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2013年02月12日

日本の団体推薦の見本、長野県農政同友会 (12年総選挙総括・民主党再生シリーズ その7)13.02.11

<日本の片寄った団体の推薦>
 参議院選挙を前に、与党だった民主党から各種の団体がなだれをうって自民党に復縁していると報じられている。政権交代が生じてしまった今は仕方ないとしても、団体推薦のあり方はよくよく考えておかないと日本の政治を歪めることになってしまう。
 日本は60年に及び自民党が与党であり続いたことから、すべての業界団体が自民党支持となっていた。それが2009年秋の政権交代を境にして、多少変わってきた。典型例が日本医師会(連盟)で、原中勝征会長(茨城県)が大胆にも民主党支持を表明した。他に日本歯科医師会(連盟)も加わり、2010年の参院選では、西村まさみが民主党公認で当選している。3年前には石井みどりが自民党公認で参議院議員になっており、戦国時代の真田家よろしく二股かけてどちらが政権の座についていても、政治的影響力を行使できるように巧妙なバランスをとっている。二大政党による政権交代が本格化していくとなると、当然出てきてよい動きである。ただ、日本看護連盟や日本薬剤師連盟のように、民主党が与党になろうが構わず一貫して自民党と友好している団体もある。余程信念のある(?)団体かもしれないが、これでは政治は変わらない。

<金権体質が強まるアメリカ政治>
 アメリカは選挙あるいは政治が、ここ10数年とてつもなく金権体質が強まりつつある。アメリカは民主主義国の象徴のように思われているが、今や金融業界が政府を相当動かしており、TPPもその延長線上にある。2010年最高裁の判決により、企業・団体の資金提供の制限がすべて撤廃され、企業・団体の献金はますます日本とは桁違いの大きさになった。大統領選に集まる膨大な資金量をみればよくわかり、オバマ陣営は10億8千万ドル(約918億円)、ロムニー陣営が11億3千万ドル(約960億円)を集めている。その意味では、民主主義も資本主義も相当歪み始めているといえる。日本の政党助成金総額(12年約320億円)や政治資金総額(11年2,219億円)と比べるとその巨額さがよくわかる。

<アメリカは政党ではなく個々の議員を推薦>
 ただ日本と違うことは、一つの団体が全国津々浦々まで一つの政党だけを支持するといったことがない。つまり二大政党制が完全に確立し、政権交代もほぼ2期8年ごとに行われることもあり、どの団体も民主・共和両党に、自分たちの意向を汲んで動いてくれる議員を作っている。例えばアメリカ大豆生産組合なる団体は、それぞれの議員を個別にみてイリノイ州では共和党の候補者を、隣りのオハイオ州では民主党の候補者を支持しているという具合である。

<日米で推薦先が党と個人分かれる理由は党議拘束の有無>
 アメリカの新聞は、NYタイムスもニューヨーク州の地方紙であり、そうした地方紙が自分の州の関係議員の各法案の採決の賛否を刻明に報告しており、団体も国民も判断材料には事欠かない。
 根底には、日本と異なり党議拘束などなく、個々の国会議員が自らの識見により賛否を決めているという違いがある。日本は自動的に党議拘束がかかり、党で賛否が決定され、個人で判断ができない仕組みとなっている。こうしてみると、日本の企業・団体が全国一本でどの党かで推薦・支持を決めるのは、硬直的党議拘束があるかぎり致し仕方ないことともいえる。(本件については、12年8月7日のブログ「党議拘束違反で分裂・離党騒ぎは日本のみ」を参照)

<アメリカに近づきつつある日本>
しかし、今回は少し様相が違ってきた。なぜならば、社会保障と税の一体改革を巡って民主党では多くの造反者(反対者)や棄権者が出て、更にそれが多くの離党者につながったからである。誰がどのような採決行動をとったかわからなくなったので、気付いた一部のマスコミは主要法案について、個々の国会議員の投票行動を一覧表に示して報じた(東京新聞2012.11.25 前衆議院議員 主な投票行動)。その点で日本の国会も一歩前進したといえる。党議拘束に反して投票し、離党や党員資格停止というひどい処分をされたので、この矛盾がわかったのか、「生活」は党議拘束をなしにすると決めている。

<長野県農政同友会の先進的な推薦>
 全国的には全く知られていないが、今回長野県農政同友会(農協の政治団体、各県で名称は異なる)は、非常に先進的なアメリカ的推薦をやってのけた。
 よく知られているとおり、農協をはじめとする農業団体は60年与党にある自民党を一貫して支持し、その所属議員を推薦してきた。ところが、農政同友会も、一時は加藤紘一とともに自民党農政のドンとして2度も農林水産大臣を務めた羽田元首相については、自民党を離れても推薦してきた。その強い勧めで国政に参画した私も、お裾分けにあずかってか推薦してもらってきた。ただ、極めて日本的で、アメリカではありえない自民党候補とのダブル推薦である。私が政界に入ってからのことしか知らないが、民主党の衆議院議員で推薦を受けているのは、他に玄葉光一郎と鉢路吉雄がいるくらいだった。かつて、玄葉の相手は選挙のたびに替わる『日替り』ならぬ『選挙替り』候補であり、民主党ではただ一人単独推薦だった。ただ、さすがに今回は外相としてTPP前のめり発言の片棒を担ぎ続けたことから推薦されなかった。
 長野は5区に分かれているが、今回、農政同友会は私の他に、4区後藤茂之(自)、5区宮下一郎(自)の3人だけを推薦し、他の候補は推薦していない。つまり、候補者の「政治活動の実績」をみて、差をつけたのである。

