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高社郷集団自決の悲劇を繰り返さないために ―終戦の事実を告げられなかったための悲劇(予算委報告その4)― 14.02.07

 私は、予算委員会で特定秘密保護法に関連し、国が国民に重大な秘密を知らせない罪の例として、1945年8月24日の高社郷の集団自決事件を取り上げた。関係者の皆さんの涙声での電話等もあり、多くの反響が寄せられたので、非力でありうまく伝えられるかどうかわからないが、ここに悲劇の一端を時系列で簡単に紹介しておく。
(書き出したところ長くなってしまったが、そのまま一気にお送りする)

<理想の満州国建設>
 36年広田弘毅内閣は、20年間に500万人を満州に移住させ、人口の10%を日本人にする「満州開拓移民推進計画」を決議した。農家の次・三男対策、農村の過剰人口の解消につながるので、補助金をつけて奨励した。満州人を農地を強制的に安く買上げたりして、移民用地も2000万ha(今の日本の農地面積の4倍強)を用意した。増加する日本人を食べさせるための食料生産基地の建設を夢見ていたのである。『王道楽土』『五族共和』等のスローガンを掲げる国家的大プロジェクトとなった。

<長野県の開拓農民にはソ連国境に近い最北の地区割り当て>
 狭い中山間地域の3反百姓が多い長野県はいち早く国策に従って、約30万人のうち3万3744人(12.5%)と、2位山形県(1万3252人、6.0%)の倍以上も送り込んだ。以下、宮城、熊本、福島、岐阜、新潟と貧しい農業県が続く。15歳から18歳の少年が中心の青少年義勇軍も約10万人送り込まれたが、やはり、長野県が6595人(6.5%)と1位であり、波田小学校は卒業生の半分が出向いている。
 日本国政府は長野の山間地の農民が寒冷地にも慣れていることから、ソ連国境に近い最北の地に開拓地を設定した。開拓農民は農業研修に加えて軍事的訓練も受けており、ソ連に対する「開拓農民の防波堤」が造られたといってよい。いってみれば満州開拓武装移民であり、農民を治安維持に当たらせる屯田移民政策であった。その証拠に、開拓農民は、銃も供与され武装されていたのだ。皮肉なことに、この銃が後に自決の道具ともなった。
 一方、勤勉まじめな長野の開拓農民はそんな政府の意向は知らず、喜び勇んで開拓と農業生産に全力をあげていた。

<北信からも続々入植>
 大日向村は村の半分が満州へ渡った。しかし、皆が諸手を挙げて賛同したわけではない。38年末、木島平村の佐藤福治村長は、「良い宣伝にだけ乗ってはいけない」と熱気を冷ましている。それでも39年5月木島平村からも皮切りに13人が渡満した。9月、桜井万治郎(元平野小学校長)団長以下3人の幹部が茨城県内原の幹部訓練所で研修を受けて渡満した。国の方針で、地縁を重視した出身地別の開拓団が編成され、宝清県万金山に高社郷開拓団が落ち着いた(下高井郡の高井富士と呼ばれる「高社山」から命名)。その後、続々と満蒙開拓が進められ、その中に後述の高山すみ子一家もいた。
 41年9月、桜井団長が結核に罹っていることが判明した。当時は労咳と呼ばれ、死に至る病と恐れられていた。桜井団長は、地べたに頭をすりつけて置いてくれとお願いしたが、石を投げつけられて追い出され無念の帰国となった。自分が団長で残っていれば、あんな自決(後述)は防げたと悔やみつつ、92歳の天寿を全うしている。(なお、桜井団長は私の祖母の兄、つまり大伯父である。)

