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2011年10月31日

TPPシリーズ2.TPPで考える、アメリカの戦後の日本の食生活大改造の恐ろしさ 11.10.31

  アメリカは恐ろしい国である。もちろん長期戦略を造り、それに基づいて着々と手を打ってくる。
 日米修好通商条約以来、手なずけてきたはずの日本に牙を剥かれてびっくりしたのが第二次世界大戦である。
アメリカはやはり、国民がモンロー主義よろしく戦争に反対な中、意図的に日本を苛立たせ、先に攻撃させ日本を悪者にし、やむを得ず「リメンバー・パールハーバー」を国民に植え付けるために練られたとも言われている。

(強い軍人が育たない日本に改造)
 何よりも「天皇陛下万歳」と叫びながら突入してくる日本兵の勇猛果敢さに度肝を抜かれ、なぜそのような日本人ができるのか、秘かに研究を始めている。その一つの成果がルース・ベネディクトの『菊と刀』である。よく知られていることだが、日本に一度も来たことがないのに書き上げたのだ。
 従って、占領政策の大切な目的の一つが、簡単に言うと、日本人をもっと軟弱にすること、つまり、命を捨てて敵に向かってくる恐ろしい軍人を作れないようにすることであった。そして、二度と帝国海軍や陸軍を作れないようにしたのである。占領政策というと、財閥解体等が真っ先に浮かぶが、教育制度改革に力を入れた。出身地別の軍隊になっていたが、どこの師団が強力か承知しており、特に勇猛に戦った仙台、熊本、金沢等は有能な人を送り込んで、解体に取り組んだ。
 しかし、これがいかにもアメリカ的であるが、精神の解放を旗印にしたアメリカ教育使節団も、総合高校制、小学区制、男女共学等の大原則はあったものの、実行はそれぞれの担当の軍に任された。そのため、下記のように高名や統合振りが各県まちまちとなった。例えば、仙台は男女別学を許し、京都は統合高校が厳しく実施され、今日にいたっている。

(各地の高校名も変える)
 私の身近には、長野市にいっぱい高校があるのに、一つだけに長野高校という名前がつけられるのは非民主的だとして、長野北高と変えさせられている。松本高校も松本深志、松本県ヶ丘、松本蟻ヶ崎と平等に扱われた。各地の高校が立派な人材を輩出しており、それをもとに団結しているのでその基盤を崩しにかかったのである。その後、長野では長野高校OBが運動して北をとり、長野高校に戻してしまったが、同じ長野でも松本や諏訪(清陵、双葉等)はそのまた下に地名をつけた高校名になっている。しかし、この名前の差の由来を知る人も今は少なくなっている。

(アメリカが全面援助した生活改善技術館)
 もう一つ強力に進めたのが農村の民主化である。アメリカは、農村出身の兵士のほうがずっと都会育ちよりもずっと上官の命令に忠実であり、戦い方も強烈なこともよくわかっていたからである。そこで、自ら金を出し力を入れていたのが、今は消えてしまった「生活改善普及事業」である。アメリカ大使館がホテルオークラの反対側にあるが、この間の道を六本木側に行くと右に曲がらないとならないが、その突き当たりに「生活改善技術館」があった。そこは、全国に1200人ほどいた生改さんが研修に来て集う場所だった。アメリカは土地も建物も自ら供給したのだ。これほどまでに母親の民主的教育にも力を注いだのは、2度と再び強い軍人を育ててもらいたくなかったからだ。生活改善館長はアメリカ留学し英語がペラペラの山本松代さんが17年も務めている。もちろんGHQのご指名だった。

(余剰小麦・乳製品のはけ口)
 教育改革は日本人の思想なり考え方を変えることであったが、もっと徹底したのは、日本人の胃袋を変え、アメリカの余剰食料のはけ口にするという商売、すなわち経済的利益の追求だった。
 アメリカやEUは今もそうだが、余剰農産物の処理が大きな課題である。この点でもアメリカは狡猾である。国際協力、国際貢献の衣をまとい、余剰小麦、乳製品を世界に売り込もうとしたのである。1954年、PL480法(通称:余剰農産物処理法)によりアメリカ政府の援助を受け、アジアを標的にしてパン食を普及するという遠大な計画である。戦後はいずれの国も食糧難にあえいでいた。日本ばかりでなく、韓国、台湾、フィリピン、インドネシア、タイと東南アジアの国々すべてに働きかけた。しかし、これらの国は食料がのどから手が出るほど欲しかったのに、いずれも拒否したのである。

