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2013年2月27日

(その1)何の意味もない画期的な共同声明―当たり前のことを大袈裟に演出し、自動車・保険で大妥協の愚―13.2.27

 2月22日、安倍総理とオバマ大統領の首脳会談が行われ、聖域なき関税化の撤廃はないということが確認されたので、TPP交渉に参加してもいいという報道が各紙とも一斉になされている。短い日米共同声明を見ると、このことがいかに噴飯もの・嘘・ごまかしであるかよくわかる。外務省の記者発表にそのまま乗せられて、その通りにしか書かない大新聞の情けなさを改めて痛感した。
共同声明仮訳(外務省ホームページ)

<当たり前の確認>
 共同声明は3つに分かれている。第1・2パラグラフで「日本には、一定の農産品、米国には一定の工業製品というセンシティビティが存在する。全品目を交渉対象とする。ただ、最終的に関税を撤廃するかどうかは交渉次第で、あらかじめ約束するものではない」ということがうたわれている。何一つ新しいことはない。こんなことは交渉ごとでは当たり前のことであり、もともと交渉参加する前からすべての関税ゼロにしないとならないなどとは言っていない。だから、アメリカとオーストラリアの間で、巷間伝えられているように砂糖の関税撤廃の有無をめぐって交渉が行われている。カナダも乳製品等について一応俎上にはのせるけれども、国内には絶対に例外として守るということを約束し交渉中のはずだ。
 しかし、22日の夕刊から23日の朝刊にかけては、大本営発表(外務省・官邸)どおり、これでTPP参加の条件が整ったと絶賛している。日経が24日(日)の朝刊で、恥ずかしそうにこの当たり前ということの説明を書いているが、見出しはあたかも重要な約束がされたようなものばかりが並んだ。

<大演出のための国益を損ねる大妥協>
 そんな当たり前のことすら民主党政権でできなかったではないか、と推進派の方から反論が返ってくるだろうが、こんなものは大々的に共同声明にする必要のないものである。そして、何より悪いことに、大袈裟な演出のために大妥協をさせられている。
 問題は、第3パラグラフであり、この共同声明をどうしても出させてくれと日本側が懇請して、それに対して米側が強引な主張を書き込ませるという妥協の上に、やっと出来上がったのだろうことが伺える。日本は、格好付けの共同声明の見返りとして、「自動車部門や保険部門に関する残された懸案事項ばかりではなく、その他の非関税措置に対処し、そしてなおかつTPPの高い水準を満たすことについて作業を完了する」と約束させられている。後者については、アメリカ側にも必要なことかもしれないけれども、明らかに自動車、保険を名指しされたことは、日本が交渉に入る前にかなりの妥協をしてお土産を差し出すことを約束した証である。

<3分野がいつの間にか事前協議になるごまかし>
 ここまで言われるなら、日本のセンシティビティ品目「コメ、砂糖、牛肉、乳製品等を名指しで配慮すべし」と記述するのが対等の共同声明である。この共同声明は日本の義務だけが明確になった、片務的声明にすぎない。これは、私のようにこの問題にかかわっていた者にしかわからないが、外務省は牛肉、保険、自動車の交渉は、TPPの事前の協議ではないし、交渉参加の前提条件とはしないというまやかしの説明をし続けた。ところが、政権交代の機に乗じていつの間にか、日本がTPP交渉に入らせてもらう条件になってしまった。安倍首相は、保守派の代表とみられており、日本人や日本国を守ることの重要性について力説してやまない。その一方で、BSE牛肉の輸入条件を緩和して、日本人の生命を危機に晒している。この矛盾をどう思っているのだろうか。
 政府の二枚舌も極まれりである。交渉は政府の専権事項と言い訳するが、私はこのような国民をごまかした交渉は絶対許されるべきものではないと思っている。

<TPPは物価上昇2%目標を損ねる>
 経済界は成長戦略の起爆剤としてTPPへの参加表明が必要だ、と言っているが、未だもってどれだけ日本の経済成長に資するのか甚だ疑問である。逆に関税がゼロになり、安いものがどんどん入ってくれば、さらにデフレを促進することになって、物価上昇2%という目標も頓挫する可能性もある。

<「日本をアメリカに売り渡す」TPPの始まり>
 もし画期的な共同声明なら、日米両大国にお互いの例外を認める約束をしていてけしからんと他の参加国からクレームがついてくるはずである。ところが、当たり前のことであり、他の参加国は静観している。それだけ何の意味もないことなのだ。五大紙は、2010年10月以来、終始一貫してTPPをヨイショし続けており、この流れを加速しようとしているのだろうか、各紙ともTPP交渉への参加は既定の方針のように報道している。第二パラグラフを出すために、第三パラグラフで大妥協をしており、安倍首相は「日本を取り戻す」と言う標語とは裏腹に、「日本をアメリカに売り渡す」第一歩になってしまっている。TPPに加入するとこうしたアメリカのゴリ押しが日常茶飯事になり、日本の仕組みがことごとくアメリカに都合のいいように変えられていくことが明らかな中、もう加入前から図星のことが、しゃあしゃあと行われているのである。

<注目すべき自民党の対応>
 それにしても、農産物への関税をTPPの象徴に仕立て上げたが、他の5分野についてはいったいどうなっているのだろうか。保険制度、食の安全その他のことも、自民党の5項目になっていたはずである。日本を壊すおそれのあるTPPをどうしてこんなにまでして急ぐのか、私には全く理解できない。安倍首相は、選挙中にも「民主党政権には交渉能力がない」と批判してきた。事実かもしれない。しかし、安倍自民党政権が「国民をごまかし、アメリカにこっそり大妥協する能力にだけは非常に長けている」ことだけは認めざるを得まい。
 60年与党自民党は、党内調整力には長けている。236名もが加入している「TPP参加の即時撤回を求める会」を中心にどのように対応していくのかしっかりと見守っていく必要がある。
 また、我々民主党は従前どおりきちんと厳しく対処していかなければならない。