<時代錯誤な九州の農政連>
 ところが、九州では相変わらず時代錯誤で、「TPPを慎重に考える会」の会長として先頭に立ち続けた山田正彦や体を張って反対し続けた川内博史すら推薦しなかったのだ。二人とも5期維持した議席を失っている。今回も、九州の民主党候補はただの1人も推薦されず、自民党候補ばかり自動的に推薦された。また、野田内閣の農林水産大臣として、TPP交渉参加を実質的にくい止めた大恩人の鹿野道彦を推薦しない山形も、九州並みである。どうも各県の成熟度の違いがあるようである。
 ただ、救いは全国農政連が一律に決めるのではなく、各都道府県に判断を委ねていることである。念のために全国を調べてみると、民主党では私の他に宮城の石山敬貴、茨城の福島伸亨、香川の玉木雄一郎の3人が推薦を受けている。また、千葉県ではきちんと政治活動を見て、野田首相の党の提案を無視したTPP前のめり発言に我慢ならずに真っ先に離党した「未来」の中後淳、内山晃等をきちんと推薦していた。農政連は長野県だけでなく個々人の政治活動に応じた推薦もしつつある。

<羽田元首相の懸命な努力>
 もともと長野県の農業団体が民主的だったのだろうが、民主党が政権の座に就いた時に丁度よく茂木長野県農協中央会長が全中の会長に就任していた。その折、羽田元首相と北沢元防衛相と私の3人で二度ほど茂木全中会長に、個々の議員ごとに推薦してほしいと逆に陳情(?)した。長野県と比べ全国の農政連はあまりに頑なだからだ。しかし、長野県以外にも個々の議員の政治活動をみて推薦を決めることが広まっているのは喜ばしい限りである。
 羽田元首相が政権交代後1回目の総選挙に勝利することが最も大切、と何度も力説されていた理由がよくわかる。8年なり2期を民主党が与党でいたならば、長野県農政同友会並みになる県がもっと増えたかもしれないからだ。

<党から政治家に変わりつつある推薦>
 日本医師会(連盟)は、原中勝征会長時代は明確に民主党を支持した。その前に地元の茨城県では09年選挙において一歩先んじて民主党議員を推薦し、全員を当選させていた。
 その後、中立を標榜する横倉義武会長となり、11年11月21日に記者会見し、各政治家の考えを聞いて、地方組織の意向に従って小選挙区ごとに推薦候補を決めていくことになった。
 長野1区では、私の相手は自民党も維新の会も医師。TPP反対を巡り「TPPを慎重に考える会」や「TPPを考える国民会議」で共闘してきたが、私の考えは全く聞かれた覚えはなく、横倉会長の言葉どおりには動いていない。しかし、推薦方式が全国団体一本でなく、「政治家」ごと、「地方組織」ごとに変えていく気運は生じつつある。今後はこうした動きが他の団体にも広がってほしいものである。これが、ひょっとして日本の政治を変える一つのキッカケになるかもしれない。

2013年02月10日

ミニ集会での主張と質疑応答 (12年総選挙総括・民主党再生シリーズ その6)13.02.10

<60~70ヵ所のミニ集会>
 今回の選挙は昨日(2月10日)のメルマガ・ブログのとおり60数か所のミニ集会を中心に戦った。正確に言うと解散してから既に栄村や野沢温泉村、木島平村等北の方でやってきているので合計70か所を超えた。概ね1時間とし、最初の15分から20分は私が話すことにした。

<反TPP、脱原発を主張>
 場所によって少々異なるが、私はTPPに反対、原発からも早く脱する、ということを愚直に訴えた。
 後半戦になると安倍・石破連合軍が憲法改正、国防軍、集団的自衛権の行使を認める、はたまた維新の会石原慎太郎代表が核兵器のシミュレーションも行うべきだ、といった右傾化発言が続いたので、それに対して歯止めをかけなければならないと付け加えることになった。
 私の質問に誘発されたわけではなかろうが、農村地帯ではTPPについて多くの質問が出た。原発については少なかったが、やはり柏崎刈羽に近いだけあって多くの懸念が表明された。

<国民は大飯原発の再稼働を許していない>
 どの新聞論調も言っていないが、大飯原発の再稼働に加勢した元大臣たち、つまり、藤村官房長官、枝野経産大臣、細野原発担当大臣、それから不思議なことに、なぜかしら参加していた仙谷政調会長代行を有権者は見逃していない。このうちの藤村、仙谷は落選している。枝野はずっと行政刷新担当大臣、幹事長、官房長官、経産大臣と陽のあたるポストを歴任し続け典型的メリーゴーランド人事の一員であるにもかかわらず大苦戦した。さすが、若さが売りの細野と野田首相は危ういところがなかったが、有権者が名前を書く段になった時には、原発推進に与した者を忘れなかった。つまり、金曜日の夕方のデモは投票行動には表れていなかったという論調は、まったくの的外れであり、やはりしっかりと根底には流れていたのである。
ただ、「脱原発を訴える未来の党はそんなに当選していないし、得票も増えていないではないか」という反論もある。しかし、別にも触れるが、日本の選挙は相変わらず自民対反自民であり、反自民が分れてしまって自民が大勝し、目立たなかっただけである。TPPも原発も当選させる原動力にならなかったが、推進する者を「落とす為のネタ」には十分になったのである。(2月8日のメルマガ・ブログ「民主党幹部のTPP前のめり発言で農村部・地方の小選挙区はほぼ全滅」参照)

