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2014年2月27日

予算委員会質問資料について 予算委員会報告6 -14.02.27-

 平素は、篠原孝をご支援いただきありがとうございます。
本日(2月27日)予算委員会終了後、多くの方より質問に使った資料へのお問い合わせをいただきました。篠原の質疑にご関心をお持ちいただきましたことに改めて感謝申し上げます。
 衆議院予算委員会に提出した資料を、PDFデータにて当ブログに掲載いたします。
下記のリンクよりダウンロードください。
 これからも引き続きご支援のほどよろしくお願いいたします。

しのはら孝事務所

篠原孝資料
14.02.27 予算委員会資料前半

予算委員会資料後半(再修正版)
<修正箇所>
『極東の「イスラエル化」する日本』:<誤>NPO→<正>NPT
『公共放送の執行機関・監督機関比較』:<誤>浜田謙一郎→<正>浜田健一郎、<誤>百田直樹→<正>百田尚樹、ドイツの公共放送構成員数に”人”を追加。

パネルデータ(一部カラー)も民主党ホームページ ニュースに掲載いたしております。
予算委員会パネル資料

2014年2月18日

「TPP:決裂して中断か、ごまかしだらけの大筋合意か」予算委員会報告5(兼TPP交渉の行方シリーズ15) -14.02.18-

 2月15日、舌癌の手術を終えていれば病み上がりの甘利TPP担当大臣が訪米した。2月22~25日にかけて行われるTPP閣僚会議(シンガポール)に備えて最後の詰めを行うためである。私からみると、フロマンUSTR代表から呼びつけられた感がないでもない。押されっぱなしのTPP交渉を象徴するようなことといえる。
 会談後、日本の農産物関税の撤廃について「両国の立場の隔たりを狭めることの重要性について」合意したと発表。アメリカの関心の高い日本側の自動車市場開放については「いまだに立場の隔たりが残されている」と強調。何のことはない。さして進展が見られなかったのだ。

<12月会合は意図的に決裂させたアメリカ>
 前号のブログ・メルマガにも書いたが、アメリカが12月会合で本当にまとめる気があったらまとめられたはずだ。つまり、強硬な主張にこだわり続けるアメリカが譲歩すればまとまったのである。ところが、少しもそうした素振りは見せず、相変わらず原理・原則ばかり述べていたという。例えば、関税ゼロの例外は絶対に認められない。つまり米の関税も即座にゼロ、というとんでもない主張を続けたのである。安倍首相の13年2月22日の大手柄(?)の日米共同声明が全く嘘だったということである。

<高飛車な安倍首相発言>
 こんな状況だから、予算委でも記者会見でも安倍首相がTPPに触れることはほとんどない。安倍首相はどうも調子のいいことは長く喋っても、まずいことについては触れたがらない。決してすみません、見込み違いだった、といったお詫びをしないのだ。もともと背が低い上に、さらに腰を低くして、文字通り平身低頭だった竹下元首相と大違いである。竹下元首相は「国会議員は言語明瞭・意味不明瞭」などと少々不謹慎なことを言っておられたが、答弁は丁寧そのものだった。
 それに対し、安倍首相は言い返すことに快感を覚えておられるのではないかと思いたくなるぐらい、反論に力を入れている。一強多弱という国会の中で大人げないといわざるをえない。野党のいい意見・指摘には敬意を表し、少々おかしな質問にも丁寧に答える余裕があってよいのに逆である。得意分野(憲法改正)については、質問に答えず自論を延々と述べ、そこに自慢話と民主党(政権)へのあげつらい発言が加わる。あまりいただけないやり方である。

<リード民主党院内総務のTPA反対宣言>
 アメリカでは大きな動きがあった。
昨秋、議員が、大手600社に交渉の情報を流して相談する一方、議員に何も知らせないという、あまりのTPPの秘密性に怒り、150人を超える議員が、大統領に抗議の書簡を送りつけた。TPPに反対するにしろ賛成するにしろ、内容もわからないのに決められるかという当然の怒りである。こんなことではTPA(Trade Promotion Authority、貿易促進権限法)は通せないという通告もあった。
 私が、予算委で甘利TPP担当相にこの件を質問すると、「日本でいうと石破幹事長が法案に反対するようなことになっている」と、リード民主党院内総務のTPA反対を嘆いた(いつも私が主張しているとおり、二大政党制が確立したアメリカには、党議拘束が無い)。

<業界は安易な妥協を許さず>
 もう一方では、TPPを強力に推し進めたい業界も不満を言いはじめた。オバマ大統領が今年11月の中間選挙に向けて、TPPを目玉にしていることから安易な妥協をしかねないと不安になり、下手な妥協はしてはならないと釘を指したのである。
 私が行ったブルネイでは、医薬品業界がstakeholder会合に出席していた。それに対し日本は経団連等経済的団体だけで個別の業界は来ていなかった。彼らは必死で医薬品の知的財産権を保護し、高く売りつけようとしている。農業団体も関税ゼロの例外など絶対に認められないとネジを巻いている。
 かくして、オバマ大統領のためには、つまり中間選挙で民主党が勝つためには早期合意が必要だが、業界団体は譲歩を許さない。また、議会はどっちにしてもTPPと批准してくれそうもないという三重苦になり、フロマンUSTR代表は身動きがとれなくなってしまったのだ。

