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鹿野道彦52票への道のりと意義 -11.9.23-

鹿野道彦52票への道のりと意義

 野田内閣が発足して3週間、いまさら代表選などどうでもいいと思われるかもしれないが、今後のためにもきちんと記し、報告しておきたい。

<鹿野さんを意識した始まり>
 私が鹿野総理を意識したのは、トロイカ体制が崩れかけたとき、すなわち鳩山首相が退陣し、期待して余計な注文、アドバイスもして必死で支えてきた菅総理がTPPを突然言い出し、その後もヨタヨタしかけたときである。政治経験からいえば、小沢さんが最初だが、3人の中ではあくの強くない中間の鳩山さんが先になり、なるべく長くやり、慣れた後に菅さんなり小沢さんに交替するのがベストだった。その間に未熟な民主党議員が政権運営を体で覚えないとならないと思っていた。

 ところが何事も思いどおりにいかない。菅さんは鳩山さんの突然の退陣により準備不足の中で総理になってしまった。当選9期でも、思いつきの文句ばかり言っていればいい野党と政権与党の議員は、違った資質が必要なのである。とても1年では方向転換できないことがわかっていた。
 二人の不慣れ度合いが、私の想像以上だったので、次は経験を積んだ鹿野さんしかないと思い始めた。そこで、何人もの同僚に民主党をまとめるのは鹿野さんしかいないという「つぶやき」を開始した。仲間を増やすためである。

<松木さんとの秘密の約束>
 その一人が松木謙公前農林水産大臣政務官(当時)である。仕えてみれば鹿野さんの人物の大きさ、実力がわかるからだ。それよりも何よりも、藤波孝生さんの秘書として、鹿野さんの政治活動をじっとみてきており、私が鹿野さんの政治家としての器の大きさを解説する手間が省けた。
 松木さんは今、菅首相不信任案に賛成し、一人筋を通し民主党を除名されている。それにもかかわらず、今回の鹿野さんの出馬に対し、「民主党にいたら小沢さんにことわって、鹿野陣営に馳せ参じた」とエールを送ってくれた。

<鹿野総理 マスコミ初登場>
私のつぶやき相手に議員の一人が、鹿野さんを紹介してくれと面会を求めてきた。またある議員は、「小沢さんの言いなりになるのでは」と失礼なことも言ってきた。鹿野さんは、知られておらず誤解されていた。
最初に鹿野首相案が出たのは、2月20日のサンデー毎日である。半分は、私のいつもつぶやいた話で埋まっていた。私は松木さんの他にはあまり喋っていないので、松木さんに「喋ってはダメだ。潰される」と小言を言った。そう言えば、親しい記者にも盛んに宣伝していたのでそっちから出たのかもしれない。
一方、幹部に対し、「鹿野幹事長なら民主党内はまとまり、菅政権は長持ちし、政治は安定し、国民のために一番よい」と言ったが、さっぱり実現しなかった。鹿野さんを党の要にしていたら、民主党はこんなにガタつかなかったことは間違いない。

<出来上がった精緻な議員情報>
ところが私は、副大臣といえども菅内閣の一員である。菅総理が明確に退陣表明するまでは一切の表立った活動はしないことにした。そうした中、私は、短期決戦に備え、全議員の携帯電話番号を機会を捉えては収集し、秘書に名簿の作成を命じていた。
投票依頼、つまり選挙運動用の議員情報は、選挙区や当選回数、所属委員会といったものの他に、携帯電話、グループ、1期生には職歴、学歴からの接近もできるようにと簡単な履歴と研修グループ(山岡国対の下の研修)まで書き込んだ。民主党はじまって以来の精緻な(?)議員名簿ができあがった。

