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2013年8月23日

日米並行協議はやられっぱなしの譲歩の連続 -「やられたらやり返す、倍返しだ!」の気概の一かけらもなし― 13.08.23

 安倍首相は、民主党政権は外交力が拙いが、長年与党の自民党は外交能力があり、TPP交渉もうまくやると豪語していた。しかし、今の現実をみると全くの逆だとしか思えない。

<嘘宣伝は2月の日米共同声明から始める>
 既にブログで論じたので(「露呈した自民党の外交能力(13年3月12日))詳しくは触れないが、2月のやっと実現した訪米後のいかにも立派な成果をあげたという共同声明が皮切りである。朴槿惠大統領がアメリカに国賓として招かれて丁寧な対応をされたのに対して、1月訪米を断られ、やっと実現した訪米も昼食を挟んでたった1時間45分。日本側が懇請した内容の共同声明は、日米の解釈が違うのはいつものこと。オバマ版と安倍版があり、それぞれが都合よく国内向けのアピールをしている。その内容は、日本側がTPP交渉に参加する前に、日米二国間の懸案事項を譲りに譲らなければならないという、とんでもない屈辱的な内容だった。それにもかかわらず、日本の全五大紙が大成果と翼賛報道した。3月2日のロンドンエコノミストが誇大広告振りを正確に書いている。

<日本の金に目をつけたアメリカ金融業界>
 その後の交渉なり、日本側の対応は予想した以上のあまりの妥協の連続である。
 4月12日、かんぽ生命保険のがん保険参入など、新商品は当分認可しないと麻生副総理円財務・金融相が表明した。アメリカの引き続く圧力を受けてのものである。アメリカは、保険について互助組合とか協同組合を一切認めず、すべて民営化しなければならないという姿勢を崩していない。日本の郵政の300兆円、農協の100兆円を自分達の思いのままにしたいというとんでもない野望を持ち続けているからだ。

<アフラックのがん保険が郵便局で売られるという大妥協>
 そして、次は7月26日に発表された日本郵政とアメリカンファミリー生命保険(アフラック)の業務提携である。アメリカはずっと日本政府が全額出資する日本郵政下のかんぽ生命保険は公正な競争をしていないとして、日本郵政を攻撃し続けてきた。そのアメリカの強硬姿勢を和らげるためなのだろう、日本郵政はとんでもない妥協をしでかした。今まであれだけしつこく民業圧迫を批判してきた日本郵政に、2万もの郵便局でアフラックの保険を扱わせるというものだ。つまり、日本郵政の特権として攻撃してきたものを、自分にその特権を使わせろというのだ。しらじらしいにも程があり、つじつまが合わないこと極まれりである。たった1社のためにも露骨な要求をするアメリカ外交の典型である。

<やられっぱなしで倍返しできない日本>
 こんな妥協を繰り返す日本も日本だが、それをしゃあしゃあと受け入れ、それでもまだ民間企業との対等な競争条件という一見もっともらしい大義名分をまくしたて続けているアメリカの厚顔無恥ぶりに呆れて物が言えない。官邸や外務・経産両省の米側への交渉態度の軟化という淡い期待は無残にも打ち砕かれた。よくいうやられっぱなしである。この交渉には、高視聴率TV番組半沢直樹の「やられたらやり返す、倍返しだ」の気概のひとかけらもみられない。ここまでアメリカのご機嫌取りをしてTPP交渉で得るものがあるならいいが、後述のとおりその見通しはゼロに近い。
 自民党を分裂させ、最後は野党転落という高い代償を払って実現した郵政民営化だったが、その結果が、かんぽ生命や郵便局が自ら商品開発できず、アメリカの保険会社の単なる窓口になり下がるというのは、あまりに無惨である。これがフランスなら、まず政府がこんな譲歩は絶対にしない。よしんば政府が折れても、郵便局長も局員も抵抗のストを連発して、アメリカの保険商品を売ることはない。日本の大樹の会やJP労組は一体この信じ難い妥協にどう臨むのだろうか
 自動車貿易での安全基準や環境基準についても、一応は日本側がアメリカ側の勝手な要求を突っぱねてはいるが、今後はかんぽ生命に次ぐ妥協が繰り返されるに違いない。日米並行協議は史上空前の敗北となる経済交渉としか思えない。

<5品目の例外は全く協議されていない>
 それでは一体日本の主張の眼目である、例の「5品目」の例外の交渉はどうなっているのであろうか。こちらは、TPP交渉本体に任されており、日本は主張の場すら設けられていない。最近の情報では関税引き下げ交渉は11ヶ国の間では2日間で相当進められているものの、アメリカの砂糖やカナダの乳製品といった日本のコメ並みの際どい品目の扱いについては交渉が進んでいないという。
 日米並行協議とは名ばかりで、アメリカにとられるものはいいように取られ、日本のTPPから得ようとしているものは本交渉任せで、置いてきぼりをくっている片側交渉(?)である。もし並行協議というなら、日本の主張も事前の並行協議で交渉し、日本がかんぽ生命で譲ったから、例外5品目でアメリカが譲るというのが世界の交渉の常識である。それを日本は一方的に差し出しまくっているばかりである。こんな屈辱的外交が、本当に長年与党にいた政権党のすることだろうか。ダメの烙印を押された民主党の3年3カ月のほうが、まだアメリカに対して毅然とした態度を取っていた。

