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大逆風下の選挙は、ミニ集会中心に支持者のつなぎ止めに全力(12年総選挙総括・民主党再生シリーズ その5)13.02.09

 週末は、私の具体的な選挙活動について2つほど報告する。

<09年順風下での街宣車中心の選挙>
 私は選挙戦をそれなりに考えて毎回いろいろ工夫して手法を変えてきていた。
前回の選挙09年の選挙はまさに順風が吹いていたので、街宣車を住宅地中心に回り、適当なところで止まっては街宣するというスタイルで選挙戦を戦った。その為に2人の若手に頼んで、夜中に車で実地検分して、長野市内を8日間位で隈なく全部まわる緻密な地図を作成した。手間暇をかけ、お金もかかったが、ほぼそれに従って選挙戦を戦った。もちろん後半戦は、誰でもやっていることだが、100人弱の人たちに集まっていただく集会も組み合わせた。それでも1回目(03年)11万票、2回目(05年)12万票なのに、4万票上乗せして16万票の大量得票で初めて小選挙区で当選できた。

<「寺田学」方式の採用>
 しかし今回は、まったく違ったスタイルでやることを、09年の選挙の前から考えていた。我が事務所では有名な「寺田学方式」つまり選挙期間中は街宣車に乗らず、小さな公民館でミニ集会を徹底的にこなしていくというやり方であり、09年の選挙でもその一部を導入していた。同僚の寺田議員(秋田1区)からポスターの作り方、選挙用ハガキ5万5千枚にミニ集会の場所を印刷して出す方法等をこと細かに教わり、常にこの次は寺田学方式にしていくことを秘書に言い聞かせてきた。(下記リンク参照)
ハガキの例
チラシ

<羽田元首相が予想した大逆風下の総選挙>
 なぜならば、私は政権交代後の大逆風を、羽田さんから聞かされていたので、他の人たちよりも早くから予想できたからである。2月3日のメルマガ・ブログのとおり、民主党の同僚議員のために民主党農政の確立には心血を注いでいた甲斐あって、地方・農村部に同僚議員も多く誕生していた。しかし、肝腎の大逆風下の第1回目の選挙で、本人の私が落選しては格好がつかない。私の地元の選挙活動は、2003年秋の初当選以来ずっと大逆風下でも勝てる体制にすることに主眼を置いてきた。

<厳しい批判の目を持つ長野県民>
 私の得票は03年11万票から、05年の小泉郵政選挙でも12万票と1万票増えている。つまり、天才小泉に惑わされて自民党に大順風が吹いたのであり、民主党に逆風が吹いたわけではなかったのだ。09年は、長野県が全国で2番目の高投票率(74.27%)となり、私は16万票も得票した。民主党の期待度が大きかったからだ。それだけに落胆も大きい。その結果、投票率もどっと下がり58.76%と全国平均を下回った。また、少なくとも追い風が吹きまくった4万票の上乗せはほとんど消える。それに加えて政権交代後の今回は、投票に来るにしても落胆がそのまま大批判票となって表れてくる。長野県人は何かとうるさい県民であり、批判票が多くなるのは目に見えていた。
もう一方で、新しいもの好きである。第3極にも票が大きく流れていくことが予想された。そのような大逆風の時には浮動票の取り込みはまず不可能であり、私の支持者をなるべく手放さないようにすること以外考えられなかった。

<支持者への重点的アプローチ>
 幸いに9年間集めに集めた支持者名簿は5万5千軒に達していた。そこに重点的にアプローチして、是非投票に行ってください、しのはら孝と書いていただきたい、というふうにお願いする以外に勝ち目はないと踏んでいた。そこで寺田学方式の全面的な活用である。
まず、5万5千軒の支持者の家に、私の3年間の実績等を書いた特別国政報告とお馴染みの友人・知人をご紹介ください、というハガキを同封した。中々の作業である。宛名住所をシールアウトし、①封筒にシールを貼り、②上記2つを封入し、③更に糊づけするという3回の作業を5万5千通分やらないとならない。非常に手間暇がかかり、かつ、郵送費用もかかることであった。

