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2011年09月29日

代表選ちょっといい話 11.9.29

 代表選ちょっといい話 その1
 松木けんこうさんの人情投票

<首班指名は記名投票>
国会の1番重要なものの1つである首班指名は、記名投票で決められる。つまり、左側に「篠原孝」と書いた上で「野田佳彦」と書く。各党ともその党首名書くのが普通である。
ところが、今回、小沢一郎と海江田万里が1票ずつあった。私は、松木さんは相変わらず小沢一郎命だなあと感じて電話をした。ところが、小沢一郎と書いたのは、元秘書で民主党を離党している石川知裕さんで、松木さんは海江田万里と書いていたのだ。


松木さんは、ただ一人、菅直人総理の不信任案に賛成し、民主党を除名されている。ところが、一新会の重要メンバーであり、TPPを推進してきた海江田さんの擁立はいかがなものかといろいろ注文をつけたらしい。その結果かどうかはしらないが、海江田さんは、5人の候補者が揃った討論会で「TPPは慎重に検討する」と答え、趣旨を変えたことにどよめきが生じていた。

<民主党代表選で投票できないかわりに国会で投票>
松木さんの説明は以下のとおりだった。
自分たちの要望を聞いて海江田さんの元来の主張を曲げて、TPPを慎重にと言ったのに、自分は、民主党から除名されていて、代表選では海江田さんを投票できなかった。その分、投票権がある本会議の場で投票したのだという。海江田さんの柔軟な対応に敬意を表すべく一票を投じたのだ。大勢には影響のない無効な一票だが、彼はまた自分なりの筋道を通したのである。
私はこの説明を聞いて唸ってしまった。松木さんは、一般の民主党議員からみると何か変な行動をしているように見えるが、ひょっとしておかしいのは他の議員たちで、松木さんこそ当たり前のことをしているのかもしれない。


 代表選ちょっといい話 その2 
 鹿野さんの上着のシグナル

連日開催された鹿野選対会議も、8月28日夜最終段階を迎えていた。私の票読みによると53票だった。従ってとても当初に目標した2位は無理で、決戦投票では1位か2位のどちらかに投票しなければならないというのが見えてきた。

<自主投票から鹿野さん一任へ>
そこで議論が始まった。正直な者が、自主投票とポロリと漏らした。もっと正直に「どうも野田Gや前原Gのチャラチャラした人たちは嫌いだ」と言う人がいた。ずっと楽しくやってきた選挙戦の中で、ちょっと気が滅入る場面だった。私は我慢できず発言した。
「親小沢、反小沢の内輪揉めばかりじゃよくないから、鹿野さんを代表にして党内融和を、と主張してきたのだから、その我々が、あっちが嫌だこっちが嫌だと言っても始まらない。この際、一致団結して投票することにして、鹿野さんに任せましょう」

<TV時代に合った上着を脱ぐ合図>
異論は無かった。静かな私の一言が、野田政権誕生への重要な一石となったのだ。
その後、どうやって鹿野さんの決断を皆に知らせるかについて議論となり、誰が言い出したか、「上着を着たままなら1位に、脱いだら2位に」ということで決まった。
こうしてTVで何度も流された、上着を脱いだ鹿野さんが出来上がったのだ。翌日の小学校6年生の国会見学では、野田首相は皆が知っていたが、鹿野さんは知らなかった。しかし「あの上着を脱いだ人か」と気付いてくれた小学生も現れた。

<久方振りの下位連合の勝利>
第一回目の投票が、海江田143、野田102、前原74、鹿野52、馬淵24だったが、2回目の決戦投票は、野田212、海江田177、無効3となった。数合わせをしてみると、野田・前原連合、馬淵を加えてもまだ16たらない。明らかに鹿野さんの上着脱ぎで、約40以上が野田に流れたことは間違いない。全く知らなかったが、党首選で下位連合が逆転勝利を収めたのは、55年振りだという。
もし、着たままだったら海江田215、野田174となったというのが私の計算である。また、鹿野グループはもともと小沢グループの人たちが大半であり、自主投票なら海江田と書く人が多く、やはり野田政権は誕生しなかったことになる。