<秘密交渉を楯に交渉内容は全くわからず>
 4月に日米並行交渉で決めた自動車貿易での合意内容はTPP協定に盛り込まれ、両国間でのみ発動することが決められている。私にはそもそもこんな先行協議を他の加盟国が認めていること自体がおかしいと思うが、どうなっているのか不明である。
 こうしたあやふやな状態で、7月24・25日の2日間だけマレーシア・コタキナバルで日本が交渉に参加した。ここではじめて1000ページ以上という協定文を入手でき、ようやくスタート地点に立ったが、今の協定文の内容なり交渉状況は一切外には出てこない闇の中である。そして、今までまとまったことは、受け入れるだけで再交渉できないというのに喜んで参加しているのだ。
 アメリカの言いなりになる並行協議の一方で、日本は一体TPP交渉にどのように参加できるのだろうか。
 一方、政府は国民に情報を提供しということをいつも言っていたが、交渉が始まった途端秘密交渉だからといって何も語らない。国益に反するとんでも内容が知られては、後から鉄砲で撃たれかねず、交渉内容を逐一公表をできないことは一応理解するが、あまりにもひどい情報開示である。与党自民党でも、保利耕輔、尾辻秀久、細田博之等もののわかったベテラン議員があまりの独善的交渉に怒りを爆発させている。

<TPP特別委の設置で国会で審議が必要>
 このままいって、はい国会で承認してくれというのはあまりにひどすぎる。この点は、公明党の山口那津男代表はかねてから、TPP特別委員会の開催による国民への交渉内容の説明の必要性訴えていたし、谷垣禎一自民党代表も野田総理に党首討論で、TPP特別委の設置を迫っていた。当然のことなのだ。政権奪取した安倍自民党政権は、手のひらを反して特別委の設置を渋っている。公約の嘘に続いて、ここでも嘘つきがバレバレになっている。何もかも前代未聞の恥ずかしい交渉となっている。

<5品目は留保という日本提案はどこまで通用するか>
 8月中旬、日本農業新聞等一部のマスコミ報道によると(これが政府の途中経過説明でないのがいつもながら釈然としない)、日本は、来るブルネイ会合で貿易自由化率を85%とし、5品目については留保するという提案を行う予定という。日本が今まで結んできたFPA、FTAと同じ率である。アメリカその他の国は、95%以上の提案をし、日本にも同等の率を求めてくるに違いない。関税を下げたことのない940品目の中に、5品目に係る568品目があり、これらをすべて例外扱いするのは、そもそも認められていない。アメリカは9月にならないと関税引き下げの提案はしないという。日本側には年内妥結は無理との憶測もあったが、フロマン新USTR代表は、来年の中間選挙前の実績造りもあり、10月のAPEC会合で閣僚会合、その後12月に結着という目標に向け動いている。
 USTR代表のフロマンは、英米の3つの有名大学で学び、ホワイトハウスやシティグループの勤務を経て、ハーバード大ロースクールの同期生だったオバマ大統領に請われ国際経済担当の大統領次席補佐官を務めていた。80年代日米通商交渉のまっただ中でUSTR代表だったヤイターを彷彿させる剛腕の交渉相手である。日本はいいようにひねられてしまう恐れもある。

<最初で最後の関税交渉になるかもしれないブルネイ会合>
 8月22,23日、ブルネイで関係閣僚会議が開かれ、甘利担当相が参加する。その後、政府間交渉が開催される。7月は自民党議員団が4名コタキナバル入りしていたが、我が民主党は派遣していなかった。今回は、私が民主党経済連携PTの派遣という形でブルネイに出向くことになった。
 1990年12月、ウルグアイラウンドの予定された最終決着の閣僚会合がブリュッセルで開催され、私は農水省始まって以来の大型代表団のロジ(日程や食料(?)の調達等の総務)責任者として、ブリュッセル入りしていた。最後は決裂し、最終決着は1993年12月となったが、この1週間、完全徹夜が数日続き、私はなけなしの体重を更に3kg減らし、その回復に5年もかかっている。当時の与党自民党は農林8人衆(羽田孜、加藤紘一、鹿野道彦等)を派遣した。社民党は、村沢牧、山下八州夫の2人が同行していた。
 私はこれらの議員団への説明者・場所の決定等の裏方を務めていた。今回は逆の立場で行くことになった。交渉担当者に迷惑をかけないように配慮しつつ(?)、激励し、かつ安易な妥協をさせないように監視してくるつもりである。