<日本人が開墾してやったという間違い>
 中国人(満州人)が能力不足で耕せないでいる未開の大地を、技術力・能力に優れた日本人が代わりに開墾し、理想の国・満州国を建設するというスローガンが掲げられていた。そして、実情を知らない者は、今でも日本の開拓農民が開墾してやったと愚かなことを言っている。中国でも韓国でも日本の残した産業インフラを基に両国が発展したというのと同じ類であり、無粋な考えである。農地を奪われ、植民地支配に屈した隣国に対して失礼である。

<戦前の満州国は日本の希望の星>
 当時、日本は満州に着々と進出しつつあり、今から見れば明らかに膨張路線を暴走中だった。軍閥の一人張作霖が日本に距離を置き始めると、28年張作霖の載る列車を爆破し殺害。31年、板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐両名の策謀により満州事変(柳条溝事件)が勃発、軍部と関東軍が政府の中枢を揺さぶり、関東軍の専行・専横が更に進んだ。32年清朝の廃帝愛新覚羅溥儀を執政にして満州国を建国した。リットン調査団は独立国と認めず、33年松岡洋右全権が大演説して国際連盟を脱退している。37年には、盧溝橋事件を契機に日中戦争へと進み、日本は満州を完全な属国とし、投資を拡大していった。その一環として、前述の満蒙開拓が国策として進められた。
 日本は、今で言えば北朝鮮と同じような孤立国となったのである。そして、今の北朝鮮人民が気付かないように、信州の山の中の村は何も知らされていない。満州の理想国の建設にいち早く協力体制をしいたのである。その後、40年遠い欧州の独伊と三国同盟、更に41年には日ソ中立条約を結び、ついに41年12月8日、真珠湾攻撃し、第2次世界大戦へと突入していった。

 余談をちょっと挟めば、世界的指揮者で35年に生まれた小沢征爾の名は関東軍のトップの板垣征四郎と石原完爾の名から一字ずつとってつけられている。当時は、関東軍・満州こそ日本の躍進の象徴だったのである。夢の満州国は頓挫したが、小沢は武力ではなく、音楽で世界に飛び出し、父親の命名に応えたことになる。

<農民はすぐわかった侵略の事実>
 満州には、今の原発安全神話と同じく、日本の連戦連勝しか伝えられていなかった。しかし、こうした浮ついた動きと比べ、文字通り地に足が着いた農民の目は確かである。安倍首相は侵略かどうかは歴史学者が決めることだと言っているが、農地に関する限り、侵略は明らかである。
 関東軍か満州国官僚が列車の中で某団長に、開拓農民に外を見せないために幌を下ろせと命じたという。茶目っ気があり好奇心旺盛なその団長は、皆には厳格な指示を出し、本人はちゃっかり幌の外を見たところ、裸足の農民が線路脇を歩いていた。そして、やっと着いた開拓地には耕した畝の跡があった。近くに住んだ小屋もあった。
 自ら耕す農地に愛情を注ぐ農民だからこそ、その農地を奪われた農民の気持ちが痛いほどよくわかる。先刻列車から見た裸足の満州人は、自らの土地を追われた哀れな農民だったのだ。これは大変なことをしてしまった、こんなことは長続きするはずがないとすぐ覚った桜井万治郎も、すぐさま何とかして早く帰国する方策を考え出したという。ところが、運命とは皮肉である。前述のとおり本人だけが途中帰国し、数少ない生き残りとなった。

<長野県日中友好協会の活動が盛んな理由>
 自分の農地を奪った憎き日本人であるにもかかわらず、中国人は気を失って2日間眠っていた高山すみ子を助けてくれた。生き残った幼子を我が子として育ててくれた。逃げそびれた婦女子を妻として迎え入れてくれた。その上、方正(ほうまさ)県には、日本人の墓地も建ててくれた。かくして長野県の多くの開拓農民は中国人にはすまないという気持ちを持ち続け、感謝の念を抱き続けている。それ故、日中友好協会(井出正一会長)の活動は全国一、二を誇る。それを知る中国は、北京オリンピックの聖火リレーを友好県の長野県で行った。