<来日したアメリカの議員の本音>
 1月早々、日米韓議員交渉会議が2日間にわたって開かれた。英語で議論するちょっと変わった会合であり、私は日本で開かれる時は時々出席してきた。今回もいろいろ別の仕事があり、出たり入ったりだったが、意見交換のよい機会なので出席した。
 民主党2人、共和党2人の議員が参加していた。TPPについては、もうアメリカで議論できず、中断の可能性大、再開するにしても中間選挙後の15年1月以降ということで、意見・見通しが一致していた。
 私が、12年4月に桜井充、吉良州司両氏と米加両国に出張し、選挙区のシアトルまで出かけていって意見交換したジム・マクドーモット氏(民主党)は、「農村漁業関係者は賛成、それに対しボーイングの労働者は、外国から部品が調達されるようになり、仕事が失われると大反対、従って議員は選挙を控え動けなくなる」と述べた。このことは全ての議員にもあてはまり、USTRはもう動けなくなっていると付け加えた。

<有権者には売りにならないTPP>
 日本でも安倍政権は、TPPを第3の矢の目玉と位置づけているが、そんなことにはならないと思う。何より即効性はないし、経済にどのような影響を与えるか定かでない。経済界、特に輸出業界は円安が相当有利に働き、TPPなどなくとも業績が上向き、トヨタに至っては史上最高の収益をあげているのである。
 それはアメリカでも同じだ。ただ一つ、TPPにより輸出倍増で200万人の雇用を創出するというのが国民への売りだが、AFL-CIO(アメリカ労働総同盟・産業別組合会議)からは逆だと大反対されている。アメリカでもTPPは、一部の企業のためでしかないとみられており、広く国民の支持はない。

<フロマンUSTR代表の悪だくみ>
 1月31日の予算委では、私は岸田外相に見通しを質したが、あまりパッとした返答がなかったので、以下の2つの見通しを述べた。
 まず、第一の可能性は、交渉馴れしたアメリカは、今や交渉決裂を画策し始めたのではないか、と私は疑っている。しかし、これだけ力を入れ、自ら強引にリードしてきて、今の段階で放り投げてはあまりにも無責任である。そこで、日本を犯人に仕立て上げ、日本が強硬すぎてまとめられなかった、と言い訳するシナリオを作ろうとしているのではないか。となると、TPPもWTOドーハラウンドと同じく漂流していくトンデモナイこじつけである。
 これに日本も乗ることが考えられる。必死で5品目を守ろうとしたからTPP交渉がまとまらなかった、政権60年の経験を活かした外交力により約束は守った、と言い訳できるからである。

<内容がない大筋合意というゴマカシ>
 もう一つ、日米双方とも傷がつかないゴマカシが、「大筋(大枠)合意」である。
 この場合、アメリカは合意をとりつけた、と中間選挙用の売りができる。日本も第3の矢ができたと嘘がつける。しかし、中味はというと、関税については今後協議を続けるとか、知的財産についても米・EUのTTIP(貿易投資協定)の交渉と整合性をとるためしばらく延期とか言訳して、先送りすることである。

<日本だけが譲歩を続け、公約破りになるおそれ>
 昨日(2月17日)、甘利TPP担当相は記者会見で、日米がお互いにカードを切っていくと発言した。それを受けて新聞各紙は一斉に、コメと砂糖類は守るが、牛・豚肉・乳製品について譲っていくと報じている。5項目に係る586品目全てを完全に守れとは自民党公約は言っていないが、新聞報道のとおりのカードなら、段階的な関税撤廃も認めないという衆参農林水産委員会決議違反は明らかである。この他、アメリカは日本の車の安全基準の緩和を求めているという。こんな所で譲るわけにはいかない。
  いずれにしても2月22-25日のシンガポール会合で決まる。日本の国会予算委で大忙しだが、TPPからは目が離せない。

2014年2月 7日

高社郷集団自決の悲劇を繰り返さないために ―終戦の事実を告げられなかったための悲劇(予算委報告その4)― 14.02.07

 私は、予算委員会で特定秘密保護法に関連し、国が国民に重大な秘密を知らせない罪の例として、1945年8月24日の高社郷の集団自決事件を取り上げた。関係者の皆さんの涙声での電話等もあり、多くの反響が寄せられたので、非力でありうまく伝えられるかどうかわからないが、ここに悲劇の一端を時系列で簡単に紹介しておく。
(書き出したところ長くなってしまったが、そのまま一気にお送りする)

<理想の満州国建設>
 36年広田弘毅内閣は、20年間に500万人を満州に移住させ、人口の10%を日本人にする「満州開拓移民推進計画」を決議した。農家の次・三男対策、農村の過剰人口の解消につながるので、補助金をつけて奨励した。満州人を農地を強制的に安く買上げたりして、移民用地も2000万ha(今の日本の農地面積の4倍強)を用意した。増加する日本人を食べさせるための食料生産基地の建設を夢見ていたのである。『王道楽土』『五族共和』等のスローガンを掲げる国家的大プロジェクトとなった。