<感謝の念のない野田陣営>
判断基準は、鹿野さんがマスコミの前でいみじくも述べたとおり、党内融和である。それには鹿野さんが一番だったが、2番目は野田さんであろう。
海江田陣営は、この厳然たる事実を認識し、鹿野さんにしてやられたと思っているが、どうも野田陣営はユーモア演説による1回目102票の勢いで勝利したと思い込んでおり、あまり感謝の念がないようである。

代表選こぼれ話 11.9.29

 代表選こぼれ話 その1
 皆が実践し、私が違反した「短期決戦マニュアル」

私は、別稿のとおり、鹿野グループの代表選の雑務を相当こなした。8月19日の出馬要請文やよりくだけた政策ビラ等も作成したが、ついでに短期決戦マニュアルを作成した。

<外部に漏れたマニュアル>
いつも選挙の時にする電話掛けの代表選版で、あくまで低姿勢、1期生重視、くまなく働き掛け、他候補の悪口は言わない等、当たり前のことだった。ただ鹿野さんの人となりのPR部分が入っているのが違うだけだった。ところが、これが外部に漏れることとなり、マスコミにも取り上げられることになった。私は忙しくてニュースも見ておれなかったが、TVにもそこかしこで取り上げられ、読売新聞にも主な部分が掲載されてしまった。
秘密ものということもないが、外部に出すものでもない。こういうものを外に出したり、やたら喋る人がいるのは困ったものである。内部でも、こんなものを作るのがいけないという人がいたが、私は珍しく声を荒げて、こんなものを外に出す者を叱るのが筋だと反論した。
ちょっと愚痴を言えば、民主党をまとめなければという健気な人たちの集まりではあったが、当選回数が多い方々なので私のマニュアルどおりこまめには電話掛けなどをしてくれる人は少なかった。5人の候補の中で、鹿野さんが一番知られていないというのに、1期生が5~6人しかいないというのも残念であった。

<他陣営にも活用される>
8月26日、菅総理の退陣を受けて、ようやく鹿野候補の会館回りを開始した。衆議院議員1期生143人が鍵をにぎり、よく挨拶する必要があった。私は人の名前と顔を覚えるのは自信があったし、これまた私が随行し、次の部屋に行く前に選挙区や特徴を耳打ちしては次々回っていた。
すると、明らかに他陣営の参謀の一人が、私を掴まえて、「あのマニュアルは篠原さんが作ったんでしょう。よくできているし、本当にその通りなんで我々も使っていいですか」と聞いてきた。皆に知れわたっているのだし、私は苦笑いして「どうぞご自由に」と答えるしかなかった。
私の作成した資料は、精緻な議員情報もマニュアルも他陣営でもそれなりに活用されたようである。

<説教する私が違反者?>
これで終わるかと思ったら、マニュアル話が投票日に再び登場してきた。
予想通り、1回目の投票で半数に達する人はおらず、決戦投票となった。その間の10分間のトイレ休憩。いつもと違い、男子トイレは長蛇の列。10分後には投票が始まり、民主党の3人目の総理が決まることもあり、皆緊張した面持ちである。少々出が悪くなった(?)用を黙々とたしている中、私と目を合わせた幹部が突然大きな声を出した。皆黙っている中なので、トイレの中のほとんどの人に聞こえていた。
「篠原さん、自分で作ったマニアルどおり、自分できちんとやったの」
これを聞いた何人かがクスクスと笑った。つまり、私が熱心さのあまり、さっぱり低姿勢ではなく、ついつい説教調になってしまったことを冷やかしたのである。その辺の事情を知る人だけが笑えたのである。
私は、知っているほとんどの人に電話をかけまくった。中には親しい議員もおり、ぐちぐち言うのでつい口調がきつくなってしまったのかもしれない。鹿野グループの他の者も同じように電話で依頼している。その者に対し「篠原さんが2~3度電話かけてきたけど、だんだん説教調になった」と答えたという。これがその時の幹部にも伝わったようだ。
どうも、私が相当熱心に選挙活動をしていることが相当の人に伝わっていたようである。