2013年8月20日

限界集落→崩壊集落、限界市町村→崩壊市町村 -デトロイト破綻が教えるTPPの悪影響- 13.08.20

<私の最初の訪問地、限界集落>
 日本では、長野大学の大野教授が、集落の半分以上が65才以上となり集落として機能が果たせなくなった集落を「限界集落」と名付け、中山間地域や離島等僻地・過疎地の問題を提起した。私は国会議員になるとすぐ農林水産行政が原因の一つとなったことへの贖罪意識もあり、まず、山村の限界集落から支持者訪問を始めた。政治の助けを最も必要としている地域であり、私にできることを探すためであった。

<もっとひどい崩壊集落>
 栄村を訪問中、古老からお叱りを受けた。「どんな大教授かしらないが、限界集落なんて人をバカにした名前をつけやがって。だけど、篠原さん、この辺りは限界集落なんてもんじゃねえで。俺みたい年寄りばっかりで、もうどうしようもない崩壊集落だぜ」。怒りとも諦めともつかない言葉に、私はただ苦笑いをするしかなかった。そして、思わず何ということか涙がこみ上げてきた。最盛期7,500人あった人口が今や2,500人弱と3分の1以下に減ってしまった。大雪に地震、そして柏崎刈羽原発への不安、難問ばかりの地域である。

<丸太関税ゼロ(1951)、製材関税ゼロ(1964)で山村過疎化が広まる>
 民主党の経済連携PTで木材関係の関税ゼロが中山間地域の限界集落化の原因であることを指摘した。そして、その詳細を拙書「TPPはいらない!」(日本評論社)にまとめた。林業・山村の転落振りを概観すると次のようになる。
 1951年、GHQの掛け込み自由化(?)で丸太の関税はゼロとなった。政府は不燃建造物にするため公官庁はコンクリートにせよと奨励していた。5年後の1955年、生産量は4,279万㎥、輸入量は2,483㎥にすぎず、杉中丸太の価格は8,200円/㎥、木材の自給率は94.5%とほぼ自給していた。10年後の1965年、戦後の復興も進み、住宅需要が増大したものの、戦中に切り出し戦後慌てて植林した山は伐採期にはほど遠く、やむなく64年に輸入木材への外貨割当を廃止し製材も関税ゼロとなり、ほぼ自由化が完了した。生産量5,083㎥、輸入は4倍の2,016㎥に増えたが、自給率はまだ71.4%、杉中丸太価格も1万4,000円だった。

<脱兎のごとく押し寄せた関税ゼロの丸太・木材製品>
 その後、輸入量は一気に増え、80年には7,441万㎥と国内生産量3,456万㎥の2倍となった。しかし、好景気に支えられ新規住宅着工件数は伸び続け、杉中丸太価格は3万8,700円とはね上げ利、一時だけ山が賑わったかのように見えた。その後自給率は31.7%に低下した。

<卵よりも米よりもひどい丸太価格の下落>
 その後も外材の輸入は増え続けたが、21世紀になると景気の後退もあり住宅の新規着工件数も減ってきた。その間に杉中丸太価格も下がり続け、2010年には1万2,600円と1980年の3分の1以下で1960年の水準に戻ってしまった。自給率も26%に下がった。よく米1俵60kgと1ヶ月の給料と同じだったとか比較されるが、多分、何十年も前の価格と比較した場合、丸太価格が最も低いのでいないか、これで、林業はほとんどやっていけなくなった。
 関税ゼロの恐ろしさは、他に代替するものもなく、ただ、木材価格の値下がりを指を喰わえてみているしかなかった山村が最もよく知っている。

<日本で消える集落、アメリカで荒廃する都市>
 炭鉱が閉鎖され財政が破綻した夕張市の前に、日本の山村の集落は次々とひそかに息を引き取っていた。その数は1970年から2000年の間でも7,536に及び21世紀になってからは、廃村が更に加速化していると思われる。
 TPPに入り、農産物の関税がゼロになると、平地農村が崩壊し、地方の市町村が限界市町村となり、デトロイト化していくことは目に見えている。そしてひょっとすると都市こそ高齢化の波が一気に押しよせ、日本の中小都市のいたるところに限界団地が増えてくる可能性がある。
 日本の山々は手入れもされず放置され、収入の途を閉ざされた。山村は生計を立てられなくなり、若者が山を去り、子供の泣き声が聞こえないところばかりになった。今、日本全国に波及した少子高齢化は、中山間地域では何10年も前から始まっており、これが日本全体の将来の姿だと警鐘を発し続けた。しかし、高度経済成長に躍る都会側は耳を傾けようとしなかった。
 私は拙書で、農産物の関税をゼロにしたら、日本中の地方都市は限界市町村になってしまうと警鐘を鳴らした。しかし、同じく都会、そして経済ばかり目を向ける人たちには届いていない。

<今日のデトロイトは明日の日本の中小都市>
 こうした中、アメリカでは破綻市町村が生まれ、とうとうデトロイトもその仲間入りしてしまった。日本の夕張市と同じようであり限界市町村や崩壊市町村とも同じである。日本はアメリカと異なり地方交付税や自治体健全化法があるからそれはないという人もおろうが、近い将来、日本でもあちこちの地方の市町村がデトロイトと同じ目にあうことを示唆している。