<長野県の開拓農民にはソ連国境に近い最北の地区割り当て>
 狭い中山間地域の3反百姓が多い長野県はいち早く国策に従って、約30万人のうち3万3744人(12.5%)と、2位山形県(1万3252人、6.0%)の倍以上も送り込んだ。以下、宮城、熊本、福島、岐阜、新潟と貧しい農業県が続く。15歳から18歳の少年が中心の青少年義勇軍も約10万人送り込まれたが、やはり、長野県が6595人(6.5%)と1位であり、波田小学校は卒業生の半分が出向いている。
 日本国政府は長野の山間地の農民が寒冷地にも慣れていることから、ソ連国境に近い最北の地に開拓地を設定した。開拓農民は農業研修に加えて軍事的訓練も受けており、ソ連に対する「開拓農民の防波堤」が造られたといってよい。いってみれば満州開拓武装移民であり、農民を治安維持に当たらせる屯田移民政策であった。その証拠に、開拓農民は、銃も供与され武装されていたのだ。皮肉なことに、この銃が後に自決の道具ともなった。
 一方、勤勉まじめな長野の開拓農民はそんな政府の意向は知らず、喜び勇んで開拓と農業生産に全力をあげていた。

<北信からも続々入植>
 大日向村は村の半分が満州へ渡った。しかし、皆が諸手を挙げて賛同したわけではない。38年末、木島平村の佐藤福治村長は、「良い宣伝にだけ乗ってはいけない」と熱気を冷ましている。それでも39年5月木島平村からも皮切りに13人が渡満した。9月、桜井万治郎(元平野小学校長)団長以下3人の幹部が茨城県内原の幹部訓練所で研修を受けて渡満した。国の方針で、地縁を重視した出身地別の開拓団が編成され、宝清県万金山に高社郷開拓団が落ち着いた(下高井郡の高井富士と呼ばれる「高社山」から命名)。その後、続々と満蒙開拓が進められ、その中に後述の高山すみ子一家もいた。
 41年9月、桜井団長が結核に罹っていることが判明した。当時は労咳と呼ばれ、死に至る病と恐れられていた。桜井団長は、地べたに頭をすりつけて置いてくれとお願いしたが、石を投げつけられて追い出され無念の帰国となった。自分が団長で残っていれば、あんな自決(後述)は防げたと悔やみつつ、92歳の天寿を全うしている。(なお、桜井団長は私の祖母の兄、つまり大伯父である。)

<日本人が開墾してやったという間違い>
 中国人(満州人)が能力不足で耕せないでいる未開の大地を、技術力・能力に優れた日本人が代わりに開墾し、理想の国・満州国を建設するというスローガンが掲げられていた。そして、実情を知らない者は、今でも日本の開拓農民が開墾してやったと愚かなことを言っている。中国でも韓国でも日本の残した産業インフラを基に両国が発展したというのと同じ類であり、無粋な考えである。農地を奪われ、植民地支配に屈した隣国に対して失礼である。

<戦前の満州国は日本の希望の星>
 当時、日本は満州に着々と進出しつつあり、今から見れば明らかに膨張路線を暴走中だった。軍閥の一人張作霖が日本に距離を置き始めると、28年張作霖の載る列車を爆破し殺害。31年、板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐両名の策謀により満州事変(柳条溝事件)が勃発、軍部と関東軍が政府の中枢を揺さぶり、関東軍の専行・専横が更に進んだ。32年清朝の廃帝愛新覚羅溥儀を執政にして満州国を建国した。リットン調査団は独立国と認めず、33年松岡洋右全権が大演説して国際連盟を脱退している。37年には、盧溝橋事件を契機に日中戦争へと進み、日本は満州を完全な属国とし、投資を拡大していった。その一環として、前述の満蒙開拓が国策として進められた。
 日本は、今で言えば北朝鮮と同じような孤立国となったのである。そして、今の北朝鮮人民が気付かないように、信州の山の中の村は何も知らされていない。満州の理想国の建設にいち早く協力体制をしいたのである。その後、40年遠い欧州の独伊と三国同盟、更に41年には日ソ中立条約を結び、ついに41年12月8日、真珠湾攻撃し、第2次世界大戦へと突入していった。

 余談をちょっと挟めば、世界的指揮者で35年に生まれた小沢征爾の名は関東軍のトップの板垣征四郎と石原完爾の名から一字ずつとってつけられている。当時は、関東軍・満州こそ日本の躍進の象徴だったのである。夢の満州国は頓挫したが、小沢は武力ではなく、音楽で世界に飛び出し、父親の命名に応えたことになる。