 代表選こぼれ話 その2
 「衆・1期生の皆さんへ」から「民主党国会議員の皆様へ」

<党員・サポーターを無視する勝手な選挙日程>
それにしても、いずこも権力を握った者が勝手をし出す。恒例の(?)途中辞任だから党員・サポーター選挙をしないのは仕方がないとしても、告示が27日(土)、投票が29日(月)というのは、あまりにひどすぎる。執行部の担ぐ準備の整った候補で有利に運ぼうとしたことは誰の目にも明らかだった。私は、こうした理不尽なことには歯向かわずにはおれない性分である。

<メルマガ・ブログと紙でPR>
鹿野さん擁立に当たって一番の問題は、1期生議員等に知られていないことだとわかっていた。だから一刻も早く選挙活動を始めたかったが、私も菅内閣の一員、菅総理が明確に退陣表明しないのに、閣内にいて開けっ広げに鹿野さんのPRをして歩くわけにはいかなかった。そこで、誰にも文句を言われないメルマガ・ブログに関連するものを書き、それを私の付き合いのある1期生議員に配布することにしていた。公式の選挙期間がたった2日、しかも鹿野さんが律儀に菅総理が辞めるまでは選挙活動をしない中、せめてもの限られた手段だった。

<一期生を標的>
どうでもいいことだが、代表選には公職選挙法の適用もなく、何をしても自由なのだ。だから、自民党ではニッカ、サントリーと実弾が飛び交ったと言われているが、民主党はただ電話賭けとビラを配るくらいである。今回は前原さんについて悪口満載の怪文書(?)が配布されたが、全体としてみれば、いたってきれいなものである。
日米仏でトップがどう選ばれるかという理論編2つ(自民党時代の総理の条件-11.8.23-、米・仏にみる国のトップの資格と選び方-11.8.23-)、鹿野さんの紹介編2つ(鹿野さんと農業者戸別所得補償-11. 8.27-、鹿野道彦さんの確かな政局を見る眼-11. 8.28-)を書き上げ、早めに配布する手筈を整えていた。山岡国対研修の私の班員14名、財務金融委員会16名、農林水産委員会16名等と数え上げていくと、143名中半数近くと交流があった。たぶん、1、2期性以外で1期生の名前と顔が一番よくわかるのは私かもしれない。

<いつの間にか民主党全議員配布>
準備が整ったところで、あまり出すぎたことをして票を減らすのもよくないので、大畠選対本部長と増子広報担当に了解をとろうとしたところ、せっかくなので全民主党議員に配布するということになってしまった。そこで、昔の幹部批判の部分を少々修正して前民主党議員に配布した。
しかし、そのため配布が2日遅れ、投票日までにいったい何人の議員が目を通してくれたが疑問である。親しい議員に聞いたところ、3分の1は読んでいたが、3分の1くらいは表紙だけ見たとかあやふやな答で、がっかりし、選挙戦が1週間近くあり、読める時間がもっとあったら、もっと得票できたのかもしれない。

<国会議員の活字離れとマスコミの無関心>
国会議員はだんだんずぼらになり、本も読まず、書類にも目を通さず、耳学問だけになっていく。そうした中、私の紙は合計14ページ、国民よりもずっと早いペースで進む(?)国会議員の活字離れの中、その他大勢の書類に埋もれたままになってしまったようだ。
マスコミもどうせ扱うなら、誰にもわかる電話かけの短期決戦マニュアルなんかではなく、少なくとも米仏のトップの選び方くらいには触れていいと思ったが、皆無だった。どうも小沢詣でだとか、票の引っ剥がしとかばかりに関心がいき、まじめな大切なことには目がいかないようである。