<デトロイトは80年代の日米通商摩擦の象徴>
 デトロイトは、日本風に言えば、典型的企業城下町である。しかもアメリカの強さを象徴する自動車の町である。フォード(1930年)、GM(1908年)、クライスラー(1925年)のビッグスリーが次々にデトロイトで創業し、1950年代には全米で最も賃金が高くあこがれの的だった。ところが、1970年代以降、日本車に押され、安い賃金を求めて工場が米南部、カナダ、メキシコへと移転していった。1980年代後半、日米通商摩擦のまっただ中で、日本製乗用車をハンマーで叩き壊す映像が日本で何度も放映された。アメリカは、なにより自由競争を呪文のように唱える国である。その結果が2009年のGM、クライスラーの経営破綻である。政府のてこ入れによりやっと立ち直ったが、今度は市財政の破綻である。地方自治体にも大好きな市場原理の適用である。ネオ・リベリズム(新自由主義)の見事な成果なのだろうか。

<都市の荒廃は廃村より悲惨>
 人口は1950年代の180万人から4割以下の703万人に減少、失業率は18.6%、殺人事件数は人口10倍のニューヨーク市と同数、廃墟ビル、住宅が7万8,000棟、そして市のたまった負債総額は180億ドル(約1兆8,000億円)である。
 「盛者必衰の理をあらわす驕れる者久しからず」である。2008年にトヨタグループの自動車の販売台数で初の世界一になり、ビッグスリーを超えた。平家は源氏に滅ぼされたが、デトロイトは豊田に滅ぼされた。しかし、その豊田の盛者の期間も何10年で終わるであろう。工業都市の繁栄は100年と続かないことを示している。日本でも帝国データバンクによると100年続く企業は3%ないという。もういい加減にこのことに気づいていいはずである。

<グッヅマイレージは少なく>
 世界の国々は、その国の国民が必要とする物は、なるべく自国で造るのが自然なのだ。物の移動によるCO2の無駄な排出を抑えるためにもグッヅマイレージ(物の移動距離×トン数)は小さい方が環境に優しいし、アメリカも何よりも安定した生活が送れる。半世紀で人口が半分以下になったりする急激な変化は、人々を不幸にするだけである。
 自動車でいえば、アメリカを走る車はアメリカで造るのが一番効率がよく、日本から持っていくこともないし、日本車をわざわざアメリカで造る必要もない。みんなが仕事を分け合って生きればよいのだ。なぜこの単純なことができないのだろうか。
 つまり人、物、金を世界でグルグル回しにするのではなく、なるべく近くの地域間で循環するようにすべきなのだ。私はこのことを「農的小日本主義の勧め」(1985年柏書房1995創森社)と「農的循環社会への道」(創森社)で訴え続けている。それを最も端的に示すのが、食べ物でいえば「地産地消」、「旬産旬消」であり、実はこのことはエネルギーにも向けにもあてはまるのだ。

<地方の衰退を喰いとめる>
 日本は輸出産業にばかりに偏った国にしてはならない。要はバランスのとれた産業構造、社会構造をした国や地域が持続性に優れており、強い国・地域なのだ。賃金が安いからといって、あるいは市場があるからといって中国や東南アジアやインドへ工場など移してはならない。大都市ばかりを大きくしてはならず、地方も衰退させてはならない。多様性に富む国を政策で調整しなければならない。ただただ自由競争に任せていたら政府はいらないことになる。
 TPPは国境をなくし、アメリカのルールを世界のルールにして世界中に第2、第3のデトロイトを生むだけである。日本政府も日本国民をしっかり考えなければならない時を迎えている。

2013年8月18日

政界再編・野党統合は必須-ただし、今は動く時にあらず- 参議院選挙篠原報告その3-13.08.18-

<あってよかった民主中心の選挙協力>
 12年末の総選挙は自民党が圧勝し294議席を占めたが、得票数はそれほど増えておらず、野党が分裂したがために自民党が得しただけにすぎない。この厳然たる事実をわきまえれば、参議院選は野党第一党の民主党中心になって選挙協力すべきというのが自明の理だったが、その選挙協力の中心にそうならなかった。
最終段階で民主とみどりが3県(山形、島根、長崎)で連携しただけで、あとはバラバラという状況の下、2勝29敗という悲惨な結果となった。

<野党選挙協力のシミュレーション>
 私は12年末総選挙の各党の比例区の票で、野党が参議院選挙で一致結束したらどうなるか探ってみた。
 1人区が単純で一番よくわかりやすい。単なる数合わせだが面白いことが判った。
「自・公」対「民・維・み」の3党協力だと反自民13勝18敗、そこに生活が加わると20勝11敗、社民が加わると25勝6敗となる。07選挙が29の1人区で23勝6敗であったのと同じ構図になってくる。つまり、07年と今と、「自・公」対野党の得票差はほとんど変わっていないことになる。野党が07と同じく一丸となって戦う状態になれば、山口、鹿児島のように自民が圧倒的に強い6県は負けるが、他の県は大体勝てることを示している。
我々野党はこのことをしかと心に刻み込まなければいけない。