<農民はすぐわかった侵略の事実>
 満州には、今の原発安全神話と同じく、日本の連戦連勝しか伝えられていなかった。しかし、こうした浮ついた動きと比べ、文字通り地に足が着いた農民の目は確かである。安倍首相は侵略かどうかは歴史学者が決めることだと言っているが、農地に関する限り、侵略は明らかである。
 関東軍か満州国官僚が列車の中で某団長に、開拓農民に外を見せないために幌を下ろせと命じたという。茶目っ気があり好奇心旺盛なその団長は、皆には厳格な指示を出し、本人はちゃっかり幌の外を見たところ、裸足の農民が線路脇を歩いていた。そして、やっと着いた開拓地には耕した畝の跡があった。近くに住んだ小屋もあった。
 自ら耕す農地に愛情を注ぐ農民だからこそ、その農地を奪われた農民の気持ちが痛いほどよくわかる。先刻列車から見た裸足の満州人は、自らの土地を追われた哀れな農民だったのだ。これは大変なことをしてしまった、こんなことは長続きするはずがないとすぐ覚った桜井万治郎も、すぐさま何とかして早く帰国する方策を考え出したという。ところが、運命とは皮肉である。前述のとおり本人だけが途中帰国し、数少ない生き残りとなった。

<長野県日中友好協会の活動が盛んな理由>
 自分の農地を奪った憎き日本人であるにもかかわらず、中国人は気を失って2日間眠っていた高山すみ子を助けてくれた。生き残った幼子を我が子として育ててくれた。逃げそびれた婦女子を妻として迎え入れてくれた。その上、方正(ほうまさ)県には、日本人の墓地も建ててくれた。かくして長野県の多くの開拓農民は中国人にはすまないという気持ちを持ち続け、感謝の念を抱き続けている。それ故、日中友好協会(井出正一会長)の活動は全国一、二を誇る。それを知る中国は、北京オリンピックの聖火リレーを友好県の長野県で行った。

<根こそぎ動員で男手は開拓地でも召集され、残るは老人と婦女子のみ>
 戦況が大本営発表とは裏腹に大変な状況になっていることは、最末端、最前線の中ソ国境だからこそ余計に感じられた。重要な男手(働き手)が次々と召集され、現地には老人と婦女子ばかりになりつつあったからだ。正確にいうと、いつものとおり、最果ての地にこそしわ寄せがいっていたのかもしれない。
 関東軍は、45年に3万人「根こそぎ動員」を行い、数の上では78万人の大部隊となっていたが、かつての力はもう残っていなかった。
 高山家には長男と長女が生まれ順風満帆にみえたのも束の間、夫は召集されていた。

<予測されていたソ連参戦、いち早く逃げた関東軍と高級官僚>
 そして、魔の8月9日、日ソ中立条約を破ってソ連が突然参戦してきた。後講釈でいえば、43年のヤルタ協定以降、更には48年5月のドイツの敗北後は、ソ連軍の極東への移動が活発になっていて、満州でのソ連の参戦は時間の問題だった。梅津美治郎関東軍参謀総長は、6月4日には、北部の満州地域を放棄して、防衛線を大連 - 新京 - 図們の三角線まで南下させ、持久戦に持ち込む作戦を指示している。諜報戦が繰り広げられ秘密厳守を徹底していた満州では、こうした軍事秘密は開拓農民になど全く知らされない。何と8月8日に現地に入植した一団もいた。まさに悲劇である。一方、ソ連参戦を察知した一部の高級官僚や軍幹部は、トラックや車を徴用し、列車も確保して早々と逃げのびている。

<ソ連が参戦で暗転した高社郷>
 しかし、開拓農民の間では、ソ連は絶対参戦してこないということになっていた。高社郷を管轄する宝清の西山393部隊より電話で避難の指示があった。団の中で真剣な議論が行われた。「軍と協力して団を死守しよう」「満州に骨を埋める」「最悪の事態には婦女子を処置する」いろいろな意見が出され、青酸カリや剃刀も用意された。8月11日豪雨の中、逃避行が始まった。頼りにしていた部隊地に行くも、「無敵関東軍」は雲散霧消、もぬけの殻で、いち早く安全な地に逃げ去っていた。守ってくれるはずの関東軍は職務放棄してしまったのである。移動手段もなく、徒歩で避難するしかなかった。開拓農民等残留邦人は、関東軍の命により国境警備軍を結成し、軍人でないのにソ連とも対峙したのである。
 8月12日朝、古幡副団長は、妻と20歳を超えた息子2人を殺し、最悪の事態への対処を身を持って示した。トップとしての壮絶な覚悟を示したのである。黙って逃げ去った軍人・官僚と比べその健気さに涙が溢れ出る。壮絶である。私が推察するに、これが24日の集団自決の引き金になったのではないか。

<山崎豊子と宮尾登美子の伝える満蒙からの逃避行>
 これ以下の逃避行の惨状は私はこのメルマガ・ブログに書くのを憚る。私のこの記述の大半は、『ノノさんになるんだよ―満蒙開拓集落の底から―』(高山すみ子)によっているが、一般的には、『大地の子』(山崎豊子)が詳細に記している。
 1984年、胡耀邦総書記の許可を得て、主として南信濃郷をモデルに綿密な取材を重ね書き上げている。取材中に涙を流したのははじめてだと述懐している。それだけ酷い話が多かったのだろう。ソ連国境に近い開拓村に住む、国民学校1年生の主人公松本勝男(陸一心)の物語は、ソ連の侵攻から始まっている。他に宮尾登美子も自らの体験を『朱夏』に残している。ただ後者はあまりに悲惨なためか、宮尾作品としては珍しく映画化・ドラマ化されていない。宮尾も一番書くのが嫌だったと述べている。

