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2013年02月27日

(その1)何の意味もない画期的な共同声明―当たり前のことを大袈裟に演出し、自動車・保険で大妥協の愚―13.2.27

 2月22日、安倍総理とオバマ大統領の首脳会談が行われ、聖域なき関税化の撤廃はないということが確認されたので、TPP交渉に参加してもいいという報道が各紙とも一斉になされている。短い日米共同声明を見ると、このことがいかに噴飯もの・嘘・ごまかしであるかよくわかる。外務省の記者発表にそのまま乗せられて、その通りにしか書かない大新聞の情けなさを改めて痛感した。
共同声明仮訳(外務省ホームページ)

<当たり前の確認>
 共同声明は3つに分かれている。第1・2パラグラフで「日本には、一定の農産品、米国には一定の工業製品というセンシティビティが存在する。全品目を交渉対象とする。ただ、最終的に関税を撤廃するかどうかは交渉次第で、あらかじめ約束するものではない」ということがうたわれている。何一つ新しいことはない。こんなことは交渉ごとでは当たり前のことであり、もともと交渉参加する前からすべての関税ゼロにしないとならないなどとは言っていない。だから、アメリカとオーストラリアの間で、巷間伝えられているように砂糖の関税撤廃の有無をめぐって交渉が行われている。カナダも乳製品等について一応俎上にはのせるけれども、国内には絶対に例外として守るということを約束し交渉中のはずだ。
 しかし、22日の夕刊から23日の朝刊にかけては、大本営発表(外務省・官邸)どおり、これでTPP参加の条件が整ったと絶賛している。日経が24日(日)の朝刊で、恥ずかしそうにこの当たり前ということの説明を書いているが、見出しはあたかも重要な約束がされたようなものばかりが並んだ。

<大演出のための国益を損ねる大妥協>
 そんな当たり前のことすら民主党政権でできなかったではないか、と推進派の方から反論が返ってくるだろうが、こんなものは大々的に共同声明にする必要のないものである。そして、何より悪いことに、大袈裟な演出のために大妥協をさせられている。
 問題は、第3パラグラフであり、この共同声明をどうしても出させてくれと日本側が懇請して、それに対して米側が強引な主張を書き込ませるという妥協の上に、やっと出来上がったのだろうことが伺える。日本は、格好付けの共同声明の見返りとして、「自動車部門や保険部門に関する残された懸案事項ばかりではなく、その他の非関税措置に対処し、そしてなおかつTPPの高い水準を満たすことについて作業を完了する」と約束させられている。後者については、アメリカ側にも必要なことかもしれないけれども、明らかに自動車、保険を名指しされたことは、日本が交渉に入る前にかなりの妥協をしてお土産を差し出すことを約束した証である。

<3分野がいつの間にか事前協議になるごまかし>
 ここまで言われるなら、日本のセンシティビティ品目「コメ、砂糖、牛肉、乳製品等を名指しで配慮すべし」と記述するのが対等の共同声明である。この共同声明は日本の義務だけが明確になった、片務的声明にすぎない。これは、私のようにこの問題にかかわっていた者にしかわからないが、外務省は牛肉、保険、自動車の交渉は、TPPの事前の協議ではないし、交渉参加の前提条件とはしないというまやかしの説明をし続けた。ところが、政権交代の機に乗じていつの間にか、日本がTPP交渉に入らせてもらう条件になってしまった。安倍首相は、保守派の代表とみられており、日本人や日本国を守ることの重要性について力説してやまない。その一方で、BSE牛肉の輸入条件を緩和して、日本人の生命を危機に晒している。この矛盾をどう思っているのだろうか。
 政府の二枚舌も極まれりである。交渉は政府の専権事項と言い訳するが、私はこのような国民をごまかした交渉は絶対許されるべきものではないと思っている。

<TPPは物価上昇2%目標を損ねる>
 経済界は成長戦略の起爆剤としてTPPへの参加表明が必要だ、と言っているが、未だもってどれだけ日本の経済成長に資するのか甚だ疑問である。逆に関税がゼロになり、安いものがどんどん入ってくれば、さらにデフレを促進することになって、物価上昇2%という目標も頓挫する可能性もある。

<「日本をアメリカに売り渡す」TPPの始まり>
 もし画期的な共同声明なら、日米両大国にお互いの例外を認める約束をしていてけしからんと他の参加国からクレームがついてくるはずである。ところが、当たり前のことであり、他の参加国は静観している。それだけ何の意味もないことなのだ。五大紙は、2010年10月以来、終始一貫してTPPをヨイショし続けており、この流れを加速しようとしているのだろうか、各紙ともTPP交渉への参加は既定の方針のように報道している。第二パラグラフを出すために、第三パラグラフで大妥協をしており、安倍首相は「日本を取り戻す」と言う標語とは裏腹に、「日本をアメリカに売り渡す」第一歩になってしまっている。TPPに加入するとこうしたアメリカのゴリ押しが日常茶飯事になり、日本の仕組みがことごとくアメリカに都合のいいように変えられていくことが明らかな中、もう加入前から図星のことが、しゃあしゃあと行われているのである。

<注目すべき自民党の対応>
 それにしても、農産物への関税をTPPの象徴に仕立て上げたが、他の5分野についてはいったいどうなっているのだろうか。保険制度、食の安全その他のことも、自民党の5項目になっていたはずである。日本を壊すおそれのあるTPPをどうしてこんなにまでして急ぐのか、私には全く理解できない。安倍首相は、選挙中にも「民主党政権には交渉能力がない」と批判してきた。事実かもしれない。しかし、安倍自民党政権が「国民をごまかし、アメリカにこっそり大妥協する能力にだけは非常に長けている」ことだけは認めざるを得まい。
 60年与党自民党は、党内調整力には長けている。236名もが加入している「TPP参加の即時撤回を求める会」を中心にどのように対応していくのかしっかりと見守っていく必要がある。
 また、我々民主党は従前どおりきちんと厳しく対処していかなければならない。

2013年02月22日

野田前首相の議員辞職から始まる民主党の解党的出直し(12年総選挙総括・民主党再生シリーズ その11)13.2.22

 2月5日の12年選挙総括シリーズの第一号「民主党の解党的出直し-民主党の再生は、野田前首相の議員辞職と党名変更から始まる-」で述べたとおり、民主党の再生を国民に理解してもらうためには私は2つの荒療治が必要と思う。一つが、この大敗北のけじめをつけるため、野田前首相の議員辞職であり、2つ目が、民主党の再生を国民にアピールするための党名の変更である。今回は前者について述べ、本シリーズの中間締め括りとする。

<トップの辞め時>
 田中宏尚農林水産事務次官は、私に「トップはなった時に真っ先に自分がどのようにして辞めるか考えておかなければならないんだ」と帝王学を授けてくれた。(ブログ「ボツ原稿『ヒューストン・サミット(1990年夏)と次官人事』より抜粋」07.12.03参照)
 田中次官は、人事異動の時期ではない1990年春、突然、審議官−経済局長−総務審議官−国際部長の人事を断行した。米の輸入が大問題になっていたウルグアイ・ラウンド(UR)の期限とされていた、1990年12月の大団円を迎える大事な時期だった。
 通常の夏の人事時、海部俊樹首相は、UR関係省庁の事務次官以下の人事凍結を命じ、農林水産省以外は喜んで応じた。通産省では、これを奇貨として次官の2年居座り人事が定着し、その後の「4人組の反乱」等の人事抗争に発展している。それに対し、田中次官は「春先に国際関係の人事を行い、盤石の体制にしてあるので、私以下の国内幹部人事をしても何ら支障は生じない」と、ただ一人応じなかった。私は海部首相の命を受けた大島理森官房副長官(当時)がらみで、少々田中構想の実現に加勢した。その時に発せられたのが、冒頭の発言である。田中次官は、夏の首相の命令という障害を予測し、先手を打っていたのである。見事というしかない。
 日本国のトップである首相は。自らの辞め時をしっかり考えているのだろうか。少なくとも、最近の1年交代の首相を見る限り、疑問を感じざるを得ない。

 辞め時ならぬ解散時を見誤った野田首相には、国民や同僚議員に対して3つの大きな責任があり、私は議員辞職に値すると考えている。以下に3つの責任を述べる。

<1.国民生活に支障をきたした年末解散の責任>
 年末の突然の解散には、何の大義もみられない。年末は予算編成、税制改正等のプロセスの最中であり、霞ヶ関の役所は大混乱である。責任ある与党の解散時期は、①最低限4度目の予算を組み、区切りつけた1月通常国会の冒頭、②予算と関連法案を通した4月、③すべての関連法案を通した6月の通常国会後、しか考えられず、常識的にはどんなに早くとも、1月冒頭解散である。何よりも国民生活に支障をきたさないためなのだ。安倍政権の下、2月13日、12年度補正予算がやっと衆議院を通過したが、13年度予算の審議はまだ始まっておらず、成立は5~6月以降となり、国民生活に支障をきたす。
 長引くデフレで混乱を極める経済の一刻も早い建て直しが必要な中、政権与党としての責任を放棄して政局に走った責任は重い。安倍自民党政権の三本の矢というスローガンの下に行われているデフレ脱却政策は、民主党内の社会保障と税の一体改革の議論の中で、デフレ脱却が先だと主張していた人たちの政策そのものであり、民主党政権で編成すべきものだったのだ。それを野田内閣は何もしなかったのだ。2月12日(火)、私は民主党次の内閣の一員として補正予算の賛否についての議論に参加していたが、本来我々民主党が補正予算も本予算も組めていたのにと思うと、意見を述べる気になれなかった。
 野田前首相はまず国民に対してけじめをつけなければならない。本気で責任をとるなら政界引退しかなく、党首の大反省無くしては民主党の再生はない。

<2.政権交代の芽を摘んだ責任>
 2月7日の「羽田元首相が予測した民主党政権の混乱」)で述べたとおり、今回の民主党政権の最大の使命は、万年与党で堕落した自民党にもっと長く冷や飯を食わせて、体質を改善させるとともに、民主党が政権運営の経験を積む期間を長くすることだった。それを今回の大敗北により、57議席の2桁野党に落ちぶれてしまい、ひょっとすると、これで二度と非自民政権ができなくなってしまうかもしれないのだ。野田執行部は消費税を上げたことで歴史的評価を受けると悦に入っているが、政権交代による日本の政治の活性化と一体どちらが大切なのだろうか。明らかに後者である。それを政策実現の手段にすぎない消費増税ごときで、大切なことを犠牲にしてしまったのだ。
 60年間政権与党だった自民党には政権維持の知恵もあり、与党への執着もあった。09年の野党転落後は、早晩分裂するだろうといわれたが、分裂したのは、与党になった民主党のほうだった。民主党にはその二つともなかったからだ。野田首相は消費増税よりも、この歴史的敗北にこそ汚名が着せられ、その悪名はずっと長く後世に語り継がれることになろう。3つの責任の中で、政権交代の芽を摘むかもしれない唐突な解散の責任こそ、もっとも重大かもしれない。

<3.党の常任幹事会の決定を無視して独断での大敗北の責任>
 野田前代表は紛れもなく党の方針に背いている。11月13日、党の常任幹事会の総意として11月の解散はすべきでないという意向を、中野寛成議長を通じて明確に伝えられたにもかかわらず、独断で解散した。そして大敗北である。民主党の倫理規則は、「党の重要決定への違背」があれば、党常任幹事会の判断で処分するとしている。野田元首相の独断はまさにこれにあたる。
 また、「選挙等で他党を利する行為をして党の乱した場合」に、離党勧告や除籍(除名)の処分ができるとしているが、解散により多くの同志を失い、党を半壊させ、自民党に利したのであり、まさに除籍にあたる。我が党に死屍累々を残し、他党に大量の「野田チルドレン」を作ってしまった。時代劇にある、「殿ご乱心」であり、城内に隠居させ、他の城主に変えてお家(党)の存続を図るしかないのだ。
 解散は首相の専権事項といわれる。権力は大きければ大きいほどその行使には慎重にならなければならない。
 不信任案を突き付けられたでの解散(69条解散)ではなく、与党政権党の最も好都合の時にできるのが7条解散である。一票の格差で違憲状態になっており、まだ法律改正の余地を残しての解散は無効かもしれないのだ。
 中曽根康弘は「死んだ振り解散」で大勝利を導いた。小泉純一郎は毎日日替わりの女刺客を用意してマスコミ、国民の関心を呼び大成功している。それに対し、野田前首相は、何の準備もなく自分の面子にこだわり思いつきの解散をして大敗北である。重大な判断ミスであり、自分がのうのうと議員として生き残るのは信義に反する。けじめとして議員辞職が必要である。
 以上、3つ、他にも選挙に入ってからも議員辞職に値する見苦しい動きがみられた。

<① 見苦しい首相の比例重複立候補>
 許し難いことに、野田前首相は自ら決意した解散総選挙であるにもかかわらず、何と比例区との重複立候補をしていた。突撃命令を下しながら、本人は我が身の保全を図っていたのである。過去5回の総選挙では歴代首相や党首クラスが重複立候補を辞退してきた。自ら突撃命令(解散)しておきながら、「退路の断ち方はいろいろある。(重複立候補の是非は)形式的だ」と記者のインタビューで言訳を述べている。