<根こそぎ動員で男手は開拓地でも召集され、残るは老人と婦女子のみ>
 戦況が大本営発表とは裏腹に大変な状況になっていることは、最末端、最前線の中ソ国境だからこそ余計に感じられた。重要な男手(働き手)が次々と召集され、現地には老人と婦女子ばかりになりつつあったからだ。正確にいうと、いつものとおり、最果ての地にこそしわ寄せがいっていたのかもしれない。
 関東軍は、45年に3万人「根こそぎ動員」を行い、数の上では78万人の大部隊となっていたが、かつての力はもう残っていなかった。
 高山家には長男と長女が生まれ順風満帆にみえたのも束の間、夫は召集されていた。

<予測されていたソ連参戦、いち早く逃げた関東軍と高級官僚>
 そして、魔の8月9日、日ソ中立条約を破ってソ連が突然参戦してきた。後講釈でいえば、43年のヤルタ協定以降、更には48年5月のドイツの敗北後は、ソ連軍の極東への移動が活発になっていて、満州でのソ連の参戦は時間の問題だった。梅津美治郎関東軍参謀総長は、6月4日には、北部の満州地域を放棄して、防衛線を大連 - 新京 - 図們の三角線まで南下させ、持久戦に持ち込む作戦を指示している。諜報戦が繰り広げられ秘密厳守を徹底していた満州では、こうした軍事秘密は開拓農民になど全く知らされない。何と8月8日に現地に入植した一団もいた。まさに悲劇である。一方、ソ連参戦を察知した一部の高級官僚や軍幹部は、トラックや車を徴用し、列車も確保して早々と逃げのびている。

<ソ連が参戦で暗転した高社郷>
 しかし、開拓農民の間では、ソ連は絶対参戦してこないということになっていた。高社郷を管轄する宝清の西山393部隊より電話で避難の指示があった。団の中で真剣な議論が行われた。「軍と協力して団を死守しよう」「満州に骨を埋める」「最悪の事態には婦女子を処置する」いろいろな意見が出され、青酸カリや剃刀も用意された。8月11日豪雨の中、逃避行が始まった。頼りにしていた部隊地に行くも、「無敵関東軍」は雲散霧消、もぬけの殻で、いち早く安全な地に逃げ去っていた。守ってくれるはずの関東軍は職務放棄してしまったのである。移動手段もなく、徒歩で避難するしかなかった。開拓農民等残留邦人は、関東軍の命により国境警備軍を結成し、軍人でないのにソ連とも対峙したのである。
 8月12日朝、古幡副団長は、妻と20歳を超えた息子2人を殺し、最悪の事態への対処を身を持って示した。トップとしての壮絶な覚悟を示したのである。黙って逃げ去った軍人・官僚と比べその健気さに涙が溢れ出る。壮絶である。私が推察するに、これが24日の集団自決の引き金になったのではないか。

<山崎豊子と宮尾登美子の伝える満蒙からの逃避行>
 これ以下の逃避行の惨状は私はこのメルマガ・ブログに書くのを憚る。私のこの記述の大半は、『ノノさんになるんだよ―満蒙開拓集落の底から―』(高山すみ子)によっているが、一般的には、『大地の子』(山崎豊子)が詳細に記している。
 1984年、胡耀邦総書記の許可を得て、主として南信濃郷をモデルに綿密な取材を重ね書き上げている。取材中に涙を流したのははじめてだと述懐している。それだけ酷い話が多かったのだろう。ソ連国境に近い開拓村に住む、国民学校1年生の主人公松本勝男(陸一心)の物語は、ソ連の侵攻から始まっている。他に宮尾登美子も自らの体験を『朱夏』に残している。ただ後者はあまりに悲惨なためか、宮尾作品としては珍しく映画化・ドラマ化されていない。宮尾も一番書くのが嫌だったと述べている。