(池田首相のとんでも発言の意味)
 時の大蔵大臣池田勇人は「貧乏人は麦を喰え」と放言し、マスコミを賑わした。当時は、生産者米価・麦価も消費者米価・麦価も政府によって決められており、食管法の下、米麦は生産者から高く買い入れ消費者に安く売り渡し、いわゆる「逆ざや」が生じる価格支持政策をとっていた。ところが、これも今と同じだが、アメリカ産小麦はずっと安く、消費者麦価はそれよりも高くなっており、「順ざや」が生じていた。池田蔵相は、安いアメリカ産小麦をたくさん消費すれば、順ざやを稼ぎ、国家財政に寄与するということを言いたかったのである。言ってみれば、順ざやは麦専用の消費税のようなものであった。
 かくして、日本の伝統的食生活や農業生産よりも時の財政を重視し、安い小麦と引き替えに大事なもの、すなわち日本型食生活をアメリカに売ってしまったのである。そして導入したのが、学校給食へのパン食である。

(キッチンカーと映画による洗脳)
 アメリカの売り込みはすさまじかった。全国にこれまたアメリカ業界団体が全面的に援助しキッチンカーを造り、アメリカ型生活の大々的宣伝が行われた。中心は、厚生省であり生活改善普及協会という団体だったが、上述の生活改善普及員も手足となって活動した。アメリカはちゃっかり見返りに実をとっているのだ。長野県の片田舎まで来たのかどうかは知らないが、私が明確に覚えているのは、小さな体育館で見た教育的映画である。毎日たくわんとみそ汁の食生活をしている田吾作さんが、やせて農作業に力が入らないのに、パン食の人は筋骨隆々で元気だという映画であり、今考えるとここまでやるのかということを子供ながら考えたものである。
 パンの学校給食を導入したのは、私が小学校3年生のときであった。1個5円のアンパン、10円のクリームパンは高嶺の花で、買ってもらえなかった。だから私は、パンを毎日食べられるのかと興奮し期待した。

(頑固者の正論、米飯給食)
 ところが、1人えごっ玉(文句ばかり言う人)がいた。曰く、皆んな百姓で米を作っているし、毎日朝ごはんを炊いているので、パンなんておかしい。おかずが粗末で隠して食べている子供がいては可哀相だから、おかずだけ学校で作ればよい。自分の娘には弁当を持たせる。この頑固者の父親も娘の説得に負けて、一人だけ弁当という事態は避けられた。ところが、この頑固親父の正論が、米余りになって米飯給食の導入という形で30年後にやっと実現する。当たり前のことなのに、日本では正論が無視される。
 当時は、農村が貨幣経済にそれほど取り込まれていなかった。数百円の給食費さえきちんと払えない人もいたのだ。給食当番ができた。盛り付けをする人をいうのではない。大半が農家だったので、家にある野菜を背中のカバンに対して前の風呂敷で首から下げ持って行かされたのである。現場調達であり、まさに地産地消をやっていたのである。今思うと、調理のおばさんも大変だったと思う。どこも同じ野菜しか作っていないので、明けても暮れても茄子とキュウリだけという時もあり、大根と白菜だらけというのもあった。そのうちパンにも脱脂粉乳にもあきておいしいとは思わなくなった。

(再び繰り返す過ち)
 日本のアメリカに言われて素直に従う姿勢が立派過ぎるのだ。私がなぜこの件を持ち出しているかというと、日本の際立った従順な対応が、戦後66年も経ったのにいまだみられるからである。TPPについて、韓国、フィリピン、インドネシア、台湾はアメリカの余剰小麦を拒否したのと同じように参加していない。それをまた日本だけがノコノコと入ろうとしているのだ。間違いの歴史は繰り返されるのである。

