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ダイヤモンド婚の父母が仲良く天寿を全う

6月11日、父・保が91才の生涯を閉じた。それから約百日後の9月20日、母・登美子が後を追うように88才で逝った。私は自分が衆議院議員になったことで、家族や親戚がマスコミ等にいろいろ必要以上に取り上げられることは極力避けてきた。父母の、喪主は農業の跡を取り、ずっと一緒に暮らした弟であり、国会議員仲間にも連絡せず、地元中野で質素な葬儀を行った。しかし、皆様には連絡しなかったことをお詫びする意味で、父母のことを書いてみたい。

<昭和恐慌と父の運命>
父の保は、中野市田麦の代々続く、そこそこ大きな農家の一人息子として育った。それはそれは大事に育てられたという。 ところが昭和の農村恐慌が我が家を襲うことになる。農協の組合長をしていた曾祖父が、今風でいうと経営責任をとり田畑を売らざるを得なくなった。祖母によく聞かされたが、町の病院に行ったところ、待合室で「田麦の篠原さん、夜逃げされた」と言われ、腹を立て「ここにちゃんといる」と叫んでしまったという。お陰で父は進学を諦め、すぐに家に入って農業の跡を継いでいた。

<代用教員>
大日本帝国もそれなりに社会や家の存続等を考えて、一人息子には召集令状を遅く出したようだ。そうしているうちに、教員も戦争に駆り出され、先生不足に陥った。父はその当時としては珍しく、旧制須坂中学を出ていたことから、千曲川の対岸の豊井小学校で臨時で教えてくれということになった。山道を歩き、綱が渡された千曲川を小舟に乗り、手でその綱を繰り寄せながら渡り、一時間以上かけて通った。教え子の皆さんによると、戦時教育下、鉄拳を振るう怖い教師だったという。

<駆け込み結婚>
ところが、戦線が拡大し、とうとうその父にも召集令状がきてしまった。篠原家の跡継ぎを確保すべく、近所の竹原から嫁をもらった。昭和17年春、母登美子20才の時である。NHKの朝のテレビ小説「おひさま」の陽子と同じ世代なのだ。当時田麦集落に「駆け込み子孫残し結婚(?)」が3組あり、他の2組は目的を達して出征したのに、我が父母だけは、子供ができずじまいだった。4年間軍隊生活を送り、生命からがら帰国した後、生まれてすぐに亡くなった2才上の姉のあと、昭和23年(1948年)に生まれたのが長男の私である。
戦後復員してきた時も教員不足で、また代用教員を続けることになり、定年直前まで続けた。学校には一番早く行って、一番遅く帰ってくるのが篠原先生だと有名であったという。私が夜遅くまで仕事をする癖は父譲りかもしれない。

<きれいな字で九死に一生>
父は軍隊時代と結核で2度命拾いをしている。
戦地ベトナムで父の字がきれいなことが上官の目にとまり、事務をとれと命じられ、隊舎から離れた小さな事務室で寝泊りをしていた。ある夜、隊舎が一斉爆撃を受け、ほぼ全滅した。戦友のほとんどが亡くなった中で、父を含むごく一部だけが、九死に一生を得ている。つまり字がきれいだったことが、父を救ったのだ。
そのせいか、父は生徒には字をきれいに書くことをしつこく教えたという。しかし、私はその父に似ず字が下手だが、字をきれいに書けと叱られたこともなく、悪筆で清書する部下を悩ませた。

<ストレプトマイシンに救われる>
近所の学校ばかりに勤務していた父は、長野電鉄で1時間半かかる、長野市の山王小学校に転勤になった途端、数ヶ月で肺結核にかかり、須坂の療養所に行くことになった。私は母から、兄弟で一人だけ、父はもう亡くなってしまうと知らされていた。しかし、幸運にもストレプトマイシンが発見され、医療技術も進歩し、肺の半分はとったものの、3年後に退院することができた。もう2年ほど早く発病していたら、父の命はなかったことになる。2度目の命拾いである。