<ありえた民主とみどりの統合>
 民主から見ると、みどりの風は元々最も民主党らしい主張をしていて、いつでも一緒に戦えたはずである。例えば、維新とみんなが決裂した時に、民主とみどりが「より」を戻すということになれば、いつも分裂ばかりしている民主もやっと大人の政党になったかということで、大方の有権者の理解を得て、かなり風向きを変えられたのではないか。
 今回みどりの風も新党大地も比例区に数名の候補者を立てて戦ったが、それぞれ43万票と52万票しか集まらず、死に票となった。その挙句、選挙が終わったとたん「みどりの風の役割は終わった」というのでは困るのだ。

<唐突な野党統合は軽はずみで慌て過ぎ>
 細野幹事長は、東京で議席を取れなかったから責任をとって辞任すると言い出し、民主党の混乱の幕開けとなった。
更に、参院選前に野党間の選挙協力をほとんどせずにおいて、7月21日まだ投票箱が閉まらないうちに、「民・維・み」の3党幹事長が統合を話し合っていたことが判明した。順序やタイミングがズレている。
 その間に、細野幹事長の仲間が代表選をすべしと言い出し、その一方で他の野党との統合を画策し、自らがその新党の中心になろうとしていることが見えてきた。あまりにも見え透いた行動であり大方の理解は得られず、幹事長辞任となった。

<維新もみんなも分裂の兆し>
 みんなは、この3党幹事長会合を心よく思わない渡辺代表と江田幹事長の間で内紛が悪化し、とうとう江田が更送された。組織として当然のことである。報告を受けていないと怒る渡辺代表に対し、江田は「大したことはない、茶飲み話程度のことをいちいち報告する必要はない」と苦しい言い訳をしていたが、詭弁である。
 石原代表は 安倍政権とともに憲法改正に固執しているが、橋下はそこまで入れ込んでいない。また、石原はTPPに反対、橋下は推進と2人の政策の方向性が異なり、これらも波乱が待ち受けている。そこに安倍政権が、旗振り役で維新のブレーン堺屋太一を内閣参与に指名するという癖玉を打ち込んだ。野党協力に揺れる橋下に「自民に揺れろ」というサインである。

<政策の違いがありすぎる民と「維・み」>
維新は例の慰安婦発言で橋下代表の求心力は下がりっぱなしで、12年総選挙の54議席の勢いを失い、みんなと共産と同じ8議席しか得られなかった。安倍首相にすり寄ったかと思うと、今は野党再編と叫び始め、支離滅裂である。原発についても反対の姿勢からすぐ容認に変えるなど、全く一貫性のない主張ばかりが続く。橋下のポピュリズムの言動は今後も更に馬脚を表わしてくるだろう。
 「維・み」を第三極と呼ぶが、その保守的タカ派的主張からして自民党の別動隊であり、1.5極でしかない。フランスの極右政党ル・ペン派とよく似ており、民主党の連携相手ではない。渡辺代表の「政策が先」という姿勢は肯ける。民主党がただ単に数合わせなりムードで、全く政策の異なる「維・み」と手を組んでいくとなると、寄せ集まり再び分裂・離党を繰り返すだけになるのがオチである。民主党はその辛さを十分経験したはずである。

<細川・羽田政権と民主党政権の違いを認識すべし>
 細川・羽田非自民政権は8会派の統合による寄せ集め内閣だった。短命に終わり、中心だった新進党はすぐに解体してしまった。以後、羽田孜は政権交代できる健全野党を目指してきた。鳩山民主党政権は、はじめての選挙により政権交代した非自民政権となったが、12年もかかった。
 今、民主党を新進党並みに解体して野党再編をという声もあるが、この苦難の歴史をわきまえたら、曲がりなりにも一党で与党を経験した民主党を解体すべきでないことはよくわかってくる。政権奪取にも政権維持にも積木細工ではなく一党のほうが盤石であり、新進党もあのまま解体せずにいればもっと早く政権交代できたかもしれないのだ。

<アリ地獄では動かず民主党の活力アップに徹する>
 民主党は、今はあたふたせずに腰を据えて民主党自体の立て直しに全力を挙げ、野党統合は3年後の選挙を見据えてもっと先に考えるべきことである。今はドン底の底、いやアリ地獄の中にいるようなものであり、下手に動けばますます深みにはまる。他の弱小野党の山師の誘惑に乗ってはならず、7月21日の与野党幹事長会合なり、3党の若手会合とやらといった軽挙妄動は慎しまなければならない。
 
<自民党に対抗できるのは民主党しかないことをアピール>
もっといえば、民主党は自民党に対抗する政党として民主党しかありえないことを国民にアピールすることである。国民は自民党の国政選挙2連勝はあまりに勝たせすぎたとやっと気付き始めている。そして、自民党の暴走や維新・みんなの自民党への迎合に警戒感を抱き始めている。
自民党は議席数を増やして驕りが出てくると派閥抗争が激化するのが習性である。TPPの5品目の例外がとれなかったりすると党内が騒然となる可能性がなきにしもあらずである。今こそ民主党の踏ん張り所である。