2013年2月22日

野田前首相の議員辞職から始まる民主党の解党的出直し(12年総選挙総括・民主党再生シリーズ その11)13.2.22

 2月5日の12年選挙総括シリーズの第一号「民主党の解党的出直し-民主党の再生は、野田前首相の議員辞職と党名変更から始まる-」で述べたとおり、民主党の再生を国民に理解してもらうためには私は2つの荒療治が必要と思う。一つが、この大敗北のけじめをつけるため、野田前首相の議員辞職であり、2つ目が、民主党の再生を国民にアピールするための党名の変更である。今回は前者について述べ、本シリーズの中間締め括りとする。

<トップの辞め時>
 田中宏尚農林水産事務次官は、私に「トップはなった時に真っ先に自分がどのようにして辞めるか考えておかなければならないんだ」と帝王学を授けてくれた。(ブログ「ボツ原稿『ヒューストン・サミット(1990年夏)と次官人事』より抜粋」07.12.03参照)
 田中次官は、人事異動の時期ではない1990年春、突然、審議官−経済局長−総務審議官−国際部長の人事を断行した。米の輸入が大問題になっていたウルグアイ・ラウンド(UR)の期限とされていた、1990年12月の大団円を迎える大事な時期だった。
 通常の夏の人事時、海部俊樹首相は、UR関係省庁の事務次官以下の人事凍結を命じ、農林水産省以外は喜んで応じた。通産省では、これを奇貨として次官の2年居座り人事が定着し、その後の「4人組の反乱」等の人事抗争に発展している。それに対し、田中次官は「春先に国際関係の人事を行い、盤石の体制にしてあるので、私以下の国内幹部人事をしても何ら支障は生じない」と、ただ一人応じなかった。私は海部首相の命を受けた大島理森官房副長官(当時)がらみで、少々田中構想の実現に加勢した。その時に発せられたのが、冒頭の発言である。田中次官は、夏の首相の命令という障害を予測し、先手を打っていたのである。見事というしかない。
 日本国のトップである首相は。自らの辞め時をしっかり考えているのだろうか。少なくとも、最近の1年交代の首相を見る限り、疑問を感じざるを得ない。

 辞め時ならぬ解散時を見誤った野田首相には、国民や同僚議員に対して3つの大きな責任があり、私は議員辞職に値すると考えている。以下に3つの責任を述べる。

<1.国民生活に支障をきたした年末解散の責任>
 年末の突然の解散には、何の大義もみられない。年末は予算編成、税制改正等のプロセスの最中であり、霞ヶ関の役所は大混乱である。責任ある与党の解散時期は、①最低限4度目の予算を組み、区切りつけた1月通常国会の冒頭、②予算と関連法案を通した4月、③すべての関連法案を通した6月の通常国会後、しか考えられず、常識的にはどんなに早くとも、1月冒頭解散である。何よりも国民生活に支障をきたさないためなのだ。安倍政権の下、2月13日、12年度補正予算がやっと衆議院を通過したが、13年度予算の審議はまだ始まっておらず、成立は5~6月以降となり、国民生活に支障をきたす。
 長引くデフレで混乱を極める経済の一刻も早い建て直しが必要な中、政権与党としての責任を放棄して政局に走った責任は重い。安倍自民党政権の三本の矢というスローガンの下に行われているデフレ脱却政策は、民主党内の社会保障と税の一体改革の議論の中で、デフレ脱却が先だと主張していた人たちの政策そのものであり、民主党政権で編成すべきものだったのだ。それを野田内閣は何もしなかったのだ。2月12日(火)、私は民主党次の内閣の一員として補正予算の賛否についての議論に参加していたが、本来我々民主党が補正予算も本予算も組めていたのにと思うと、意見を述べる気になれなかった。
 野田前首相はまず国民に対してけじめをつけなければならない。本気で責任をとるなら政界引退しかなく、党首の大反省無くしては民主党の再生はない。

<2.政権交代の芽を摘んだ責任>
 2月7日の「羽田元首相が予測した民主党政権の混乱」)で述べたとおり、今回の民主党政権の最大の使命は、万年与党で堕落した自民党にもっと長く冷や飯を食わせて、体質を改善させるとともに、民主党が政権運営の経験を積む期間を長くすることだった。それを今回の大敗北により、57議席の2桁野党に落ちぶれてしまい、ひょっとすると、これで二度と非自民政権ができなくなってしまうかもしれないのだ。野田執行部は消費税を上げたことで歴史的評価を受けると悦に入っているが、政権交代による日本の政治の活性化と一体どちらが大切なのだろうか。明らかに後者である。それを政策実現の手段にすぎない消費増税ごときで、大切なことを犠牲にしてしまったのだ。
 60年間政権与党だった自民党には政権維持の知恵もあり、与党への執着もあった。09年の野党転落後は、早晩分裂するだろうといわれたが、分裂したのは、与党になった民主党のほうだった。民主党にはその二つともなかったからだ。野田首相は消費増税よりも、この歴史的敗北にこそ汚名が着せられ、その悪名はずっと長く後世に語り継がれることになろう。3つの責任の中で、政権交代の芽を摘むかもしれない唐突な解散の責任こそ、もっとも重大かもしれない。