<民主党の分裂の原因は3党合意>
 一番多く質問で出たのでは、やはり民主党のゴタゴタについてのものであった。この点について私は徹底的に野田執行部が悪いということを説明した。例えば、「多数の離党者が出るのはおかしい」ということについては、福田衣里子(C型肝炎訴訟原告団、長崎2区)の発言をいつも引用した。
 福田は、政府案にあった高額所得者の所得税の税率アップ、相続課税の控除額の減額により高額所得者も応分の負担をするということが、3党合意で全く消えてしまい先送りにされたことに対し、涙を流して怒り造反した。原案が民主党のコンセンサスを得たものであり、提出された時点で党議拘束がかかっていた。それを3党合意の担当者が勝手に自公の要求を入れて変えてしまい、それを通り一辺倒の説明だけでゴリ押しして、民主党議員は了解しろという強引なやり方に猛反発した。折衝を担当し3党合意を進めた執行部の人物(藤井裕久、古本伸一郎)こそが党議拘束違反をしているのであって、変えてしまった変な案に反対している福田は造反しているのではない、と解説した。

<不透明な決め方で進める執行部が問題>
 別のブログ「党議拘束違反で分裂、離党騒ぎは日本のみ」(12.07.17)で説明したが、日本ほど硬直的な党議拘束をかけ、造反者にきつい処分をしている国はない。私はこの時点で、民主党は党議拘束をかけるべく両院議員総会に諮り、党としてきちんと決める必要があったと思っている。それが嫌ならば、3党合意案を受け入れた時点で党議拘束をはずすのが筋である。なぜなら3党合意の内容は、民主党内では決定されていないからだ。

<野田執行部が党内意見を無視>
 「篠原は民主党の一員なのに私が野田首相が進めようとしているTPPに反対しているのは、党員として問題ではないか」という指摘もよくいただいた。それに対しては、「事実は逆であり、民主党の党内意見はTPPには慎重に対応すべしという方が多かったにもかかわらず、野田執行部はそれを踏まえず無視する形で勝手に前のめり発言を繰り返している」と応じた。野田首相がいくら前のめりにTPP交渉への参加宣言をしようとしてもできなかったのは、党全体の空気と逆だったからだ。
 この点は、政権に復帰した自民党政権が、党内意見を尊重して慎重に対応していることは、2月8日のメルマガ・ブログで既に述べた。

<「民主党の悪口を言いすぎる」という批判に対する私の弁明>
 あまり強引に事を進めんとする執行部が悪いと私が説明することについて、執行部への悪口であると取られることも多く、ある会場では「そんなことを聞きに来たのではない」と言って色をなして怒る人もいた。また、数人の先輩諸氏からも「あまり悪口を言うな」と注意を受けた。しかし私は、70人以上もの離党者を出して反省の色もなく、更に純化路線をとるなどと言い出し、挙句の果てにこんな愚かな解散をした野田首相を許すことができず、口調をゆるめることはなかった。57人しか当選できなかったことが、いかに大問題の解散であったかをよく物語っている。
 私は民主党幹部の悪口を何も意図的に言った覚えはない。民主党のゴタゴタについて質問があった場合には、執行部が横暴かつ強引に物事を進めていること、党内からの意見を聞かないこと、意思決定システムがでたらめで、きちんとせずに進めようとしていること等を、説明せざるを得なかっただけだ。

<全く興味が示されなかった12年版マニフェスト>
 それからもう一つ特筆すべきことは、60数回のミニ集会の中で、今回の選挙用の民主党マニフェストを常に配布していたにも関わらず、全く質問が出てこなかったことである。つまり、もう相手にされなかったのである。それにもかかわらず、TPPについて票を減らすだけの文言を入れ込み、同僚議員の多くを国会に戻れなくする負の大効果だけを残した。
 09マニフェスト違反の消費税については、さすがちょくちょく聞かれた。マニフェストは、政権交代にこそ大きな働きをしたが、政権与党は現に何をしているか現実の政策でしっかり判断されており、もう不要ということである。

<篠原個人を前面に押し出した選挙戦>
 これが不快に聞こえたとしても私は仕方がないことではないかと思っていた。逃げる票もあれば得る票もある。私は最初からみんなの支持を得るためになるべく当たり障りのないことを言って過ごす、というスタイルを踏襲しないことにし、私の考え方を前面に押し出して政治活動を行ってきた。9万人近くの方々に名前を書いていただいたということは、大体のところでは理解していただけたのではないかと思う。
 09年選挙のように民主党への順風が吹いている時ならいざ知らず、民主党というだけでの拒否反応さえあり、民主党よりも私自身を前面に出して選挙を戦わざるをえなかったのだ。私は、選挙は党対有権者よりも、政治家個人対有権者の関係が優先されると考えている。そして、今回大逆風下で当選した者は、私と同じように後者の関係が密だったといえる。

2013年02月09日

大逆風下の選挙は、ミニ集会中心に支持者のつなぎ止めに全力(12年総選挙総括・民主党再生シリーズ その5)13.02.09

 週末は、私の具体的な選挙活動について2つほど報告する。

<09年順風下での街宣車中心の選挙>
 私は選挙戦をそれなりに考えて毎回いろいろ工夫して手法を変えてきていた。
前回の選挙09年の選挙はまさに順風が吹いていたので、街宣車を住宅地中心に回り、適当なところで止まっては街宣するというスタイルで選挙戦を戦った。その為に2人の若手に頼んで、夜中に車で実地検分して、長野市内を8日間位で隈なく全部まわる緻密な地図を作成した。手間暇をかけ、お金もかかったが、ほぼそれに従って選挙戦を戦った。もちろん後半戦は、誰でもやっていることだが、100人弱の人たちに集まっていただく集会も組み合わせた。それでも1回目(03年)11万票、2回目(05年)12万票なのに、4万票上乗せして16万票の大量得票で初めて小選挙区で当選できた。