<農業を支えた母>
父は、若い頃も農業を手伝わずにすみ、肺結核を患ったため重労働はほとんどせずにいた。その代わりに我が家の農業を担ったのは母である。母は、陽子と同じく農村では珍しく女学校に行かせてもらっていた。いずこも同じ嫁勤めが厳しく、嫁にきたばかりの頃は何度も泣かされたという。しかし、祖父に言うべきことは言っていた。それがまた大酒呑みで小言をよくいう祖父に厳しくされる原因となった。
母が農薬のあまりの害に驚き、子供には消毒作業をさせないと守ってくれた。そしてそれが後々私が有機農業に魅かれ、食の安全を重視し、環境問題に取り組むきっかけとなった(この件は「りんごを再び大衆的果実へ 全国りんご大会(長野)に出席 -10.10.04-」ブログで触れた)

<重労働、栄養不足故の骨粗しょう症>
父母の世代はろくに栄養もとれず、かつ戦争で青春時代もなく、もっとも割を食った世代であろう。それに加えて母は重労働、50歳過ぎた頃から腰が曲がり始め、それこそ直角に曲がった。骨粗しょう症であり、背骨がガタガタとなり、車椅子が必要となり、最後は寝たきりとなっていった。篠原家の屋台骨を支えた代償に自らの背骨をズタズタにしてしまったのだ。
やがて、母は嚥下困難となり、胃瘻の手術をした結果、介護施設に入らざるを得ず、6年間をそこで過ごした。

<二人揃って立候補に反対>
父は、文芸春秋を隅から隅まで読み、あれこれと論ずる、長野県人らしい(?)人であった。当然のごとく、私が政治家になるなど夢にも思わず、母ともども大反対した。しかし、選挙に出るとなると、観念したのか教え子に手紙を書いたり、電話をしたりして相当熱心にやってくれた。田舎によくいる事情通で、教え子とその両親を中心に知人が多く、顔と名前は最期までしっかりと覚えており、親戚関係等を話し出したら止まらなかった。
母は、政治家になればマスコミにあることないことを書かれると心配した。私に限ってそんなことはないと言い訳したが、ずっと心配しながら旅立ったに違いない。

<最後まで選挙に気遣い>
最近は、母のように介護施設に入って最期を迎える人が多いが、父は最期まで介護は不要で、時々入院したが、長くなることはなかった。
父は、筋を通す人であったが、ユーモアの精神もあふれていた。父との最後の会話は、「孝、のどにタンが絡まるんで看護婦がとってくれるけど、どうも痛くてしょうがない。麻酔でもやってくれて取ればいいのに、やってくれないから、婦長にそうするように頼んでくれ」というものだった。私がすぐ婦長室に行こうとすると、「まて」と止められた。取って返すと、「票が減るからやめとけ、俺が言う」と言ってニヤッとし、声をたてて笑った。最後まで息子の選挙を心配しながらも、笑いを忘れなかった。

<ダイヤモンド婚夫婦のお迎え>
父の死を知らずに、「じいちゃん最近来ないなぁ」と言っていた母も、父を追うようにして旅立った。不思議に死に顔は似ていた。ほぼ天寿を全うしたからだろう。近所の友人の母が、「たかっちゃん(私のこと)の父ちゃんと母ちゃんは仲が良かったから、すぐ呼んでくれたけど、俺と父ちゃんはケンカばかりして仲悪かったから、ちっとも呼んでくれない」と嘆いたという。今とは違い、父母とも一度も事前に会ったこともなく、父が一枚の写真をみたことがあるだけで、親同士が決めた結婚だった。それを60年のダイヤモンド婚を越えて仲良く68年も添い遂げており、古きよき時代をそのまま体現してきた夫婦だったのかもしれない。父は幸運にも2度の死線を乗り越え、91才まで生き、母も父のあとを追うように逝った。幸せな一生だったと言えよう。
私は知らなかったが、大叔父と二人で、「孝が国会議員やっているあと10年間くらいは、死ねない。俺は100歳まで、われは80歳までは頑張ろう」と酒を酌み交わしていたという。そうした父の供養のためにも、そして自ら病床にありながら、やせっぽちの私の体のことを心配していた母のためにも、もう少し政治家をやらせてもらい、皆が父母のような幸せな最期を迎えられる社会にしなければならない。