<② 小泉劇場型選挙の猿真似純化路線>
 2つ目は、2月13日の「選挙戦術における2つの失敗―離党者への対抗馬擁立と安住幹事長代行の踏み絵発言」で述べた安住踏絵発言を打ち消すべきところ、「マニフェストで打ち出した政策を死に物狂いで訴える同志でないといけない」とカンボジアで裏打ち発言をして、民主党の敗北を更に決定付けている。川内博史は、民主党が幅広い政策を持つ政党であることを広く示すためにも、野田前首相が川内を応援して手を握り合うことを提案したというが、野田執行部は自らのグループばかりの応援に出かけ、純化路線とやらをとり続けた。不利が伝えられている農村部に応援に行き、「日本の農業・農村は絶対に守りきる」と演説したら、10人近くは当選者が増えていたかもしれない。
 それを真逆の行動に走り、特定の政策(TPP参加)への賛同を公認の条件とし、小泉の郵政選挙の猿真似をし出した。自らマニフェストにない消費増税やTPP参加を言い出し、最終的に100人を超える離党者出しておきながら、よく言えたものである。そして、これもただより多くの議席を減らすだけの結果に終わっている。
 そして、もう一つ小泉の真似で身内の党内へも厳しい態度をとっているというポーズか、逆戻りする政治の象徴として突然世襲を絶対に認めないと言い出し、羽田雄一郎参議院議員の長野3区への鞍替え出馬を槍玉に挙げ出した。小泉は、自民党をぶっ壊すと言って総裁選を勝ち抜き、しっかりと瀕死の党を甦らせ、後進に道を譲り、次の総選挙には出馬していない。同じ見習うなら、さっさと議員を辞めることこそそっくり見習うべきである。

<③ 後任代表を担ぐ厚顔無恥な行動>
 選挙中の悪行のみならず、選挙後もおかしな行動に出た。野田グループ(花斉会)は無責任な解散により多くの同僚を失うという大失敗にもかかわらず、引き続き党執行部たらんとして新代表擁立に動いた。ほとんど反省がみられない証左である。
 毎日新聞の1月24日の藤村前官房長官のインタビュー記事でも、「消費増税に歴史的評価」といった言葉が先行し、更に、11月2日に、岡田、輿石も加えて解散を決めた、と発言している。そして解散を急いだ理由は、日本維新の会が相当な勢いがあり、解散を遅らせるともっとひどい結果になるからだ、といかにも後付けの屁理屈を述べている。与党として予算編成をし、法案を提出できる圧倒的優位な立場をわかっていない。それを行使できないなら、総辞職すべきだったのだ。
 これらの一連の言動や行動は、私にはとても信じがたいことである。もうこれ以上党内で「悪さ」をしてほしくない。

<野田前首相に国会議員として居場所も出番もなし>
 田中真紀子や辻元清美も秘書給与疑惑で議員辞職している。鹿野道彦は、元秘書の不始末で離党している。小沢一郎は起訴されたことから党員資格を停止されている。国民に申し開きができなかったり、党に迷惑をかけたりすることに対する「けじめ」である。それを、党の総意を無視して勝手な解散をして大敗しながら、民主党の衆議院議員にとどまる神経を、少なくとも私は持ち合わせていない。
国民に対しても、民主党議員に対しても責任をとって議員辞職するが筋である。借金のツケを後世代に回さないという責任を果たす前に、今の時代を生きる人たちへの責任こそ真っ先に果たすべきである。
野田前首相は1月26日、「民主党は、(中略)必ず出番があると確信している」と発言したが、民主党の出番はあっても、自身の出番や居場所はもうなくなっている。
 これは私ひとりの意見ではなく、議席を失った同僚議員や民主党を熱烈に支持してくれた国民の多くの声を代弁したものだ。2月16日(日)の茨城県での民主党幹部との意見交換会でも、野田前首相は議員辞職すべしという意見が出て、馬淵澄夫幹事長代理が返答に窮している。野田前首相が民主党前代表として党に貢献できることは、自ら身を引いて民主党の再生をアピールすることだと思う。

2013年02月15日

党名変更で国民に民主党の再生をアピール -韓国のハンナラ党からセヌリ党の党名変更にならう-(12年総選挙総括・民主党再生シリーズ その10)13.2.15

<民主党公認だけで拒否された悲惨な選挙>
 私はそれほどの場面に出くわしてないが、落選議員の皆さんの惨状を聞くと、民主党に対する反発はすざましいものがある。中山義活前議員は、街宣車を捉まれて「お前は民主党の代弁者か」といわれて民主党というだけで拒否反応を示されてしまったという。あちこちで同じことが起っている。何よりも準備不足の一期生に対して全く不意打ちをくらわす解散だった。それにもかかわらず岡田副総理が、選挙2日後の12月18日の記者会見で「選挙は最終的には個人の責任だ、野田首相の決断を理由に自分は負けたというのは努力が足りない」と逆撫でするような発言をして、またまた同僚議員の顰蹙を買っている。知名度もあり選挙地盤も安泰でお金もある、あまりにも恵まれすぎている岡田副総理のいつもの上から目線発言である。予想以上の大差をつけられて落選した民主党衆議院議員の傷口に大量の塩を塗り込んだ。「純化路線」とやらは論外であり、そんな意図があるとは信じたくもないが、野田執行部以外は去っていいとも言わんばかりの発言には不快感しか生じてこない。
 実際は、私も含めほとんどの人が民主党というだけで拒否反応を示されていたのである。その証拠が、小選挙区の個人票と比例区の民主党のおおきなギャップであり、私の場合は約4万票だった。篠原個人は支持しても、民主党は嫌だというのが私の平均的支持者像なのだ。

<野田・前原コンビが二度も民主党を危機に陥れる>
 落選の心配のない超銘柄議員である前原国家戦略担当相も、「野田首相は約束を守る人だ」と早期解散を煽った。そして、57人という悲惨な結末に対して「解散が遅れていたら、もっと惨憺たる結果になっていた」と自己弁護をしている。野田首相も同じような言訳をしている。落選議員が、何のデータも示さず先延ばしするともっとひどくなるなどと言えたものだと、怒るのも当然である。この2人のコンビは、代表と国対委員長で引き起こした偽メール事件と今回解散時期を誤ったことで、二度も民主党をドン底に突き落としたことになる。

<究極の綱領改訂>
 民主党の再生のために、今、民主党改革創生本部で総括を行っている。そしてもう一つ、綱領の改定作業が突貫工事で行われている。私は、総括は絶対必要だとは思うが、綱領の改訂などはそんなに急ぐ必要はないと思っている。綱領のない政党とはよく言われていたが、1998年の結党時に作成した「私たちの理念」という立派な綱領がある。民主党は何も綱領がないことで敗北したのではないし、政策が間違っていたから国民から見放されているのでもない。
 ただ従前から綱領の策定については、直嶋政行委員長の下、2年弱ずっと党綱領の策定ないし改訂の検討をしてきており、私も、12年5月より会合に皆勤しずっと議論に参画してきた。1月の定期大会で決定する予定で11月7日に全議員会合も持ったところ、私が見るに本当にもっともな意見が寄せられた。まじめな民主党議員が、崩れつつある民主党を憂い、必死で立て直そうとしていることがひしひしと感じられた。そうした健気な気持ちを木っ端みじんに打ち砕いたのが、突然の解散である。1ヶ月の間に状況は一変した。そして12月16日の大敗北を受けた後の党綱領は、参議院選挙に向けたものとか短期的な物観点に立つものではなく、自民党から政権を奪還するためのものでなければならない。

<韓国に倣い党名変更で再出発すべし>
 それでは、何をもって新生民主党を国民に印象づけたらいいのか悩ましいことである。私は野田前首相の辞職と並んで、国民に民主党がすっかり変わったというふうに意識してもらうには、思い切って民主党の党名を捨てる潔さが必要ではないかと思っている。なぜならば、民主党の比例区の票は09年の2984万票から12年は963万票と3分の1に激減し、できたばかりの新興政党維新の会よりも比例区の票でも議席でも下回ったのであり、(維新 1226万票 40議席、民主 963万票 30議席)ちょっとやそっとの改革では国民は納得してくれそうもないからだ。その後の世論調査では、4~5%の支持率となり、維新とみんなの党の後塵を拝している。
 この点で参考になるのは韓国である。韓国の政権与党として14年に及んで韓国の政界を牛耳ってきたハンナラ党は、12年2月スパッとセヌリ党と名前を変え出直している。その甲斐あって、4月の総選挙にも辛勝し、12月にはセヌリ党の初の朴槿恵(パククネ)大統領が僅差で誕生した。起死回生の大博打が効いたのである。

<躍進する韓国企業とFTA大国>
 この経緯を簡単に述べておく。<別紙 ハンナラ党からセヌリ党への党名変更 -米韓FTAを巡る李明博大統領の栄枯盛衰- 参照>
 2011年から12年にかけて韓国政界はめまぐるしく動いた。政治は一寸先が闇ということが端的に当てはまるのが、李明博(イ・ミョンバク)大統領のアップダウン、毀誉褒貶であろう。現代グループの建設会社のトップからいきなり大統領となり、自らCEO大統領と名乗り、韓国製品の売り込みに熱心に取り組んだ。韓国は「日本に追い着け、追い越せ」の大号令の下に大躍進を遂げ、サムスン、LG,現代(ヒュンダイ)に代表される世界的企業が出現し、あちこちに韓国製品が跋扈し始めた。
 韓国でも日本と同じように、開国という美名の下に、米韓FTAが推進された。BSEの問題もありすったもんだしたけれども、7年越しで批准できる状況になった。日本に先んじて「FTA大国」となることを国民も支持していた。11年10月李大統領は、オバマ大統領に国賓としてアメリカに迎えられ、デトロイトのGMの自動車工場を一緒に見学した。小泉首相が、ブッシュ大統領に国賓として招かれ、エルヴィス・プレスリーの生地にまで行った図式によく似ている。ちなみに小泉首相以降、日本の首相で国賓待遇を受けていない。
 もともとFTAには難色を示していたオバマ大統領が、この時期に合わせて突然パナマ、コロンビア、韓国のFTAを批准し、実施法も通過させ、歓迎の意を表した。これで韓国は日本を追い越し、アメリカを「経済領土」にしたと悦に入り、李大統領は人生の絶頂期にあった。

<野田首相のTPP前のめり発言をきっかけに米韓FTAを強行採決>
 ところが、運命はちょっとしたことで狂う。11月9日に、野田首相が、ホノルルAPECに向けてTPPに参加表明するということが韓国新聞に報じられると、韓国のマスコミや国民は、やはり日本のほうが先んじていると大騒ぎになった。いろいろ反発のある米韓FTAの国会での承認は、それほど急ぐつもりではなかったのであろう。ところが、李大統領は、日本より遅れるのを嫌がり、11月22日に強行採決をしてしまった。驕りが招いた強引な政権運営である。この辺りは、日本の消費増税を強引に進める野田政権と瓜二つだ。
 内容もろくにわからない段階からTPPに全面的に賛成している日本の5大新聞は、なぜかしら韓国民の激しい反米韓FTAの動きを詳しく報じない。しかし、さすが催涙ガスが飛びかう前代未聞の採決は小さく報じたので、日本でも覚えている人がいるだろう。
 野田首相の党の「慎重に」という提言を顧みない発言、そしてその後の前のめりの対応は、自爆テロ解散による総選挙での民主党の大敗北の引き金になったが、実は韓国の政界の大混乱の引き金もひいていたのである。

<与党も反対し出した米韓FTA>
 そのあとも李大統領とハンナラ党の運命は狂っていく。米韓FTAのその内容たるや前例のない大不平等条約だということで、まず法律学者や裁判官までもが「こんな不平等条約けしかん」と騒ぎ出し、11月30日には5万人の米韓FTA反対集会が開かれた。こうして、強行採決した与党のハンナラ党でさえ、これはおかしいと言い出し、12年の1月1日の発効を見送るべく、11年末の12月30日に国会が開催されて米韓FTA再交渉決議が可決されている。そこに李大統領の兄、李相得(イ・サンドゥク)の逮捕等別の動きもあった。その先に12年4月の総選挙も目前に迫っていたし、12年末の大統領選挙も控えていた。
 それなのにハンナラ党の支持率は下がりっぱなしである。大統領候補として、暗殺された朴正煕元大統領の娘 朴槿恵がほぼ確定していたが、それに対抗すべく、ITビジネスを起し国民的人気を博していた、ソウル大学の安哲秀(アン・チョルス)教授が取り沙汰されていた。

<党名変更し綱領も福祉政策重視に改訂>
 そこで大胆な行動に出たのがハンナラ党である。1月26日、ハンナラ党は非常対策委員会全体会議を開催し、党名を変更する方針を議決、その後新しい党名を公募し、2月13日に「大きな国」を意味するハンナラ党から、「新しい世の中」を意味するセヌリ党に変更した。1997年「新韓国党」と「民主党」が合併して成立したハンナラ党は、約14年の歴史に幕を閉じた。
 更に、このままでは危ういということで、党綱領を変えることが浮かび上がってきた。12年1月4日、非常対策委員会は、綱領から中道への支持基盤の拡大を意識して「保守」「ポピュリズム」を削除する方向で検討に入ることを表明した。そして1月30日には、06年以降6年ぶりに綱領(国民との約束)を改定した。従来は、国家や市場中心の経済成長に重きを置いていたものを、福祉や雇用、経済民主化を中心軸に据え、国民の幸福を重視している。日本の民主党が「国民の生活が第一」とするのと符合する。