<「寺田学」方式の採用>
 しかし今回は、まったく違ったスタイルでやることを、09年の選挙の前から考えていた。我が事務所では有名な「寺田学方式」つまり選挙期間中は街宣車に乗らず、小さな公民館でミニ集会を徹底的にこなしていくというやり方であり、09年の選挙でもその一部を導入していた。同僚の寺田議員(秋田1区)からポスターの作り方、選挙用ハガキ5万5千枚にミニ集会の場所を印刷して出す方法等をこと細かに教わり、常にこの次は寺田学方式にしていくことを秘書に言い聞かせてきた。(下記リンク参照)
ハガキの例
チラシ

<羽田元首相が予想した大逆風下の総選挙>
 なぜならば、私は政権交代後の大逆風を、羽田さんから聞かされていたので、他の人たちよりも早くから予想できたからである。2月3日のメルマガ・ブログのとおり、民主党の同僚議員のために民主党農政の確立には心血を注いでいた甲斐あって、地方・農村部に同僚議員も多く誕生していた。しかし、肝腎の大逆風下の第1回目の選挙で、本人の私が落選しては格好がつかない。私の地元の選挙活動は、2003年秋の初当選以来ずっと大逆風下でも勝てる体制にすることに主眼を置いてきた。

<厳しい批判の目を持つ長野県民>
 私の得票は03年11万票から、05年の小泉郵政選挙でも12万票と1万票増えている。つまり、天才小泉に惑わされて自民党に大順風が吹いたのであり、民主党に逆風が吹いたわけではなかったのだ。09年は、長野県が全国で2番目の高投票率(74.27%)となり、私は16万票も得票した。民主党の期待度が大きかったからだ。それだけに落胆も大きい。その結果、投票率もどっと下がり58.76%と全国平均を下回った。また、少なくとも追い風が吹きまくった4万票の上乗せはほとんど消える。それに加えて政権交代後の今回は、投票に来るにしても落胆がそのまま大批判票となって表れてくる。長野県人は何かとうるさい県民であり、批判票が多くなるのは目に見えていた。
もう一方で、新しいもの好きである。第3極にも票が大きく流れていくことが予想された。そのような大逆風の時には浮動票の取り込みはまず不可能であり、私の支持者をなるべく手放さないようにすること以外考えられなかった。

<支持者への重点的アプローチ>
 幸いに9年間集めに集めた支持者名簿は5万5千軒に達していた。そこに重点的にアプローチして、是非投票に行ってください、しのはら孝と書いていただきたい、というふうにお願いする以外に勝ち目はないと踏んでいた。そこで寺田学方式の全面的な活用である。
まず、5万5千軒の支持者の家に、私の3年間の実績等を書いた特別国政報告とお馴染みの友人・知人をご紹介ください、というハガキを同封した。中々の作業である。宛名住所をシールアウトし、①封筒にシールを貼り、②上記2つを封入し、③更に糊づけするという3回の作業を5万5千通分やらないとならない。非常に手間暇がかかり、かつ、郵送費用もかかることであった。

<ミニ集会を徹底的に告知>
 次にポスターの私の顔の下に、60数会場になったミニ集会の日時と会場名を印刷することにした。公営掲示板にも証紙ポスターといわれる大きな広報板へのポスターにも同じである。もちろん、それを見て来られる方は少ないと思われるが、こういうことをしているということは知らせることができる。
この他に2つ別途印刷物で知らせることにした。一つは前述の選挙用ハガキ、3万5千枚が公営で2万枚は候補者が負担すればいいことになっており、ちょうど5万5千枚をすべてミニ集会のお知らせに活用することした。通常このハガキは、支援者の友人に私を紹介して投票依頼するのに使われるが、寺田学方式に倣い、選挙区を8地域に分け、一枚のハガキに6~8会場ずつ印刷したものを8パターン用意し、その地域ごとに、12月4日の公示日を中心に郵送した。
更に加えて、証紙ビラ11万枚を印刷し、そこにも片面に同じようにミニ集会の日時、場所を印刷し、かつ、それを地区ごとにミニ集会の1~2日前に新聞折り込みにすることにした。これまた結構費用がかさむ。

<直に1時間以上接した2000人余)
 ふだんは何をしているかというと、ひたすら支持者訪問とミニ集会を繰り返している。ミニ集会はこまめな秘書とそうでない秘書との差が出て、担当によりたくさんやっている地区とそうでない地区とがあり、それがそのまま得票差につながった。今度は今までやったことのない公民館でやるんだと厳命しておいたが、中々うまくいかず、有力支持者の多い、かつてやった会場でやる場合もあったが、半分以上はまったく初めての小さな公会堂・公民館で開催することになった。
最低のところは、中盤戦から後半戦にかけて8人だけの会場もあったが、平均すると20~30人で、61か所で2000人強には直に接することができたのではないかと思っている。

<農閑期なので昼間からミニ集会を開催>
 ただ、いろいろ問題もあって1時間ごとに数か所を梯子しなければならないことが一つと、その為に場所等をきちんと分かっている運転手がいなくてはならない。そのため運転手には気の利いた人を選んで、前半後半にわけて下見をしてもらっていたりしていた。それから、選挙ハガキは公示日の12月4日からしか使えないので、ミニ集会のハガキによる通知は6日以降になり、12日間の選挙戦といいつつ実質10日間しか告知集会ができないということ。それからもう一つは、平日の昼間にもやることになるので、農村地帯以外はなかなか人が集まりにくいということである。ただ幸いなことに12月16日が投票日であり、雪が降り出す北信州では農家の皆さんは家におられることが多いので、昼間は農村地帯をやり、夕方以降はサラリーマン地帯とし、週末は当然、住宅街ということにした。