<3.党の常任幹事会の決定を無視して独断での大敗北の責任>
 野田前代表は紛れもなく党の方針に背いている。11月13日、党の常任幹事会の総意として11月の解散はすべきでないという意向を、中野寛成議長を通じて明確に伝えられたにもかかわらず、独断で解散した。そして大敗北である。民主党の倫理規則は、「党の重要決定への違背」があれば、党常任幹事会の判断で処分するとしている。野田元首相の独断はまさにこれにあたる。
 また、「選挙等で他党を利する行為をして党の乱した場合」に、離党勧告や除籍(除名)の処分ができるとしているが、解散により多くの同志を失い、党を半壊させ、自民党に利したのであり、まさに除籍にあたる。我が党に死屍累々を残し、他党に大量の「野田チルドレン」を作ってしまった。時代劇にある、「殿ご乱心」であり、城内に隠居させ、他の城主に変えてお家(党)の存続を図るしかないのだ。
 解散は首相の専権事項といわれる。権力は大きければ大きいほどその行使には慎重にならなければならない。
 不信任案を突き付けられたでの解散(69条解散)ではなく、与党政権党の最も好都合の時にできるのが7条解散である。一票の格差で違憲状態になっており、まだ法律改正の余地を残しての解散は無効かもしれないのだ。
 中曽根康弘は「死んだ振り解散」で大勝利を導いた。小泉純一郎は毎日日替わりの女刺客を用意してマスコミ、国民の関心を呼び大成功している。それに対し、野田前首相は、何の準備もなく自分の面子にこだわり思いつきの解散をして大敗北である。重大な判断ミスであり、自分がのうのうと議員として生き残るのは信義に反する。けじめとして議員辞職が必要である。
 以上、3つ、他にも選挙に入ってからも議員辞職に値する見苦しい動きがみられた。

<① 見苦しい首相の比例重複立候補>
 許し難いことに、野田前首相は自ら決意した解散総選挙であるにもかかわらず、何と比例区との重複立候補をしていた。突撃命令を下しながら、本人は我が身の保全を図っていたのである。過去5回の総選挙では歴代首相や党首クラスが重複立候補を辞退してきた。自ら突撃命令(解散)しておきながら、「退路の断ち方はいろいろある。(重複立候補の是非は)形式的だ」と記者のインタビューで言訳を述べている。

<② 小泉劇場型選挙の猿真似純化路線>
 2つ目は、2月13日の「選挙戦術における2つの失敗―離党者への対抗馬擁立と安住幹事長代行の踏み絵発言」で述べた安住踏絵発言を打ち消すべきところ、「マニフェストで打ち出した政策を死に物狂いで訴える同志でないといけない」とカンボジアで裏打ち発言をして、民主党の敗北を更に決定付けている。川内博史は、民主党が幅広い政策を持つ政党であることを広く示すためにも、野田前首相が川内を応援して手を握り合うことを提案したというが、野田執行部は自らのグループばかりの応援に出かけ、純化路線とやらをとり続けた。不利が伝えられている農村部に応援に行き、「日本の農業・農村は絶対に守りきる」と演説したら、10人近くは当選者が増えていたかもしれない。
 それを真逆の行動に走り、特定の政策(TPP参加)への賛同を公認の条件とし、小泉の郵政選挙の猿真似をし出した。自らマニフェストにない消費増税やTPP参加を言い出し、最終的に100人を超える離党者出しておきながら、よく言えたものである。そして、これもただより多くの議席を減らすだけの結果に終わっている。
 そして、もう一つ小泉の真似で身内の党内へも厳しい態度をとっているというポーズか、逆戻りする政治の象徴として突然世襲を絶対に認めないと言い出し、羽田雄一郎参議院議員の長野3区への鞍替え出馬を槍玉に挙げ出した。小泉は、自民党をぶっ壊すと言って総裁選を勝ち抜き、しっかりと瀕死の党を甦らせ、後進に道を譲り、次の総選挙には出馬していない。同じ見習うなら、さっさと議員を辞めることこそそっくり見習うべきである。

<③ 後任代表を担ぐ厚顔無恥な行動>
 選挙中の悪行のみならず、選挙後もおかしな行動に出た。野田グループ(花斉会)は無責任な解散により多くの同僚を失うという大失敗にもかかわらず、引き続き党執行部たらんとして新代表擁立に動いた。ほとんど反省がみられない証左である。
 毎日新聞の1月24日の藤村前官房長官のインタビュー記事でも、「消費増税に歴史的評価」といった言葉が先行し、更に、11月2日に、岡田、輿石も加えて解散を決めた、と発言している。そして解散を急いだ理由は、日本維新の会が相当な勢いがあり、解散を遅らせるともっとひどい結果になるからだ、といかにも後付けの屁理屈を述べている。与党として予算編成をし、法案を提出できる圧倒的優位な立場をわかっていない。それを行使できないなら、総辞職すべきだったのだ。
 これらの一連の言動や行動は、私にはとても信じがたいことである。もうこれ以上党内で「悪さ」をしてほしくない。

<野田前首相に国会議員として居場所も出番もなし>
 田中真紀子や辻元清美も秘書給与疑惑で議員辞職している。鹿野道彦は、元秘書の不始末で離党している。小沢一郎は起訴されたことから党員資格を停止されている。国民に申し開きができなかったり、党に迷惑をかけたりすることに対する「けじめ」である。それを、党の総意を無視して勝手な解散をして大敗しながら、民主党の衆議院議員にとどまる神経を、少なくとも私は持ち合わせていない。
国民に対しても、民主党議員に対しても責任をとって議員辞職するが筋である。借金のツケを後世代に回さないという責任を果たす前に、今の時代を生きる人たちへの責任こそ真っ先に果たすべきである。
野田前首相は1月26日、「民主党は、(中略)必ず出番があると確信している」と発言したが、民主党の出番はあっても、自身の出番や居場所はもうなくなっている。
 これは私ひとりの意見ではなく、議席を失った同僚議員や民主党を熱烈に支持してくれた国民の多くの声を代弁したものだ。2月16日(日)の茨城県での民主党幹部との意見交換会でも、野田前首相は議員辞職すべしという意見が出て、馬淵澄夫幹事長代理が返答に窮している。野田前首相が民主党前代表として党に貢献できることは、自ら身を引いて民主党の再生をアピールすることだと思う。