(伝統重視のフランスと何も気づかない日本)
 私は、この件について、1992年パリのOECD代表部勤務時の同僚たちと議論をしたことがある。同僚の1人が、東南アジアの近隣諸国との差について、日本は敗戦国だからアメリカの要求を受け入れざるをえなかった、ともっともらしく弁護した。私は次のように反論した。
それでは聞きたい。仮にフランスが戦争に負けて食糧不足に陥っている。アメリカに大量の余剰米がある。アメリカがフランスに米飯給食を導入したらどうかと言われ、フランスの大蔵大臣が貧乏人は米を喰えとのたまい、おめおめと米飯給食を導入するか。その同僚は沈黙した。答は明らかにNOだからだ。
 世界の主食も地産池消なのだ。隣国なのにフランスはフランスパンを食べ、イタリアはパスタ類を食べる。なぜか。私の娘は「お父さんそんなこともわからないの。フランス人はパンが好きで、イタリア人はスパゲッティが好きだからよ」と教えてくれたが、事実は異なる。硬水の多い土壌のフランスではパン用の小麦がよくでき、火山灰土壌のイタリアでは麺類にしかむいてない薄力粉しかできないからなのだ。同じように火山国の日本もパン用小麦はできず麺用小麦しかできない、だから、うどんやそばが気候と風土にあった食べ方なのだ。

(フランスの食生活を教える学校給食とひたすらケチる日本)
 フランスの学校給食費は約2万円である。日本は5000円に満たない。これをフランス人に言うと、高級ブランドを買い漁る金持ちの日本人が、子供の健康のもとになる学校給食費をケチるのかと質された。いまだ子供たちに先割れスプーンという便利なものを使わせている。それに対し、フランスは子供用のスプーン、ナイフ、フォークをちゃんと揃え、前菜(オードブル)、主菜、デザートときちんとしたフランスの伝統的食生活を小学校の頃から叩き込んでいるのだ。自国の食料なり食生活を守っていくことについて、政府も国民も一丸となって取り組んでいる。
 この延長線上に、反グローバリズムの旗手になったジョゼ・ボベがいる。フランスの田舎のミロでフランスの食文化を侵略する象徴のマクドナルドの店を襲撃し、器物損壊罪で裁判沙汰になった。しかし、フランス国民は彼を全面的に支持した。

自国のものを大切にせず、アメリカの意のままに変えられるのを放置するばかりでなく、自ら進んでその傘下に下ろうとしているのが、日本のTPP交渉への参加なのだ。愚かなことは止めなければならない。

2011年10月28日

TPPシリーズ1.過熱するTPP交渉参加の是非の議論 11.10.28

 まずは、ブログ・メルマガの更新が大変遅れている事をお詫びしたいと思う。
 今回は、手短ではあるが、読者の皆様に私が現在取り組んでいることについてお話をしておきたい。
新聞やテレビ等で既にご承知のことかと思われるが、9月2日に誕生した野田佳彦総理が、11月にオバマ大統領の生誕の地のハワイで行われるAPEC首脳会談で、TPP交渉への参加を表明する意向であると報じられた。

(TPPの再来)
「TPP交渉への参加」、菅直人前総理が昨年10月1日に行った所信表明演説に、突然この一国の運命を左右しかねない言葉が織り交ぜられ、大きな騒動となった。当時閣内にいた私は、この最大の失点を修復することに全力を尽くし、結果、結論は先送りされた。かつ、3月11日の東日本大震災で東北は大被害を受けており、政治は外(外交)よりも内(内政)に全力を尽くすことが何よりも優先されるべきで、野田総理が拙速な結論を出す事は、当面ないだろうと考えていた。
ところが、その案件が、突然再来したことに愕然とさせられた。

(国会を二分するTPP交渉参加の是非)
現在、TPPに「交渉に参加する」のか、「交渉への参加を慎重に見極める」のかという議論で、国内の関係団体はもちろん、与党民主党内もまさに二分している。下記の鉢呂PTでは圧倒的に反対の意見が強い。日本という国家の行く末を決める重要な決定が、11月初旬までという期限が刻一刻とせまる中、交渉へ参加するなら離党も辞さないという重大な決意をする議員が出てくるほど両派の議論は過熱しつつある。当然ながら、民主党内だけでなく、野党でも様々な意見が飛び交っており、どの党でも慎重派が優勢であると聞いている。

(反対派の会議と取りまとめ会議の両方に出席)
私は、TPP交渉への参加は慎重であるべき、更に言うなら、TPPには絶対に参加すべきではないと考えている。農林水産副大臣を辞した後ただちに「TPPを慎重に考える会」(山田正彦会長)副会長に就任し活動することとした。同会を中心に、交渉参加は慎重であるべきとの趣旨の賛同署名を集め、現在201名(他党を含めると220名)の署名が集まった。閣内や党内役員などの役がついている100名程度を除く300人のうち、2/3近くの党内議員の賛同を得ていることとなる。
またもう一方で、TPP推進派ばかりで役員会が構成されていた党内「経済連携プロジェクトチーム」(鉢呂吉雄座長)に後から急遽幹事として名を連ねることで、一方的な議論の進行を防ぐ事に尽力している。しかし依然、推進派がひな壇(会議の座席の会長、事務局長等取り仕切りをする者が座る席)を占めることには変わりなく、初めに結論ありきで座長一任、交渉参加が決定などという、反民主的な採決が決して行われることがないよう全ての会合に1番前に陣取り眼を光らせている。