<大声で6会場でクタクタ>
 もう一つ困ったことは、候補者の私がクタクタになるということである。街宣車に乗ることはほとんどなかったが、ほとんどマイク無しで毎日6か所、大きな声で15分から20分話し、あとは質疑応答というスタイルを繰り返したが、前半戦でも夕方になると声がかすれてきてクタクタになってしまった。ミニ集会といっても机が間にあると大会場になり、畳の部屋でも50人以上になると、もう少し大きな声でと注文を付けられることが度々だった。最後まで持つのかなあ、と途中から心配になってきた。

<マイクセットを使わないという愚行>
 疲れが最高潮に達した最終日、私の地元中の地元中野市周辺で8回という最も強行スケジュールとなった。その初回、後援会長から「候補者なんだからもっと威勢のいいでかい声で話せ」と小言を言われてしまった。そしてやっと気が付いたのがマイクを使うことだった。それから7か所は私がマイクを握り、最終日が一番疲れなかった。最初から使っていれば、ただでさえ少ない私の体重を更に3kgも減らさずにすんだのだが…。

<残念な本家の落選>
 ところが、御本尊の寺田学は残念ながら落選してしまった。ショートメールで、お蔭で当選できたとお礼を言ったところ、「この方式で落選したので次回からは止めようと思っている」という返答が返ってきた。この例のマイクの件は教わっていなかった、と言ったところ「私のように若いのでも6か所、7か所で、でかい声で話し続けられません。マイクを使うのは常識ではないですか」と笑いながら返答されてしまった。
ただ、ミニ集会中心の選挙は、冬の農閑期だからできたのであり、桃やぶどうの収穫期等の農繁期にはとてもできないことである。この次はやはり、集会+街宣の普通の選挙にしないとなるまい。

2013年02月08日

民主党幹部のTPP前のめり発言で農村部・地方の小選挙区はほぼ全滅(12年総選挙総括・民主党再生シリーズ その4)13.02.08

 12年秋、解散総選挙が遅くとも10か月以内にあるということは確実な情勢だった。熟度の高い政治家なら誰しも選挙に悪影響を与える発言を控えるのが常識である。それを我が党の幹部は違っていた。日本全国の農民が極度の不安に陥っているというのに、オバマ大統領再選の後、岡田・前原・玄葉・枝野のTPP推進4閣僚のTPP交渉参加前のめり発言が相次いだ。普通ならば、野田首相以下が示し合わせて発言しているはずだが、どうもそうでもなく、それぞれ勝手に見解を述べていたようだ。後述するように、政権奪取した自民党の閣僚が余計な発言を一切しないのと好対照である。
 枝野経産大臣は、「大局的視点にたち、私としては現政権が大きな決断を早急に行うべきだと考えている」と述べた。しかし数日後、「今すぐ新たな判断ができる状況ではない」というぶれる発言をすることになった。不安におののいている農民も国民も、またかということで聞く耳を持たなくなっていった。

<決定打となったマニフェスト案文>
 このあたりで止めておけばいいのに、そこに追い打ちを掛けたのは、TPPを推進するという11月16日マニフェスト案文の提示である。
 議場で解散の万歳が終わった後、夕方、細野政調会長主催の全議員政策懇談会が行われた。既にほとんどの人が、選挙の為に地元に帰り始めており、参加者は何人いただろか、正確には数えていないが100人超であっただろう。最後までいたのは30人余で、私は当然最後までいた。そこで示された案文は、日中韓FTAとRCEP(東アジア地域包括的経済連携)、TPPを同時に進めるということであった。19日(月)に最後の全体会合をして決めるというので出席したが、参議院議員を含め出席者は30名ぐらい、夕方7時30分の最後までいたのは9名というひどさである。大半の議員はマニフェストより地元の選挙活動を優先していた。私は翌20日(火)も議員会館にとどまり、少しでも落選者を少なくする修正案を理由とともに提出した。これで数日間選挙活動ができなかった。しかし、私がしつこく食い下がるだろうことを見込み、「篠原さん、後はよろしく」と言い、私に両手を合わせてお願いの仕草をして田舎の選挙区に帰る同僚議員のため、そして背後の羽田さんの声を気にしながら最後まで努力を続けた。
 その後、「TPP、日中韓FTA、RCEP(東アジア地域包括的経済連携)を同時並行的にすすめ、政府が判断する」と玉虫色の表現となり、私の意見はほぼ無視され取り入れられなかった。こうして、「TPPを推進する民主党」というイメージがすっかり定着したところに更にとどめをさすことになった。

<政治的センスに欠ける民主党政調幹部>
 自民党は「聖域なき関税撤廃を前提にする限り、交渉参加反対」と明確にNOという態度ととっていた。橋下徹の大阪維新の会は元々TPPに賛成、石原慎太郎東京都知事は反対であったが、日本維新の会はその妥協の産物で「TPP交渉参加、ただし国益に反する場合は反対」という賢い公約になった。できたばかりの党なのに、公約は玄人・大人の表現にとどめ、票が減るのを防いでいる。それを、我が民主党は解散日当日に、地方・農村部の大反発を喰らう案文を平気で出してきた。この政治的センスのなさには呆れ返った。明々白々TPP交渉に参加といっているのは、みんなの党と政権与党の民主党だけだ。数だけは巨大になったが、成熟度は新興政党維新の会以下かもしれない。マニフェストこそ、今までの度重なるTPP前のめり発言を覆す唯一最大のチャンスだったのに、私はこれで民主党の地方・農村部での大敗北を悟らざるを得なかった。
 野田首相の決断の解散、だからマニフェストもTPPを推進しようとする首相の意向を汲まなければならないというが、マニフェストは、第一義的には民主党のものであり、政府のものでも野田首相のものでもない。首相の思い通りというのなら、与党として4回目の予算編成をし、税制改制こそやり遂げなければならないのに、それをみすみす放棄してしまっている。正直言って、今回は民主党のマニフェストなど有権者は全く興味を持たないと思っていた。事実、私は後述する60数回のミニ集会でマニフェストを配っていたが、ただの一度も質問に出ることがなかった。都市部では配布しても受け取ってくれなかったという。すさまじい民主党への拒絶反応である。となると、12年マニフェストの唯一最大のメッセージは、TPPを推進するということであり、わざわざ農民や地方を敵に回すとどめの宣言をしただけなのだ。