<終戦の事実なら伝わらない不思議>
 15日、終戦。17日、中村中隊から避難先等の指示があったのに、まだ終戦の事実が告げられていない。ひょっとすると、ごく一部の団長レベルには伝わっていたのかもしれないが、少なくとも一般農民には知らされていない。
 これこそ今風に言うなら、特定秘密とされており、「由らしむべし知らしむべからず」が徹底されていたのである。特定秘密保護法を貫く考えも同じであり、私は背筋が寒くなる。国会では特定秘密で一番多いのは航空写真などと、人を馬鹿にした答弁が続くが、このままいくといずれ再び同じ間違いが繰り返されるに違いない。
 19日、終焉の地となる佐渡開拓団部落に着く。何度も血路を開こうとするが失敗し、23日再び戻る。長野県関係4団のほか、新潟県の清和開拓団他3000~5000近い難民が終結していた。しかし、守るべき関東軍はいない。この事態を山崎豊子は「棄民」と表現した。国から見捨てられたのであり、まさに的確な表現である。
 23日不時着したソ連軍偵察機を一部の団員が焼いてしまう。これは『大地の子』の有名なシーンともなっている。これも、終戦事実を知っていたら起こりえないことだった。ソ連からすれば、無条件降伏したのに何をするのかと怒り心頭に発したであろう。

<集団自決への途>
 どう対応するかは、各開拓団に任されることになる。各団とも意見が分かれた。ここで、高社郷の600人余は、他の団と異なる行動をとる。ソ連軍の報復攻撃を予測し、脱出不可能とみて、全員で自決を決定した。古幡副団長は「生きて辱めを受けるよりは、死して護国の礎になろう。体力のある者、夫とともにある者は、今夜脱出を計られたい」と訓示した。残った年老いた一人の父は、若い息子に逃げてこの悲惨な様を必ず後世の人たち、本国の人たちに伝えよと言い残し、見送った。体力に自信のある30数名が脱出し、何人かは生き残った。そして、この惨劇の一部が我々に伝えられることになった。

<「ノノさんになるんだよ」と銃を向けた母>
 高社郷の団員は24日夜から25日未明にかけて、大きな建物の中に大火葬場を自らの手で造り上げ、大人はお互いに殺し合い、子供には言ってきかせて銃を向けた。中には、死を覚り逃げる子供もいたが、大半は親のいう事に従い、514人が自決して果てた。母親や幼児には薄く口紅が塗られていた。この時に不安げな幼子に言った高山の言葉が「ノノさん(仏さん)になるんだよ」である。高山すみ子本人は自決を前に襲撃を受け、2日間意識不明の後、中国人に助けられた。

<死ぬも地獄、残るも地獄>
 高社郷の自決を機に他の団も解散し、脱出する者と残る者に分かれた。26日、日本人女性目当てのソ連軍のトラック3台(30人余)が来たので、必死に抵抗、20人余を殺害、それに対して怒ったソ連軍が、翌々日1200人の大部隊で報復攻撃。残ったほとんども壮絶な最後を遂げる。
 この佐渡開拓団の一連の出来事は満州最大の悲劇と言われている。他に記録が残っているのは、新潟の清和開拓団883名のうち、654名がここで死亡したことである。生き残った者の多くも難民収容所で死亡。46年に日本の土を踏めたのは、わずか50名だった。そのうち半分近く病死した。この引き揚げ者は後に北海道下川町に入植している。

<中国残留孤児と残留邦人>
 中国人が助けてくれたわずかに生き残った婦女子十数名は、中国人に拾われ養育された。これが中国残留孤児である。当然だが残留孤児も残留婦人も長野県関係者が一番多いと思われる。(中国帰国者の都道府県別定住状況をみると、職のある東京、大阪、神奈川についで、420人1319世帯員が長野県に住みついている。次いで、埼玉、愛知と続き、田舎の件で200人を超える県はない。)
 約30万人といわれる開拓農民のうち生きて日本に帰ったのは、約11万人にすぎなかった。日本軍兵士のシベリア抑留は60万人で、過酷な強制労働で約6万人が命を落としたが、それでも9割以上生き残っている。開拓農民のほうは、6割近い約18万人も死亡している。1番悲惨な目に遇ったのは、やはり最北の地の開拓農民である。生き延びた者も、逃げまどう中9月になりやっと終戦を知った。