2013年8月13日

民主党の低迷からの脱出の糸口-厳しい参院選結果から遠くに見えてくるもの-参議院選挙篠原報告その2 13.08.13

<三野党統合で都市政党としての再生は無理>
 民主党は、5人区の東京と4人区の大阪で議席を失い、辛うじて4人区の神奈川で1議席確保できただけ。3県の3人区では、愛知と千葉は1議席取れたものの、埼玉では失っている。つまり東京、神奈川、埼玉、千葉の首都圏15議席中、たった2議席しかなくなり、大阪はゼロ、愛知は1議席で、三大都市圏22議席中ただ3議席のみの7分の1政党に成り下がった。このような評価を受けた政党には、とても都市部での再生は無理であろう。
それでは、維新とみんなと一緒になればという答えはなくはない。しかし、維新は近畿の地域政党にすぎない。みんなも地方区で3議席を得られたとはいえ、行田邦子(元民主党みどりの風)と松沢成文(元知事)は、党よりも個人で得た議席であり、全国的な総合政党ではない。従って、仮に3党が政策の違いを乗り越えて統合したところで、都市部で急激に支持を拡大していくことは難しい。

<TPPで農村・地方こそ信用を失う>
 一方、民主党は地方農村地域では、農業者戸別所得補償により支持を拡げて行った。それが参院選で最高潮に達したのが、07年の参院選では29の1人区で23(民主18)勝6敗となり、それに引き続く09年の衆院選で、308議席と大勝した。民主党は、史上最も農村の意見を代弁できる政党だったともいえる。
 ところが、菅政権の唐突なTPP交渉参加表明、続く野田政権の関係閣僚(岡田、前原、枝野、玄葉)も含めた度重なる前のめり大合唱により、地方・農村が民主党に対して不安を募らせていった。そして極めつきは、12年末の民主党でマニフェスト原案の「TPP推進」で、地方・農村方に愛想をつかされ大量の議席を失った(13年2月8日「民主党幹部たちのTPP前のめり発言で農村部・地方の小選挙区はほぼ全滅」)。
 かくして、民主党は1区現象が過去のものとなっただけでなく、依然としてせっかく政権獲得のきっかけを与えてくれた農村地域でも完全に拒否され、更に今回の参院選では31の1人区で当選ゼロと総スカンを喰らってしまった。民主党の政策はほぼ完全に否定されたのであり、民主党政権への失望が続いている。

<平野の当選と舟山の善戦に見えてくる光明>
 12年末の総選挙、13年6月の都議選、そして7月の参院選が嫌・民主党の厳然たる事実を嫌というほど見せつけている。誰もあまり気にとめなかったようだが、12年9月の党員・サポーターによる代表選が34%の投票率にすぎなかったことが、今の結末を予測していたといえる(前2回とも60~70%だった)。つまり、民主党の支持者ですら、誰が代表になろうと同じと白けており、一般有権者は尚更民主党には冷やかになりつつあった。野田首相は信任されたと勘違いしたのか、自爆解散という大チョンボをしでかしてしまった。
 しかし、12年末総選挙のでは、よく指摘されるように、自民党の得票が増えたのではなく、野党側がバラけて1党だけ有利になっただけなのだ。また、参院選と同日に投開票され、自民党が推薦候補を擁立した5市長選で自民党が1勝4敗と惨敗している。参院選直後の世論調査では、安倍内閣や自民党の支持率が大幅に下がり(共同通信社:前回の68.0%から56.2%、JNN:前回71.5%から64.6%)、民主党の支持率はJNNでは5.2%から6.7%へと僅かながら上がっている。こうした事実は、国民は何も自民党を絶対的に支持しているわけではなく、民主党がだらしなさすぎているために、自民党が有利になっているだけなことを示している。これが我々にとってはせめてもの救いであり、要は民主党さえしっかり立ち直り信頼を回復すれば、非自民の受け皿に戻れる可能性が残っているのだ。
 平野と舟山の善戦が、その兆しなりヒントを暗示していることに気がつかねばならない。

<民主党という名を捨て、新しく生まれ変わったことを形で示す>
 それでは具体的にどうすればよいのか。
 一つは、民主党という名を捨てることである(13年2月15日「党名変更で国民に民主党の再生をアピール」)。つまり二人とも民主党ではないからこそ、有権者の支持を受けたのである。
 7月23日の常任幹事会で、参院選で公認を外された大河原雅子の応援をしたことを理由に、突然、菅直人元総理の除籍が提案された。私はこんなことは無視するか、せいぜい厳重注意ですませるべきものと思う。それをわざと事を荒立たせているのはいかにも拙劣である。党の規律というなら、常任幹事会の総意として中野寛成議長が解散をすべきでないと野田佳彦総理に伝えたのに、それを無視して解散し、57人しか当選できない大失策をやらかした野田元総理の罪のほうがはるかに大きい。これこそ除籍に相当する(13年2月22日「野田前首相の議員辞職から始まる民主党の解党的出直し」)。