<民主統合党の勇み足、オバマ大統領宛て直訴書簡>
 政界はめまぐるしく動く。野党民主統合党は、圧倒的な支持率に乗じたのか、アメリカのオバマ大統領とジョーンズ上院議長宛てに、こんな不平等条約はおかしいと、修正箇所を10か所指摘、この次の総選挙に勝ったら、こんな条約は再交渉する、さらに調子に乗り、12月に自分たちの大統領が当選したときには破棄するという手紙を突き付けた。これに対して、政府は自国の対立を外国に持ち出すのは「国際社会の信頼を損なう」とすぐさま反撃した。これにマスコミ、国民も応じて野党の支持率は急速に下がっていった。それに乗じて、3月15日米韓FTAを発効させた。
 そして、4月11日総選挙、セヌリ党が300議席のうちの152議席を占め、辛うじて第一党を維持し、政権交代はならなかった。その後の大統領選挙も、野党側から盧武鉉(ノムヒョン)大統領の秘書室長であった文在寅(ムン・ジェイン)と安哲秀の2人が名乗りをあげてしまった。最後は一本化したが、僅差で破れている。

<14年経った「民主党」もそろそろ賞味期限>
 つまり、ハンナラ党は、米韓FTAの前のめり行動と党内の不正や李一族のスキャンダルで党の存続の危機の中で、思い切って党名を変えて大成功したのである。日本の政党の名前は韓国と比べるとそう頻繁には変わっていない。民主党は1998年の結党から14年余、ハンナラ党の賞味期限と同じ年に達している。創業者の鳩山元首相さえつれなく追いやったのであり、もはや党名にこだわる必要はない。これだけ大敗北した民主党は、党名を変え不退転の決意で再出発したことを、国民に示さなければならない。

2013年02月14日

両院議員総会(12月19日)の新代表選出延期の顛末―(12年総選挙総括・民主党再生シリーズ その9)13.2.14 

<新代表を3日間で選ぶとんでもない提案>
 12月18日選挙の2日後、私は世話になった人たちにお礼のあいさつ回りをしていた。つねに朝刊は朝読みたいと思っているが、なかなか忙しく夜寝る前に読むことにしている。ところがこの日、秘書から、「明日、19日両院議員総会が開かれると出ていますよ」と言われ、ビックリ仰天した。見ると、19日の午後、両院議員総会が開かれ、そこで代表選の日程が議題になり、22日の午前中に代表選の立候補届けを受け付け、複数の立候補者が出た場合、その午後に145人の議員(衆議院57人、参議院88人)の投票で新代表を選ぶというのだ。

<すぐ幹部に意見の電話>
 私は、そんなばかな、これだけ大敗北をしておきながらそんな簡単に代表を選んでいいのかと思った。例によって、我々議員に諮る前に新聞に漏らして、一般国民の方が先に知り、既成事実を作るという、民主党の野田執行部が繰り返してきたずるい手法である。私は、すぐに当然そんなことはやめるべきだと幹部に電話した。直接話せなかったが、留守電に私の反対の趣旨を伝えた。
あいさつ回りを続行している間、3回その幹部から電話があったが、夜遅くになるまで気付かず、19日の朝になってやっと接触した。しかし、私の意見は取り入れられなかった。
 半年前の代議士会の発言(ブログ消費増税法案採決に棄権した理由-2012.6.27参照)もそうだが、私はできれば穏便にことを進めたいので必ず執行部に前もって問題点を指摘している。ところが、私のこうした心配りも増長気味の野田執行部には通じないことが多かった。
 そこで、今回も私は、すでに発言の準備を着々と進めていた。

<自民党は若林両院議員会長で乗り切る>
 総選挙後の特別国会で首班指名を行わなければならない。首班指名こそ完璧に党議拘束に従わなければならないものであり、記名投票である。つまり投票用紙に篠原孝という名前を書いてから、首相に推す人の名前を書くことになっている。常識的に各党もそれぞれの党首の名前を書くことになっており、党首が決まってないと都合が悪いことになる。
 ただ、これには巧妙にすり抜ける先例があった。3年半前の8月30日に大敗北して、困った自民党は、だからといって、9月16日の首班指名までに拙速に総裁を選ぶわけにはいかなかった。こういう事態は初めてのことであったが、長年の知恵であろう、9月18日には若林正俊両院議員会長を暫定の首班指名にして、特別国会の首班指名を乗り切り、その後でゆっくり党代表を選ぶという賢い道を考え出した。当時のマスコミは、「史上最大のピンチヒッター」として若林両院議員会長を揶揄した。なぜならば、若林環境大臣時代には、農林水産大臣の不祥事がいろいろ続いたため、代打で農林水産大臣を数回務めていたからである。

<手続きを踏む60年の政権与党>
 自民党はやはりしっかりした党である。大敗北の翌日、麻生太郎首相は辞任を表明し、臨時役員会で次期国会(192回)は麻生総裁のままとすることに決めた。きちんと手続き通り総裁選を告示し、河野太郎、西村康稔、谷垣禎一の3人が立候補し9月15日に総裁選が告示された。日本全国を回り、11ヵ所で演説会をし、2ヵ所で討論会を行い、9月25日 谷垣総裁を選んでいる。野党自民党の総裁選にマスコミもそれほど関心を示さず寂しいものだったが、60数年与党を経験した自民党は、きちんとした手続きを踏んでいる。俄か与党の民主党のいい加減さと比べると立派としかいいようがない。

<自民党との対応比較表を配って根回し>
 私は、民主党もちょうどよく、1月中旬の通常国会前に党大会が行われるので、党大会の日に投票を行うと決め、代表を選べばいい。拙速に選ぶべきではない。反転攻勢、政権奪取に向けて、どういう代表を選ぶべきかが大事で、そんな拙速な選出はやめるべきだという資料「下野時の党首選の対応比較」を作った。

 19日に上京し、待っているであろう幹部に電話した。案の定の内容である。要するに、もう流れはきまっている。参議院は早く代表を決めてもらわなければならないと言っている。そんなことを今更言っても通る話ではない。しかし、私は、決まっていようが決まっていなかろうが、ダメなものはダメだと発言することにした。そして、この資料を10人前後の人たちに配り、民主党幹部に欠ける根回し調整をして援軍をお願いしておいた。

<自民党と民主党の活力の差>
 私の一番の驚きは、党首討論で自信たっぷりに解散を宣言し、大敗したにもかかわらず、野田代表がそれこそ一言詫びただけで後は知らぬ顔の半兵衛を決め込んだことだった。自民党では、宮沢政権下で大敗した折には梶原静六が幹部に議員辞職を迫ったという。それを見ていた中曽根康弘は自民党の底力ここにありとみて、復活を確信したという。民主党にはそんな場面は見られなかった。

<一番始めに発言>
 両院議員総会で私は、珍しく一番前に座り、「代表をたった3日間で拙速に選ぶのは反対である。他の人たちの意見も聞いてほしい。国民は民主党の再生のプロセスをじっと見ている。こんな拙速に代表を選ぶのではなく、きちんと総括して大敗北の原因について議論してからやるべきである」と意見の口火を切った。自民党の知恵に習い、26日の首班指名は暫定首班で乗り切り来年1月の党大会で新代表を選べばよい、とも付け加えた。それから13人が続いて発言をし、2人が執行部よりの発言をしたが、あとの11人は、地方の声を聴くべきだ、党大会で決めるべきだ、きちんと総括してからにすべきだと、私同様に22日の拙速な代表選に反対した。ついに輿石幹事長は22日の代表選の延期を決め、22日には落選議員も含めて大敗北についての意見を聞くということになった。

<マスコミ完全公開のメリット、デメリット>
 私はマスコミオープンになっている両院議員総会で、また決められない民主党というイメージがつくのがいやだったので、わざわざ事前に幹部に、そんな荒っぽい日程は取り下げたほうがいいと言ったのに受け入れられず、両院議員総会でのどんでん返しとなった。今やすっかり定着した(?)民主党の混乱振りを国民に知らしめることになってしまったが、拙速な代表選だけは阻止できた。
 余談になるが、私の発言がTVニュースでは何度も報じられた。一番前の席だったことから、カメラにはまず頭の後ろが映った。いつものとおり髪が突っ立ってボサボサ(要するにひどい寝癖髪)だったことから、後で身だしなみの厳重注意を受けてしまった。同時に、私は選挙期間中から、再選された暁には党の再生に全力を挙げると訴えていたが、それを早速実行していることが有権者に伝わり、その分では励ましの言葉を多くいただくことになった。公開の議論は、メリットとデメリットの両方があることがよくわかった。

<25日に延期された代表選>
 ただ、私の思った通りに1月の党大会までは延期されなかった。22日の懇談会は、マスコミにオープンされず、ガス抜きの総括が行われた。非常にいい意見が出たたが、ほとんど報じられることはなかった。そして、もうこれ以上延ばすことは出来ないということで、25日に海江田代表が選出されることになった。
 一事が万事である。最後の最後まで野田執行部は強引だった。その典型例がこの代表選の拙速な日程である。
 民主党の代表が任期途中で交代することが多く、地方議員や党員・サポーター抜きの両院議員総会でばかり選ばれるので、党規則を改正し、臨時党大会で代表を選ぶようにしたところだった。しかし、大河原雅子参議院議員が指摘したとおり、早速例外を作ってしまったのである。3党合意の党内プロセスにおいて、私が党規約にある3分の1(132名)を超える156名の署名を集めて、両院議員総会の開催を求めたにもかかわらず、平然と無視したのと同じ構図である。

<自ら決めたルールを守る政党が再生への道>
 国民が、自分たちで決めたルールすら守れない党に政権を任せられない、と厳しい判断をするのは当たり前である。悪い意図があるとは思いたくないが、野田執行部が、準備が整わないうちに、いわゆるメリーゴーラウンド人事の延長で、自分たちの仲間内から新代表を決めてしまおうとしていたのだとしたら、あまりに卑劣である。
 民主党は何よりも民主的に議論をし、公正に物事を決める党にならないかぎり、党員からも国民からもそっぽを向かれてしまうだろう。党再生の第一歩として、不公正なルール違反の新代表選びを少しでも変えられたことを是としなければなるまい。

2013年02月13日

選挙戦術における2つの失敗―離党者への対抗馬擁立と安住幹事長代行の踏み絵発言―(12年総選挙総括・民主党再生シリーズ その8)13.02.13

<強引な政権運営が招いた離党者続出>
 民主党の分裂、ゴタゴタが民主党のイメージを大きく損ねたことは明らかである。もっぱら出て行った人を責める風潮があるが、内部にいた私としては出て行った人たちを責める気持ちにはなれない。なぜかというと、純粋で真面目な人たちだからこそ、民主党らしさを捨て去った政策や強引な政権運営・党運営に我慢できずに出て行ったのである。野田執行部がハンドリングを間違っていたのである。最初の中後淳、斉藤恭紀の離党のきっかけは、党の提言であるTPPを慎重にすべしというのを無視した、野田首相の前のめり発言だった。消費増税で離党者が続出したと思われているが、最初は他ならぬTPPであり、その後の「きづな」の内山晃の離党もTPPが主因だったのである。かくして衆議院308議席が選挙前には230余に減っていた。

<愚かな全選挙区立候補>
 そもそも党議拘束をかけ、そしてそれに違反した人たちに対して党員資格停止、離党勧告というのは日本だけの愚かなことであり、他の国では行われていない。このことは既に別のブログ(「党議拘束違反で分裂、離党の大騒ぎは日本のみ―12.07.17」)で述べた。まして、小泉純一郎のように刺客まで送り込み選挙で落とすという愚かなことは真似すべきではないことだと思っていた。ところが今回、民主党執行部は、ほとんど誰一人として当選の見込みもないにもかかわらず、離党でできた空白区に候補者を立てるというもっともらしい大義名分のもとに、元の仲間に容赦なく民主党の候補者を送り込んだ。その数は50名近くに達している(別表「民主党離党者に対する民主党対立候補一覧」参照)

 私はこんなにも大量に嫌味なことをしているとは、選挙が終わって新聞で全国の選挙結果を見るまで知らなかった。

<典型的悪例、田中美絵子の東祥三への対抗馬出馬>
 こうした愚行に対して、私が個人的にも厳重に注意した案件がある。東京15区の田中美絵子の未来の党の東祥三幹事長への対抗馬としての立候補である。
 田中美絵子はそもそも議員会館で私の隣部屋の河村たかしの秘書で、私が声をかけて民主党の候補者リストの中に入ることになった。09年衆議院選挙の時に丁度よく石川2区の森喜朗元首相の対抗馬として擁立され当選、小沢ガールズの一人としてマスコミにもてはやされていたものの、その後のスキャンダルもあり、東京15区へ国替え立候補した。
 小沢と共に離党した重鎮の東の対抗馬になるというのは、恩義に悖る。私は、かつて民主党候補へと勧めた責任もあり、女刺客のような出馬はやめたほうがいいと強く言ったが、聞く耳を持たなかった。結果は当然のごとく2人とも3万票弱しかとれず共倒れだった。