 後述するが、解散後11月18日(日)の日曜討論でのTPPをめぐる安住幹事長代行の踏絵発言も、更にそれに追い打ちをかけ、農村部・地方の有権者に計り知れない大打撃を与えることになった。これでまた数人の同志が小選挙区で議席を失い、何人かは比例復活の途も閉ざされたのである。

<北海道に表れた05年と12年の差:8人小選挙区当選とゼロ>
 最も際立った悲惨な結果となったのは北海道である。09年の政権交代選挙では、12小選挙区中11の小選挙区で勝利していたのに、今回はオセロゲームのように一人も小選挙区で当選していない。05年の郵政民営化を焦点にした小泉郵政選挙でも民主党がボロ負けしたが、松木謙公が冗談で言ったとおり、津軽海峡は偉大でそれほど小泉旋風も届かず、8人もが小選挙区で当選した(別表「05年小泉郵政選挙と12年自爆解散選挙の比較」参照)。当の松木謙公も2万票も票を伸ばしている。(以下、当選者の記述は別表を参照)
05年小泉郵政選挙と12年自爆解散選挙の比較


 農業者戸別所得補償により民主党政権が農民の信頼を勝ち取っていたからである。つまり、この頃までは羽田さんの描いた理想を着々と実現しつつあった。それが今回はTPPへの猛反発で、比例で横路孝弘前衆議院議長と荒井聡の2人が復活しただけである。かくして北海道の民主党議員数は、03年11人(小7、比4)、05年11人(小8、比3)、09年15人(小11、比4)という民主王国から、12年2人(比2)と激減し、09年の自民党以下に落ち込んだ。

<全国の農村部はTPPで壊滅>
 九州も小選挙区はゼロ、保守基盤の強い鹿児島でずっと昔から比例復活をし続けてきた川内博史も比例復活すらできずに議席を失い、05年の11人から3人に減った。中国も畏友平岡秀夫も議席を失い、小選挙区はゼロで比例2人のみ。四国は今どき珍しい第3極なしの自民共の3人しか立候補しない小選挙区で1人小選挙区当選したが、枢要ポストに就き続けた仙谷由人も落選している。九州3人(比)、中国2人(比)、四国2人(小1、比1)で、西日本で05年19人に対して7人(松野頼久(維新)を入れると8人)だけという、それこそ壊滅的結果である。
 それに対して、都市部は東京(1→2)も千葉(1→2)も神奈川(0→1)も小選挙区当選者が増え、総当選者数も東京は2人減ったが、生活の青木愛を加えると1減(7→5~6)、千葉(5→5)と、神奈川は同数(2→2)と、全体では05年よりもむしろ善戦している。ただ、さすが近畿、特に大阪は維新が躍進し、パナソニック労組の支援で選挙にはめっぽう強かった平野博文も落選し、知名度の高い辻元清美1人しか当選できなかった(4→1)。つまり、05年小泉郵政選挙の113人と今回の57人の差は、地方・農村部の大惨敗(北海道-9、中国・四国・九州-12、東北・北関東・北陸信越-16等)の故であり、TPPがいかに地方・農村部に悪影響を与えたのか一目瞭然である。
 この事実が見えないマスコミ、評論家等は、原発もTPPも選挙に影響を与なかったと解説をしている。空中戦の党首クラスの討論には出てきていないが、名前を書く投票者には大きな影響を与えたのだ。大敗北の直接の大戦犯はこの愚かなマニフェストである。
 何の益もないのに、野田首相と4閣僚が競ってTPPについて前のめり発言を繰り返し、マニフェストでとどめを刺した。私にはこのような自爆発言をなぜしたのか、いまだもって理解できない。

<カードが固い自民党>
 このことは政権交代後の自民党の対応と比べてみてもよくわかる。
 7月の参議院選挙を意識して愚かな言動はしない高市早苗政調会長が1月6日のフジテレビの番組で「交渉に参加し、条件が整わなければ脱退する選択肢もゼロではない。内閣が決めることだ」と発言をし、甘利明経済再生担当相も前向きな姿勢をにじませた。それに対して自民党の議員はすぐさま猛然と反発し、党がきちんと決めることだと言い、その後政調会長も発言しなくなっている。岸田外相も茂木経産相も黙して語らない。民主党の前原政調会長なり、閣僚がそれぞれ勝手なことを言い続けたのと大違いである。成熟した政権与党と成り上がりの未熟な与党の差がくっきりと出ている。民主党の「TPPを慎重に考える会」に相当する自民党の「TPP参加の即時撤回を求める会」には、2月中旬で230人(384人のうち60%)も参加している。そして、党も政府もそれを意識して動いているのだ。
 安倍首相も総選挙中は野党の気安さから、「前提条件を突破でき、国益が守られれば交渉参加は当然だ」と少々危うい発言があったが、政権交代後は党の議論を待つ、と極めて慎重になっている。1月30日の代表質問(高村正彦副総裁)に答えて、「TPP交渉には参加しない」と明言している。一度野党を経験しただけに、絶対に与党を明け渡さないという狡猾さと執念がみられる。この点もまた民主党の党提言は(10年11月9日の提言)「慎重に」という結論になったにもかかわらず、それを無視して常に前のめり発言を続けてきた野田首相と大違いである。6か月後の選挙を意識して抑えているのに、我が党トップ野田首相も4閣僚も、「畳をかきむしってでも勝利するぞ」とかいう言葉とは裏腹に、すぐ目の前に迫っている選挙なのにまさに自爆発言を繰り返していたのだ。政権与党たり続けようとする気構えも用心深さもほとんど見られなかった。
 その意味では、今回は、民主党の一人相撲で自ら墓穴を掘り大敗北を喫した選挙だった。