<古い顔は再登場を控えるべし>
私は、すぐ代表を代えろとか、党員資格停止処分にしろという民主党のスタイルにはとてもついていけない。仲間は大切にしなくてはならない。しかし、この際にさんざん民主党をダメにした2人の元総理に責任をとって政界からお引き取り願うというなら、考えられなくもない。ついでに、昔の顔の典型の民主党崩壊6人組も奥に引っ込んでいてもらうのが、せめてもの罪滅ぼしになる。新しい顔が前面に出ることが民主党が思い切って出直す証しとなり、新生振りをアピールすることになるからだ。
ともかく、民主党が変わったことを「形」でも示す必要がある。

<民主党らしい政策を全面に打ち出す>
 二つには、民主党らしい政策を鮮明にすることである。
舟山康江は、反TPP・脱原発・反96条憲法改正という、最も民主党らしい政策をずっと主張し続けた。TPPをうやむやにし、原発の再稼動も仕方がないなどとフニャフニャした態度では誰も支持してくれない。その点では、自民党のいい加減な社会保障制度改革案を受け入れ難いとして、三党合意から離脱したのは、正しい判断である。
 民主党の1人区で 最も得票率の高かった松浦大悟も 舟山と全く同じ主張を明確にしていたのである。それに対し、2001年に平野とともに唯二の非自民への当選を勝ち得た高橋千秋が、岡田元副総理のお膝元にもかかわらず、かなりの差で落選した。その一因として、農協出身であるにも関わらず、TPPについて煮え切らない主張に終始してしまい農村部の支持を失ったことがあげられる。

<政治家として旗幟を鮮明にし、政党として団結>
 三つには、政治家として自分のスタイルを持ち、有権者にアピールすることである。論旨が明確な舟山の主張も質問も国民にすぐ伝わる。前述のとおり、反TPP、脱原発等の象徴的存在となり、安倍政権にとっては目の上のタンコブになっていた。平野の場合は、復興大臣ポストを無難にこなしている。国民はよくみているのである。民主党はもともと基礎票の少ない政党であり、浮動票(無党派層)が頼りなのだ。そうした中、民主党を再生するには平野や舟山のように党にかかわりなく、個人として人で投票してもらえる議員を多く造ることである。
 四つには、野党が分裂しないで一緒に戦うこと、つまり二大政党として自民党に対抗していくことである。
 今回、維新・みんなは1人区での擁立をほとんど諦めたが、反自民となり、民主に協力したわけでもないが。そうした中、山形では、民主も立てず舟山を推薦し一丸となって戦ったから善戦できたのである。他でも三重、山梨は、民・み・維統一候補であれば勝てていた。やはり野党票を分断させては自民の一人勝ちを許すだけである。

<民主党を中心に総合政党を再構築>
再生の途はそれほどむずかしい手法を要するわけではなく、政治や政治家の基本に忠実に行動することである。
 もっと具体的にいうならば、民主党を何とか建て直し、308議席(09総選挙)や62議席(07年参院選)で得た元同僚を、1日も早く国会に戻す道筋を立てることである。

2013年8月 5日

都市部でも農村部でも完全に拒否された民主党-参議院選挙篠原報告その1-13.08.05

マスコミ各紙は参院選について自民党の異様な勝ち方を一斉に報じていた。
 そうした中、私は民主党(正確には元民主党も含める)の負けっぷりと戦い振りを見ることにより、民主党の再生の糸口を探ってみることとする。

 よく言われるが、日本の有権者も賢こくて、1年以内に続いて行われた国政選挙で片方を2連勝させた例はない。今回は、その例外を作ってしまった。よく見なければならないのは、単に議席数の差だけではなくその負け方、つまり得票率・票差、自民党候補に対する惜敗率である。

<元民主党の無所属平野の当選>
 07年には29の1人区で、対自民党でみると23(民主18)勝6勝だったのが、今回は2(民主0)勝29敗という大敗である。非自民で勝ったのは岩手の無所属の平野達男と沖縄の糸数慶子のみ。平野はどういう判断で民主党を離党し、生活とは絶対に一緒にならないとまで言い切ったのか不明だが、結果は大成功である。
全国的に蔓延する嫌民主党の対象とはならず、民主党内閣での復興大臣の実績を強調し、落下傘候補の田中真一に8万1,869票(田中の惜敗率66.4%)もの大差をつけて圧勝した。当初競り合いと報じられたが、真っ赤な嘘で、相当差が開いており、後述のように自民党は後半は諦めて応援に入らなくなっていた。

<みどりの風 舟山の孤軍奮闘>
 次に善戦したのは山形の舟山康江で得票率44.6%、2万734票差(惜敗率92.4%)、に迫った。自民党は、岩手、山形、三重、沖縄を重点選挙区として、大物閣僚や人気者小泉進次郎等が鳴り物入りで応援に駆けつけた。私は急遽参院比例区に立候補した鹿野道彦事務所(山形)に長くいなければならず、自民党のてこ入れをつぶさに見ることになった。あまりの応援格差に驚き、原中勝征前日本医師会前会長と嘉田由起子滋賀県知事の応援の斡旋をしたりしたが、自民党の大物の応援にはとてもかなわなかった。
 途中、自民党は岩手と沖縄は大差がつけられていることがわかり、その分山形に相当入り込み、安倍首相は選挙最終日の20日にも山形入りした。多分相当追いまくられていたか、ひょっとして舟山がリードしていたのかもしれない。舟山は、巨大与党自民党を相手に弱小政党みどりの風で一人で戦ったのである。立派の一語に尽きる。
 農村部は農政連の推薦もあり盤石だったが、自民党の大物応援により都市部の浮動票がかなり14才若い大沼瑞穂に流れての惜敗である。