<自民党を利しただけの民主党の刺客>
 愛知14区・鈴木克昌(現・生活の党幹事長)に東海ブロックで比例単独で衆議院議員となった磯貝香代子をぶつけたほか、愛知1区・佐藤夕子、4区・牧義夫等にも軒並み対抗馬を立てた。まるで、小泉郵政選挙の女刺客を真似ているとしか思えない。磯貝は社会保障と税の一体改革採決の折、造反した人たちに厳しい処分をすべしと、命を助ける「助命嘆願」ではなく、もっと厳しい措置を講じろという「除名要請」に出向いている。そして、次が昨日の仲間の対抗馬として小選挙区立候補である。これまた私の常識外のことである。
 上記3人の他に埼玉7区・小宮山泰子の未来の党4人と後述する維新の2人は、対立候補が立たなければ小選挙区で当選し、もう6人は確実に野党仲間が増えていた。民主党は目先のことにこだわり、自民党に塩を送ったのである。戦う相手は他の野党でなく自民党なのに、完全に相手をはき違えてしまった。分裂がしたが故に票数が減っているが、他に京都1区の平智之、沖縄1区の玉城デニー、宮城2区の斉藤恭紀、北海道12区の松木謙公は、民主党がちょっかいを出さなければ小選挙区当選した可能性が高い。対立候補を立てられなかった石川知裕(北海道11区)、畑浩治(岩手2区)、青木愛(東京12区)、村上史好(大阪6区)はいずれも比例復活しており、非自民票の潰し合いをしなければ民主党も他の野党ももっと議席を確保できたのだ。

<離党者への民主党対抗馬はただの1人も当選せず>
 ところが、全員ものの見事に落選している。比例区の票の上積みに貢献したからいいではないか、といった言訳が聞こえてくるが、民主党の比例区の票は、小選挙区の票よりも大幅に下回り、何の効果も生じていない。つまり、小選挙区で民主党の候補者名は書いても、比例区では民主党と書かない者が圧倒的に多く、空白区だから比例区の票が少なくなることはほとんどなかったといえる。結局、50名近くの膨大な選挙資金を無駄にし、自民党を利しただけの徒労に終わったのである。更に悪いことに維新に移った2人の実力者、小沢鋭仁(山梨1区)と松野頼久(熊本1区)にもわざと対抗馬を立て、今後の野党共闘の可能性も著しく低くしてしまった。選挙の遺恨はなかなか拭い去れないのが政界の常である。

<聞きたくない藤村前官房長官の後付けの言訳>
 年明けて毎日新聞の年頭インタビューを受けた藤村前官房長官が、解散時期を見誤ったのではないかという指摘に対して、先に延ばすと維新の準備が整ってもっと惨敗する恐れがあったと見苦しい言訳をしている。それならば、11月2日に岡田副総理も入って協議、決定した解散に向け、与党民主党はひそかに万全の準備体制をしいたのか、と問い質したい。2005年の8月8日、小泉政権は亀井静香が150%ないと言った解散を断行し、次々と日替わり女刺客を公表し、選挙になだれ込み、大勝利を収めた。
 しかし、民主党陣営のしたことは、前述のとおり、民主党離党者に意地になって対立候補をぶつけ、むしろ敗北に上塗りしただけなのだ。
 非自民ということで見れば、民主党離党者のいる選挙区での脈絡のない立候補により10議席以上も失っている。後々の反自民勢力の結集ということを考えたら、全く余計なことをしていたことになる。
もちろん、「未来」がやたら民主党候補者に対して対立候補を立てたことに対する反撃もあることはわかるが、大政党は民主党であり、民主党が自重するのが先である。民主党王国といわれた北海道の大敗北は、新党大地・真民主との連携が崩れたことも原因の一つである。日本の選挙は相変わらず自民対反自民であり、反自民が割れては勝負にならない。参議院選挙に向けて、肝に銘ずべきことである。

<安住幹事長代行の大失言の被害者は一に鳩山、二に篠原?>
 2つ目の大失敗は、11月18日の日曜討論における安住幹事長代行の誓約書発言である。この1番の被害者は怒って出馬を取りやめた鳩山元首相であろう。民主党の創業者に対してあまりにも失礼なことであろう。慰留もされなかった。ところが、私の支持者が2番目の被害者は篠原だと大騒ぎしていることを知らないでいた。19日から2日間東京でマニフェスト修正に費やし、20日の夕方、長野の選挙事務所に帰ってきてみると、周りは真っ青だ。まず秘書が「代議士、本当に公認されるんですか」と聞いてきた。信濃毎日新聞は11月19日朝刊1面に『「党政策に反対」公認せず』という見出しで「野田首相の考え方についてこられなければ後任はできない」との安住発言を大々的に報じた
(信濃毎日新11月19日朝刊1面『「党政策に反対」公認せず』参照)
。それを真に受けた真面目な周辺の者は、マニフェスト、特にTPPについての反対するのは公認されない恐れがあると心配していたのである。
 私は、「そんな馬鹿な話があるか、北朝鮮や中国の共産党はそうかもしれないけども、民主化されたロシアの共産党ですら、そんな非民主的なことはしない。純化路線などと言っているが、そんなのは弱小政党の話だ。政権与党たる大政党は色々な意見を纏めていかなければならないのに、何を馬鹿なことを言っているか」と言って安心させようとした。ところが、相当な政治通の者でさえも心配していた。地元中野市の地方紙「北信タイムス」は「党公認となるのか支持者も注目している」と記事にまで書いた。(11月23日北信タイムス 参照)
それだけ悪影響を与えたのである。
 数日後、案の定、一人も公認されない者などなく現職議員はすべて公認された。ところがここからがまた問題だった。

<鳴り止まないクレーム電話と数多くの意見メール>
 私の選挙事務所には相当なクレームの電話が掛かってきた。メールも相当寄せられた。つまり私が公認されたのは、踏み絵を踏まされTPPに賛成すると言い、原発についても反対と言わないと言ったからだというのだ。そんなことは政治家として情けない、許せない、自分の主義主張をなんで通さないのだ、ちゃんと通すから支持していたのに見損なった。もう支持しない。山田正彦TPPを慎重に考える会会長と同じようになぜ離党しなかったのか等々、とどまることを知らなかった。
 電話やメールを書く人はほんの一握りに過ぎない。多くの人が同じ誤解していたのである。ミニ集会でも、篠原さんは踏み絵を踏まされて妥協したのではないか、という質問をあちこちで受けることになった。私はすぐ全面否定したが、私と直に話を出来る人は限られている。多くの有権者が、誤解したまま投票日を迎えたに違いない。全国でも安住幹事長代行の軽はずみ発言でさらに票を失い、何人かが議席を失っただろう。

<厳に慎むべき選挙期間中の軽率発言>
 05年小泉郵政選挙では、岡田代表、仙谷政調会長発言が民主党の足を引っ張った。10年の参院選では菅首相の消費税発言が徹底的な敗北をもたらした。今回の安住幹事長代行の軽はずみ発言は、私のようにTPPに絶対反対の者のみならずTPPを推進しようとする人たちの足も引っ張り、両方に不利になった。この点も、我が党の幹部は大人の政治家になっていなかったのだ。

2013年02月12日

日本の団体推薦の見本、長野県農政同友会 (12年総選挙総括・民主党再生シリーズ その7)13.02.11

<日本の片寄った団体の推薦>
 参議院選挙を前に、与党だった民主党から各種の団体がなだれをうって自民党に復縁していると報じられている。政権交代が生じてしまった今は仕方ないとしても、団体推薦のあり方はよくよく考えておかないと日本の政治を歪めることになってしまう。
 日本は60年に及び自民党が与党であり続いたことから、すべての業界団体が自民党支持となっていた。それが2009年秋の政権交代を境にして、多少変わってきた。典型例が日本医師会(連盟)で、原中勝征会長(茨城県)が大胆にも民主党支持を表明した。他に日本歯科医師会(連盟)も加わり、2010年の参院選では、西村まさみが民主党公認で当選している。3年前には石井みどりが自民党公認で参議院議員になっており、戦国時代の真田家よろしく二股かけてどちらが政権の座についていても、政治的影響力を行使できるように巧妙なバランスをとっている。二大政党による政権交代が本格化していくとなると、当然出てきてよい動きである。ただ、日本看護連盟や日本薬剤師連盟のように、民主党が与党になろうが構わず一貫して自民党と友好している団体もある。余程信念のある(?)団体かもしれないが、これでは政治は変わらない。

<金権体質が強まるアメリカ政治>
 アメリカは選挙あるいは政治が、ここ10数年とてつもなく金権体質が強まりつつある。アメリカは民主主義国の象徴のように思われているが、今や金融業界が政府を相当動かしており、TPPもその延長線上にある。2010年最高裁の判決により、企業・団体の資金提供の制限がすべて撤廃され、企業・団体の献金はますます日本とは桁違いの大きさになった。大統領選に集まる膨大な資金量をみればよくわかり、オバマ陣営は10億8千万ドル(約918億円)、ロムニー陣営が11億3千万ドル(約960億円)を集めている。その意味では、民主主義も資本主義も相当歪み始めているといえる。日本の政党助成金総額(12年約320億円)や政治資金総額(11年2,219億円)と比べるとその巨額さがよくわかる。

<アメリカは政党ではなく個々の議員を推薦>
 ただ日本と違うことは、一つの団体が全国津々浦々まで一つの政党だけを支持するといったことがない。つまり二大政党制が完全に確立し、政権交代もほぼ2期8年ごとに行われることもあり、どの団体も民主・共和両党に、自分たちの意向を汲んで動いてくれる議員を作っている。例えばアメリカ大豆生産組合なる団体は、それぞれの議員を個別にみてイリノイ州では共和党の候補者を、隣りのオハイオ州では民主党の候補者を支持しているという具合である。

<日米で推薦先が党と個人分かれる理由は党議拘束の有無>
 アメリカの新聞は、NYタイムスもニューヨーク州の地方紙であり、そうした地方紙が自分の州の関係議員の各法案の採決の賛否を刻明に報告しており、団体も国民も判断材料には事欠かない。
 根底には、日本と異なり党議拘束などなく、個々の国会議員が自らの識見により賛否を決めているという違いがある。日本は自動的に党議拘束がかかり、党で賛否が決定され、個人で判断ができない仕組みとなっている。こうしてみると、日本の企業・団体が全国一本でどの党かで推薦・支持を決めるのは、硬直的党議拘束があるかぎり致し仕方ないことともいえる。(本件については、12年8月7日のブログ「党議拘束違反で分裂・離党騒ぎは日本のみ」を参照)

<アメリカに近づきつつある日本>
しかし、今回は少し様相が違ってきた。なぜならば、社会保障と税の一体改革を巡って民主党では多くの造反者(反対者)や棄権者が出て、更にそれが多くの離党者につながったからである。誰がどのような採決行動をとったかわからなくなったので、気付いた一部のマスコミは主要法案について、個々の国会議員の投票行動を一覧表に示して報じた(東京新聞2012.11.25 前衆議院議員 主な投票行動)。その点で日本の国会も一歩前進したといえる。党議拘束に反して投票し、離党や党員資格停止というひどい処分をされたので、この矛盾がわかったのか、「生活」は党議拘束をなしにすると決めている。

<長野県農政同友会の先進的な推薦>
 全国的には全く知られていないが、今回長野県農政同友会(農協の政治団体、各県で名称は異なる)は、非常に先進的なアメリカ的推薦をやってのけた。
 よく知られているとおり、農協をはじめとする農業団体は60年与党にある自民党を一貫して支持し、その所属議員を推薦してきた。ところが、農政同友会も、一時は加藤紘一とともに自民党農政のドンとして2度も農林水産大臣を務めた羽田元首相については、自民党を離れても推薦してきた。その強い勧めで国政に参画した私も、お裾分けにあずかってか推薦してもらってきた。ただ、極めて日本的で、アメリカではありえない自民党候補とのダブル推薦である。私が政界に入ってからのことしか知らないが、民主党の衆議院議員で推薦を受けているのは、他に玄葉光一郎と鉢路吉雄がいるくらいだった。かつて、玄葉の相手は選挙のたびに替わる『日替り』ならぬ『選挙替り』候補であり、民主党ではただ一人単独推薦だった。ただ、さすがに今回は外相としてTPP前のめり発言の片棒を担ぎ続けたことから推薦されなかった。
 長野は5区に分かれているが、今回、農政同友会は私の他に、4区後藤茂之(自)、5区宮下一郎(自)の3人だけを推薦し、他の候補は推薦していない。つまり、候補者の「政治活動の実績」をみて、差をつけたのである。

