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羽田元首相が予測した民主党政権の混乱(12年総選挙総括・民主党再生シリーズ その3)13.02.07

―政権交代後の1回目の総選挙を勝ち抜くために君の助けが必要だ―

<1996年秋 衆議院出馬要請>
 今、私は4回目の選挙を終え、幸いに議員を続けている。他の国会議員の皆さんも様々な経緯を経て政治家になったのだろうが、私の場合は多分特殊なケースであろう。全面的受身の形で政治家になっている。あまり信用されないかもしれないが、私は真面目な公務員で、故郷との絆を断ち切りがたく農林水産省に入省した。ほとんどが農家で占められていた、周りの人たちがうまく暮らしていける手助けができればと思ったからである。
 私に初めて自分たちの陣営で政治家になってくれと話があったのは、1996年のはるか昔だった。羽田孜元首相と堀込征雄衆議院議員の二人ともいわゆる農林族、前々からよく知っていた。当然のことながら逃げまくった。しかし、8年間のストーカー行為(?)の後、やむを得ず出ることになった。2003年秋のことである。私は数少ない、世に知られざる「羽田チルドレン」なのだ。

<たった10ケ月の非自民政権のトラウマ>
 その時の経緯は今までに随所(「鳩山長期政権を望む-09.9.14」、「04年の菅代表演説と菅総理の政策の一致と乖離-11.7.16」等)で触れたので省略する。今大事なのは、この時のくどき文句で羽田さんが私に言われた非常に大事な言葉が忘れられない。少々長くなるがそれを紹介する。

 民主党はいずれ政権交代できるだろう。政権の維持のほうが難しい。政権運営をしたことのない民主党内閣は迷走し続けるだろう。そしてマスコミに批判される。その結果、都市の有権者は離れていく。そして第1回目の総選挙で敗北というのは十分予想される。それでは細川さん(8ヶ月)と自分(2ヶ月)の非自民政権の10ヶ月が、少々長くなっただけで終わってしまう。そもそも今政権交代できないのは、我々の10ヶ月の非自民政権のトラウマがあるからである。

<田舎の律儀な有権者に支えられた議員を増やす>
 そうした中、第1回目の総選挙を勝ち抜くためには、少々政権運営が乱れてもやっぱり民主党だといって支持してくれる、律儀な有権者に支えられた同僚議員をたくさん作っていかなければならない。都市部の浮動票はさっと去っていき、都市部の議員は多くが落選してしまうからだ。そして、地方の2区以上の区で支持を得るためには、農政が必要だ。

<農政を君に任す>
 ところが、残念ながら、わが党には農政をやる者が非常に少ない。大臣経験者は自分と鹿野道彦と田名部匡省と3人だけだが、質はこっちのほうがいい。ところが、中堅が堀込征雄、小平忠正、鉢呂吉雄と3人だけしかいない(この当時、山田正彦、筒井信隆は落選していた)。若手となるとゼロに近い。これではやっていけない。農政を君に任せるから、是非民主党に参画してほしい。

 羽田さんが防ごうと思っていたこと、恐れていたことが起きてしまった今、改めて思い起こしている。

<地方・農村部にも着々広がる民主党議員>
 03年11月、複数区以上の農村地域でもたくさん民主党議員が誕生した。私の仲間、60人の同期生である。
 04年の参院選では1人区で、01年が2勝25敗(2勝も正確にいうと岩手の平野達男と三重の高橋千秋で、民主ではない)だったものが、13勝14敗となり、全体でも初めて民主党が50対49と自民党を1議席上回った。民主党農政が浸透しつつあったからだ。その当時、鹿野NC農水大臣の下、直接支払い政策を中心とする民主党農政の骨格はまとまっており、B4の表裏の民主党農政ビラを作り、1人区を中心に100万枚以上配布していた。
 ところが、05年の小泉郵政選挙で私の同期は半分の30人に減ってしまった。しかし、私や下条みつの他、北のほうからいえば、松木謙公、仲野博子、寺田学、近藤洋介等、地方はほとんど生き残った。逆に都市部は、各都府県で1名残っただけで(千葉・田島要、東京・長島昭久、神奈川・笠浩史、大阪・長安豊、兵庫・市村浩一郎)、それ以外は全滅した。批判票が多くなっても地方の農村部はしぶとく生き残るという、羽田さんの予言は一足早く実現していた。