2011年09月28日

鹿野グループ「素交会」の結成と私の新しい任務 11.9.28

 民主党には、自民党と比べて確たる派閥は存在しないとよく言われる。しかし、小沢グループはしっかり140票を確保できる強固な組織であり、前原さんを長とする凌雲会も一応厳格なグループにしているという。

<最多のグループに加入>
 かくいう私は、3年前に民主党の中でも最も多い5つものグループに所属すると記者に指摘された。誘われると断れない弱い性格(?)の故かもしれないが、実質的に参加していたのは2グループくらいだった。
 もっとも閉鎖的な一新会は、1期生の時に2人の同期議員から強く要請され入ったが、2009年民主党の大勝利の後、めでたく(?)やめてほしいと言われてやめることになった。そして、今回、再び5つ目が加わる。

<鹿野グループ「素交会」の結成>
 鹿野さんを中心として「素交会」が組織され、私が雑用を引き受ける事務局長となったからだ。
 グループもなく52票の良心の票が集まった。これをそのままにしておくのはよくないと考えたのは私だけではなかった。今後もまた親小沢と反小沢で内輪揉めが起きるかもしれないし、その時は、我々のグループが民主党をまとめる橋とならなければならない。そのためには、今後も同じ思いで一致団結し、同じ考えの同志を集めておくことに如くはない。
 閉鎖システムをとるグループは木曜の昼に一斉に会合を開いているが、素交会は火曜日の開催として、来る者拒まず、去る者追わず、完全なオープンシステムで運営することとしている。今のメンバーは、当選回数が4~6回ぐらいが中心であるが、今後広く心ある1~3期生に参加してもらいたいと思っている。

<今後1年の私の任務>
 順序が逆になったが、私は、野田政権下で、環境委員会の理事、倫選特(政治倫理の確立及び公職選挙法改正に関する特別委員会)に所属し、党としては、副幹事長を務めることになった。委員会は、環境委が2回目、倫選特は3回目であり、前者は瓦礫処理と原発対応の仕事が加わり、後者は2倍の格差是正、定数削減等が課題である。いずれも私の望んだ委員会である。副幹事長としては、農水、外務、財務の3つを担当することになっている。
 それに、上記の素交会の事務局長が加わった。ひょっとすると、後の順からたいへんな仕事であり、労力がかかるかもしれない。いずれにしろ、日本の政治の立て直しのために全力を尽くしていくつもりである。

2011年09月23日

鹿野道彦52票への道のりと意義 -11.9.23-

鹿野道彦52票への道のりと意義

 野田内閣が発足して3週間、いまさら代表選などどうでもいいと思われるかもしれないが、今後のためにもきちんと記し、報告しておきたい。

<鹿野さんを意識した始まり>
 私が鹿野総理を意識したのは、トロイカ体制が崩れかけたとき、すなわち鳩山首相が退陣し、期待して余計な注文、アドバイスもして必死で支えてきた菅総理がTPPを突然言い出し、その後もヨタヨタしかけたときである。政治経験からいえば、小沢さんが最初だが、3人の中ではあくの強くない中間の鳩山さんが先になり、なるべく長くやり、慣れた後に菅さんなり小沢さんに交替するのがベストだった。その間に未熟な民主党議員が政権運営を体で覚えないとならないと思っていた。

 ところが何事も思いどおりにいかない。菅さんは鳩山さんの突然の退陣により準備不足の中で総理になってしまった。当選9期でも、思いつきの文句ばかり言っていればいい野党と政権与党の議員は、違った資質が必要なのである。とても1年では方向転換できないことがわかっていた。
 二人の不慣れ度合いが、私の想像以上だったので、次は経験を積んだ鹿野さんしかないと思い始めた。そこで、何人もの同僚に民主党をまとめるのは鹿野さんしかいないという「つぶやき」を開始した。仲間を増やすためである。