<時代錯誤な九州の農政連>
 ところが、九州では相変わらず時代錯誤で、「TPPを慎重に考える会」の会長として先頭に立ち続けた山田正彦や体を張って反対し続けた川内博史すら推薦しなかったのだ。二人とも5期維持した議席を失っている。今回も、九州の民主党候補はただの1人も推薦されず、自民党候補ばかり自動的に推薦された。また、野田内閣の農林水産大臣として、TPP交渉参加を実質的にくい止めた大恩人の鹿野道彦を推薦しない山形も、九州並みである。どうも各県の成熟度の違いがあるようである。
 ただ、救いは全国農政連が一律に決めるのではなく、各都道府県に判断を委ねていることである。念のために全国を調べてみると、民主党では私の他に宮城の石山敬貴、茨城の福島伸亨、香川の玉木雄一郎の3人が推薦を受けている。また、千葉県ではきちんと政治活動を見て、野田首相の党の提案を無視したTPP前のめり発言に我慢ならずに真っ先に離党した「未来」の中後淳、内山晃等をきちんと推薦していた。農政連は長野県だけでなく個々人の政治活動に応じた推薦もしつつある。

<羽田元首相の懸命な努力>
 もともと長野県の農業団体が民主的だったのだろうが、民主党が政権の座に就いた時に丁度よく茂木長野県農協中央会長が全中の会長に就任していた。その折、羽田元首相と北沢元防衛相と私の3人で二度ほど茂木全中会長に、個々の議員ごとに推薦してほしいと逆に陳情(?)した。長野県と比べ全国の農政連はあまりに頑なだからだ。しかし、長野県以外にも個々の議員の政治活動をみて推薦を決めることが広まっているのは喜ばしい限りである。
 羽田元首相が政権交代後1回目の総選挙に勝利することが最も大切、と何度も力説されていた理由がよくわかる。8年なり2期を民主党が与党でいたならば、長野県農政同友会並みになる県がもっと増えたかもしれないからだ。

<党から政治家に変わりつつある推薦>
 日本医師会(連盟)は、原中勝征会長時代は明確に民主党を支持した。その前に地元の茨城県では09年選挙において一歩先んじて民主党議員を推薦し、全員を当選させていた。
 その後、中立を標榜する横倉義武会長となり、11年11月21日に記者会見し、各政治家の考えを聞いて、地方組織の意向に従って小選挙区ごとに推薦候補を決めていくことになった。
 長野1区では、私の相手は自民党も維新の会も医師。TPP反対を巡り「TPPを慎重に考える会」や「TPPを考える国民会議」で共闘してきたが、私の考えは全く聞かれた覚えはなく、横倉会長の言葉どおりには動いていない。しかし、推薦方式が全国団体一本でなく、「政治家」ごと、「地方組織」ごとに変えていく気運は生じつつある。今後はこうした動きが他の団体にも広がってほしいものである。これが、ひょっとして日本の政治を変える一つのキッカケになるかもしれない。

2013年02月10日

ミニ集会での主張と質疑応答 (12年総選挙総括・民主党再生シリーズ その6)13.02.10

<60~70ヵ所のミニ集会>
 今回の選挙は昨日(2月10日)のメルマガ・ブログのとおり60数か所のミニ集会を中心に戦った。正確に言うと解散してから既に栄村や野沢温泉村、木島平村等北の方でやってきているので合計70か所を超えた。概ね1時間とし、最初の15分から20分は私が話すことにした。

<反TPP、脱原発を主張>
 場所によって少々異なるが、私はTPPに反対、原発からも早く脱する、ということを愚直に訴えた。
 後半戦になると安倍・石破連合軍が憲法改正、国防軍、集団的自衛権の行使を認める、はたまた維新の会石原慎太郎代表が核兵器のシミュレーションも行うべきだ、といった右傾化発言が続いたので、それに対して歯止めをかけなければならないと付け加えることになった。
 私の質問に誘発されたわけではなかろうが、農村地帯ではTPPについて多くの質問が出た。原発については少なかったが、やはり柏崎刈羽に近いだけあって多くの懸念が表明された。

<国民は大飯原発の再稼働を許していない>
 どの新聞論調も言っていないが、大飯原発の再稼働に加勢した元大臣たち、つまり、藤村官房長官、枝野経産大臣、細野原発担当大臣、それから不思議なことに、なぜかしら参加していた仙谷政調会長代行を有権者は見逃していない。このうちの藤村、仙谷は落選している。枝野はずっと行政刷新担当大臣、幹事長、官房長官、経産大臣と陽のあたるポストを歴任し続け典型的メリーゴーランド人事の一員であるにもかかわらず大苦戦した。さすが、若さが売りの細野と野田首相は危ういところがなかったが、有権者が名前を書く段になった時には、原発推進に与した者を忘れなかった。つまり、金曜日の夕方のデモは投票行動には表れていなかったという論調は、まったくの的外れであり、やはりしっかりと根底には流れていたのである。
ただ、「脱原発を訴える未来の党はそんなに当選していないし、得票も増えていないではないか」という反論もある。しかし、別にも触れるが、日本の選挙は相変わらず自民対反自民であり、反自民が分れてしまって自民が大勝し、目立たなかっただけである。TPPも原発も当選させる原動力にならなかったが、推進する者を「落とす為のネタ」には十分になったのである。(2月8日のメルマガ・ブログ「民主党幹部のTPP前のめり発言で農村部・地方の小選挙区はほぼ全滅」参照)

<民主党の分裂の原因は3党合意>
 一番多く質問で出たのでは、やはり民主党のゴタゴタについてのものであった。この点について私は徹底的に野田執行部が悪いということを説明した。例えば、「多数の離党者が出るのはおかしい」ということについては、福田衣里子(C型肝炎訴訟原告団、長崎2区)の発言をいつも引用した。
 福田は、政府案にあった高額所得者の所得税の税率アップ、相続課税の控除額の減額により高額所得者も応分の負担をするということが、3党合意で全く消えてしまい先送りにされたことに対し、涙を流して怒り造反した。原案が民主党のコンセンサスを得たものであり、提出された時点で党議拘束がかかっていた。それを3党合意の担当者が勝手に自公の要求を入れて変えてしまい、それを通り一辺倒の説明だけでゴリ押しして、民主党議員は了解しろという強引なやり方に猛反発した。折衝を担当し3党合意を進めた執行部の人物(藤井裕久、古本伸一郎)こそが党議拘束違反をしているのであって、変えてしまった変な案に反対している福田は造反しているのではない、と解説した。

<不透明な決め方で進める執行部が問題>
 別のブログ「党議拘束違反で分裂、離党騒ぎは日本のみ」(12.07.17)で説明したが、日本ほど硬直的な党議拘束をかけ、造反者にきつい処分をしている国はない。私はこの時点で、民主党は党議拘束をかけるべく両院議員総会に諮り、党としてきちんと決める必要があったと思っている。それが嫌ならば、3党合意案を受け入れた時点で党議拘束をはずすのが筋である。なぜなら3党合意の内容は、民主党内では決定されていないからだ。

<野田執行部が党内意見を無視>
 「篠原は民主党の一員なのに私が野田首相が進めようとしているTPPに反対しているのは、党員として問題ではないか」という指摘もよくいただいた。それに対しては、「事実は逆であり、民主党の党内意見はTPPには慎重に対応すべしという方が多かったにもかかわらず、野田執行部はそれを踏まえず無視する形で勝手に前のめり発言を繰り返している」と応じた。野田首相がいくら前のめりにTPP交渉への参加宣言をしようとしてもできなかったのは、党全体の空気と逆だったからだ。
 この点は、政権に復帰した自民党政権が、党内意見を尊重して慎重に対応していることは、2月8日のメルマガ・ブログで既に述べた。

<「民主党の悪口を言いすぎる」という批判に対する私の弁明>
 あまり強引に事を進めんとする執行部が悪いと私が説明することについて、執行部への悪口であると取られることも多く、ある会場では「そんなことを聞きに来たのではない」と言って色をなして怒る人もいた。また、数人の先輩諸氏からも「あまり悪口を言うな」と注意を受けた。しかし私は、70人以上もの離党者を出して反省の色もなく、更に純化路線をとるなどと言い出し、挙句の果てにこんな愚かな解散をした野田首相を許すことができず、口調をゆるめることはなかった。57人しか当選できなかったことが、いかに大問題の解散であったかをよく物語っている。
 私は民主党幹部の悪口を何も意図的に言った覚えはない。民主党のゴタゴタについて質問があった場合には、執行部が横暴かつ強引に物事を進めていること、党内からの意見を聞かないこと、意思決定システムがでたらめで、きちんとせずに進めようとしていること等を、説明せざるを得なかっただけだ。

<全く興味が示されなかった12年版マニフェスト>
 それからもう一つ特筆すべきことは、60数回のミニ集会の中で、今回の選挙用の民主党マニフェストを常に配布していたにも関わらず、全く質問が出てこなかったことである。つまり、もう相手にされなかったのである。それにもかかわらず、TPPについて票を減らすだけの文言を入れ込み、同僚議員の多くを国会に戻れなくする負の大効果だけを残した。
 09マニフェスト違反の消費税については、さすがちょくちょく聞かれた。マニフェストは、政権交代にこそ大きな働きをしたが、政権与党は現に何をしているか現実の政策でしっかり判断されており、もう不要ということである。

<篠原個人を前面に押し出した選挙戦>
 これが不快に聞こえたとしても私は仕方がないことではないかと思っていた。逃げる票もあれば得る票もある。私は最初からみんなの支持を得るためになるべく当たり障りのないことを言って過ごす、というスタイルを踏襲しないことにし、私の考え方を前面に押し出して政治活動を行ってきた。9万人近くの方々に名前を書いていただいたということは、大体のところでは理解していただけたのではないかと思う。
 09年選挙のように民主党への順風が吹いている時ならいざ知らず、民主党というだけでの拒否反応さえあり、民主党よりも私自身を前面に出して選挙を戦わざるをえなかったのだ。私は、選挙は党対有権者よりも、政治家個人対有権者の関係が優先されると考えている。そして、今回大逆風下で当選した者は、私と同じように後者の関係が密だったといえる。

2013年02月09日

大逆風下の選挙は、ミニ集会中心に支持者のつなぎ止めに全力(12年総選挙総括・民主党再生シリーズ その5)13.02.09

 週末は、私の具体的な選挙活動について2つほど報告する。

<09年順風下での街宣車中心の選挙>
 私は選挙戦をそれなりに考えて毎回いろいろ工夫して手法を変えてきていた。
前回の選挙09年の選挙はまさに順風が吹いていたので、街宣車を住宅地中心に回り、適当なところで止まっては街宣するというスタイルで選挙戦を戦った。その為に2人の若手に頼んで、夜中に車で実地検分して、長野市内を8日間位で隈なく全部まわる緻密な地図を作成した。手間暇をかけ、お金もかかったが、ほぼそれに従って選挙戦を戦った。もちろん後半戦は、誰でもやっていることだが、100人弱の人たちに集まっていただく集会も組み合わせた。それでも1回目(03年)11万票、2回目(05年)12万票なのに、4万票上乗せして16万票の大量得票で初めて小選挙区で当選できた。

<「寺田学」方式の採用>
 しかし今回は、まったく違ったスタイルでやることを、09年の選挙の前から考えていた。我が事務所では有名な「寺田学方式」つまり選挙期間中は街宣車に乗らず、小さな公民館でミニ集会を徹底的にこなしていくというやり方であり、09年の選挙でもその一部を導入していた。同僚の寺田議員(秋田1区)からポスターの作り方、選挙用ハガキ5万5千枚にミニ集会の場所を印刷して出す方法等をこと細かに教わり、常にこの次は寺田学方式にしていくことを秘書に言い聞かせてきた。(下記リンク参照)
ハガキの例
チラシ

<羽田元首相が予想した大逆風下の総選挙>
 なぜならば、私は政権交代後の大逆風を、羽田さんから聞かされていたので、他の人たちよりも早くから予想できたからである。2月3日のメルマガ・ブログのとおり、民主党の同僚議員のために民主党農政の確立には心血を注いでいた甲斐あって、地方・農村部に同僚議員も多く誕生していた。しかし、肝腎の大逆風下の第1回目の選挙で、本人の私が落選しては格好がつかない。私の地元の選挙活動は、2003年秋の初当選以来ずっと大逆風下でも勝てる体制にすることに主眼を置いてきた。

<厳しい批判の目を持つ長野県民>
 私の得票は03年11万票から、05年の小泉郵政選挙でも12万票と1万票増えている。つまり、天才小泉に惑わされて自民党に大順風が吹いたのであり、民主党に逆風が吹いたわけではなかったのだ。09年は、長野県が全国で2番目の高投票率(74.27%)となり、私は16万票も得票した。民主党の期待度が大きかったからだ。それだけに落胆も大きい。その結果、投票率もどっと下がり58.76%と全国平均を下回った。また、少なくとも追い風が吹きまくった4万票の上乗せはほとんど消える。それに加えて政権交代後の今回は、投票に来るにしても落胆がそのまま大批判票となって表れてくる。長野県人は何かとうるさい県民であり、批判票が多くなるのは目に見えていた。
もう一方で、新しいもの好きである。第3極にも票が大きく流れていくことが予想された。そのような大逆風の時には浮動票の取り込みはまず不可能であり、私の支持者をなるべく手放さないようにすること以外考えられなかった。