2013年2月15日

党名変更で国民に民主党の再生をアピール -韓国のハンナラ党からセヌリ党の党名変更にならう-(12年総選挙総括・民主党再生シリーズ その10)13.2.15

<民主党公認だけで拒否された悲惨な選挙>
 私はそれほどの場面に出くわしてないが、落選議員の皆さんの惨状を聞くと、民主党に対する反発はすざましいものがある。中山義活前議員は、街宣車を捉まれて「お前は民主党の代弁者か」といわれて民主党というだけで拒否反応を示されてしまったという。あちこちで同じことが起っている。何よりも準備不足の一期生に対して全く不意打ちをくらわす解散だった。それにもかかわらず岡田副総理が、選挙2日後の12月18日の記者会見で「選挙は最終的には個人の責任だ、野田首相の決断を理由に自分は負けたというのは努力が足りない」と逆撫でするような発言をして、またまた同僚議員の顰蹙を買っている。知名度もあり選挙地盤も安泰でお金もある、あまりにも恵まれすぎている岡田副総理のいつもの上から目線発言である。予想以上の大差をつけられて落選した民主党衆議院議員の傷口に大量の塩を塗り込んだ。「純化路線」とやらは論外であり、そんな意図があるとは信じたくもないが、野田執行部以外は去っていいとも言わんばかりの発言には不快感しか生じてこない。
 実際は、私も含めほとんどの人が民主党というだけで拒否反応を示されていたのである。その証拠が、小選挙区の個人票と比例区の民主党のおおきなギャップであり、私の場合は約4万票だった。篠原個人は支持しても、民主党は嫌だというのが私の平均的支持者像なのだ。

<野田・前原コンビが二度も民主党を危機に陥れる>
 落選の心配のない超銘柄議員である前原国家戦略担当相も、「野田首相は約束を守る人だ」と早期解散を煽った。そして、57人という悲惨な結末に対して「解散が遅れていたら、もっと惨憺たる結果になっていた」と自己弁護をしている。野田首相も同じような言訳をしている。落選議員が、何のデータも示さず先延ばしするともっとひどくなるなどと言えたものだと、怒るのも当然である。この2人のコンビは、代表と国対委員長で引き起こした偽メール事件と今回解散時期を誤ったことで、二度も民主党をドン底に突き落としたことになる。

<究極の綱領改訂>
 民主党の再生のために、今、民主党改革創生本部で総括を行っている。そしてもう一つ、綱領の改定作業が突貫工事で行われている。私は、総括は絶対必要だとは思うが、綱領の改訂などはそんなに急ぐ必要はないと思っている。綱領のない政党とはよく言われていたが、1998年の結党時に作成した「私たちの理念」という立派な綱領がある。民主党は何も綱領がないことで敗北したのではないし、政策が間違っていたから国民から見放されているのでもない。
 ただ従前から綱領の策定については、直嶋政行委員長の下、2年弱ずっと党綱領の策定ないし改訂の検討をしてきており、私も、12年5月より会合に皆勤しずっと議論に参画してきた。1月の定期大会で決定する予定で11月7日に全議員会合も持ったところ、私が見るに本当にもっともな意見が寄せられた。まじめな民主党議員が、崩れつつある民主党を憂い、必死で立て直そうとしていることがひしひしと感じられた。そうした健気な気持ちを木っ端みじんに打ち砕いたのが、突然の解散である。1ヶ月の間に状況は一変した。そして12月16日の大敗北を受けた後の党綱領は、参議院選挙に向けたものとか短期的な物観点に立つものではなく、自民党から政権を奪還するためのものでなければならない。

<韓国に倣い党名変更で再出発すべし>
 それでは、何をもって新生民主党を国民に印象づけたらいいのか悩ましいことである。私は野田前首相の辞職と並んで、国民に民主党がすっかり変わったというふうに意識してもらうには、思い切って民主党の党名を捨てる潔さが必要ではないかと思っている。なぜならば、民主党の比例区の票は09年の2984万票から12年は963万票と3分の1に激減し、できたばかりの新興政党維新の会よりも比例区の票でも議席でも下回ったのであり、(維新 1226万票 40議席、民主 963万票 30議席)ちょっとやそっとの改革では国民は納得してくれそうもないからだ。その後の世論調査では、4~5%の支持率となり、維新とみんなの党の後塵を拝している。
 この点で参考になるのは韓国である。韓国の政権与党として14年に及んで韓国の政界を牛耳ってきたハンナラ党は、12年2月スパッとセヌリ党と名前を変え出直している。その甲斐あって、4月の総選挙にも辛勝し、12月にはセヌリ党の初の朴槿恵(パククネ)大統領が僅差で誕生した。起死回生の大博打が効いたのである。

<躍進する韓国企業とFTA大国>
 この経緯を簡単に述べておく。<別紙 ハンナラ党からセヌリ党への党名変更 -米韓FTAを巡る李明博大統領の栄枯盛衰- 参照>
 2011年から12年にかけて韓国政界はめまぐるしく動いた。政治は一寸先が闇ということが端的に当てはまるのが、李明博(イ・ミョンバク)大統領のアップダウン、毀誉褒貶であろう。現代グループの建設会社のトップからいきなり大統領となり、自らCEO大統領と名乗り、韓国製品の売り込みに熱心に取り組んだ。韓国は「日本に追い着け、追い越せ」の大号令の下に大躍進を遂げ、サムスン、LG,現代(ヒュンダイ)に代表される世界的企業が出現し、あちこちに韓国製品が跋扈し始めた。
 韓国でも日本と同じように、開国という美名の下に、米韓FTAが推進された。BSEの問題もありすったもんだしたけれども、7年越しで批准できる状況になった。日本に先んじて「FTA大国」となることを国民も支持していた。11年10月李大統領は、オバマ大統領に国賓としてアメリカに迎えられ、デトロイトのGMの自動車工場を一緒に見学した。小泉首相が、ブッシュ大統領に国賓として招かれ、エルヴィス・プレスリーの生地にまで行った図式によく似ている。ちなみに小泉首相以降、日本の首相で国賓待遇を受けていない。
 もともとFTAには難色を示していたオバマ大統領が、この時期に合わせて突然パナマ、コロンビア、韓国のFTAを批准し、実施法も通過させ、歓迎の意を表した。これで韓国は日本を追い越し、アメリカを「経済領土」にしたと悦に入り、李大統領は人生の絶頂期にあった。