<松木さんとの秘密の約束>
 その一人が松木謙公前農林水産大臣政務官(当時)である。仕えてみれば鹿野さんの人物の大きさ、実力がわかるからだ。それよりも何よりも、藤波孝生さんの秘書として、鹿野さんの政治活動をじっとみてきており、私が鹿野さんの政治家としての器の大きさを解説する手間が省けた。
 松木さんは今、菅首相不信任案に賛成し、一人筋を通し民主党を除名されている。それにもかかわらず、今回の鹿野さんの出馬に対し、「民主党にいたら小沢さんにことわって、鹿野陣営に馳せ参じた」とエールを送ってくれた。

<鹿野総理 マスコミ初登場>
私のつぶやき相手に議員の一人が、鹿野さんを紹介してくれと面会を求めてきた。またある議員は、「小沢さんの言いなりになるのでは」と失礼なことも言ってきた。鹿野さんは、知られておらず誤解されていた。
最初に鹿野首相案が出たのは、2月20日のサンデー毎日である。半分は、私のいつもつぶやいた話で埋まっていた。私は松木さんの他にはあまり喋っていないので、松木さんに「喋ってはダメだ。潰される」と小言を言った。そう言えば、親しい記者にも盛んに宣伝していたのでそっちから出たのかもしれない。
一方、幹部に対し、「鹿野幹事長なら民主党内はまとまり、菅政権は長持ちし、政治は安定し、国民のために一番よい」と言ったが、さっぱり実現しなかった。鹿野さんを党の要にしていたら、民主党はこんなにガタつかなかったことは間違いない。

<出来上がった精緻な議員情報>
ところが私は、副大臣といえども菅内閣の一員である。菅総理が明確に退陣表明するまでは一切の表立った活動はしないことにした。そうした中、私は、短期決戦に備え、全議員の携帯電話番号を機会を捉えては収集し、秘書に名簿の作成を命じていた。
投票依頼、つまり選挙運動用の議員情報は、選挙区や当選回数、所属委員会といったものの他に、携帯電話、グループ、1期生には職歴、学歴からの接近もできるようにと簡単な履歴と研修グループ(山岡国対の下の研修)まで書き込んだ。民主党はじまって以来の精緻な(?)議員名簿ができあがった。

<着々と進む事前準備>
菅総理は、6月2日以来退陣を明らかにしたのかしないのかわからないという状況が続き、そこそこ明確にしたのは8月11日のことであった。私はこの日からほぼ公然と鹿野選対活動を開始した。それよりも2~3ヶ月早く、同僚の筒井副大臣が木曜会という勉強会を組織し、鹿野総理実現に向けて仲間を集めつつあった。私も気持ちとしては出席したかったが、菅総理への操(?)を守り、また農林族ばかりが推しているという印象を与えてもよくないので、我慢して出席しなかった。
ようやく出席したのは、その後にメルマガ、ブログ用に作成した資料をもとに話をしに行った時である。

<ブログで鹿野さんを側面支援>
この間に私は、日本の総理の条件と米仏の大統領、首相の選び方の2つの理論編 と鹿野さんを紹介する2つのブログを作成した。そこそこ知っている1期生に配布するつもりだった。1期生は、国のトップを決める大事な選挙であることを認識してほしかった。また、5人の候補の中で、一番地味で知られていない鹿野さんを皆に知ってもらいたかったからだ。
 ただ、逆に反発を食らったりして敗因になったりすると大変なので、一応幹部に相談したところ、なんと全員に配布することになってしまった。あまりにも派手派手しいもので嫌だったが、私が留守にしていた27日夜に決められていた。