<支持者への重点的アプローチ>
 幸いに9年間集めに集めた支持者名簿は5万5千軒に達していた。そこに重点的にアプローチして、是非投票に行ってください、しのはら孝と書いていただきたい、というふうにお願いする以外に勝ち目はないと踏んでいた。そこで寺田学方式の全面的な活用である。
まず、5万5千軒の支持者の家に、私の3年間の実績等を書いた特別国政報告とお馴染みの友人・知人をご紹介ください、というハガキを同封した。中々の作業である。宛名住所をシールアウトし、①封筒にシールを貼り、②上記2つを封入し、③更に糊づけするという3回の作業を5万5千通分やらないとならない。非常に手間暇がかかり、かつ、郵送費用もかかることであった。

<ミニ集会を徹底的に告知>
 次にポスターの私の顔の下に、60数会場になったミニ集会の日時と会場名を印刷することにした。公営掲示板にも証紙ポスターといわれる大きな広報板へのポスターにも同じである。もちろん、それを見て来られる方は少ないと思われるが、こういうことをしているということは知らせることができる。
この他に2つ別途印刷物で知らせることにした。一つは前述の選挙用ハガキ、3万5千枚が公営で2万枚は候補者が負担すればいいことになっており、ちょうど5万5千枚をすべてミニ集会のお知らせに活用することした。通常このハガキは、支援者の友人に私を紹介して投票依頼するのに使われるが、寺田学方式に倣い、選挙区を8地域に分け、一枚のハガキに6~8会場ずつ印刷したものを8パターン用意し、その地域ごとに、12月4日の公示日を中心に郵送した。
更に加えて、証紙ビラ11万枚を印刷し、そこにも片面に同じようにミニ集会の日時、場所を印刷し、かつ、それを地区ごとにミニ集会の1~2日前に新聞折り込みにすることにした。これまた結構費用がかさむ。

<直に1時間以上接した2000人余)
 ふだんは何をしているかというと、ひたすら支持者訪問とミニ集会を繰り返している。ミニ集会はこまめな秘書とそうでない秘書との差が出て、担当によりたくさんやっている地区とそうでない地区とがあり、それがそのまま得票差につながった。今度は今までやったことのない公民館でやるんだと厳命しておいたが、中々うまくいかず、有力支持者の多い、かつてやった会場でやる場合もあったが、半分以上はまったく初めての小さな公会堂・公民館で開催することになった。
最低のところは、中盤戦から後半戦にかけて8人だけの会場もあったが、平均すると20~30人で、61か所で2000人強には直に接することができたのではないかと思っている。

<農閑期なので昼間からミニ集会を開催>
 ただ、いろいろ問題もあって1時間ごとに数か所を梯子しなければならないことが一つと、その為に場所等をきちんと分かっている運転手がいなくてはならない。そのため運転手には気の利いた人を選んで、前半後半にわけて下見をしてもらっていたりしていた。それから、選挙ハガキは公示日の12月4日からしか使えないので、ミニ集会のハガキによる通知は6日以降になり、12日間の選挙戦といいつつ実質10日間しか告知集会ができないということ。それからもう一つは、平日の昼間にもやることになるので、農村地帯以外はなかなか人が集まりにくいということである。ただ幸いなことに12月16日が投票日であり、雪が降り出す北信州では農家の皆さんは家におられることが多いので、昼間は農村地帯をやり、夕方以降はサラリーマン地帯とし、週末は当然、住宅街ということにした。

<大声で6会場でクタクタ>
 もう一つ困ったことは、候補者の私がクタクタになるということである。街宣車に乗ることはほとんどなかったが、ほとんどマイク無しで毎日6か所、大きな声で15分から20分話し、あとは質疑応答というスタイルを繰り返したが、前半戦でも夕方になると声がかすれてきてクタクタになってしまった。ミニ集会といっても机が間にあると大会場になり、畳の部屋でも50人以上になると、もう少し大きな声でと注文を付けられることが度々だった。最後まで持つのかなあ、と途中から心配になってきた。

<マイクセットを使わないという愚行>
 疲れが最高潮に達した最終日、私の地元中の地元中野市周辺で8回という最も強行スケジュールとなった。その初回、後援会長から「候補者なんだからもっと威勢のいいでかい声で話せ」と小言を言われてしまった。そしてやっと気が付いたのがマイクを使うことだった。それから7か所は私がマイクを握り、最終日が一番疲れなかった。最初から使っていれば、ただでさえ少ない私の体重を更に3kgも減らさずにすんだのだが…。

<残念な本家の落選>
 ところが、御本尊の寺田学は残念ながら落選してしまった。ショートメールで、お蔭で当選できたとお礼を言ったところ、「この方式で落選したので次回からは止めようと思っている」という返答が返ってきた。この例のマイクの件は教わっていなかった、と言ったところ「私のように若いのでも6か所、7か所で、でかい声で話し続けられません。マイクを使うのは常識ではないですか」と笑いながら返答されてしまった。
ただ、ミニ集会中心の選挙は、冬の農閑期だからできたのであり、桃やぶどうの収穫期等の農繁期にはとてもできないことである。この次はやはり、集会+街宣の普通の選挙にしないとなるまい。

2013年02月08日

民主党幹部のTPP前のめり発言で農村部・地方の小選挙区はほぼ全滅(12年総選挙総括・民主党再生シリーズ その4)13.02.08

 12年秋、解散総選挙が遅くとも10か月以内にあるということは確実な情勢だった。熟度の高い政治家なら誰しも選挙に悪影響を与える発言を控えるのが常識である。それを我が党の幹部は違っていた。日本全国の農民が極度の不安に陥っているというのに、オバマ大統領再選の後、岡田・前原・玄葉・枝野のTPP推進4閣僚のTPP交渉参加前のめり発言が相次いだ。普通ならば、野田首相以下が示し合わせて発言しているはずだが、どうもそうでもなく、それぞれ勝手に見解を述べていたようだ。後述するように、政権奪取した自民党の閣僚が余計な発言を一切しないのと好対照である。
 枝野経産大臣は、「大局的視点にたち、私としては現政権が大きな決断を早急に行うべきだと考えている」と述べた。しかし数日後、「今すぐ新たな判断ができる状況ではない」というぶれる発言をすることになった。不安におののいている農民も国民も、またかということで聞く耳を持たなくなっていった。

<決定打となったマニフェスト案文>
 このあたりで止めておけばいいのに、そこに追い打ちを掛けたのは、TPPを推進するという11月16日マニフェスト案文の提示である。
 議場で解散の万歳が終わった後、夕方、細野政調会長主催の全議員政策懇談会が行われた。既にほとんどの人が、選挙の為に地元に帰り始めており、参加者は何人いただろか、正確には数えていないが100人超であっただろう。最後までいたのは30人余で、私は当然最後までいた。そこで示された案文は、日中韓FTAとRCEP(東アジア地域包括的経済連携)、TPPを同時に進めるということであった。19日(月)に最後の全体会合をして決めるというので出席したが、参議院議員を含め出席者は30名ぐらい、夕方7時30分の最後までいたのは9名というひどさである。大半の議員はマニフェストより地元の選挙活動を優先していた。私は翌20日(火)も議員会館にとどまり、少しでも落選者を少なくする修正案を理由とともに提出した。これで数日間選挙活動ができなかった。しかし、私がしつこく食い下がるだろうことを見込み、「篠原さん、後はよろしく」と言い、私に両手を合わせてお願いの仕草をして田舎の選挙区に帰る同僚議員のため、そして背後の羽田さんの声を気にしながら最後まで努力を続けた。
 その後、「TPP、日中韓FTA、RCEP(東アジア地域包括的経済連携)を同時並行的にすすめ、政府が判断する」と玉虫色の表現となり、私の意見はほぼ無視され取り入れられなかった。こうして、「TPPを推進する民主党」というイメージがすっかり定着したところに更にとどめをさすことになった。

<政治的センスに欠ける民主党政調幹部>
 自民党は「聖域なき関税撤廃を前提にする限り、交渉参加反対」と明確にNOという態度ととっていた。橋下徹の大阪維新の会は元々TPPに賛成、石原慎太郎東京都知事は反対であったが、日本維新の会はその妥協の産物で「TPP交渉参加、ただし国益に反する場合は反対」という賢い公約になった。できたばかりの党なのに、公約は玄人・大人の表現にとどめ、票が減るのを防いでいる。それを、我が民主党は解散日当日に、地方・農村部の大反発を喰らう案文を平気で出してきた。この政治的センスのなさには呆れ返った。明々白々TPP交渉に参加といっているのは、みんなの党と政権与党の民主党だけだ。数だけは巨大になったが、成熟度は新興政党維新の会以下かもしれない。マニフェストこそ、今までの度重なるTPP前のめり発言を覆す唯一最大のチャンスだったのに、私はこれで民主党の地方・農村部での大敗北を悟らざるを得なかった。
 野田首相の決断の解散、だからマニフェストもTPPを推進しようとする首相の意向を汲まなければならないというが、マニフェストは、第一義的には民主党のものであり、政府のものでも野田首相のものでもない。首相の思い通りというのなら、与党として4回目の予算編成をし、税制改制こそやり遂げなければならないのに、それをみすみす放棄してしまっている。正直言って、今回は民主党のマニフェストなど有権者は全く興味を持たないと思っていた。事実、私は後述する60数回のミニ集会でマニフェストを配っていたが、ただの一度も質問に出ることがなかった。都市部では配布しても受け取ってくれなかったという。すさまじい民主党への拒絶反応である。となると、12年マニフェストの唯一最大のメッセージは、TPPを推進するということであり、わざわざ農民や地方を敵に回すとどめの宣言をしただけなのだ。

 後述するが、解散後11月18日(日)の日曜討論でのTPPをめぐる安住幹事長代行の踏絵発言も、更にそれに追い打ちをかけ、農村部・地方の有権者に計り知れない大打撃を与えることになった。これでまた数人の同志が小選挙区で議席を失い、何人かは比例復活の途も閉ざされたのである。

<北海道に表れた05年と12年の差:8人小選挙区当選とゼロ>
 最も際立った悲惨な結果となったのは北海道である。09年の政権交代選挙では、12小選挙区中11の小選挙区で勝利していたのに、今回はオセロゲームのように一人も小選挙区で当選していない。05年の郵政民営化を焦点にした小泉郵政選挙でも民主党がボロ負けしたが、松木謙公が冗談で言ったとおり、津軽海峡は偉大でそれほど小泉旋風も届かず、8人もが小選挙区で当選した(別表「05年小泉郵政選挙と12年自爆解散選挙の比較」参照)。当の松木謙公も2万票も票を伸ばしている。(以下、当選者の記述は別表を参照)
05年小泉郵政選挙と12年自爆解散選挙の比較


 農業者戸別所得補償により民主党政権が農民の信頼を勝ち取っていたからである。つまり、この頃までは羽田さんの描いた理想を着々と実現しつつあった。それが今回はTPPへの猛反発で、比例で横路孝弘前衆議院議長と荒井聡の2人が復活しただけである。かくして北海道の民主党議員数は、03年11人(小7、比4)、05年11人(小8、比3)、09年15人(小11、比4)という民主王国から、12年2人(比2)と激減し、09年の自民党以下に落ち込んだ。

<全国の農村部はTPPで壊滅>
 九州も小選挙区はゼロ、保守基盤の強い鹿児島でずっと昔から比例復活をし続けてきた川内博史も比例復活すらできずに議席を失い、05年の11人から3人に減った。中国も畏友平岡秀夫も議席を失い、小選挙区はゼロで比例2人のみ。四国は今どき珍しい第3極なしの自民共の3人しか立候補しない小選挙区で1人小選挙区当選したが、枢要ポストに就き続けた仙谷由人も落選している。九州3人(比)、中国2人(比)、四国2人(小1、比1)で、西日本で05年19人に対して7人(松野頼久(維新)を入れると8人)だけという、それこそ壊滅的結果である。
 それに対して、都市部は東京(1→2)も千葉(1→2)も神奈川(0→1)も小選挙区当選者が増え、総当選者数も東京は2人減ったが、生活の青木愛を加えると1減(7→5~6)、千葉(5→5)と、神奈川は同数(2→2)と、全体では05年よりもむしろ善戦している。ただ、さすが近畿、特に大阪は維新が躍進し、パナソニック労組の支援で選挙にはめっぽう強かった平野博文も落選し、知名度の高い辻元清美1人しか当選できなかった(4→1)。つまり、05年小泉郵政選挙の113人と今回の57人の差は、地方・農村部の大惨敗(北海道-9、中国・四国・九州-12、東北・北関東・北陸信越-16等)の故であり、TPPがいかに地方・農村部に悪影響を与えたのか一目瞭然である。
 この事実が見えないマスコミ、評論家等は、原発もTPPも選挙に影響を与なかったと解説をしている。空中戦の党首クラスの討論には出てきていないが、名前を書く投票者には大きな影響を与えたのだ。大敗北の直接の大戦犯はこの愚かなマニフェストである。
 何の益もないのに、野田首相と4閣僚が競ってTPPについて前のめり発言を繰り返し、マニフェストでとどめを刺した。私にはこのような自爆発言をなぜしたのか、いまだもって理解できない。