<夫は以後一度もノノさんになった子供には触れず>
 高山すみ子は、私が時折家を訪ねると、終戦を知っていたら絶対自決をしなかったと悔やむ。私は『ノノさんになるんだよ』を読むたび、涙を禁じ得ない。幸い夫庄司は4年後の45年9月シベリア抑留から無事帰国した。上陸後もらったキャラメルを1つも食べず、2人の子供にやろうと木島平村に持ち帰った。告げるのも辛いノノさんになった話をすると、夫は「そうか」と一言答えただけで、以後死ぬまでこのことには一度も触れなかったという。何という思いやりのある夫婦愛であろうか。筆舌を尽くしがたい修羅場をくぐり抜けてきた二人だからこそ通じ合えるのだろう。私が一番涙するのはこの場面である。

<非戦国民を救うという常識の欠如した戦前の日本>
 戦争という何でもありの世界にも一定のルールがある。今誰もが知っているのは、非戦闘員を攻撃してはならないことである。アフガニスタンやパキスタンで無人爆撃機が民間人を誤射して問題視されている。私の知識は十分ではないが、他にも欧米先進国では、敗戦の覚悟をした国家や軍が行うことは、非戦国民の安全を図ることであるという。
 もちろん、ヒトラーのようにかつて熱狂的に支持したドイツ国民がそっぽを向いたことから、自国民さえ全く助けようとしなかった者もいるが、後任のカール・デニッツは、ソ連軍に包囲され孤立をした、現在のカーニングラードの200万人の同胞を、海軍船艇を総動員して救出している(ハンニバル作戦として知られる)。それを我が日本国や軍はしなかった。というよりも、最後までソ連参戦の情報も伝えず、終戦の予定すら秘密にして平然と放置していたのである。国民を救うという発想がなかったのだろう。それを今、アルジェリアの人質事件を盾に、民間人を救出する情報収集のため国家安全保障会議が必要だ、というまでに急成長(?)した。本当なのかと疑ってかかる者が多いのは当然である。
 軍人のシベリア抑留には補償が出、抑留中に死亡した軍人は靖国神社に祭られても、何も知らずに自決した名もなき開拓農民は何も報われず、忘れ去られていく。あまりに哀れであり、不公平である。

<大津敏男と山本慈昭の功績>
 ただ、特筆すべきトップもいた。大津敏男樺太庁長官である。8月9日のソ連の対日参戦で戦いが起ると、8月24日の豊原市(現ユジノサハリンスク)が占領されるまで、樺太住民の内地への疎開に尽力した。このため、残留孤児の問題等は発生しなかった。満州国官僚や関東軍にもう一人の大津敏男がいたら、開拓農民がこんなひどい最期を迎えずにすんだはずである。ただ、日本が強制的に連行して韓国人は置いてけぼりにされ、ソ連との国交がないままずっと放置され、帰国の機会を失っている(「滞在者が大半の国の悲劇」サハリン報告その4 (2006年9月20日)。
 もう一人この関係で感謝すべき者に、残留孤児の帰国に生涯を捧げられた山本慈昭がいる。周恩来首相に手紙が届き、1980年になってやっと訪中が実現した。彼の働きがなければ、この動きの本格化はもっと遅くなったに違いない。
 なお、山崎豊子は、これらの残留孤児を泣きながら取材したという。そして敗戦で置き去りにされたのであり、自民の意見でなったのではないからといって「戦争孤児」としか呼ばなかった。日本人とも知らず、あるいは知らされても、小日本鬼子(シアリーペンクイツ)日本帝国主義の子といじめられ、牛馬の如くこき使われている戦争孤児の上に、日本の繁栄は成り立っていると記している。