<鹿野さんの出馬表明は菅総理退陣後>
律儀すぎる鹿野大臣が我々の再三の要請にもかかわらず、どうしても出馬表明されないので、8月19日我々は仕方なく出馬要請をして、勝手に選挙運動をするという形をとった。新紀尾井町ビルの7階に選対本部も設置され、朝と夕、会議が開かれ、私が作成した議員データに基づき、電話や訪問による働きかけを開始した。その際、電話のかけ方等について「短期決戦マニュアル」を作成してメンバーに参考にしてもらった。

<なかなか思い通りに進まない勧誘>
ところが、残念ながら、鍵を握る143名の衆議院議員1期生への電話かけをする1期生が5~6名しかおらず、予定通り進まなかった。会合への参加だけで、自ら投票依頼をする選挙活動をしない人も何人かいた。また、私の作成した資料が他候補に流れていたことがわかった。寄せ集めのグループの限界である。ただ、ああしろこうしろと強制は一斉しなかった。それぞれできる範囲で鹿野さんを応援してくれれば十分という姿勢を貫いた。
私はというと、電話をかけまくったが、いかんせんやはり1期生は付き合いが限定された。1期生は何よりも1期生同士で付き合っている。マスコミ報道されているとおり、我が陣営は比較的当選回数の多い者が多く、1期生に働きがけできる人数が限られていた。5~6期以上となると重鎮すぎて電話をかけにくいし、大体誰に投票するか見えていた。

<民主党の良心が集まった52票>
新聞報道されており、よく知られているので、野田代表選出までの詳細な報告は避ける。
我が陣営に集まった人は、私をはじめとして党内融和を第一と考え、それには鹿野さんしかいないという健気な人たちばかりである。新聞はワンパターンで、年配の議員が、若手が代表になると働く場がなくなるから69才の鹿野大臣を担いでいると報じたが、順序が逆なのだ。鹿野さんを紹介したブログで明らかにしたように、信念を貫かれた政治家を知る当選回数の多い議員が集っただけの話なのだ。若手は鹿野さんの何たるかをしらないだけのことだ。
前原さんの出馬、鹿野さん2位予測にびっくりした他陣営の引き剥がし等いろいろあったが、52票は民主党の良心の表れともいえた。一部の成熟した政治評論家が鹿野さんが適任と解説した。山口二郎北大教授、鈴木修 スズキ自動車会長も鹿野さんでなければと支持してくれたが、知名度不足のまま4位に終わった。
決選投票で鹿野さんの(上着を脱いで2位に投票という)決断に従い、一致団結して行動し、野田政権が誕生した。我々にとってはまことにすがすがしい選挙戦だった。
29日の反省会は、マスコミも報じたとおり、祝勝会のような明るい雰囲気だった。我々の活動がこの次の民主党の活力につながり、日本の政治の安定につなげなければならないと決意を新たにした。

2011年09月22日

菅総理ごくろう様 -消費税発言も脱原発も一貫性あり- 11.9.22

私は、鹿野さんを総理にすべく、8月下旬の2週間いろいろ活動してきた。多分、皆さんの興味もそこにあると思うが、やはり先に菅内閣の私なりの総括を先にしなければならない。
私が政治家になったのも偶然であるが、菅総理と親しくなったのも偶然である。私は、菅さんには総理になってもらい、菅さんのやりたいことをやって欲しいと思って活動してきた。その理由は、先のブログ、04年1月13日の菅代表挨拶の一致と乖離(菅代表演説と菅総理の政策の一致と乖離-11.7.16-)でもって説明したので、詳細は省く。

<全く面識のなかった菅代表>
私は、政界入り前には菅さんと口をきいたことすらなかった。03年の11月5日(木)夕方5時50分。夕暮れ時の長野駅に応援にきてくれた時が、面と向かって話をした最初である。選挙期間中、「篠原さんは菅さんをよく知っているのですか?」と数か所で聞かれたことがある。私は、全く知らなかったが、党首討論で、民主党には農政がないと攻撃された際に、「長野1区で篠原孝さんという人が出てくれており、彼が民主党の農政を担ってくれる」と答えていたのだそうだ。羽田さんを通じて、そういったことが菅さんにも伝わっていたのだ。