(TPPの誤った理解)
 TPPについては、既にご存知な部分も多いかと思うが、マスコミ等では「農業対輸出産業」に特化されて報道されるだけで、伝えられていない事実が多くある為、再度簡単に説明したい。
  TPPは、そもそも小さな4カ国、チリ、シンガポール、ニュージーランド、ブルネイの4カ国(P4と呼ばれる)で、2006年に発効した。この P4は、当初ほとんど注目も浴びていなかったが、そこに、オバマ大統領が2009年11月14日、日本のサントリーホールの講演でTPPへの参加を突然表明したことから、俄然注目を集めることとなった。翌2010年、オーストラリア、ペルー、ベトナム、マレーシアが相次いで参加を表明し、3月にオーストラリアでTPP拡大の初会合を持ち、現在9カ国で交渉が行われている。
まず、TPPについてよくある誤解の一番目は、TPPとFTA・EPAを同質のものとして捉えてしまっていることである。韓国が米国やEUとFTAを締結したが、これに焦った経済界がTPPに参加することにより、貿易の拡大、韓国との競争に負けないようにするという。FTA・EPAとTPPが同じ横文字で似ているために、単純に貿易協定の種類と捉えられているがとんでもないことである。FTA・EPAは、二国間それぞれの都合に配慮しつつ、関税を残しながら、両国の貿易拡大を図るものである。一方TPPは10年後に加盟国間の関税を全てゼロにするだけでなく、それぞれの非関税障壁までも完全排除し、なお且つ日本に根付いている制度そのものとアメリカ流に変えていこうというものである。いわば、多国間で交渉される構造協議なのだ。

(関税ゼロの悲劇)
関税がセロになるということは、他でもなく日本は丸太や製材の関税撤廃で経験している。詳細は省くが、1955年に94.5%あった木材の自給率は、2000年には20%を割ることとなった。今、日本の山の木は、安い外材のあおりを受け、切り出すと逆に赤字になるため、完全に放置されている。林業で生活をしていた里山に暮らす人たちは生活できず、どんどん山を下り、限界集落化していった。手入れをする人がいなくなった山は荒れ放題である。まさに関税ゼロの悲劇に他ならない。

(構造改革の恐怖)
また、構造協議の恐ろしさは、日本は日米構造協議で、日本の系列、排他的取引慣行、内外価格差、土地制度とか、全ての日本の仕組み自体について次々に俎上に載せられた。その結果、大店法が改正され、地方の商店街がシャッター通り化する元凶となった。今回は、9カ国から様々な注文がつけられることになる。現在指摘されているのでは、医療、食品の安全、公共事業への参入、郵貯への介入などが挙がっている。
つまり、FTA・EPAなどの通商交渉や貿易交渉では絶対に対象にならない、国内構造(政策や規制)すなわち日本の社会・経済システムそのものまでが対象とされるのである。

(報道の矮小化)
どういった理由か、この点に触れるマスコミは少ない。TPPは農産物の関税をゼロにすることにより農業団体からの強い反発といったことに終始矮小化され、TPPの交渉に参加するか日本の農業を守るかといった二極対立に焦点が移りすぎている。前述したが、その部分も大切な点ではあるが、TPP交渉の作業部会は24部会あり、農業はその1つの部会の1産業の案件に過ぎないのだ。日本がいままで大切にしてきた仕組み、しきたり、よき商慣習、これらがこの24の部会の検討項目に上がらないはずはない。