<カードが固い自民党>
 このことは政権交代後の自民党の対応と比べてみてもよくわかる。
 7月の参議院選挙を意識して愚かな言動はしない高市早苗政調会長が1月6日のフジテレビの番組で「交渉に参加し、条件が整わなければ脱退する選択肢もゼロではない。内閣が決めることだ」と発言をし、甘利明経済再生担当相も前向きな姿勢をにじませた。それに対して自民党の議員はすぐさま猛然と反発し、党がきちんと決めることだと言い、その後政調会長も発言しなくなっている。岸田外相も茂木経産相も黙して語らない。民主党の前原政調会長なり、閣僚がそれぞれ勝手なことを言い続けたのと大違いである。成熟した政権与党と成り上がりの未熟な与党の差がくっきりと出ている。民主党の「TPPを慎重に考える会」に相当する自民党の「TPP参加の即時撤回を求める会」には、2月中旬で230人(384人のうち60%)も参加している。そして、党も政府もそれを意識して動いているのだ。
 安倍首相も総選挙中は野党の気安さから、「前提条件を突破でき、国益が守られれば交渉参加は当然だ」と少々危うい発言があったが、政権交代後は党の議論を待つ、と極めて慎重になっている。1月30日の代表質問(高村正彦副総裁)に答えて、「TPP交渉には参加しない」と明言している。一度野党を経験しただけに、絶対に与党を明け渡さないという狡猾さと執念がみられる。この点もまた民主党の党提言は(10年11月9日の提言)「慎重に」という結論になったにもかかわらず、それを無視して常に前のめり発言を続けてきた野田首相と大違いである。6か月後の選挙を意識して抑えているのに、我が党トップ野田首相も4閣僚も、「畳をかきむしってでも勝利するぞ」とかいう言葉とは裏腹に、すぐ目の前に迫っている選挙なのにまさに自爆発言を繰り返していたのだ。政権与党たり続けようとする気構えも用心深さもほとんど見られなかった。
 その意味では、今回は、民主党の一人相撲で自ら墓穴を掘り大敗北を喫した選挙だった。

<参議院選挙の勝敗はいつも農村部が鍵を握る>
 民主党は5年半前、07年の参議院選挙で1人区において農業者戸別所得補償で23勝6敗と大勝ちし、今度の2012年末総選挙では、民主党のゴタゴタや消費増税というマイナス要素もあったかもしれないけれど、やはり農政に大きく関わるTPP交渉への参加という前のめり発言で負けたのである。時として、農民票が選挙を大きく左右するのである。ところが、残念ながら野田執行部にはこれを肌身で感じるものや感度のいいものが皆無だった。
 野田首相は欲張って消費増税に続いて、TPP交渉への参加という業績も残そうとしたが、ただ政権与党の大敗北という仕打ちを受けただけに終わった。私は差し出がましくも、12年5月22日の私の初の励ます会(2冊の本の出版記念パーティ)で、「反TPPと脱原発で起死回生を」(5/23夕刊フジ参照)と進言した。しかし、民主党幹部はTPPでは真逆を進み、脱原発では大飯原発再稼働で真逆を行き、党内の猛反発を受け、30年代の脱原発に舵を切った。
反TPPと脱原発で起死回生を 5/23夕刊フジ

 民主党はもっと与党として学ばなければならず、自民党も野党をもっと長く続け反省してもらわなければならなかったのだ。それが、日本の政治をよくするというのが羽田さんの口癖であった。それをこんなに早く自民党の復活を許してしまった。功ばかり焦った野田首相とそれを許した周辺幹部の罪は重い。どう弁明しても償いはできない。

2013年02月07日

羽田元首相が予測した民主党政権の混乱(12年総選挙総括・民主党再生シリーズ その3)13.02.07

―政権交代後の1回目の総選挙を勝ち抜くために君の助けが必要だ―

<1996年秋 衆議院出馬要請>
 今、私は4回目の選挙を終え、幸いに議員を続けている。他の国会議員の皆さんも様々な経緯を経て政治家になったのだろうが、私の場合は多分特殊なケースであろう。全面的受身の形で政治家になっている。あまり信用されないかもしれないが、私は真面目な公務員で、故郷との絆を断ち切りがたく農林水産省に入省した。ほとんどが農家で占められていた、周りの人たちがうまく暮らしていける手助けができればと思ったからである。
 私に初めて自分たちの陣営で政治家になってくれと話があったのは、1996年のはるか昔だった。羽田孜元首相と堀込征雄衆議院議員の二人ともいわゆる農林族、前々からよく知っていた。当然のことながら逃げまくった。しかし、8年間のストーカー行為(?)の後、やむを得ず出ることになった。2003年秋のことである。私は数少ない、世に知られざる「羽田チルドレン」なのだ。

<たった10ケ月の非自民政権のトラウマ>
 その時の経緯は今までに随所(「鳩山長期政権を望む-09.9.14」、「04年の菅代表演説と菅総理の政策の一致と乖離-11.7.16」等)で触れたので省略する。今大事なのは、この時のくどき文句で羽田さんが私に言われた非常に大事な言葉が忘れられない。少々長くなるがそれを紹介する。

 民主党はいずれ政権交代できるだろう。政権の維持のほうが難しい。政権運営をしたことのない民主党内閣は迷走し続けるだろう。そしてマスコミに批判される。その結果、都市の有権者は離れていく。そして第1回目の総選挙で敗北というのは十分予想される。それでは細川さん(8ヶ月)と自分(2ヶ月)の非自民政権の10ヶ月が、少々長くなっただけで終わってしまう。そもそも今政権交代できないのは、我々の10ヶ月の非自民政権のトラウマがあるからである。

<田舎の律儀な有権者に支えられた議員を増やす>
 そうした中、第1回目の総選挙を勝ち抜くためには、少々政権運営が乱れてもやっぱり民主党だといって支持してくれる、律儀な有権者に支えられた同僚議員をたくさん作っていかなければならない。都市部の浮動票はさっと去っていき、都市部の議員は多くが落選してしまうからだ。そして、地方の2区以上の区で支持を得るためには、農政が必要だ。

<農政を君に任す>
 ところが、残念ながら、わが党には農政をやる者が非常に少ない。大臣経験者は自分と鹿野道彦と田名部匡省と3人だけだが、質はこっちのほうがいい。ところが、中堅が堀込征雄、小平忠正、鉢呂吉雄と3人だけしかいない(この当時、山田正彦、筒井信隆は落選していた)。若手となるとゼロに近い。これではやっていけない。農政を君に任せるから、是非民主党に参画してほしい。

 羽田さんが防ごうと思っていたこと、恐れていたことが起きてしまった今、改めて思い起こしている。

<地方・農村部にも着々広がる民主党議員>
 03年11月、複数区以上の農村地域でもたくさん民主党議員が誕生した。私の仲間、60人の同期生である。
 04年の参院選では1人区で、01年が2勝25敗(2勝も正確にいうと岩手の平野達男と三重の高橋千秋で、民主ではない)だったものが、13勝14敗となり、全体でも初めて民主党が50対49と自民党を1議席上回った。民主党農政が浸透しつつあったからだ。その当時、鹿野NC農水大臣の下、直接支払い政策を中心とする民主党農政の骨格はまとまっており、B4の表裏の民主党農政ビラを作り、1人区を中心に100万枚以上配布していた。
 ところが、05年の小泉郵政選挙で私の同期は半分の30人に減ってしまった。しかし、私や下条みつの他、北のほうからいえば、松木謙公、仲野博子、寺田学、近藤洋介等、地方はほとんど生き残った。逆に都市部は、各都府県で1名残っただけで(千葉・田島要、東京・長島昭久、神奈川・笠浩史、大阪・長安豊、兵庫・市村浩一郎)、それ以外は全滅した。批判票が多くなっても地方の農村部はしぶとく生き残るという、羽田さんの予言は一足早く実現していた。

<身を削って農村部の同僚議員を応援>
 正直言って、後に農業者戸別所得補償と命名される直接支払い政策は、当時ほとんどの民主党議員には理解されていなかった。そうした中、日本農業新聞が民主党農政をよく紹介してくれたことから、農民へのほうが先に徐々に浸透していき、同僚議員の農村部の会合の援軍を求められる機会が急増した。当時「Mr.年金」の長妻昭が全国銘柄だったが、私は「篠原孝は農村地域限定のベストセラー」と冗談を言って講演を始めていた。
 私の地元の選挙活動は疎かになったが、農村部・地方を地盤とする選挙に強い議員を育成するという、羽田さんの要請を忘れるわけにはいかなかった。
 中国山地の農村へは、東京から新幹線で3時間強、そこから車で1時間弱。農協役員や普及員の精鋭がいて質問攻めだから、私のような者以外は務まらない。同じ道を戻り、名古屋経由で長野へ夜中に着いた時には、足元もフラフラする状態だった。北海道では、会場がいつのまにか2カ所になり、更に、すぐ近くで夜一杯やりながら懇談したいという篠原ファンの別グループがいるというので連れていかれると、車で2時間もかかる近い(?)所。そこで夜中まで農政談議をし、他の人はゆっくり寝ているのに、私だけ5時に起きてタクシーで空港に行き東京に戻り党の会合に出るといった具合である。とにかく重労働でくたびれたが、民主党農政が徐々に農村全体に広く浸透しつつあることを肌で感じることができた。

<07年参院選23勝6敗の大勝利>
 そして2007年7月、もっと強烈に農村の地方の有権者の心をつかむことになった。私は、羽田さんの約束通り、2期生ながら「次の内閣」(NC)農林水産大臣として民主党農政を任されていた。小沢代表は直接支払いに飛びつき、農業者戸別所得補償と命名した。このときの原動力となったのは、マンガを中心に構成された4ページの民主党農政ビラである。当時の山岡賢次財務委員長の指示の下、「民主党が政権をとったならば」、という形で農業者戸別所得補償をPRし、1人区中心に300万部以上配布した。小沢代表は、常に田んぼや畑をバックにしてビール箱の上で、農業者戸別所得補償を打ち上げていた。この徹底した手法にはほとほと舌を巻いた。農村の支持を受け、今まで自民党の金城湯池だった1人区で、23勝6敗と大勝し、衆参のねじれ現象を生んだ。

<TPPが羽田さんの目論見を砕く>
 この民主党の勢いは09年まで続き、308議席の大勝利となり政権交代が実現した。残念ながら羽田さんが恐れたとおり、その後の民主党政権の混乱振りには目に余るものがあった。ただ、農業者戸別所得補償は農村部に定着しつつあり、4Kバラマキといって批判されるまでになっていた。
 口蹄疫を乗り切った後、10年7月の参議院総選挙では菅首相が消費増税に触れ、1人区で8勝21敗とボロ負けし、逆に参議院のねじれを生んでしまった。これがなければ、菅民主党政権は今も続いていたに違いない。
 そしてもっとひどいことに、10年10月1日、菅首相は所信表明でTPPに突然言及し農民はこれを契機に民主党にそっぽを向き始めた。私は、菅首相に進言し、官邸に「食と農林漁業推進本部」を作り、修復に務めようとした。ところが、3.11の東日本大震災で農政の改革は中断し、信頼回復に至らずじまい。そこに11年11月9日の党の「慎重」にという決定を無視した、野田首相の前向き発言が続いた。この一連の裏切り行為により、都市部より農村部のほうが民主党への不信感が高くなってしまった。

<民主党の再生で軽やかな政権交代を実現できる政党を取り戻す>
 私は、こうした状況の中で引退された羽田さんの心中を思うと、察するに余りあるものがある。特に私に託された、「政権交代後第1回目の総選挙を勝ち抜き、自民党を少なくとも10年間は野党に置いておかなくてはだめだ。そうしないと、日本の政治は変わらない」という叫びに似た声が、今でも私の中にこびりついている。
 私が民主党に参画して以来、ずっと地方・農村部の支持を広げてきたのに、菅・野田政権により木端微塵に打ち砕かれてしまった。一度失った信頼を取り戻すのは容易ではない。
 羽田さんが予言した大逆風下、私は必死で選挙戦を戦い、小選挙区で勝利した。羽田さんの思いが天に通じたのか、元秘書で後継の寺島義幸も小選挙区で当選し、唯一の民主党新人議員となった。しかし、たった1期で自民党に政権が戻ってしまった。ひょっとして羽田さんが悲観したとおり、これでもう二度と政権交代は起きないかもしれない。いや、そうさせてはならない。私は、諦めることなく、当初の羽田元首相の願いの実現に向け、民主党の再生に向かうしかない。

2013年02月06日

「野田首相解散前TPP交渉参加表明報道」(読売11月9日)の波紋(12年総選挙総括・民主党再生シリーズ その2)13.02.06

<1日42本の電話>
 11月9日(金)、私は同僚議員、記者等から42本の電話をいただいた。この日は、私が楽しみにしていたIBM主催の伊豆会議という会合に1泊2日で出掛けており、日本のリーダー育成についての議論をしている最中であった。国会議員では、他に林芳正、猪口邦子の2人の自民党参議院議員が参加していた。なぜ電話がかかってきたかと言うと、私が解散とTPPについて予測したとおりのことが起きつつあり、そのことが読売新聞の1面トップに書かれたからである。