<身を削って農村部の同僚議員を応援>
 正直言って、後に農業者戸別所得補償と命名される直接支払い政策は、当時ほとんどの民主党議員には理解されていなかった。そうした中、日本農業新聞が民主党農政をよく紹介してくれたことから、農民へのほうが先に徐々に浸透していき、同僚議員の農村部の会合の援軍を求められる機会が急増した。当時「Mr.年金」の長妻昭が全国銘柄だったが、私は「篠原孝は農村地域限定のベストセラー」と冗談を言って講演を始めていた。
 私の地元の選挙活動は疎かになったが、農村部・地方を地盤とする選挙に強い議員を育成するという、羽田さんの要請を忘れるわけにはいかなかった。
 中国山地の農村へは、東京から新幹線で3時間強、そこから車で1時間弱。農協役員や普及員の精鋭がいて質問攻めだから、私のような者以外は務まらない。同じ道を戻り、名古屋経由で長野へ夜中に着いた時には、足元もフラフラする状態だった。北海道では、会場がいつのまにか2カ所になり、更に、すぐ近くで夜一杯やりながら懇談したいという篠原ファンの別グループがいるというので連れていかれると、車で2時間もかかる近い(?)所。そこで夜中まで農政談議をし、他の人はゆっくり寝ているのに、私だけ5時に起きてタクシーで空港に行き東京に戻り党の会合に出るといった具合である。とにかく重労働でくたびれたが、民主党農政が徐々に農村全体に広く浸透しつつあることを肌で感じることができた。

<07年参院選23勝6敗の大勝利>
 そして2007年7月、もっと強烈に農村の地方の有権者の心をつかむことになった。私は、羽田さんの約束通り、2期生ながら「次の内閣」(NC)農林水産大臣として民主党農政を任されていた。小沢代表は直接支払いに飛びつき、農業者戸別所得補償と命名した。このときの原動力となったのは、マンガを中心に構成された4ページの民主党農政ビラである。当時の山岡賢次財務委員長の指示の下、「民主党が政権をとったならば」、という形で農業者戸別所得補償をPRし、1人区中心に300万部以上配布した。小沢代表は、常に田んぼや畑をバックにしてビール箱の上で、農業者戸別所得補償を打ち上げていた。この徹底した手法にはほとほと舌を巻いた。農村の支持を受け、今まで自民党の金城湯池だった1人区で、23勝6敗と大勝し、衆参のねじれ現象を生んだ。

<TPPが羽田さんの目論見を砕く>
 この民主党の勢いは09年まで続き、308議席の大勝利となり政権交代が実現した。残念ながら羽田さんが恐れたとおり、その後の民主党政権の混乱振りには目に余るものがあった。ただ、農業者戸別所得補償は農村部に定着しつつあり、4Kバラマキといって批判されるまでになっていた。
 口蹄疫を乗り切った後、10年7月の参議院総選挙では菅首相が消費増税に触れ、1人区で8勝21敗とボロ負けし、逆に参議院のねじれを生んでしまった。これがなければ、菅民主党政権は今も続いていたに違いない。
 そしてもっとひどいことに、10年10月1日、菅首相は所信表明でTPPに突然言及し農民はこれを契機に民主党にそっぽを向き始めた。私は、菅首相に進言し、官邸に「食と農林漁業推進本部」を作り、修復に務めようとした。ところが、3.11の東日本大震災で農政の改革は中断し、信頼回復に至らずじまい。そこに11年11月9日の党の「慎重」にという決定を無視した、野田首相の前向き発言が続いた。この一連の裏切り行為により、都市部より農村部のほうが民主党への不信感が高くなってしまった。

<民主党の再生で軽やかな政権交代を実現できる政党を取り戻す>
 私は、こうした状況の中で引退された羽田さんの心中を思うと、察するに余りあるものがある。特に私に託された、「政権交代後第1回目の総選挙を勝ち抜き、自民党を少なくとも10年間は野党に置いておかなくてはだめだ。そうしないと、日本の政治は変わらない」という叫びに似た声が、今でも私の中にこびりついている。
 私が民主党に参画して以来、ずっと地方・農村部の支持を広げてきたのに、菅・野田政権により木端微塵に打ち砕かれてしまった。一度失った信頼を取り戻すのは容易ではない。
 羽田さんが予言した大逆風下、私は必死で選挙戦を戦い、小選挙区で勝利した。羽田さんの思いが天に通じたのか、元秘書で後継の寺島義幸も小選挙区で当選し、唯一の民主党新人議員となった。しかし、たった1期で自民党に政権が戻ってしまった。ひょっとして羽田さんが悲観したとおり、これでもう二度と政権交代は起きないかもしれない。いや、そうさせてはならない。私は、諦めることなく、当初の羽田元首相の願いの実現に向け、民主党の再生に向かうしかない。