<1人区は勝負にならず>
 民主党でそこそこ勝負になったのは、高橋千秋(三重、得票率37.8%、5万5,799票差、惜敗率85.0%)、松浦大悟(秋田、39.0%、6万6,349票、74.7%)の二人だけで、他は二大政党の面影など全く見られない完敗である。民主党の1人区の得票率1位は注目を浴びた高橋ではなく、地道に反TPP、反原発、反96条先行改正という民主党的主張を続けた松浦だった。私も山形から応援に駆け付け、農協回りをして支持を訴えた。
 投票率が52.61%と低率に終わったが、激戦の山形は島根に次いで第2位の60.76%、三重も4位となっている。逆に民主が候補を立てなかった青森は全国最低の46.25%、その他無風選挙区も50%を切っている。有権者は正直で、きちんと戦っていれば投票所に足を向けるのだ。
 10年には敗れた1人区ですら、民主党候補の得票率30%を越えていたが、今回上記二人の他に30%超えは川上義博(鳥取)と大久保潔重(長崎)の二人だけ。自民候補との惜敗率が50%を超えたのは、上記二人の他は徳永久志(滋賀)と中谷智司(徳島)だけにすぎない。対自民党ということではほとんど相手にされなかった。

<2人区でもやっと当選>
 2人区以上をみるともっと惨めかもしれない。
 10の2人区では羽田雄一郎(長野、30.8%、7万527票、80.7%)と榛葉賀津也(静岡、30.0%、7万6,694票、72.2%)の二人が群を抜いてるが、他の5選挙区では自民とは大差をつけられ、第3極をやっと退けての薄氷の勝利にすぎない。2人区は2大政党制を反映して公認されただけで、当選できるゴールデンシートと羨らやましがられたのは、はるか昔のように思えてくる。
 そして宮城では岡崎トミ子がみんなに、京都では北神圭朗が共産に僅差(それぞれ5,102票、17,976票)で敗れ、兵庫では辻泰弘が維新に25万5,079票もの大差を付けられて敗れている。この他に、茨城、福岡も維新・みんなが当初どおり手を組んでいたら議席を失うところだった。

<3大都市圏で完全に拒否される>
 3つの3人区では、愛知の大塚耕平が惜敗率も70.2%と実力で当選したが、埼玉の山根隆治はみんなに移った元民主党の行田邦子に完敗した。野田佳彦前首相のお膝元の千葉は、長浜博行が当選したものの、自民の二人が1、2位を占め、その二人の合計票との惜敗率は36.3%にしか達せず、維新とみんなが手を組んでいたら10万票以上の大差で議席を失うところだった。
巷間、野田執行部の6人組とやらの地元では、民主党の信用を失墜させ、党そのものを崩壊させた戦犯に対する批判に溢れ、彼等が応援に立つほどに票が逃げたとも言われている。千葉をみるとまさにその通りの感がしてくる。
 4、5人区では、神奈川の牧山弘恵がやっと共産を抑えて議席を確保できたものの東京では鈴木寛と大河原雅子の直前の一本化を試みたが、失敗に終わり、議席を失った。大阪では、各党1人ずつ立てた中、4つ目の議席を共産に奪われ、やはり議席を失ってしまった。つまり、みんなを上回ったのみで、自民の3分の1以下、公明の2分の1以下の得票という目を覆わんばかりの惨敗である。大きくブレる大都市圏では、民主党を拒否する方向に大きく揺れてしまった。

<民主党の党名に強烈な拒否反応>
 最後に比例区は、07年の20議席から10年に16議席と大きく(得票率42.4%)減らし、今回は結党以来最少の7議席のみ。最盛期の09年の衆院選比例区2,894万票と比べると713万票と4分の1に減り、参議院比例区の最盛期の07年に2,326万票(得票率39.5%)と比べると3分の1に減り、公明党(757万票)の後塵を拝してしまった。僅か3~4年間での大減少である。余計なことかもしれないが、明日の維新、みんなの姿もこれと同じになるかもしれない。
ドント方式のなせるわざだが、当選者の最低得票数は一気に15万票以下にはね上がった。自民党は8万票弱、他党が3~4万票と比べると相当ハイレベルとなり、自民党の最低得票率を上回る者が6人、他党を上回る者が2名という結果となった。もともと党名を書く者が80%の近くの民主党が、党名を書きたくないと嫌われ、今回は党名が483万票と67.7%と減り、自民党の3分の1に減った。比例区票の大幅減が民主党の退潮を如実に表している。