<アメリカ大統領選の終了まで日本は動けず>
 私は『TPPはいらない!』(日本評論社)という本で、アメリカは大統領選挙が終わるまでは日本に何もして欲しくない、つまり、アメリカは日本にボールがあるという状態にしておきたいので、その意向を受けた日本は何も動けない、と予測していた。
 日本が参加するとなると、アメリカ自動車工業会が反対し、労働組合(AFL-CIO)も反対する。それに対し、農業界、医薬品業界、保険業界等は日本を早く仲間に入れろと言い、どちらかの判断をすると、どちらかが反オバマ勢力になっていく。
 今までもアメリカ大統領選挙の年になると、アメリカ絡みの外交交渉等が一切行われなくなっていた。そして、この半年近く、TPPにも全く進展はみられなかった。

<アメリカ大統領選後の悪い予感>
 そして、私はその後、野田前首相は消費増税の他にもう一つTPP交渉参加表明という業績を残したいという思いから、大統領選後に、TPP交渉参加表明を画策するだろうと予測した。
 一番悪い予測は、野田前首相が解散を決意した時に、最後っ屁で参加表明をすることである。政権を維持するためには、TPP反対で離党者が出て不信任案が通ることは避けなければならない。6人以上離党すれば少数与党に転落する。しかし政権を投げ出す覚悟ができれば、あとは怖いものがない。従って、野田前首相にTPPの参加表明をさせないためには、野田政権の延命を図る必要があり、「私はそのために議運の理事としても総括幹事長として汗をかいている」と冗談を言ってきた。

<4閣僚のTPP前のめり発言>
 そして前述のとおり、読売新聞が「首相、年内解散を検討、TPP争点に参加表明直後」と報じた。野田首相はTPP参加に慎重な自民党のとの違いを際立たせ、衆院選の対立軸にできると判断していると解説していた。(実際に見事な対立軸となり、地方・農村部で大敗北する結果となった)12日(月)、13日(火)と予算委員会が開かれ、14日(水)に党首討論が行われ、15日(木)特例公債法案が衆議院を通過し、参議院に送られて、ほぼ通過することが見えてきたからである。残るは「0増5減」定数削減の法律をいかに進めるかということだけである。これと呼応するかのように、岡田副総理、前原国家戦略担当相、枝野経済産業相、玄葉外相の主要4閣僚がそれぞれ違う表現であるが、TPP参加に前向きな発言をしている。

<前原国家戦略担当相のズレた主張>
 特に前原元国家戦略担当相はTPPをマニフェストに書き入れ、来るべき総選挙の争点にすべきだ、と言い出した。第3極がTPPへの推進をしており、自民党はTPPへ参加すべきでないと言っていることから、総選挙において、第3極との連携も可能になるというのだ。
 これは、私からすると誠に愚かなことである。なぜなら、総選挙後に第3極と連携しようにも、その前に民主党議員がバタバタと落選し、連立相手にもなれない状態になってしまうからだ。(事実57議席となり、連携相手とみなされなくなってしまった。)みんなの党も日本維新の会も石原新党も皆都会政党であるのに対し、民主党には多くの地方選挙区からの議席がある。そのような状況下で、みすみす選挙に負ける政策を対立軸にするというのだ。前原国家戦略担当相は、12月9日の閣議後記者会見でも「TPP反対か賛成かを公約に掲げ重点化すべきだ」と解散を煽り、岡田副総理も「結論はそんなに先送りできない」とTPP交渉への早期参加に前向きな発言が相次いだ。
 TPPについての世論調査は、開国という美名により50%近くが賛成し、反対はその半分である。ただ、TPPを強力に支持している層は財界や一部輸出企業等が主であり、他は何となく賛成しているにすぎない。それに対して、反対者は絶対反対なのであり。地方、農村、医療関係者等の猛反発が予想される。民主党にとって何の足しにもならない。地方で大量の落選者を出すだけである。

<政権与党を放り出す野田総理>
 野田前首相は甚だ勝手な人である。大量の離反者が出ようと構わず、自分の業績作りだけに血眼になっている。私はその意味では、政権交代後の3人の代表の中で鳩山元代表が一番、民主党のことを考えていたと評価している。普天間基地で相当混乱に陥ったことから自ら退き、小沢元幹事長にも同時に退いてもらい、発足当初は60%を超える支持率の菅内閣を誕生させた。しかし、菅元首相は選挙期間中に消費増税などと口走り、参議院の大敗北の原因を作り、なお且つ、それにも懲りず、2010年10月1日の所信表明でTPPを突然言い出し、農村部の猛反発を喰らっている。
 菅首相も野田首相も、やっと民主党が手にした与党の地位の維持について全く考えていないということである。これには、国会に戻ってくることができなくなる同僚議員が哀れでならない。

<TPPを総理の実績作りには使わせない>
 いずれにしろ、総選挙でTPPが政局の道具として扱われ、レイムダック状態になった首相の業績作りに使われてはたまらない。TPPはかねてから私が主張している通り、日本の社会に甚大な打撃を与え、更には日本を壊す基にもなる非常にいかがわしい協定だからである。また外交上もアメリカの中国囲い込みに使われる、危険な政治協定でもある。
 参加表明は絶対に阻止しなければならない。

2013年02月05日

民主党の解党的出直し-民主党の再生は、野田前首相の議員辞職と党名変更から始まる-(12年総選挙総括・民主党再生シリーズ その1)13.02.05

 私は、2011年の夏頃より民主党の危機的状況を憂い、何とかして民主党をしっかりした党にしたいと汗をかいてきた、そして昨年末の突然の解散・総選挙の間もずっと民主党の再建に思いを巡らせてきた。その間、メルマガ・ブログもずっと発信せずにいたことをお詫びしなければならない。さぼっていたわけではなく、ずっと考え続けていたからだ。年末年始休みを経て、ようやくその一部をまとめた。
 私の「12年総選挙総括・民主党再生案」について、今日から連日シリーズで10数回お届けする。

<海江田新代表選出>
 308議席から70数名が離党し234議席しかなかった上に、その4分の1の議席に減ってしまった大敗北。全く勝機もない向こう見ずの解散について、野田前首相はほとんど説明せず、黙って知らばっくれている。無謀な解散を煽った岡田、前原、玄葉、安住等も知らん振りを決め込んでいる。民主党の無責任体質が見事に表れている。
 更に、12月19日の両院議員総会(公開)で22日代表選出という日程を決めようとしたので、私は今回の大敗北をもっとしっかり反省し、時間をかけて代表を選ぶべきだと異議を唱えた。私の提案への賛同者が相次ぎ、22日は反省のための両院議員懇談会(非公開)となり、代表選は延期された。そして、25日に代表選をすることになり、代表には野田執行部でなかった海江田万里が選ばれた。
 一連の動きは、いかに野田執行部が横暴を極め、ガバナビリティーに欠けていたかを如実に示している。第三者に大敗北の総括を委ねることにして、とりあえず、海江田新代表の下、民主党の再生・再建に向けて走り出した。

<失敗した野田再選阻止>
 私は、この党崩壊を予測し、昨夏の段階で『民主党の墜落と再生』というレジメを作り本にまとめ、民主党の危機を訴え、再生に向けた改革をスタートさせようとしていた。7月頃には代表選もやらないなどというので、「民主党復活会議」を打ち立て、代表選をきっかけに党の再生を図ろうとした。山田正彦出馬表明の後一転してしての不出馬、突然の鹿野再出馬等により、野田無投票再選の流れは阻止できた。しかし執行部が候補者の街宣をせず、党員・サポーターにはほとんど選挙広報もせず、全く盛り上がりに欠ける代表選となり、野田首相が大差で再選されてしまった。ただ、党員・サポーターの得票率ですら34%にしか達せず、いかに民主党ないし野田首相が見捨てられているかが数字で証明された。私はこの時点で、民主党が奈落の底に突き進まざるをえないことを予感した。

<通じなかった私のお節介>
 私は、それよりずっと前から民主党の統治能力・政権担当能力のなさを懸念し、政権の座に就いた時の準備を促し、お節介なことも仕掛けてきた。私が予算編成や農産物交渉等で親しくなった各省の官僚が、偶然それぞれ出世し、枢要ポストに就いていたので、彼等との橋渡しができる立場にあったからだ。そこでその人脈を活かした準備も怠らなかった。
 しかし、これらの準備活動もあまり実を結ばなかった。
 ある程度予想したことだが、鳩山政権の普天間基地移転問題の迷走に続く、菅政権の唐突な消費増税、TPPへの前のめり行動には驚愕した。そして、民主党を救う途はただ一つ、代表には政治経験を積んだ落ち着いた鹿野道彦を選出する以外にない、という結論に達し、2011年秋には鹿野擁立、そして素交会(鹿野グループ)の結成と行動に移してきた。

<民主党崩壊の予感>
 私は、経験不足の「政治オタク」(若くして政治家になり、ほとんど他の世界を知らない政治家)に民主党の舵取りを任せてはならない、と訴え続けてきた。また社会保障と税の一体改革の3党合意を巡る紛糾時には、両院議員総会での採択による分裂回避も提案した。しかし、残念ながら私の度重なる警告が、大半の同僚議員に理解されず、未熟な野田執行部は向こう見ずな暴走を繰り返し離党者が続出した。そして、とうとう全く大義のない唐突な解散・総選挙に突入し、歴史的な大敗を喫し多くの同僚議員を失った。
 消費増税というそうたいしたことではない政策により、また何十年と自民党の一党独裁が続きかねない事態を招いてしまった。日本の政治を元に戻してしまった。野田元首相の犯した罪は大きく、簡単には拭い去れるものではない。

<民主党再生のために>
 しかし、嘆いてばかりはいられない。民主党を再生しなければならない。
 私が永年考えていた、民主党再生のためするべきことを羅列すると、以下のとおりである。政策が拒否されたのではなく、政権与党としてあまりにも未熟すぎただけなのだ。つまり、政党としてしっかりすれば、有権者は再び支持してくれるはずである。(ただ、多くは党改革のみならず日本の政治システム、特に国会改革に関連するが、それは別の機会に譲り、民主党中心の改革に限定する)

 1.政策決定システムを確立する(民自公の三党合意を党として承認するシステムがなく、私一人の発起人名で三党合意を承認するための両院議員総会開催の署名を集めた。署名が党規約に決められた3分の1を大幅の超えるも、執行部は開催せず。うやむやの決定で党議拘束をかけ強硬突破したため離党者続出、党分裂となった)。

 2.政策分野ごとのプロの議員を育成する(委員会の所属は毎年希望をとって決めるため、担当分野がくるくる変わる。このため、いい意味の族議員が育たず、実現性の高い政策の立案・決定ができない)

 3.政府と与党の関係を日本に合った形で構築していく(小沢一郎も菅直人も政府・与党が一体に近い、イギリスのいわゆるウエスト・ミンスター・モデルに近づけようとしたが、うまくいかず混乱を招いた。政権が短命の一番の理由は、思い上がった野田執行部・内閣が党の意向を無視して強引な政権運営したことにある)。

 4.挙党体制を組める人事を行う(いつもお友達人事になり、特に野田内閣では、閣僚人事のミスが目立った。あまたいる有能な人材を有効活用できず、民主党政権の崩壊を早めた)。

 5.候補者の公募を厳しくし、国会議員にふさわしい候補者選定を行う(野田執行部は突如、世襲を執拗に排除したが、もともと候補者選びがいい加減で社会経験や行政経験を積んだ者が少なかった。逆に、例えば若手であればよいという安易な選定がなされていた感が否めない)。

 6.選挙の敗北、政権崩壊等について中枢幹部が必ず責任をとり交代する(参院選、統一地方選と度重なる敗北にも幹事長・選対委員長は責任をとらずむしろ栄転した。鳩山・菅内閣崩壊後も主要閣僚がそのまま執行部や内閣に残り、責任をとらずそのままひどい政権運営・党運営がなされ、党が崩壊し内閣が暴走する原因となった)。

 7.秩序立った広報を行い、党の政策の実績を国民に理解してもらう(07年参議院選挙の4頁のマンガビラは大効果を上げたが、政権奪取後は、ろくな広報活動をせず、国民に政策の効果を理解してもらえなかった)。

 8.民主党に期待された政策を確実に実行する(民主党の政策が支持されなかったのではなく、09年マニフェストにない消費増税など違うことをして悦に入っていたことが敗北の原因。TPP交渉、原発再稼働、挙句の果てに集団的自衛権の行使まで言い出しては、民主党ではなくなってしまう。自民党に対抗する政策を期待されたのであり、原点に戻る必要がある。
 
以上については折に触れ、順次メルマガ・ブログでも明らかにし、党内にも訴えて実行し
ていきたいと思っている。
 しかし、大敗北には、やはり文字通り解党的出直しが必要である。戦国の世ならご乱心の果てに無謀な戦いをした殿様は、城主(代表)を誰かに譲ればすむ話ではない。民主党再生を国民にしかと受け止めてもらうには、解党的出直しが必要であり、その証として野田前首相の議員辞職と党名変更が不可欠である。
 私はもともとこの3年3ヶ月の総括をするする予定でレジメを作成していたことは前述のとおりであるが、とりあえず12年末の総選挙の総括を数回に分けてまとめてみることにする。
 そして最後に何故野田元首相が議員辞職すべき理由と党名変更の必要性について述べる。

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