<終戦の事実なら伝わらない不思議>
 15日、終戦。17日、中村中隊から避難先等の指示があったのに、まだ終戦の事実が告げられていない。ひょっとすると、ごく一部の団長レベルには伝わっていたのかもしれないが、少なくとも一般農民には知らされていない。
 これこそ今風に言うなら、特定秘密とされており、「由らしむべし知らしむべからず」が徹底されていたのである。特定秘密保護法を貫く考えも同じであり、私は背筋が寒くなる。国会では特定秘密で一番多いのは航空写真などと、人を馬鹿にした答弁が続くが、このままいくといずれ再び同じ間違いが繰り返されるに違いない。
 19日、終焉の地となる佐渡開拓団部落に着く。何度も血路を開こうとするが失敗し、23日再び戻る。長野県関係4団のほか、新潟県の清和開拓団他3000~5000近い難民が終結していた。しかし、守るべき関東軍はいない。この事態を山崎豊子は「棄民」と表現した。国から見捨てられたのであり、まさに的確な表現である。
 23日不時着したソ連軍偵察機を一部の団員が焼いてしまう。これは『大地の子』の有名なシーンともなっている。これも、終戦事実を知っていたら起こりえないことだった。ソ連からすれば、無条件降伏したのに何をするのかと怒り心頭に発したであろう。

<集団自決への途>
 どう対応するかは、各開拓団に任されることになる。各団とも意見が分かれた。ここで、高社郷の600人余は、他の団と異なる行動をとる。ソ連軍の報復攻撃を予測し、脱出不可能とみて、全員で自決を決定した。古幡副団長は「生きて辱めを受けるよりは、死して護国の礎になろう。体力のある者、夫とともにある者は、今夜脱出を計られたい」と訓示した。残った年老いた一人の父は、若い息子に逃げてこの悲惨な様を必ず後世の人たち、本国の人たちに伝えよと言い残し、見送った。体力に自信のある30数名が脱出し、何人かは生き残った。そして、この惨劇の一部が我々に伝えられることになった。

<「ノノさんになるんだよ」と銃を向けた母>
 高社郷の団員は24日夜から25日未明にかけて、大きな建物の中に大火葬場を自らの手で造り上げ、大人はお互いに殺し合い、子供には言ってきかせて銃を向けた。中には、死を覚り逃げる子供もいたが、大半は親のいう事に従い、514人が自決して果てた。母親や幼児には薄く口紅が塗られていた。この時に不安げな幼子に言った高山の言葉が「ノノさん(仏さん)になるんだよ」である。高山すみ子本人は自決を前に襲撃を受け、2日間意識不明の後、中国人に助けられた。

<死ぬも地獄、残るも地獄>
 高社郷の自決を機に他の団も解散し、脱出する者と残る者に分かれた。26日、日本人女性目当てのソ連軍のトラック3台(30人余)が来たので、必死に抵抗、20人余を殺害、それに対して怒ったソ連軍が、翌々日1200人の大部隊で報復攻撃。残ったほとんども壮絶な最後を遂げる。
 この佐渡開拓団の一連の出来事は満州最大の悲劇と言われている。他に記録が残っているのは、新潟の清和開拓団883名のうち、654名がここで死亡したことである。生き残った者の多くも難民収容所で死亡。46年に日本の土を踏めたのは、わずか50名だった。そのうち半分近く病死した。この引き揚げ者は後に北海道下川町に入植している。

<中国残留孤児と残留邦人>
 中国人が助けてくれたわずかに生き残った婦女子十数名は、中国人に拾われ養育された。これが中国残留孤児である。当然だが残留孤児も残留婦人も長野県関係者が一番多いと思われる。(中国帰国者の都道府県別定住状況をみると、職のある東京、大阪、神奈川についで、420人1319世帯員が長野県に住みついている。次いで、埼玉、愛知と続き、田舎の件で200人を超える県はない。)
 約30万人といわれる開拓農民のうち生きて日本に帰ったのは、約11万人にすぎなかった。日本軍兵士のシベリア抑留は60万人で、過酷な強制労働で約6万人が命を落としたが、それでも9割以上生き残っている。開拓農民のほうは、6割近い約18万人も死亡している。1番悲惨な目に遇ったのは、やはり最北の地の開拓農民である。生き延びた者も、逃げまどう中9月になりやっと終戦を知った。

<夫は以後一度もノノさんになった子供には触れず>
 高山すみ子は、私が時折家を訪ねると、終戦を知っていたら絶対自決をしなかったと悔やむ。私は『ノノさんになるんだよ』を読むたび、涙を禁じ得ない。幸い夫庄司は4年後の45年9月シベリア抑留から無事帰国した。上陸後もらったキャラメルを1つも食べず、2人の子供にやろうと木島平村に持ち帰った。告げるのも辛いノノさんになった話をすると、夫は「そうか」と一言答えただけで、以後死ぬまでこのことには一度も触れなかったという。何という思いやりのある夫婦愛であろうか。筆舌を尽くしがたい修羅場をくぐり抜けてきた二人だからこそ通じ合えるのだろう。私が一番涙するのはこの場面である。