<参議院選挙の勝敗はいつも農村部が鍵を握る>
 民主党は5年半前、07年の参議院選挙で1人区において農業者戸別所得補償で23勝6敗と大勝ちし、今度の2012年末総選挙では、民主党のゴタゴタや消費増税というマイナス要素もあったかもしれないけれど、やはり農政に大きく関わるTPP交渉への参加という前のめり発言で負けたのである。時として、農民票が選挙を大きく左右するのである。ところが、残念ながら野田執行部にはこれを肌身で感じるものや感度のいいものが皆無だった。
 野田首相は欲張って消費増税に続いて、TPP交渉への参加という業績も残そうとしたが、ただ政権与党の大敗北という仕打ちを受けただけに終わった。私は差し出がましくも、12年5月22日の私の初の励ます会(2冊の本の出版記念パーティ)で、「反TPPと脱原発で起死回生を」(5/23夕刊フジ参照)と進言した。しかし、民主党幹部はTPPでは真逆を進み、脱原発では大飯原発再稼働で真逆を行き、党内の猛反発を受け、30年代の脱原発に舵を切った。
反TPPと脱原発で起死回生を 5/23夕刊フジ

 民主党はもっと与党として学ばなければならず、自民党も野党をもっと長く続け反省してもらわなければならなかったのだ。それが、日本の政治をよくするというのが羽田さんの口癖であった。それをこんなに早く自民党の復活を許してしまった。功ばかり焦った野田首相とそれを許した周辺幹部の罪は重い。どう弁明しても償いはできない。

2013年02月07日

羽田元首相が予測した民主党政権の混乱(12年総選挙総括・民主党再生シリーズ その3)13.02.07

―政権交代後の1回目の総選挙を勝ち抜くために君の助けが必要だ―

<1996年秋 衆議院出馬要請>
 今、私は4回目の選挙を終え、幸いに議員を続けている。他の国会議員の皆さんも様々な経緯を経て政治家になったのだろうが、私の場合は多分特殊なケースであろう。全面的受身の形で政治家になっている。あまり信用されないかもしれないが、私は真面目な公務員で、故郷との絆を断ち切りがたく農林水産省に入省した。ほとんどが農家で占められていた、周りの人たちがうまく暮らしていける手助けができればと思ったからである。
 私に初めて自分たちの陣営で政治家になってくれと話があったのは、1996年のはるか昔だった。羽田孜元首相と堀込征雄衆議院議員の二人ともいわゆる農林族、前々からよく知っていた。当然のことながら逃げまくった。しかし、8年間のストーカー行為(?)の後、やむを得ず出ることになった。2003年秋のことである。私は数少ない、世に知られざる「羽田チルドレン」なのだ。

<たった10ケ月の非自民政権のトラウマ>
 その時の経緯は今までに随所(「鳩山長期政権を望む-09.9.14」、「04年の菅代表演説と菅総理の政策の一致と乖離-11.7.16」等)で触れたので省略する。今大事なのは、この時のくどき文句で羽田さんが私に言われた非常に大事な言葉が忘れられない。少々長くなるがそれを紹介する。

 民主党はいずれ政権交代できるだろう。政権の維持のほうが難しい。政権運営をしたことのない民主党内閣は迷走し続けるだろう。そしてマスコミに批判される。その結果、都市の有権者は離れていく。そして第1回目の総選挙で敗北というのは十分予想される。それでは細川さん(8ヶ月)と自分(2ヶ月)の非自民政権の10ヶ月が、少々長くなっただけで終わってしまう。そもそも今政権交代できないのは、我々の10ヶ月の非自民政権のトラウマがあるからである。

<田舎の律儀な有権者に支えられた議員を増やす>
 そうした中、第1回目の総選挙を勝ち抜くためには、少々政権運営が乱れてもやっぱり民主党だといって支持してくれる、律儀な有権者に支えられた同僚議員をたくさん作っていかなければならない。都市部の浮動票はさっと去っていき、都市部の議員は多くが落選してしまうからだ。そして、地方の2区以上の区で支持を得るためには、農政が必要だ。

<農政を君に任す>
 ところが、残念ながら、わが党には農政をやる者が非常に少ない。大臣経験者は自分と鹿野道彦と田名部匡省と3人だけだが、質はこっちのほうがいい。ところが、中堅が堀込征雄、小平忠正、鉢呂吉雄と3人だけしかいない(この当時、山田正彦、筒井信隆は落選していた)。若手となるとゼロに近い。これではやっていけない。農政を君に任せるから、是非民主党に参画してほしい。