<ミニ集会を徹底的に告知>
 次にポスターの私の顔の下に、60数会場になったミニ集会の日時と会場名を印刷することにした。公営掲示板にも証紙ポスターといわれる大きな広報板へのポスターにも同じである。もちろん、それを見て来られる方は少ないと思われるが、こういうことをしているということは知らせることができる。
この他に2つ別途印刷物で知らせることにした。一つは前述の選挙用ハガキ、3万5千枚が公営で2万枚は候補者が負担すればいいことになっており、ちょうど5万5千枚をすべてミニ集会のお知らせに活用することした。通常このハガキは、支援者の友人に私を紹介して投票依頼するのに使われるが、寺田学方式に倣い、選挙区を8地域に分け、一枚のハガキに6~8会場ずつ印刷したものを8パターン用意し、その地域ごとに、12月4日の公示日を中心に郵送した。
更に加えて、証紙ビラ11万枚を印刷し、そこにも片面に同じようにミニ集会の日時、場所を印刷し、かつ、それを地区ごとにミニ集会の1~2日前に新聞折り込みにすることにした。これまた結構費用がかさむ。

<直に1時間以上接した2000人余)
 ふだんは何をしているかというと、ひたすら支持者訪問とミニ集会を繰り返している。ミニ集会はこまめな秘書とそうでない秘書との差が出て、担当によりたくさんやっている地区とそうでない地区とがあり、それがそのまま得票差につながった。今度は今までやったことのない公民館でやるんだと厳命しておいたが、中々うまくいかず、有力支持者の多い、かつてやった会場でやる場合もあったが、半分以上はまったく初めての小さな公会堂・公民館で開催することになった。
最低のところは、中盤戦から後半戦にかけて8人だけの会場もあったが、平均すると20~30人で、61か所で2000人強には直に接することができたのではないかと思っている。

<農閑期なので昼間からミニ集会を開催>
 ただ、いろいろ問題もあって1時間ごとに数か所を梯子しなければならないことが一つと、その為に場所等をきちんと分かっている運転手がいなくてはならない。そのため運転手には気の利いた人を選んで、前半後半にわけて下見をしてもらっていたりしていた。それから、選挙ハガキは公示日の12月4日からしか使えないので、ミニ集会のハガキによる通知は6日以降になり、12日間の選挙戦といいつつ実質10日間しか告知集会ができないということ。それからもう一つは、平日の昼間にもやることになるので、農村地帯以外はなかなか人が集まりにくいということである。ただ幸いなことに12月16日が投票日であり、雪が降り出す北信州では農家の皆さんは家におられることが多いので、昼間は農村地帯をやり、夕方以降はサラリーマン地帯とし、週末は当然、住宅街ということにした。

<大声で6会場でクタクタ>
 もう一つ困ったことは、候補者の私がクタクタになるということである。街宣車に乗ることはほとんどなかったが、ほとんどマイク無しで毎日6か所、大きな声で15分から20分話し、あとは質疑応答というスタイルを繰り返したが、前半戦でも夕方になると声がかすれてきてクタクタになってしまった。ミニ集会といっても机が間にあると大会場になり、畳の部屋でも50人以上になると、もう少し大きな声でと注文を付けられることが度々だった。最後まで持つのかなあ、と途中から心配になってきた。

<マイクセットを使わないという愚行>
 疲れが最高潮に達した最終日、私の地元中の地元中野市周辺で8回という最も強行スケジュールとなった。その初回、後援会長から「候補者なんだからもっと威勢のいいでかい声で話せ」と小言を言われてしまった。そしてやっと気が付いたのがマイクを使うことだった。それから7か所は私がマイクを握り、最終日が一番疲れなかった。最初から使っていれば、ただでさえ少ない私の体重を更に3kgも減らさずにすんだのだが…。

<残念な本家の落選>
 ところが、御本尊の寺田学は残念ながら落選してしまった。ショートメールで、お蔭で当選できたとお礼を言ったところ、「この方式で落選したので次回からは止めようと思っている」という返答が返ってきた。この例のマイクの件は教わっていなかった、と言ったところ「私のように若いのでも6か所、7か所で、でかい声で話し続けられません。マイクを使うのは常識ではないですか」と笑いながら返答されてしまった。
ただ、ミニ集会中心の選挙は、冬の農閑期だからできたのであり、桃やぶどうの収穫期等の農繁期にはとてもできないことである。この次はやはり、集会+街宣の普通の選挙にしないとなるまい。