<非戦国民を救うという常識の欠如した戦前の日本>
 戦争という何でもありの世界にも一定のルールがある。今誰もが知っているのは、非戦闘員を攻撃してはならないことである。アフガニスタンやパキスタンで無人爆撃機が民間人を誤射して問題視されている。私の知識は十分ではないが、他にも欧米先進国では、敗戦の覚悟をした国家や軍が行うことは、非戦国民の安全を図ることであるという。
 もちろん、ヒトラーのようにかつて熱狂的に支持したドイツ国民がそっぽを向いたことから、自国民さえ全く助けようとしなかった者もいるが、後任のカール・デニッツは、ソ連軍に包囲され孤立をした、現在のカーニングラードの200万人の同胞を、海軍船艇を総動員して救出している(ハンニバル作戦として知られる)。それを我が日本国や軍はしなかった。というよりも、最後までソ連参戦の情報も伝えず、終戦の予定すら秘密にして平然と放置していたのである。国民を救うという発想がなかったのだろう。それを今、アルジェリアの人質事件を盾に、民間人を救出する情報収集のため国家安全保障会議が必要だ、というまでに急成長(?)した。本当なのかと疑ってかかる者が多いのは当然である。
 軍人のシベリア抑留には補償が出、抑留中に死亡した軍人は靖国神社に祭られても、何も知らずに自決した名もなき開拓農民は何も報われず、忘れ去られていく。あまりに哀れであり、不公平である。

<大津敏男と山本慈昭の功績>
 ただ、特筆すべきトップもいた。大津敏男樺太庁長官である。8月9日のソ連の対日参戦で戦いが起ると、8月24日の豊原市(現ユジノサハリンスク)が占領されるまで、樺太住民の内地への疎開に尽力した。このため、残留孤児の問題等は発生しなかった。満州国官僚や関東軍にもう一人の大津敏男がいたら、開拓農民がこんなひどい最期を迎えずにすんだはずである。ただ、日本が強制的に連行して韓国人は置いてけぼりにされ、ソ連との国交がないままずっと放置され、帰国の機会を失っている(「滞在者が大半の国の悲劇」サハリン報告その4 (2006年9月20日)。
 もう一人この関係で感謝すべき者に、残留孤児の帰国に生涯を捧げられた山本慈昭がいる。周恩来首相に手紙が届き、1980年になってやっと訪中が実現した。彼の働きがなければ、この動きの本格化はもっと遅くなったに違いない。
 なお、山崎豊子は、これらの残留孤児を泣きながら取材したという。そして敗戦で置き去りにされたのであり、自民の意見でなったのではないからといって「戦争孤児」としか呼ばなかった。日本人とも知らず、あるいは知らされても、小日本鬼子(シアリーペンクイツ)日本帝国主義の子といじめられ、牛馬の如くこき使われている戦争孤児の上に、日本の繁栄は成り立っていると記している。

<靖国神社参拝の問題点>
 安倍首相は靖国神社に参拝してどこが悪いと言う。
 しかし、満州三大悲劇の一つといわれる高社郷集団自決という酷いことをさせた責任者は裁かれて当然ではないか。東京裁判が戦勝国の裁判でけしからんというなら、なぜ日本国で責任者を罰しないか。この件でいえば、私は少なくとも開拓農民に8月16日にも終戦を告げるなと命じた者は重罪にすべきだと思われる。少なくとも重大な決定をして多くの人の命を奪った責任者はご遠慮いただいてもよいのではないか。
 昭和天皇は、その点を十分に承知され、A級戦犯を合祀した1978年以降絶対に参拝されなくなったに違いない。参拝者は昭和天皇のお気持ちに背いていることにならないかと問いたい。

<靖国神社に祭られるべき者と資格のない者>
 私の父方の大伯父の一人も靖国神社に祭られている。九段宿舎から朝のバスで靖国神社の前を通過する際は手を合わせた。まどろんでいて忘れた時はどうも気が引けていた。私は、一兵卒の大伯父もその他の兵士も、開拓農民と同じく国策で駆り出され尊い命を投げ出したのであり、祭られて当然だと思う。そして日本国民や子孫がお詣りして当然である。ただ、もしも開拓農民約30万人のうち6割近くの18万人が命を落とす重大な判断ミスをした指導者が一緒に祭られるとしたら、私は釈然としない。やめてくれと叫びたくなる。
 何も知らずに極寒の地に行かされ、お国のために自決した人たちはあまりに哀れである。高社郷集団自決事件を知る者も少なくなり、慰霊祭も年々参加者が減り、13年にはごく少数の有志で行われただけである。なぜなら家族全員で自決したのであり、直系の子孫はいないからだ。ごくわずかの生き残りの縁者も年々亡くなっていく。こうしていずれ誰からも忘れられていく。
 もしもA級戦犯が靖国神社に祭られるとしたら、何も知らずに軍人と同等以上に国を想い、満州の地で自決という形で果てた無辜の民こそ祭られる資格があるといわねばならない。