<靖国神社参拝の問題点>
 安倍首相は靖国神社に参拝してどこが悪いと言う。
 しかし、満州三大悲劇の一つといわれる高社郷集団自決という酷いことをさせた責任者は裁かれて当然ではないか。東京裁判が戦勝国の裁判でけしからんというなら、なぜ日本国で責任者を罰しないか。この件でいえば、私は少なくとも開拓農民に8月16日にも終戦を告げるなと命じた者は重罪にすべきだと思われる。少なくとも重大な決定をして多くの人の命を奪った責任者はご遠慮いただいてもよいのではないか。
 昭和天皇は、その点を十分に承知され、A級戦犯を合祀した1978年以降絶対に参拝されなくなったに違いない。参拝者は昭和天皇のお気持ちに背いていることにならないかと問いたい。

<靖国神社に祭られるべき者と資格のない者>
 私の父方の大伯父の一人も靖国神社に祭られている。九段宿舎から朝のバスで靖国神社の前を通過する際は手を合わせた。まどろんでいて忘れた時はどうも気が引けていた。私は、一兵卒の大伯父もその他の兵士も、開拓農民と同じく国策で駆り出され尊い命を投げ出したのであり、祭られて当然だと思う。そして日本国民や子孫がお詣りして当然である。ただ、もしも開拓農民約30万人のうち6割近くの18万人が命を落とす重大な判断ミスをした指導者が一緒に祭られるとしたら、私は釈然としない。やめてくれと叫びたくなる。
 何も知らずに極寒の地に行かされ、お国のために自決した人たちはあまりに哀れである。高社郷集団自決事件を知る者も少なくなり、慰霊祭も年々参加者が減り、13年にはごく少数の有志で行われただけである。なぜなら家族全員で自決したのであり、直系の子孫はいないからだ。ごくわずかの生き残りの縁者も年々亡くなっていく。こうしていずれ誰からも忘れられていく。
 もしもA級戦犯が靖国神社に祭られるとしたら、何も知らずに軍人と同等以上に国を想い、満州の地で自決という形で果てた無辜の民こそ祭られる資格があるといわねばならない。

<国家に秘密を独占させてはならず>
 私の予算委のTV中継視聴者のごく一部は、特定秘密保護法に結び付けるのはこじつけであると指摘してきた。そう思われるのならそれでいい。しかし、国家は情報をコントロールし、都合のいいことだけを流し、必要な情報は隠匿する。満州では、事実上述の板垣・石原コンビが自ら柳条溝を爆破しておきながら、張学良のしわざと見せかけたのを皮切りに、熾烈な諜報戦が繰り広げられた。その過程で関東軍は、情報操作つまり軍事秘密の保護と漏洩に対する厳罰という姿勢を強化していた。私はこの延長線上に、満蒙開拓団に対する冷酷な仕打ちがあったと思っている。

<長野県の良識に安堵>
 私は安堵している。こうした辛酸を舐めた長野県民は、国家の犯す過ちのこわさが記憶に残っていたのであろう。東京新聞によると、特定秘密保護法成立後に廃止・撤廃・凍結等の意見書を提出した全国45市町村のうち28市町村が長野県である(そのうち8市町村が私の選挙区であり、この意見書を提出しなかったのは、恥ずかしながら私の地元中の地元中野市だけである。須坂市は成立前に参議院や総理に提出している)。
 もちろん、民主党の比較的強い長野県とて、市町村議会は大半が保守系議員で占められている。そうした中、少なくとも見識ある市町村議会議員は、党派を超えて、ほぼ私と同じ危惧を抱いたのである。長野県では歴史は葬り去られていないのだ。
 今、我々は二度と同じ過ちを繰り返さないために悪法は葬り去らねばならない。