしだから、一回で通ることなくて三回か四回かやらなくちゃなんない」と忠告された。その会合に鹿野さんから補助者として出ろとの命が下った。色々なNC大臣から色々な意見をいただいたが、そういう意見に対し、鹿野さんは丁寧に説明し、私がドギツク反論したことを覚えている。
こういう役割分担、すなわち、鹿野さんが要所要所で重々しい発言をし、私があれこれ余計な(?)発言する図式は、現在の大臣・副大臣の関係も同じである。例えばTPPについて大臣は当然快く思っていなかったが、菅内閣に波風を立ててはいけないとそういったことはほとんど発言されず、私が表立って発言した。未熟な某大臣はそれに対し「篠原農水副大臣には苦言を呈さなければならない」などと記者会見で述べた。鹿野さんはまさに「ブリキのパンツ」(?)とやらで、国会答弁でもほとんど閣内不一致的発言はされなかった。格の違う抑制の効く大政治家なのだ。

<04年のトリオが6年後もトリオに>
このあと残念ながら郵政解散で議席を失われたが、09年に復帰され予算委員長を一年、菅内閣で2度目の農林水産大臣に就任した。04年に菅代表、鹿野NC農林水産大臣の下に作成した農業者戸別所得補償政策を、菅総理、鹿野農林水産大臣の下、副大臣として本格実施するというのは偶然とは言え、なかなかよくできた組み合わせだと思っている。手前味噌になるが、人事もチグハグな菅さんの数少ないうまくいった人事かもしれない。

<鹿野さんを知ってもらい代表、総理に>
古くから鹿野さんを知る人や、農林水産部門会議や農林水産委員会で接する機会のある人たちは、鹿野さんの人となりや見識をよく承知しているにちがいない。それをマスコミは、古手の議員は若い代表になると困るので鹿野さんを応援していると、間違い解説をし出す。政治の世界に長く身を置く人が、党内融和を図る為には鹿野さんしかいないという危機感から、自然と集まっているのであり、原因と結果を履き違えているのだ。
鹿野さんと身近に接した人は、必ず鹿野さんのファンになる。その証拠に、農林水産副大臣の筒井信隆、篠原孝、政務官の吉田公一、田名部匡代がこぞって鹿野代表・総理の実現に動いている。残念ながら、全国的知名度は立候補者の中で一番低い。これから数日間、鹿野さんを衆議院一期生140人や、参議院の一期生に知ってもらい、鹿野代表、総理の実現につなげなければならない。
民主党にはお喋りで目立ちがり屋が多いが、鹿野さんは、余計なことはいわない人格者である。そういう意味では民主党の幹部に欠ける資質の全てを備えた成熟した政治家なのだ。だからこそ揉め事ばかりの民主党に、政権与党らしいまとまりと落ち着きをもたらしてくれるにちがいない。

2011年08月23日

米・仏にみる国のトップの資格と選び方-米の州知事,仏の政治学院・ENA(国家行政学院)出身-11.08.23

<アメリカの厳重な選抜方法>
アメリカはNYやCAのように大きな州もハワイやアラスカのような小さな州も上院議員は2人(任期は6年)、まさに合衆国である。下院議員は任期2年で完全な人口比例。大体、議会制度は似ているが、アメリカの大統領の選び方はユニークである。
 共和・民主の2大政党制がまず大統領候補選びをする。今、各地で予備選が行われているが、ここで相当ふるいにかけられる。この期間約1年である。従って、いい加減な候補はとても生き残れない。ここで相当国民、マスコミのチェックを受ける。そして各党の大統領候補が決まってからも約1年かけて熾烈な大統領選挙が行われる。

<あまりに拙速な日本の選び方>
今、民主党の代表すなわち日本の総理がいとも簡単に10日ばかりで選ばれんとしているのと大違いである。いくら大統領制と議院内閣制の違いといっても少々差がありすぎる。執行部は、やれ今国会中に選ばないとならないだとか予算編成等の政治・外交日程上やむをえないとか言い訳しているが、あまりにも拙速である。少なくとも党員・サポーターにはきちんと説明してしかるべきであり、政策論争や人物見定めの期間がもう少し必要である。