<着々と進む事前準備>
菅総理は、6月2日以来退陣を明らかにしたのかしないのかわからないという状況が続き、そこそこ明確にしたのは8月11日のことであった。私はこの日からほぼ公然と鹿野選対活動を開始した。それよりも2~3ヶ月早く、同僚の筒井副大臣が木曜会という勉強会を組織し、鹿野総理実現に向けて仲間を集めつつあった。私も気持ちとしては出席したかったが、菅総理への操(?)を守り、また農林族ばかりが推しているという印象を与えてもよくないので、我慢して出席しなかった。
ようやく出席したのは、その後にメルマガ、ブログ用に作成した資料をもとに話をしに行った時である。

<ブログで鹿野さんを側面支援>
この間に私は、日本の総理の条件と米仏の大統領、首相の選び方の2つの理論編 と鹿野さんを紹介する2つのブログを作成した。そこそこ知っている1期生に配布するつもりだった。1期生は、国のトップを決める大事な選挙であることを認識してほしかった。また、5人の候補の中で、一番地味で知られていない鹿野さんを皆に知ってもらいたかったからだ。
 ただ、逆に反発を食らったりして敗因になったりすると大変なので、一応幹部に相談したところ、なんと全員に配布することになってしまった。あまりにも派手派手しいもので嫌だったが、私が留守にしていた27日夜に決められていた。

<鹿野さんの出馬表明は菅総理退陣後>
律儀すぎる鹿野大臣が我々の再三の要請にもかかわらず、どうしても出馬表明されないので、8月19日我々は仕方なく出馬要請をして、勝手に選挙運動をするという形をとった。新紀尾井町ビルの7階に選対本部も設置され、朝と夕、会議が開かれ、私が作成した議員データに基づき、電話や訪問による働きかけを開始した。その際、電話のかけ方等について「短期決戦マニュアル」を作成してメンバーに参考にしてもらった。

<なかなか思い通りに進まない勧誘>
ところが、残念ながら、鍵を握る143名の衆議院議員1期生への電話かけをする1期生が5~6名しかおらず、予定通り進まなかった。会合への参加だけで、自ら投票依頼をする選挙活動をしない人も何人かいた。また、私の作成した資料が他候補に流れていたことがわかった。寄せ集めのグループの限界である。ただ、ああしろこうしろと強制は一斉しなかった。それぞれできる範囲で鹿野さんを応援してくれれば十分という姿勢を貫いた。
私はというと、電話をかけまくったが、いかんせんやはり1期生は付き合いが限定された。1期生は何よりも1期生同士で付き合っている。マスコミ報道されているとおり、我が陣営は比較的当選回数の多い者が多く、1期生に働きがけできる人数が限られていた。5~6期以上となると重鎮すぎて電話をかけにくいし、大体誰に投票するか見えていた。

<民主党の良心が集まった52票>
新聞報道されており、よく知られているので、野田代表選出までの詳細な報告は避ける。
我が陣営に集まった人は、私をはじめとして党内融和を第一と考え、それには鹿野さんしかいないという健気な人たちばかりである。新聞はワンパターンで、年配の議員が、若手が代表になると働く場がなくなるから69才の鹿野大臣を担いでいると報じたが、順序が逆なのだ。鹿野さんを紹介したブログで明らかにしたように、信念を貫かれた政治家を知る当選回数の多い議員が集っただけの話なのだ。若手は鹿野さんの何たるかをしらないだけのことだ。
前原さんの出馬、鹿野さん2位予測にびっくりした他陣営の引き剥がし等いろいろあったが、52票は民主党の良心の表れともいえた。一部の成熟した政治評論家が鹿野さんが適任と解説した。山口二郎北大教授、鈴木修 スズキ自動車会長も鹿野さんでなければと支持してくれたが、知名度不足のまま4位に終わった。
決選投票で鹿野さんの(上着を脱いで2位に投票という)決断に従い、一致団結して行動し、野田政権が誕生した。我々にとってはまことにすがすがしい選挙戦だった。
29日の反省会は、マスコミも報じたとおり、祝勝会のような明るい雰囲気だった。我々の活動がこの次の民主党の活力につながり、日本の政治の安定につなげなければならないと決意を新たにした。