<国家に秘密を独占させてはならず>
 私の予算委のTV中継視聴者のごく一部は、特定秘密保護法に結び付けるのはこじつけであると指摘してきた。そう思われるのならそれでいい。しかし、国家は情報をコントロールし、都合のいいことだけを流し、必要な情報は隠匿する。満州では、事実上述の板垣・石原コンビが自ら柳条溝を爆破しておきながら、張学良のしわざと見せかけたのを皮切りに、熾烈な諜報戦が繰り広げられた。その過程で関東軍は、情報操作つまり軍事秘密の保護と漏洩に対する厳罰という姿勢を強化していた。私はこの延長線上に、満蒙開拓団に対する冷酷な仕打ちがあったと思っている。

<長野県の良識に安堵>
 私は安堵している。こうした辛酸を舐めた長野県民は、国家の犯す過ちのこわさが記憶に残っていたのであろう。東京新聞によると、特定秘密保護法成立後に廃止・撤廃・凍結等の意見書を提出した全国45市町村のうち28市町村が長野県である(そのうち8市町村が私の選挙区であり、この意見書を提出しなかったのは、恥ずかしながら私の地元中の地元中野市だけである。須坂市は成立前に参議院や総理に提出している)。
 もちろん、民主党の比較的強い長野県とて、市町村議会は大半が保守系議員で占められている。そうした中、少なくとも見識ある市町村議会議員は、党派を超えて、ほぼ私と同じ危惧を抱いたのである。長野県では歴史は葬り去られていないのだ。
 今、我々は二度と同じ過ちを繰り返さないために悪法は葬り去らねばならない。

2014年2月 5日

責任野党よりも責任与党 -変な言葉遊びに惑わされるな- 予算委員会報告その3 -14.02.05-

 安倍首相が突然変なことを言い出した。「責任野党」という言葉である。首相は、民主党の首相たちもそうであったが、変な造語なり言葉で国民の関心を引こうとする傾向がある。言葉遊びが過ぎて、意味が分からなくなり、何を言っているのか分からない。

<ダーツの地球儀外交?>
 今回の質問の時も「地球儀外交」について一言嫌味を付け加えた。地球儀は英語でGlobe(グローブ)である。それを外交と結び付けるとGlobal外交である。外交はそもそもGlobalでありDomestic(国内の)外交などあるはずがない。
 首相に就任以来1年間で15回外遊し、30か国に行き、述べ150回首脳会談をした、と施政方針演説で誇示している。地球儀外交というのは、あまりにあちこちに行きすぎ、今後どこの国に行くのか分からなくなってしまったので、地球儀を回して止まったところに行くダーツの旅もどきの外交をすることなのか、と嫌味を言っておいた。

<意味不明の責任野党>
 しかし、もっと問題なのは「責任野党」である。首相は「何でも反対ではなく建設的な提案をしてくれる党」といい、早速、渡辺喜美・みんなの党代表は、代表質問で安倍首相に政策の実現を目指す「責任野党を正しくご理解いただいていると」とすり寄り、「真摯かつ柔軟な協力を惜しみません」ともう完全に野党を捨てている。まさに野党の堕落である(別に論じる、初めて閣僚に任命してくれた大恩ある安倍首相だと割り引いても、あまりに露骨である)。
 一方、喧嘩別れした江田憲司・結いの党代表も「責任野党とは一体何で、具体的にどの党を指すのか」と質問している。すり寄るみんなの党もどういう党かと聞く結いの党のどちらも責任野党とはいえない。いずれ自民党に溶かされてなくなる運命が待ち受けているだけだ。

<野党はOpposition party>
 野党とは、英語でopposition party、つまり問題を指摘して与党の政策をチェックし、悪い政策を堂々と反対していく政党のことである。
 もし、安倍首相の定義に従うとしたら、ねじれ(すなわち参院の野党多数)を悪用し、それこそ何でもことごとく反対し民主党政権を困らせた09年9月からの参議院自民党こそ、史上まれにみる無責任野党だったということになる。その無責任野党に、与党民主党がいいようにあしらわれたのが「社会保障と税の一体改革」である。自民党は民主党がすぐさま崩壊し、政権が自民党に戻ることを見越していた。巧妙に施策の実現を目指す振りをして野田政権をおだてて解散に追い込み、一回の総選挙で政権を奪還したのである。民主党は政権党足りえず、自民党は責任野党ではなく、60年以上続く与党のままだったのである。

<問われるべきは責任与党の姿勢>
 責任という言葉が付くとしたら与党に付くべきことである。与党こそ政権を担っているのだから、野党の主張を無下にすることなく正しい主張は取り入れ修正し、政権運営していかなければならない。
「野党につくのは万年野党とかであって責任ではない。野党は野党でしかなく、同じ責任など持てない。私は野党の一員だから、そこそこいい加減なことを言ったっていいんだ」といつもの悪い冗談を言った。
 もっといえば、責任与党は数の力(衆議院293議席)に頼り、強行採決で強引な法律を通すなどというのは言語道断である。政権与党は、野党の主張のよいところを積極的に取り入れて法案も修正し、よりよい政策を打ち出す度量の広い政党でなければならない。