<州知事でトップマネジメントを経験>
日本の総理の条件は前号で当選10回60才前後・・・と紹介した。アメリカにはそのような政界の不文律はないようだが、やはりどういった政治家が選ばれるかという傾向はみられる。例えば、最近ではカーター以来知事経験者が4人と一番多い。それまでは、やはり上・下院議員がほとんどである。最近は州知事としてトップのマネジメントを身につけた上で大統領になっているケースが多いことがよくわかる。州の運営と国の運営は大きさの違いで共通なのだ。

<短い政治暦>
別表1のようにしてみてわかったことだが、政界の重鎮として副大統領になり、大統領の辞任により大統領になった2人(ジョンソン、フォード)を除けば、政治家歴が20年を越えた者はいない。例えば、ケネディ14年、ニクソン18年、クリントン11年、オバマ11年と大体15年前後である。当然のことだが、対立候補も共和党、民主党の区別なく、大体同じ様な経歴である。ただ、政治家や行政官としての経験が10年未満の者などいない。

別表1(歴代アメリカ大統領の前歴、職歴)

<2期8年は5人のみ、43才のケネディから69才のレーガンまで年齢はさまざま>
日本と比べて任期が4年と決まっており、大体2期8年が普通と思われているが、戦後トルーマン以来12人のうち2期を全うしたのは5人だけにすぎない。やはり政治はめまぐるしく動くのだ。
就任年齢でみると、ケネディが43歳と最年少で40代がオバマ、クリントンの3人。レーガンが69才と最年長で、60代が5人、50代が4人、平均56才となっている。これは、日本の63才と比べて7才若い。世界を相手にする超大国アメリカのトップは体力も必要とされるからだろう。
国会議員ではいの一番に私の初選挙にかけつけてくれた中村敦夫は、政治も演技が必要であり、芸術家と同様旬は10年ぐらい、長くやってはならないと私に注意した。緊張感を持って当ればとても20年はやっていられないとも言った。アメリカの政治は、中村の言うとおり日本のだらけた政治と異なり長くはやっていられない厳しさがあるにちがいない。

<日本に似るフランスのトップの経歴と就任年齢>
次にフランスのド・ゴール(第5共和政)以来と比べてみる。
別紙2の通り59年以来50年余で大統領は僅か6人。ミッテラン14年、シラク12年、ド・ゴール10年と、10年以上が3人もいる。任期が5年ないし7年と決められているからであるが、それだけ選りすぐられた政治家がなっているからでもある。平均就任年齢は59歳である。また、大統領になるまで平均25年近くの中央政界政治暦があり、日本と非常に近い。ド・ゴール、ポンピドゥー、シラクの3人は首相経験者でもある。
一方、首相はとみると、大統領が気軽に(?)任命できるためか、意外と在職年数が短く平均2~3年であるが、そのほとんどが国務大臣を数ポスト経験している。平均就任年齢は、ミッテランが37歳のファビウスを抜擢したのを除き、大体50代で平均53才である。

別表2(歴代フランス大統領・首相の学歴・経歴) PDFファイル

<ねじれ国会も当然の保革共存政権>
今、ねじれ国会が法案を通らなくなり諸悪の根源のようにいわれているが、フランスは大統領の任期が長く、選挙はもっとずっと頻繁に行われるので、大統領と首相が違う政党となるケースがよくあり、コアビタシオーン(保革共存政権)と呼ばれている。
私はパリのOECD代表部に91年7月から3年勤務したが、大統領は社会党のミッテランの2期目の後半で、93年3月には保守系の共和国連合バラデュールが首相となり、典型的保革共存政権になった。しかし、だからといって国会が大混乱したなどということは聞いたことがない。整然と議論が行われていたのである。議論好きの成熟した国と議論下手の日本の差であろう。