(「大輸出産業 対 地方」の戦い)
TPPの議論は「大輸出産業 対 地方」である。関税ゼロにより、日本の輸出金額は一時的に上がることはあることはあるだろう。しかし、輸出産業が地方の農林水産業、地域社会をバラバラにしてまで儲けたお金は、地方の限界集落に還元されるだろうか。そんなことは絶対ないと断言できる。また、輸出産業が儲けたお金は、国内の地方の工場に投資されるだろうか。これもまた怪しい。海外の金融商品や海外の工場への投資になるかも知れない。日本の雇用状況は更に悪化するだろう。地方の人たちは、第一次産業を失い、地域の工場も海外移転され、どうやって仕事をし、どうやって稼ぎ、どうやって生きていけばいいのだろうか。そもそも、その輸出産業自体も、自らまいたタネで地方の需要が激減する部分を、どうやって補うつもりなのか。自らの首を絞めることになるのではなかろうか。
 現在、これらTPPの問題点を指摘し、関連する「反原発」の意見をまとめた本を執筆中である。
出来上がり次第、上梓したいと思っている。

2011年10月04日

ダイヤモンド婚の父母が仲良く天寿を全う

6月11日、父・保が91才の生涯を閉じた。それから約百日後の9月20日、母・登美子が後を追うように88才で逝った。私は自分が衆議院議員になったことで、家族や親戚がマスコミ等にいろいろ必要以上に取り上げられることは極力避けてきた。父母の、喪主は農業の跡を取り、ずっと一緒に暮らした弟であり、国会議員仲間にも連絡せず、地元中野で質素な葬儀を行った。しかし、皆様には連絡しなかったことをお詫びする意味で、父母のことを書いてみたい。

<昭和恐慌と父の運命>
父の保は、中野市田麦の代々続く、そこそこ大きな農家の一人息子として育った。それはそれは大事に育てられたという。 ところが昭和の農村恐慌が我が家を襲うことになる。農協の組合長をしていた曾祖父が、今風でいうと経営責任をとり田畑を売らざるを得なくなった。祖母によく聞かされたが、町の病院に行ったところ、待合室で「田麦の篠原さん、夜逃げされた」と言われ、腹を立て「ここにちゃんといる」と叫んでしまったという。お陰で父は進学を諦め、すぐに家に入って農業の跡を継いでいた。

<代用教員>
大日本帝国もそれなりに社会や家の存続等を考えて、一人息子には召集令状を遅く出したようだ。そうしているうちに、教員も戦争に駆り出され、先生不足に陥った。父はその当時としては珍しく、旧制須坂中学を出ていたことから、千曲川の対岸の豊井小学校で臨時で教えてくれということになった。山道を歩き、綱が渡された千曲川を小舟に乗り、手でその綱を繰り寄せながら渡り、一時間以上かけて通った。教え子の皆さんによると、戦時教育下、鉄拳を振るう怖い教師だったという。

<駆け込み結婚>
ところが、戦線が拡大し、とうとうその父にも召集令状がきてしまった。篠原家の跡継ぎを確保すべく、近所の竹原から嫁をもらった。昭和17年春、母登美子20才の時である。NHKの朝のテレビ小説「おひさま」の陽子と同じ世代なのだ。当時田麦集落に「駆け込み子孫残し結婚(?)」が3組あり、他の2組は目的を達して出征したのに、我が父母だけは、子供ができずじまいだった。4年間軍隊生活を送り、生命からがら帰国した後、生まれてすぐに亡くなった2才上の姉のあと、昭和23年(1948年)に生まれたのが長男の私である。
戦後復員してきた時も教員不足で、また代用教員を続けることになり、定年直前まで続けた。学校には一番早く行って、一番遅く帰ってくるのが篠原先生だと有名であったという。私が夜遅くまで仕事をする癖は父譲りかもしれない。

<きれいな字で九死に一生>
父は軍隊時代と結核で2度命拾いをしている。
戦地ベトナムで父の字がきれいなことが上官の目にとまり、事務をとれと命じられ、隊舎から離れた小さな事務室で寝泊りをしていた。ある夜、隊舎が一斉爆撃を受け、ほぼ全滅した。戦友のほとんどが亡くなった中で、父を含むごく一部だけが、九死に一生を得ている。つまり字がきれいだったことが、父を救ったのだ。
そのせいか、父は生徒には字をきれいに書くことをしつこく教えたという。しかし、私はその父に似ず字が下手だが、字をきれいに書けと叱られたこともなく、悪筆で清書する部下を悩ませた。

<ストレプトマイシンに救われる>
近所の学校ばかりに勤務していた父は、長野電鉄で1時間半かかる、長野市の山王小学校に転勤になった途端、数ヶ月で肺結核にかかり、須坂の療養所に行くことになった。私は母から、兄弟で一人だけ、父はもう亡くなってしまうと知らされていた。しかし、幸運にもストレプトマイシンが発見され、医療技術も進歩し、肺の半分はとったものの、3年後に退院することができた。もう2年ほど早く発病していたら、父の命はなかったことになる。2度目の命拾いである。