<野田首相のTPP前のめり発言をきっかけに米韓FTAを強行採決>
 ところが、運命はちょっとしたことで狂う。11月9日に、野田首相が、ホノルルAPECに向けてTPPに参加表明するということが韓国新聞に報じられると、韓国のマスコミや国民は、やはり日本のほうが先んじていると大騒ぎになった。いろいろ反発のある米韓FTAの国会での承認は、それほど急ぐつもりではなかったのであろう。ところが、李大統領は、日本より遅れるのを嫌がり、11月22日に強行採決をしてしまった。驕りが招いた強引な政権運営である。この辺りは、日本の消費増税を強引に進める野田政権と瓜二つだ。
 内容もろくにわからない段階からTPPに全面的に賛成している日本の5大新聞は、なぜかしら韓国民の激しい反米韓FTAの動きを詳しく報じない。しかし、さすが催涙ガスが飛びかう前代未聞の採決は小さく報じたので、日本でも覚えている人がいるだろう。
 野田首相の党の「慎重に」という提言を顧みない発言、そしてその後の前のめりの対応は、自爆テロ解散による総選挙での民主党の大敗北の引き金になったが、実は韓国の政界の大混乱の引き金もひいていたのである。

<与党も反対し出した米韓FTA>
 そのあとも李大統領とハンナラ党の運命は狂っていく。米韓FTAのその内容たるや前例のない大不平等条約だということで、まず法律学者や裁判官までもが「こんな不平等条約けしかん」と騒ぎ出し、11月30日には5万人の米韓FTA反対集会が開かれた。こうして、強行採決した与党のハンナラ党でさえ、これはおかしいと言い出し、12年の1月1日の発効を見送るべく、11年末の12月30日に国会が開催されて米韓FTA再交渉決議が可決されている。そこに李大統領の兄、李相得(イ・サンドゥク)の逮捕等別の動きもあった。その先に12年4月の総選挙も目前に迫っていたし、12年末の大統領選挙も控えていた。
 それなのにハンナラ党の支持率は下がりっぱなしである。大統領候補として、暗殺された朴正煕元大統領の娘 朴槿恵がほぼ確定していたが、それに対抗すべく、ITビジネスを起し国民的人気を博していた、ソウル大学の安哲秀(アン・チョルス)教授が取り沙汰されていた。

<党名変更し綱領も福祉政策重視に改訂>
 そこで大胆な行動に出たのがハンナラ党である。1月26日、ハンナラ党は非常対策委員会全体会議を開催し、党名を変更する方針を議決、その後新しい党名を公募し、2月13日に「大きな国」を意味するハンナラ党から、「新しい世の中」を意味するセヌリ党に変更した。1997年「新韓国党」と「民主党」が合併して成立したハンナラ党は、約14年の歴史に幕を閉じた。
 更に、このままでは危ういということで、党綱領を変えることが浮かび上がってきた。12年1月4日、非常対策委員会は、綱領から中道への支持基盤の拡大を意識して「保守」「ポピュリズム」を削除する方向で検討に入ることを表明した。そして1月30日には、06年以降6年ぶりに綱領(国民との約束)を改定した。従来は、国家や市場中心の経済成長に重きを置いていたものを、福祉や雇用、経済民主化を中心軸に据え、国民の幸福を重視している。日本の民主党が「国民の生活が第一」とするのと符合する。

<民主統合党の勇み足、オバマ大統領宛て直訴書簡>
 政界はめまぐるしく動く。野党民主統合党は、圧倒的な支持率に乗じたのか、アメリカのオバマ大統領とジョーンズ上院議長宛てに、こんな不平等条約はおかしいと、修正箇所を10か所指摘、この次の総選挙に勝ったら、こんな条約は再交渉する、さらに調子に乗り、12月に自分たちの大統領が当選したときには破棄するという手紙を突き付けた。これに対して、政府は自国の対立を外国に持ち出すのは「国際社会の信頼を損なう」とすぐさま反撃した。これにマスコミ、国民も応じて野党の支持率は急速に下がっていった。それに乗じて、3月15日米韓FTAを発効させた。
 そして、4月11日総選挙、セヌリ党が300議席のうちの152議席を占め、辛うじて第一党を維持し、政権交代はならなかった。その後の大統領選挙も、野党側から盧武鉉(ノムヒョン)大統領の秘書室長であった文在寅(ムン・ジェイン)と安哲秀の2人が名乗りをあげてしまった。最後は一本化したが、僅差で破れている。

<14年経った「民主党」もそろそろ賞味期限>
 つまり、ハンナラ党は、米韓FTAの前のめり行動と党内の不正や李一族のスキャンダルで党の存続の危機の中で、思い切って党名を変えて大成功したのである。日本の政党の名前は韓国と比べるとそう頻繁には変わっていない。民主党は1998年の結党から14年余、ハンナラ党の賞味期限と同じ年に達している。創業者の鳩山元首相さえつれなく追いやったのであり、もはや党名にこだわる必要はない。これだけ大敗北した民主党は、党名を変え不退転の決意で再出発したことを、国民に示さなければならない。

2013年2月14日

両院議員総会(12月19日)の新代表選出延期の顛末―(12年総選挙総括・民主党再生シリーズ その9)13.2.14 

<新代表を3日間で選ぶとんでもない提案>
 12月18日選挙の2日後、私は世話になった人たちにお礼のあいさつ回りをしていた。つねに朝刊は朝読みたいと思っているが、なかなか忙しく夜寝る前に読むことにしている。ところがこの日、秘書から、「明日、19日両院議員総会が開かれると出ていますよ」と言われ、ビックリ仰天した。見ると、19日の午後、両院議員総会が開かれ、そこで代表選の日程が議題になり、22日の午前中に代表選の立候補届けを受け付け、複数の立候補者が出た場合、その午後に145人の議員(衆議院57人、参議院88人)の投票で新代表を選ぶというのだ。