<ENA卒業生が政界にも進出>
フランスの大統領、首相については経歴のほかに学歴も比べてみた。なぜかというと学歴こそ非常に似通っているからだ。74年のジスカールデスタンからサルコジまですべて国立行政学院(ENA)かパリ政治学院のどちらか1つを卒業している。首相も同様の学歴であり、同じ期間14人のうち10人が政治学院、ENAの卒業生である。
フランス人は個人主義的であり、政府に対する注文もうるさい。ルールを決めてもなかなか従わない。官なり政に対して厳しい目があるが、一方で、反発しつつも優れたリーダーに国を託すという気持ちも持っていることが感じられる。日本はどうも国民もマスコミも揚げ足取りが多すぎるような気がする。

<尊敬される大統領>
国民は、重々しい雰囲気を持った哲学者的なミッテランや、芸術も愛し日本の相撲も趣味の教養人シラクを愛し尊敬していたのである。そして、よく見ていると国民自身も将来トップリーダーになる政治家を、暖かい目で見て育成しようとしていることがうかがわれる。
 例えば、シラクはジスカールデスタン大統領の下、41才の若き首相となり、その10年後ミッテランの下でも首相となり、パリ市長も務めている。国民はシラクはいつかトップにと思いつつ、鍛えていたのかもしれない。そして62才で満を持して大統領になっている。フランスでは経験の浅い政治家が大統領選に出るといっても、まず同僚議員がとりあわず、マスコミも国民も相手にしないだろう。日本はその点どこかおかしい。

<首長と国会議員の兼職の意義>
シラクの例にみられるとおり、国会議員が首長(市町村長)してもよいことになっている。ベレゴヴォワ首相(名前から明らかなとおりウクライナの移民の息子で、国鉄の職員から社会党の政治家になり、ミッテラン政権下で首相に任命された。別表のとおり高学歴でない数少ない首相である)は、総選挙で日本のリクルート事件と同じような金銭スキャンダルにより歴史的敗北を喫し、責任をとって首相辞任した直後、自ら長を務める田舎町でピストル自殺している。
アメリカの州知事経験者と同様、地方のトップとしてマネジメントを経験しているのである。

<若き次次期大統領候補ル・メール農相(42才)にみるトップ育成の政治システム>
この6月、私はパリのG20農相会議に参加した。例によって国会中ということで、鹿野大臣の出席が野党の了解が得られず、急遽の代理出席である。
若干42才のル・メール農相が会議を主催し、2国間会議でも私のカウンターパートになった。経歴を見ると、エリートコースの典型で政治学院・ENA出身で外務省入り、ド・ビルバン首相の補佐官を経験した後、パリ郊外の選挙区をあてがわれ国会議員っている。フランスの政界に詳しい人によると、将来の大統領候補の一人だという。つまり42才の若き有望株は着々と政治の経験を積み重ねており、国民も同僚政治家もいつか大統領にと期待しているのである。

<日本にも必要なトップリーダー育成システム>
民主党は脱官僚を標榜して政権交代し、官僚を遠ざけている。しかし、それでは国は成り立たない。フランスの政治は優秀な官僚をフルに使い、政治にも取り込んでいる。つまり、国家という大組織の中で、行政経験を積み重ね、マネジメントのノウハウも身につけた政治行政のプロを要所要所に配置しているのである。日本はこうした点でフランスにもならうべきだろう。日本の場合、政権交代は出来たが、トップのリーダーを育てる仕組みが確立されていないということが一つの不幸であり、今の混迷の原因である。

自民党時代の総理の条件 -当選10回 60歳前後 党三役1回 閣僚3回(うち1回外務か大蔵)-  11.8.23

民主党政権が誕生し、鳩山由紀夫、菅直人と2人の総理が生まれたが、どうもピシッとしていない。トップが国を統治する政治家として訓練されてきていないのであり、ある面では仕方がないことである。
それに対して、各国の政治システムはいろいろ異なっているが、先進国にはそれなりの政治のトップをつくる仕組みというのが出来上がっており、自民党時代にもそれなりのものがあった。