 羽田さんが防ごうと思っていたこと、恐れていたことが起きてしまった今、改めて思い起こしている。

<地方・農村部にも着々広がる民主党議員>
 03年11月、複数区以上の農村地域でもたくさん民主党議員が誕生した。私の仲間、60人の同期生である。
 04年の参院選では1人区で、01年が2勝25敗(2勝も正確にいうと岩手の平野達男と三重の高橋千秋で、民主ではない)だったものが、13勝14敗となり、全体でも初めて民主党が50対49と自民党を1議席上回った。民主党農政が浸透しつつあったからだ。その当時、鹿野NC農水大臣の下、直接支払い政策を中心とする民主党農政の骨格はまとまっており、B4の表裏の民主党農政ビラを作り、1人区を中心に100万枚以上配布していた。
 ところが、05年の小泉郵政選挙で私の同期は半分の30人に減ってしまった。しかし、私や下条みつの他、北のほうからいえば、松木謙公、仲野博子、寺田学、近藤洋介等、地方はほとんど生き残った。逆に都市部は、各都府県で1名残っただけで(千葉・田島要、東京・長島昭久、神奈川・笠浩史、大阪・長安豊、兵庫・市村浩一郎)、それ以外は全滅した。批判票が多くなっても地方の農村部はしぶとく生き残るという、羽田さんの予言は一足早く実現していた。

<身を削って農村部の同僚議員を応援>
 正直言って、後に農業者戸別所得補償と命名される直接支払い政策は、当時ほとんどの民主党議員には理解されていなかった。そうした中、日本農業新聞が民主党農政をよく紹介してくれたことから、農民へのほうが先に徐々に浸透していき、同僚議員の農村部の会合の援軍を求められる機会が急増した。当時「Mr.年金」の長妻昭が全国銘柄だったが、私は「篠原孝は農村地域限定のベストセラー」と冗談を言って講演を始めていた。
 私の地元の選挙活動は疎かになったが、農村部・地方を地盤とする選挙に強い議員を育成するという、羽田さんの要請を忘れるわけにはいかなかった。
 中国山地の農村へは、東京から新幹線で3時間強、そこから車で1時間弱。農協役員や普及員の精鋭がいて質問攻めだから、私のような者以外は務まらない。同じ道を戻り、名古屋経由で長野へ夜中に着いた時には、足元もフラフラする状態だった。北海道では、会場がいつのまにか2カ所になり、更に、すぐ近くで夜一杯やりながら懇談したいという篠原ファンの別グループがいるというので連れていかれると、車で2時間もかかる近い(?)所。そこで夜中まで農政談議をし、他の人はゆっくり寝ているのに、私だけ5時に起きてタクシーで空港に行き東京に戻り党の会合に出るといった具合である。とにかく重労働でくたびれたが、民主党農政が徐々に農村全体に広く浸透しつつあることを肌で感じることができた。

<07年参院選23勝6敗の大勝利>
 そして2007年7月、もっと強烈に農村の地方の有権者の心をつかむことになった。私は、羽田さんの約束通り、2期生ながら「次の内閣」(NC)農林水産大臣として民主党農政を任されていた。小沢代表は直接支払いに飛びつき、農業者戸別所得補償と命名した。このときの原動力となったのは、マンガを中心に構成された4ページの民主党農政ビラである。当時の山岡賢次財務委員長の指示の下、「民主党が政権をとったならば」、という形で農業者戸別所得補償をPRし、1人区中心に300万部以上配布した。小沢代表は、常に田んぼや畑をバックにしてビール箱の上で、農業者戸別所得補償を打ち上げていた。この徹底した手法にはほとほと舌を巻いた。農村の支持を受け、今まで自民党の金城湯池だった1人区で、23勝6敗と大勝し、衆参のねじれ現象を生んだ。

<TPPが羽田さんの目論見を砕く>
 この民主党の勢いは09年まで続き、308議席の大勝利となり政権交代が実現した。残念ながら羽田さんが恐れたとおり、その後の民主党政権の混乱振りには目に余るものがあった。ただ、農業者戸別所得補償は農村部に定着しつつあり、4Kバラマキといって批判されるまでになっていた。
 口蹄疫を乗り切った後、10年7月の参議院総選挙では菅首相が消費増税に触れ、1人区で8勝21敗とボロ負けし、逆に参議院のねじれを生んでしまった。これがなければ、菅民主党政権は今も続いていたに違いない。
 そしてもっとひどいことに、10年10月1日、菅首相は所信表明でTPPに突然言及し農民はこれを契機に民主党にそっぽを向き始めた。私は、菅首相に進言し、官邸に「食と農林漁業推進本部」を作り、修復に務めようとした。ところが、3.11の東日本大震災で農政の改革は中断し、信頼回復に至らずじまい。そこに11年11月9日の党の「慎重」にという決定を無視した、野田首相の前向き発言が続いた。この一連の裏切り行為により、都市部より農村部のほうが民主党への不信感が高くなってしまった。

<民主党の再生で軽やかな政権交代を実現できる政党を取り戻す>
 私は、こうした状況の中で引退された羽田さんの心中を思うと、察するに余りあるものがある。特に私に託された、「政権交代後第1回目の総選挙を勝ち抜き、自民党を少なくとも10年間は野党に置いておかなくてはだめだ。そうしないと、日本の政治は変わらない」という叫びに似た声が、今でも私の中にこびりついている。
 私が民主党に参画して以来、ずっと地方・農村部の支持を広げてきたのに、菅・野田政権により木端微塵に打ち砕かれてしまった。一度失った信頼を取り戻すのは容易ではない。
 羽田さんが予言した大逆風下、私は必死で選挙戦を戦い、小選挙区で勝利した。羽田さんの思いが天に通じたのか、元秘書で後継の寺島義幸も小選挙区で当選し、唯一の民主党新人議員となった。しかし、たった1期で自民党に政権が戻ってしまった。ひょっとして羽田さんが悲観したとおり、これでもう二度と政権交代は起きないかもしれない。いや、そうさせてはならない。私は、諦めることなく、当初の羽田元首相の願いの実現に向け、民主党の再生に向かうしかない。

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