<すぐ幹部に意見の電話>
 私は、そんなばかな、これだけ大敗北をしておきながらそんな簡単に代表を選んでいいのかと思った。例によって、我々議員に諮る前に新聞に漏らして、一般国民の方が先に知り、既成事実を作るという、民主党の野田執行部が繰り返してきたずるい手法である。私は、すぐに当然そんなことはやめるべきだと幹部に電話した。直接話せなかったが、留守電に私の反対の趣旨を伝えた。
あいさつ回りを続行している間、3回その幹部から電話があったが、夜遅くになるまで気付かず、19日の朝になってやっと接触した。しかし、私の意見は取り入れられなかった。
 半年前の代議士会の発言(ブログ消費増税法案採決に棄権した理由-2012.6.27参照)もそうだが、私はできれば穏便にことを進めたいので必ず執行部に前もって問題点を指摘している。ところが、私のこうした心配りも増長気味の野田執行部には通じないことが多かった。
 そこで、今回も私は、すでに発言の準備を着々と進めていた。

<自民党は若林両院議員会長で乗り切る>
 総選挙後の特別国会で首班指名を行わなければならない。首班指名こそ完璧に党議拘束に従わなければならないものであり、記名投票である。つまり投票用紙に篠原孝という名前を書いてから、首相に推す人の名前を書くことになっている。常識的に各党もそれぞれの党首の名前を書くことになっており、党首が決まってないと都合が悪いことになる。
 ただ、これには巧妙にすり抜ける先例があった。3年半前の8月30日に大敗北して、困った自民党は、だからといって、9月16日の首班指名までに拙速に総裁を選ぶわけにはいかなかった。こういう事態は初めてのことであったが、長年の知恵であろう、9月18日には若林正俊両院議員会長を暫定の首班指名にして、特別国会の首班指名を乗り切り、その後でゆっくり党代表を選ぶという賢い道を考え出した。当時のマスコミは、「史上最大のピンチヒッター」として若林両院議員会長を揶揄した。なぜならば、若林環境大臣時代には、農林水産大臣の不祥事がいろいろ続いたため、代打で農林水産大臣を数回務めていたからである。

<手続きを踏む60年の政権与党>
 自民党はやはりしっかりした党である。大敗北の翌日、麻生太郎首相は辞任を表明し、臨時役員会で次期国会(192回)は麻生総裁のままとすることに決めた。きちんと手続き通り総裁選を告示し、河野太郎、西村康稔、谷垣禎一の3人が立候補し9月15日に総裁選が告示された。日本全国を回り、11ヵ所で演説会をし、2ヵ所で討論会を行い、9月25日 谷垣総裁を選んでいる。野党自民党の総裁選にマスコミもそれほど関心を示さず寂しいものだったが、60数年与党を経験した自民党は、きちんとした手続きを踏んでいる。俄か与党の民主党のいい加減さと比べると立派としかいいようがない。

<自民党との対応比較表を配って根回し>
 私は、民主党もちょうどよく、1月中旬の通常国会前に党大会が行われるので、党大会の日に投票を行うと決め、代表を選べばいい。拙速に選ぶべきではない。反転攻勢、政権奪取に向けて、どういう代表を選ぶべきかが大事で、そんな拙速な選出はやめるべきだという資料「下野時の党首選の対応比較」を作った。

 19日に上京し、待っているであろう幹部に電話した。案の定の内容である。要するに、もう流れはきまっている。参議院は早く代表を決めてもらわなければならないと言っている。そんなことを今更言っても通る話ではない。しかし、私は、決まっていようが決まっていなかろうが、ダメなものはダメだと発言することにした。そして、この資料を10人前後の人たちに配り、民主党幹部に欠ける根回し調整をして援軍をお願いしておいた。

<自民党と民主党の活力の差>
 私の一番の驚きは、党首討論で自信たっぷりに解散を宣言し、大敗したにもかかわらず、野田代表がそれこそ一言詫びただけで後は知らぬ顔の半兵衛を決め込んだことだった。自民党では、宮沢政権下で大敗した折には梶原静六が幹部に議員辞職を迫ったという。それを見ていた中曽根康弘は自民党の底力ここにありとみて、復活を確信したという。民主党にはそんな場面は見られなかった。

<一番始めに発言>
 両院議員総会で私は、珍しく一番前に座り、「代表をたった3日間で拙速に選ぶのは反対である。他の人たちの意見も聞いてほしい。国民は民主党の再生のプロセスをじっと見ている。こんな拙速に代表を選ぶのではなく、きちんと総括して大敗北の原因について議論してからやるべきである」と意見の口火を切った。自民党の知恵に習い、26日の首班指名は暫定首班で乗り切り来年1月の党大会で新代表を選べばよい、とも付け加えた。それから13人が続いて発言をし、2人が執行部よりの発言をしたが、あとの11人は、地方の声を聴くべきだ、党大会で決めるべきだ、きちんと総括してからにすべきだと、私同様に22日の拙速な代表選に反対した。ついに輿石幹事長は22日の代表選の延期を決め、22日には落選議員も含めて大敗北についての意見を聞くということになった。

<マスコミ完全公開のメリット、デメリット>
 私はマスコミオープンになっている両院議員総会で、また決められない民主党というイメージがつくのがいやだったので、わざわざ事前に幹部に、そんな荒っぽい日程は取り下げたほうがいいと言ったのに受け入れられず、両院議員総会でのどんでん返しとなった。今やすっかり定着した(?)民主党の混乱振りを国民に知らしめることになってしまったが、拙速な代表選だけは阻止できた。
 余談になるが、私の発言がTVニュースでは何度も報じられた。一番前の席だったことから、カメラにはまず頭の後ろが映った。いつものとおり髪が突っ立ってボサボサ(要するにひどい寝癖髪)だったことから、後で身だしなみの厳重注意を受けてしまった。同時に、私は選挙期間中から、再選された暁には党の再生に全力を挙げると訴えていたが、それを早速実行していることが有権者に伝わり、その分では励ましの言葉を多くいただくことになった。公開の議論は、メリットとデメリットの両方があることがよくわかった。