<自民党時代の総理の条件>
最近40年、つまり田中角栄以降の総理がどのような経歴の持ち主かというのを表にしてみた。自民党政権ではよく、総理・総裁の条件として、当選10回60歳前後、党三役1回、閣僚3回で、内外務か大蔵(現財務)を1回経験するということがあげられていた。もっというと、3回のうち経済関係閣僚が2回というのもあった。
田中角栄、三木赳夫、福田赳夫、大平正芳まではこの条件を一つも外すことなく全部クリアしていた。三角大福中とか言われていたが、すべて条件を整えた大物が派閥の領袖をしていたことになる。反小沢と親小沢のようなひどい対立ではなく、総裁選で戦ってもお互いに枢要ポストに就いて政権運営では協力し合ったからだ。戦った相手方を排除したり、負けた側が足ばかり引っ張ったりすることは少なかった。閣僚が好きかってに発言することもずっと少なかった。今よりずっと大人の政治だったのだ。

<鈴木善幸総理の妙味>
大平の急死を受けて、急遽総理となった鈴木善幸は、外務も大蔵もやっていなかったものの、総務会長を何度もやって、他の条件は満たしていた。あまりにも熾烈な投票に飽きた自民党の知恵で選んだ温厚篤実なつなぎ役であり、それでも2年続いた。私は内閣総合安全保障関係閣僚会議担当室の末席で身近に仕えた。
中曽根も当選14回を数え、大臣は、科技、運輸、防衛、通産、行政管理と何度もやり、幹事長、総務会長2回と、外務・大蔵経験がなかっただけで、最も満を持して総理になった政治家の一人である。だから5年も長持ちした。思いがけずポッと首相についたのとはわけが違う。同年齢同期の田中に遅れること10年、しかし、大宰相となり今も健在である。急ぎすぎる若手には中曽根を見習ってほしいと思っている。
今からみると、人材がひしめく自民党の黄金時代だったのである。

<はじめての非自民政権の混乱>
その後、竹下登、宮澤喜一もすべての条件を備えていたが、宇野宗佑、海部俊樹は、党の役職と大臣の回数等で欠けている。当然のごとく細川護熙は役職や閣僚経験はなく、熊本県知事2期だけである。しかし、アメリカ同様、県の知事としてマネジメントの経験を積んでいた。羽田孜は、意外なことに党の役職はやっていなかったが、大蔵も外務もやり、農水大臣も2回と大臣の経験は豊富であった。当然社会党の村山富市は、閣僚経験はないが、55年体制の社会党国対委員長をやり、あうんの呼吸は心得ていた。何よりも人格者で誰からも嫌われない人だった。
その後、自民党政権にもどり橋本龍太郎、小渕恵三も完全に条件を備えていた。

<劣化した自民党総裁総理>
その後から、やはり自民党の劣化が見られるのかもしれない。森 喜朗、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫と続いたが、すべてどこか欠けている。例えば森は、党の役職は、三役すべてやっているが、大蔵・外務をやっていない。小泉にいたっては、大臣を厚生と郵政とやっているが、党の役職もなければ、外務・大蔵もなかった。それでもしつこく総裁選に出続け、最後には参議院選用の顔として選ばれ、田中眞紀子の効果もあり自民党が圧勝した。そして、中曽根を凌ぎ、5年も首相の座に居続けた。特異な才能のある、日本では珍しい政治家だった。

<選挙の顔で選ばれてしまった総裁総理>
しかし、自民党はこれ以降、与党たらんがため責任政党の理念を失い選挙の顔で総裁を選ぶようになり、例の厳しい総理の条件は消えてしまった。安倍にいたっては当選5回、福田も当選6回、党の役職も外務・大蔵も経験していない。短命に終わったのは、やはり経験不足である。
 選挙に負けて退陣したが、麻生が最近の自民党の政権の中では、形式上は全ての条件を満たしている。ただ、ほとんどは馬の合った小泉長期政権の時の急ごしらえポスト経験にすぎず、経験者の重さは感じられなかった。