<農業を支えた母>
父は、若い頃も農業を手伝わずにすみ、肺結核を患ったため重労働はほとんどせずにいた。その代わりに我が家の農業を担ったのは母である。母は、陽子と同じく農村では珍しく女学校に行かせてもらっていた。いずこも同じ嫁勤めが厳しく、嫁にきたばかりの頃は何度も泣かされたという。しかし、祖父に言うべきことは言っていた。それがまた大酒呑みで小言をよくいう祖父に厳しくされる原因となった。
母が農薬のあまりの害に驚き、子供には消毒作業をさせないと守ってくれた。そしてそれが後々私が有機農業に魅かれ、食の安全を重視し、環境問題に取り組むきっかけとなった(この件は「りんごを再び大衆的果実へ 全国りんご大会(長野)に出席 -10.10.04-」ブログで触れた)

<重労働、栄養不足故の骨粗しょう症>
父母の世代はろくに栄養もとれず、かつ戦争で青春時代もなく、もっとも割を食った世代であろう。それに加えて母は重労働、50歳過ぎた頃から腰が曲がり始め、それこそ直角に曲がった。骨粗しょう症であり、背骨がガタガタとなり、車椅子が必要となり、最後は寝たきりとなっていった。篠原家の屋台骨を支えた代償に自らの背骨をズタズタにしてしまったのだ。
やがて、母は嚥下困難となり、胃瘻の手術をした結果、介護施設に入らざるを得ず、6年間をそこで過ごした。

<二人揃って立候補に反対>
父は、文芸春秋を隅から隅まで読み、あれこれと論ずる、長野県人らしい(?)人であった。当然のごとく、私が政治家になるなど夢にも思わず、母ともども大反対した。しかし、選挙に出るとなると、観念したのか教え子に手紙を書いたり、電話をしたりして相当熱心にやってくれた。田舎によくいる事情通で、教え子とその両親を中心に知人が多く、顔と名前は最期までしっかりと覚えており、親戚関係等を話し出したら止まらなかった。
母は、政治家になればマスコミにあることないことを書かれると心配した。私に限ってそんなことはないと言い訳したが、ずっと心配しながら旅立ったに違いない。

<最後まで選挙に気遣い>
最近は、母のように介護施設に入って最期を迎える人が多いが、父は最期まで介護は不要で、時々入院したが、長くなることはなかった。
父は、筋を通す人であったが、ユーモアの精神もあふれていた。父との最後の会話は、「孝、のどにタンが絡まるんで看護婦がとってくれるけど、どうも痛くてしょうがない。麻酔でもやってくれて取ればいいのに、やってくれないから、婦長にそうするように頼んでくれ」というものだった。私がすぐ婦長室に行こうとすると、「まて」と止められた。取って返すと、「票が減るからやめとけ、俺が言う」と言ってニヤッとし、声をたてて笑った。最後まで息子の選挙を心配しながらも、笑いを忘れなかった。

<ダイヤモンド婚夫婦のお迎え>
父の死を知らずに、「じいちゃん最近来ないなぁ」と言っていた母も、父を追うようにして旅立った。不思議に死に顔は似ていた。ほぼ天寿を全うしたからだろう。近所の友人の母が、「たかっちゃん(私のこと)の父ちゃんと母ちゃんは仲が良かったから、すぐ呼んでくれたけど、俺と父ちゃんはケンカばかりして仲悪かったから、ちっとも呼んでくれない」と嘆いたという。今とは違い、父母とも一度も事前に会ったこともなく、父が一枚の写真をみたことがあるだけで、親同士が決めた結婚だった。それを60年のダイヤモンド婚を越えて仲良く68年も添い遂げており、古きよき時代をそのまま体現してきた夫婦だったのかもしれない。父は幸運にも2度の死線を乗り越え、91才まで生き、母も父のあとを追うように逝った。幸せな一生だったと言えよう。
私は知らなかったが、大叔父と二人で、「孝が国会議員やっているあと10年間くらいは、死ねない。俺は100歳まで、われは80歳までは頑張ろう」と酒を酌み交わしていたという。そうした父の供養のためにも、そして自ら病床にありながら、やせっぽちの私の体のことを心配していた母のためにも、もう少し政治家をやらせてもらい、皆が父母のような幸せな最期を迎えられる社会にしなければならない。