<25日に延期された代表選>
 ただ、私の思った通りに1月の党大会までは延期されなかった。22日の懇談会は、マスコミにオープンされず、ガス抜きの総括が行われた。非常にいい意見が出たたが、ほとんど報じられることはなかった。そして、もうこれ以上延ばすことは出来ないということで、25日に海江田代表が選出されることになった。
 一事が万事である。最後の最後まで野田執行部は強引だった。その典型例がこの代表選の拙速な日程である。
 民主党の代表が任期途中で交代することが多く、地方議員や党員・サポーター抜きの両院議員総会でばかり選ばれるので、党規則を改正し、臨時党大会で代表を選ぶようにしたところだった。しかし、大河原雅子参議院議員が指摘したとおり、早速例外を作ってしまったのである。3党合意の党内プロセスにおいて、私が党規約にある3分の1(132名)を超える156名の署名を集めて、両院議員総会の開催を求めたにもかかわらず、平然と無視したのと同じ構図である。

<自ら決めたルールを守る政党が再生への道>
 国民が、自分たちで決めたルールすら守れない党に政権を任せられない、と厳しい判断をするのは当たり前である。悪い意図があるとは思いたくないが、野田執行部が、準備が整わないうちに、いわゆるメリーゴーラウンド人事の延長で、自分たちの仲間内から新代表を決めてしまおうとしていたのだとしたら、あまりに卑劣である。
 民主党は何よりも民主的に議論をし、公正に物事を決める党にならないかぎり、党員からも国民からもそっぽを向かれてしまうだろう。党再生の第一歩として、不公正なルール違反の新代表選びを少しでも変えられたことを是としなければなるまい。

2013年2月13日

選挙戦術における2つの失敗―離党者への対抗馬擁立と安住幹事長代行の踏み絵発言―(12年総選挙総括・民主党再生シリーズ その8)13.02.13

<強引な政権運営が招いた離党者続出>
 民主党の分裂、ゴタゴタが民主党のイメージを大きく損ねたことは明らかである。もっぱら出て行った人を責める風潮があるが、内部にいた私としては出て行った人たちを責める気持ちにはなれない。なぜかというと、純粋で真面目な人たちだからこそ、民主党らしさを捨て去った政策や強引な政権運営・党運営に我慢できずに出て行ったのである。野田執行部がハンドリングを間違っていたのである。最初の中後淳、斉藤恭紀の離党のきっかけは、党の提言であるTPPを慎重にすべしというのを無視した、野田首相の前のめり発言だった。消費増税で離党者が続出したと思われているが、最初は他ならぬTPPであり、その後の「きづな」の内山晃の離党もTPPが主因だったのである。かくして衆議院308議席が選挙前には230余に減っていた。

<愚かな全選挙区立候補>
 そもそも党議拘束をかけ、そしてそれに違反した人たちに対して党員資格停止、離党勧告というのは日本だけの愚かなことであり、他の国では行われていない。このことは既に別のブログ(「党議拘束違反で分裂、離党の大騒ぎは日本のみ―12.07.17」)で述べた。まして、小泉純一郎のように刺客まで送り込み選挙で落とすという愚かなことは真似すべきではないことだと思っていた。ところが今回、民主党執行部は、ほとんど誰一人として当選の見込みもないにもかかわらず、離党でできた空白区に候補者を立てるというもっともらしい大義名分のもとに、元の仲間に容赦なく民主党の候補者を送り込んだ。その数は50名近くに達している(別表「民主党離党者に対する民主党対立候補一覧」参照)

 私はこんなにも大量に嫌味なことをしているとは、選挙が終わって新聞で全国の選挙結果を見るまで知らなかった。

<典型的悪例、田中美絵子の東祥三への対抗馬出馬>
 こうした愚行に対して、私が個人的にも厳重に注意した案件がある。東京15区の田中美絵子の未来の党の東祥三幹事長への対抗馬としての立候補である。
 田中美絵子はそもそも議員会館で私の隣部屋の河村たかしの秘書で、私が声をかけて民主党の候補者リストの中に入ることになった。09年衆議院選挙の時に丁度よく石川2区の森喜朗元首相の対抗馬として擁立され当選、小沢ガールズの一人としてマスコミにもてはやされていたものの、その後のスキャンダルもあり、東京15区へ国替え立候補した。
 小沢と共に離党した重鎮の東の対抗馬になるというのは、恩義に悖る。私は、かつて民主党候補へと勧めた責任もあり、女刺客のような出馬はやめたほうがいいと強く言ったが、聞く耳を持たなかった。結果は当然のごとく2人とも3万票弱しかとれず共倒れだった。

<自民党を利しただけの民主党の刺客>
 愛知14区・鈴木克昌(現・生活の党幹事長)に東海ブロックで比例単独で衆議院議員となった磯貝香代子をぶつけたほか、愛知1区・佐藤夕子、4区・牧義夫等にも軒並み対抗馬を立てた。まるで、小泉郵政選挙の女刺客を真似ているとしか思えない。磯貝は社会保障と税の一体改革採決の折、造反した人たちに厳しい処分をすべしと、命を助ける「助命嘆願」ではなく、もっと厳しい措置を講じろという「除名要請」に出向いている。そして、次が昨日の仲間の対抗馬として小選挙区立候補である。これまた私の常識外のことである。
 上記3人の他に埼玉7区・小宮山泰子の未来の党4人と後述する維新の2人は、対立候補が立たなければ小選挙区で当選し、もう6人は確実に野党仲間が増えていた。民主党は目先のことにこだわり、自民党に塩を送ったのである。戦う相手は他の野党でなく自民党なのに、完全に相手をはき違えてしまった。分裂がしたが故に票数が減っているが、他に京都1区の平智之、沖縄1区の玉城デニー、宮城2区の斉藤恭紀、北海道12区の松木謙公は、民主党がちょっかいを出さなければ小選挙区当選した可能性が高い。対立候補を立てられなかった石川知裕(北海道11区)、畑浩治(岩手2区)、青木愛(東京12区)、村上史好(大阪6区)はいずれも比例復活しており、非自民票の潰し合いをしなければ民主党も他の野党ももっと議席を確保できたのだ。