<小泉により一挙に大衆化した日本の政治>
 菅直人は市民運動家から宰相に登り詰めた。しかし、それより先に大衆の心を掴んだのは、田中であり、小泉である。
 小泉により、日本国民は禁断の木の実を食べた。政治が面白くなったのである。これ以降、芸能人のスキャンダルや社会的問題よりも政治や政治家絡みの記事(といっても残念ながら政策論議ではないが)が多くなった。そして、週刊誌ネタを提供する目立った政治家や、TVで映りがよく喋りがうまい政治家がはびこるようになった。
今ようやくそうしたドタバタ政治も国民に飽きられている。いや、呆きれ果てられており、政治の信頼を取り戻すのは容易なことではない。大衆を再び沸かすとしたらもう日本初の女性宰相しかないが、そんなことをしている暇はない。地味で堅実な人に日本のトップになってもらい、じっくりと政治に取り組んでもらう以外はない。
民主党は政権与党になったものの、政権運営の稚拙さがたたり支持率は下がりっぱなしである。選挙基盤の弱い140人余の新人議員は自民党末期と同じく選挙の顔だけで代表を選ばんとしている。責任政党の堕落を意味しており、絶対に避けなければならない。

<是正すべき日本の制度的欠陥>
日本では、佐藤栄作の7年8ヶ月が最長で、最近では中曽根と小泉が5年持っただけにすぎない。かつて、竹下は、日本では「歌手と総理は2年の使い捨て」と嘆いていたが、今や2年持つと長いと感じられるようになった。小泉以降、安倍、福田、麻生、鳩山、菅と2年と持たないのだ。これでは対等の外交などできないのは当然である。日本の政治の安定のため、いつも不信任案に追いかけられ、参議院が必要以上に強い影響力を持ってしまう日本の制度的欠陥は修正しなければなるまい。

<珍しい元清和会の民主党議員>
 私が菅の次の首相に擁立せんとしている鹿野道彦に触れなければならない。
鹿野は清和会(福田派)のプリンスと呼ばれた。人を見る眼のあった福田は、自らの派閥は次は安倍、そしてその次に鹿野と指名していたという。責任あるトップは、トップになった途端に引き際を考え、次に後継者のことを考えるものだ。
しかし、安倍は、安竹宮小と呼ばれたポスト中曽根で竹下が選ばれ、宰相の座に就くことなくおしまれつつ外相で亡くなってしまった。このため順番が狂い、三塚博に引き継がれた。その後に鹿野は政治改革の熱情に動かされ、自民党を飛び出し、新党みらいを立ち上げた。民主党の元自民党は、羽田、小沢、渡部等 元経世会がほとんどだが、武村正義等と並び珍しく清和会出なのだ。羽田同様に昔の同僚の自民党議員からも嫌われていない人柄のよさがある。

<民主党のいぶし銀的存在 鹿野道彦>
 以来17年、野党を貫き通し、やっと政権交代にこぎつけ2度目の農相に就いた。歴史に、まして政治にはif(もし)は許されないが、安倍総理が誕生していたら、そして鹿野が自民党にとどまっていたら、とっくの昔に鹿野総理が実現していたかもしれない。
 当選11回、69歳 自民党で農相と総務庁長官の2回の閣僚を経験し、今2度目の農相。自民党で党三役はしていないが、自民党時代に小沢幹事長の下で副幹事長をやり、民主党で国対委員長として汗をかき、民主党では初代予算委員長を務めている。経歴という点では小沢に次ぐ。
民主党では羽田同様派閥活動は一切せず、地道に仕事をこなしてきた。自民党の派閥政治を批判していた民主党の中堅までが、○○会や○○グループを造って同じ穴の狢なっているのと大違いである。その意味では鹿野こそ民主党の理念を背負い続ける象徴的存在なのだ。
ここにも私が鹿野に期待する一つの理由が存在する。