<農山漁村視察随行>
その後、菅代表の農山漁村現場視察への随行で親しくなっていった。04年1月15日、民主党の事務局から突然電話がかかり、17日(土)の大潟村行きに同行して欲しいとの要請を受けた。それ以降、度々地方行脚に同行し、最後はドイツの「黒い森」(シュバルツバルト)出張まで同行した。

<僭越な注文・アドバイス>
04年1月13日の代表挨拶に胸を打たれ、これ以来私は菅さんを是非総理にと強く思うようになった。そこで、その目的達成のため、菅総理の節目節目のいろいろな出来事に私が余計なアドバイスをしてきている。例えば、04年5月の上旬、保険料未納の件で代表を退任したが、絶対退任する必要はないということもメモ入れした。しかし、あっさりやめてしまった。これも長いブログ(年金問題と民主党、そして私の見解-04.6.3-)に書いたので読んでいただくと分かる。
人生の先輩、政治家としても大先輩の菅さんに失礼かと思ったが、政局対応の拙さをみていられなかったからだ。

<農林漁業再生運動本部長復帰>
その後、菅さんは無役だった。そして、何々本部長はすべて岡田代表が兼任していた。しかし、岡田代表は、私がせっかくセットした「農業再生プラン」についての論説委員との懇親会に出ず、農政に熱心ではなかったので、私が岡田さんに直談判して農林漁業再生運動本部長に復帰してもらった。これで菅さんは、あちこちの農山漁村回りができるようになった。
政界は現金であり、菅さんの復活の芽はないのではないかということで、多分同僚議員が冷たくなっていた頃である。私は、菅さんの復活を願っていたし、できると確信していた。
栄村の田直し、道直しといった安上がりな公共事業は民主党の望ましい方向と一致したが、菅さんは現場を知らないというので、05年秋には、一泊二日で栄村に案内した。その後、菅さんの要請に応えて菅グループの勉強会にも出席するようにした。従って、菅総理の実現は私にとっては非常に喜ばしいことであった。(ブログ:やっと菅首相が実現-10.6.7-)
非常に生意気なことではあったが、私は30年間農林水産省にいて、農林水産関係議員を中心に嫌というほど付き合い、その延長で政権運営等を傍目八目で見続けてきたので、その知識・経験をもとに、危うい(?)菅さんの政局対応について、いろいろな意見を述べ続けた。

<消費税発言は菅さんの真面目さの表われ>
あれこれ書いていると尽きないが、菅さんの消費税発言を弁護しておかなければならない。
明らかに菅さんのあの一言により参議院選挙で大敗した。ねじれ国会による民主政権の混乱の原因を作ったことについては弁明の余地はない。しかし、新聞報道されているような思いつきで発言したのではない。菅さんはとにかく真面目なのだ。思い立ったら言ったりやったりしないとならない性格なのだ。
 
<菅財務相の突然の電話>
菅さんは財政問題等に詳しいわけではなかった。それが政権交代後、財務相兼副総理になった。その時、私は財務金融委員会筆頭理事。そこでもまたいろいろ情報交換しなければならない立場になった。
菅さんが4月中旬、G7財務大臣・中央銀行総裁会議、G20財務大臣・中央銀行総裁会議で外遊して帰ってきた日、財政を健全化する法律を出したいという相談があった。私は、今頃そんなものを出して、通る見込みがないこと、郵政関連法案も残っており、参議院選挙もあるので、審議日程がとれないと否定的に答えた。それでも出したいというので、私は、前原さんのように何も根回しもせずに、八ッ場ダム中止、JALの再建方針等を持ち出してもだめなこと、国会日程に大きく関わることなので、まず山岡賢次国対委員長に相談すべきこと等を伝えた。偶然長野に来ていた日経の某編集委員の車で支持者訪問中というとんでもない時の電話だった。しかし、もちろん電話の内容は秘密だった。