<離党者への民主党対抗馬はただの1人も当選せず>
 ところが、全員ものの見事に落選している。比例区の票の上積みに貢献したからいいではないか、といった言訳が聞こえてくるが、民主党の比例区の票は、小選挙区の票よりも大幅に下回り、何の効果も生じていない。つまり、小選挙区で民主党の候補者名は書いても、比例区では民主党と書かない者が圧倒的に多く、空白区だから比例区の票が少なくなることはほとんどなかったといえる。結局、50名近くの膨大な選挙資金を無駄にし、自民党を利しただけの徒労に終わったのである。更に悪いことに維新に移った2人の実力者、小沢鋭仁(山梨1区)と松野頼久(熊本1区)にもわざと対抗馬を立て、今後の野党共闘の可能性も著しく低くしてしまった。選挙の遺恨はなかなか拭い去れないのが政界の常である。

<聞きたくない藤村前官房長官の後付けの言訳>
 年明けて毎日新聞の年頭インタビューを受けた藤村前官房長官が、解散時期を見誤ったのではないかという指摘に対して、先に延ばすと維新の準備が整ってもっと惨敗する恐れがあったと見苦しい言訳をしている。それならば、11月2日に岡田副総理も入って協議、決定した解散に向け、与党民主党はひそかに万全の準備体制をしいたのか、と問い質したい。2005年の8月8日、小泉政権は亀井静香が150%ないと言った解散を断行し、次々と日替わり女刺客を公表し、選挙になだれ込み、大勝利を収めた。
 しかし、民主党陣営のしたことは、前述のとおり、民主党離党者に意地になって対立候補をぶつけ、むしろ敗北に上塗りしただけなのだ。
 非自民ということで見れば、民主党離党者のいる選挙区での脈絡のない立候補により10議席以上も失っている。後々の反自民勢力の結集ということを考えたら、全く余計なことをしていたことになる。
もちろん、「未来」がやたら民主党候補者に対して対立候補を立てたことに対する反撃もあることはわかるが、大政党は民主党であり、民主党が自重するのが先である。民主党王国といわれた北海道の大敗北は、新党大地・真民主との連携が崩れたことも原因の一つである。日本の選挙は相変わらず自民対反自民であり、反自民が割れては勝負にならない。参議院選挙に向けて、肝に銘ずべきことである。

<安住幹事長代行の大失言の被害者は一に鳩山、二に篠原?>
 2つ目の大失敗は、11月18日の日曜討論における安住幹事長代行の誓約書発言である。この1番の被害者は怒って出馬を取りやめた鳩山元首相であろう。民主党の創業者に対してあまりにも失礼なことであろう。慰留もされなかった。ところが、私の支持者が2番目の被害者は篠原だと大騒ぎしていることを知らないでいた。19日から2日間東京でマニフェスト修正に費やし、20日の夕方、長野の選挙事務所に帰ってきてみると、周りは真っ青だ。まず秘書が「代議士、本当に公認されるんですか」と聞いてきた。信濃毎日新聞は11月19日朝刊1面に『「党政策に反対」公認せず』という見出しで「野田首相の考え方についてこられなければ後任はできない」との安住発言を大々的に報じた
(信濃毎日新11月19日朝刊1面『「党政策に反対」公認せず』参照)
。それを真に受けた真面目な周辺の者は、マニフェスト、特にTPPについての反対するのは公認されない恐れがあると心配していたのである。
 私は、「そんな馬鹿な話があるか、北朝鮮や中国の共産党はそうかもしれないけども、民主化されたロシアの共産党ですら、そんな非民主的なことはしない。純化路線などと言っているが、そんなのは弱小政党の話だ。政権与党たる大政党は色々な意見を纏めていかなければならないのに、何を馬鹿なことを言っているか」と言って安心させようとした。ところが、相当な政治通の者でさえも心配していた。地元中野市の地方紙「北信タイムス」は「党公認となるのか支持者も注目している」と記事にまで書いた。(11月23日北信タイムス 参照)
それだけ悪影響を与えたのである。
 数日後、案の定、一人も公認されない者などなく現職議員はすべて公認された。ところがここからがまた問題だった。

<鳴り止まないクレーム電話と数多くの意見メール>
 私の選挙事務所には相当なクレームの電話が掛かってきた。メールも相当寄せられた。つまり私が公認されたのは、踏み絵を踏まされTPPに賛成すると言い、原発についても反対と言わないと言ったからだというのだ。そんなことは政治家として情けない、許せない、自分の主義主張をなんで通さないのだ、ちゃんと通すから支持していたのに見損なった。もう支持しない。山田正彦TPPを慎重に考える会会長と同じようになぜ離党しなかったのか等々、とどまることを知らなかった。
 電話やメールを書く人はほんの一握りに過ぎない。多くの人が同じ誤解していたのである。ミニ集会でも、篠原さんは踏み絵を踏まされて妥協したのではないか、という質問をあちこちで受けることになった。私はすぐ全面否定したが、私と直に話を出来る人は限られている。多くの有権者が、誤解したまま投票日を迎えたに違いない。全国でも安住幹事長代行の軽はずみ発言でさらに票を失い、何人かが議席を失っただろう。

<厳に慎むべき選挙期間中の軽率発言>
 05年小泉郵政選挙では、岡田代表、仙谷政調会長発言が民主党の足を引っ張った。10年の参院選では菅首相の消費税発言が徹底的な敗北をもたらした。今回の安住幹事長代行の軽はずみ発言は、私のようにTPPに絶対反対の者のみならずTPPを推進しようとする人たちの足も引っ張り、両方に不利になった。この点も、我が党の幹部は大人の政治家になっていなかったのだ。

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