総理の条件(日本版)PDFファイル

2011年08月19日

鹿野道彦農林水産大臣に代表選出馬を要請する -11.8.19-

今日、私は鹿野道彦農林水産大臣に対して、出馬要請をする会に参加した。8月11日の、定例の農林水産副大臣記者会見で、鹿野擁立を表明して以来、ずっとこの事務局的仕事をしてきた。それよりずっと前から菅総理のあとは鹿野さんしかいないと考えていたし、この件は菅総理にもとっくの昔に伝えてあった。
しかし、菅総理が、きちんと退陣を表明するまでは、一切の活動を控えていたが、先々週、6月2日以来やっと三条件が整った時の退陣を表明したので、私も鹿野擁立の会合に参加することにした。
 今日は同僚の小山展弘さん(1期目)が皆でまとめた要請文を読み上げた。鹿野大臣はそれを受け止め、菅総理が正式に退陣されたのちに出馬表明されることになると思う。鹿野さんとはそういう人なのだ。
 この正式な要請文は新聞各紙にも報じられると思うので、私なりの原稿(2案まとめたが、より率直なほう)を皆さんにお伝えしておく。
 また、これから代表選に向け数回、なぜ鹿野道彦大臣なのかについて発信することにしたい。

鹿野大臣出馬要請文(篠原案)
今、日本は、戦後最大の危機に直面しています。失われた20年の中、リーマン・ショックからなかなか立ち直れずにいました。そこに3月11日の東日本大震災です。もし、地震と津波だけだったら、我々は既に復興に向けて新たなスタートをきっていたかもしれません。しかし、福島第一原発の事故が追い討ちをかけ、漠然とした不安が日本全体を覆っています。
 こうした閉塞的状況を打破し、21世紀の中盤に向け明るい将来を切り開くのが政治の役割です。
 2年前、日本国民は民主党に期待し、我々にとっては念願の政権交代の目的を達成することができました。ところが、この2年間の政治状況をみると、とても国民の負託に応えるものではありませんでした。ことのほか、首相のリーダーシップの欠如が混乱の一つの原因となりました。民主党二代目の菅直人首相が退陣を明言するに至り、幾多の同僚が代表選に名乗りを上げています。
 国民が今必要としている新しい首相(民主党代表)とはどういう人なのでしょうか。
 我々は以下の条件にピタリと合う方は鹿野道彦さんしかいないという結論に至りました。
 第1に、バラバラ感の強い民主党をまとめあげられる人でなくてはなりません。
国民の要望も様々ですし、民主党の意見も大きく分けることがままあります。そうした中、長年の野党の癖が抜けず、立派な意見をすぐさま言い放ち、我を通そうする人が多く、なかなか政策がまとまりません。今必要なのは、皆の意見を聞いてそれを一つにまとめる政策を打ち立て実行する人でなければなりません。
第2に、若い未熟な政党である民主党をぐいぐい引っ張っていける力強さを持った人でなければなりません。
それは、何も強がりを意味しません。困難な政策決定に臨み、的確な判断を下し、堅実に実行していく人でなければなりません。
第3に、今の日本の政治には安定感が求められており、やはり政治経験が長く、どんな難しい局面に向かっても舵を正しい方向に切れる人が必要です。
順風満帆の時は別として、困難な時には経験がものを言います。民主党が小泉郵政選挙で大敗し、その後、偽メール事件でどん底にあった時、渡部恒三国対委員長が平成の黄門様として明るさを呼び戻し、小沢一郎代表の下、07年参議院議員選挙の時に1人区で大勝利し、その後の政権交代のきっかけを作りました。今また未曾有の困難な時にはベテランに手綱を預けるしかないのです。
民主党の政治を実行する上でねじれ国会は大きな障害となります。しかし、しかるべく議論を重ね、野党の理解を得るならば、何も恐れることはありません。
第4に、国会運営をスムーズに行なうためには、野党の信頼も不可欠です。その点、自民党で2つの大臣も経験され、新進党時代は公明党とも行動を共にされた鹿野道彦さんはとても信頼が厚いのです。
我々は、以上4つの理由から、鹿野道彦さんに民主党代表選に出馬していただきたく、ここに要請いたす次第です。