<効きすぎた菅副総理の根回し>
財務金融委員会の法案は全て通っていたし、審議しようと思えばできないことはなかったが、4月下旬提出というのはルール違反である。翌日、私は山岡さんに電話した。ところが、山岡さんの返事が振るっていた。「いやいや、篠原さんの言うとおりだけれど、副総理がやりたいと言っているものをそんなムゲにダメだというのは失礼になるんじゃないかな」といつに似ず(?)やさしい答えが返ってきた。私は慌てて「国会日程が詰まっているのに、こんなハラハラするようなものを」と言ったら、「いや、菅副総理が昨日来てね、一時間ぐらい話し込んで行ったんだよ」。唐突発言ばかりで根回しなど全く無縁と思われている(?)菅副総理直々の要請の効果は抜群だったようだ。なんと念を入れて三井国対代理にも要請していた。菅さんの思い立ったら一直線の姿勢が如実に表れていた。
財務大臣になり、財政規律の健全化の必要性を痛感し、自ら成し遂げようと真剣だったのだ。しかし、幸か不幸かわからないが、鳩山総理が5月上旬に菅副総理のこのアイデアを却下して事なきを得た。

<歯止めがなくなった菅総理>
ところが政局はめまぐるしく動いていく。6月2日の突然の鳩山総理の退陣により、菅さんがろくに準備ができていない間に総理になってしまった。私は農林水産副大臣を命じられ、着任した翌日から口蹄疫現地対策本部長として宮崎県入りした。それを追うようにして、6月12日に菅新総理が宮崎入りした。
菅さんは元々農業に親しみをもっている「親農派」であり、現場主義者なので口蹄疫のことが気になって仕方がなかったのだろう。関係市長、町長の意見を聞く会で橋田 西都市長の質問に対し、大きな声を張り上げ始めた。その後の、東国原知事との会談も意気軒昂であった。この張り切りぶりを見て、私はいやな予感がした。絶頂期こそ、あるいは得意分野でこそ、謙虚さを失い失敗しやすいからだ。
そして参議院選挙の遊説の最中、6月17日、例の消費税を10%、かつ自民党の案を丸呑みするという発言が飛び出してしまった。その後、低所得者には還付するだのどうのこうのと二転三転する。財政規律の健全化が一足飛びに消費税のアップになってしまったのだ。万事休すである。この時もそばにいて止められたらともどかしい思いがした。

<野党案を丸呑みの経験が裏目に出る>
菅さんが1回目の民主党代表の時に金融国会があり、小渕政権が民主党の案を丸呑みした。菅さんは政局にしないということで、小渕政権は金融危機を乗り切っている。今立場が逆になり、林芳正さんが中心となり、自民党が財政健全化責任法(※)なる法案を提出したので、逆に、自民党案にそのまま乗ろうとしたのである。違いは、重厚な自民党政権と異なり、未熟な政権では根回し、調整というプロセスがなっていなかった。そして見事に失敗した。
(※)正式名称: 国等の責任ある財政運営をはかるための財政の健全化の推進に関する法案

<脱原発、バイオマス資源も菅さんの一貫性の表われ>
有権者の皆さんからお叱りを受けるかもしれないが、すさまじい菅バッシングは、尋常な精神の持ち主ではとても耐えられないだろう。6月2日から約3ヶ月に及ぶ粘り腰は驚きに値する。3条件の最後の再生可能エネルギー法案も通ったし、菅総理は最後は有言実行したのである。
今後は、バイオマス、林業といったことを皆に迷惑をかけない程度に、一議員としてやっていきたいというのも、前からの親農派、親林業派の菅さんならではの発言である。
菅さんは精一杯頑張り、立派に第91代総理をやり遂げたのである。私は心からご苦労様といいたい。

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