<責任野党は政権交代で受け皿になる野党>
 私が責任野党という言葉を最初に聞いたのは羽田孜元首相からである。羽田元首相は、民主党を政権交代の受け皿となる責任野党に育て上げ、二大政党制を確立したい。そのために私に民主党に参画してほしいと勧めた。その時に盛んにこの責任野党という言葉を聞かされた。それは、細川・羽田と続いた非自民政権が脆弱な7会派あるいは8会派の寄せ集まり所帯にすぎず、それがために僅か10ヶ月で終わってしまったという反省の上に立ったものだった。その羽田元首相のいう責任野党とは、政権交代の受け皿になる100人を超えてまとまった健全な野党ということであって、安倍首相の言う与党にすり寄る責任野党とは似て非なるものである。
 どうも安倍首相及びその側近は変な言葉を造ってはもてあそんでいるようである。国民はこんな軽々しい言葉に騙されてはならない。

2014年2月 4日

安倍首相は小泉元首相の進言「脱原発」を聞くべし 予算委員会報告2 -14.02.04-

 小泉元首相が意を決して老骨に鞭打って活動しだしたのは脱原発である。前回のブログにも書いたが、小泉元首相はオンカロに行って思いついた訳ではない。それをTVの前でも閣僚にもきちんと伝えるべく、私の『原発廃止で世代責任を果たす』という本を少々見せながら質問をした。
 そこで安倍首相に強調したのは「誰のお陰で首相になれたのか、その恩義に報いるべく言うことを聞くべきだ」ということである。
 自民党の総理総裁の条件は、かねてから「大臣3回、そのうちに1回は財務相(蔵相)か外相、党3役を1回、当選回数10回前後、年齢60歳前後」と言われてきた。もちろん、72歳の宮澤喜一首相、53歳の田中角栄首相等もいるが、自民党の黄金時代つまり「三角大福中」の時にはこの条件をほとんどクリアしていた。ただそれ以降は、小泉元首相も蔵相も外相も経験しておらず、どこか欠けた人が大半で、やはりどこかピリッとしない首相が多い。

<小泉首相の異例の安倍重用>
 ところが、今回の予算委員会では野田聖子総務会長がトップバッターになり、盛んに安倍首相と同期の桜ということを強調した。
 安倍首相が小泉元首相にとりたてられ始めた時は当選回数わずか5回。小泉元首相の安倍重用は徹底していた。官房副長官は普通の人事だったが、03年9月、大臣経験もない若手の安倍首相がいきなり幹事長に抜擢されたのである。その後小泉政権の間ずっと重用され続け、幹事長代理をへて05年には官房長官、そしてとうとう06年9月には首相にまで上り詰めた。異例のことである。
 私の知る限りでは一人の首相がこれだけ中堅を登用して最後首相にまでした事例はない。7年前に安倍首相が戦後生まれで初、戦後最年少で、就任時も今も、自民党の総理総裁の条件を満たしている人はほんの数人しかいない。予算委員会では、その条件を備えているのは06年の総裁選で敗れた隣の麻生財務相と谷垣法相ぐらいしかいないではないかと指摘した。2人は、私の指摘の後、何かニコニコ雑談していた。

<小泉首相が取り立て安倍首相が実現>(自民党の総理総裁の条件)
 他に町村信孝元外相、高村正彦元外相、今は亡き中川昭一元財務相もこの条件をクリアしていた。それに対し安倍首相はこの条件に全く当てはまっていない。閣僚は官房長官以外やっていない。官房長官といえば番頭であり各省の大臣とは違う。党の3役も小泉総裁の下で大抜擢された幹事長だから、政治家としての地位を得たのはすべて小泉政権下であった。それでそのまま後任の首相というのでは、小泉元首相には足を向けて寝れないはずである。

<大恩人を除籍せんとする動き>
 細野豪志前幹事長が東京都議選の折、2人出馬していた参議院東京地方区で大河原雅子候補を告示日の2日前に公認から外し、鈴木寛候補に一本化した。それに対し菅直人民主党顧問は無所属になった大河原候補を応援した。民主党の大劣勢下で2人とも落選してしまったが、仕方のないことだった。 しかし、細野幹事長は2人落選は菅顧問の大河原応援のせいだといわんばかりに、菅顧問の除籍と言い出した。民主党の未熟な幹部の得意な(?)、根回しなしの唐突な提案だった。
 中選挙区時代の自民党は、各派閥の領袖が平気で公認漏れした新人議員の応援に出向いていた。無所属の新人が公認候補を破れば、何事もなかったように自民党に受け入れた。つまり自民党政治の世界では、公認など融通無碍であり、勝てば官軍なのだ。もし自民党が公認漏れした無所属を応援した党幹部をいちいち除籍していたら、自民党幹部はいなくなっていただろう。

<味のある北澤元防衛相の指摘>
 北澤元防衛相の指摘が妙に得心がいく。「誰でも初めて閣僚にしてもらった総理は一生、総理、総理と崇めたてまつって感謝し続ける。それを自分の裁定ミスを大恩ある総理のせいにして除籍なんて、とんでもない。人の道に反する」と断じた。更にいつもの冗談を付け加えた。「本当は二度目、三度目も感謝しなければいけないのだが、実力で大臣になった、と勘違いしちゃうんだな」。
 ところが細野前幹事長は菅首相に原発担当相に任命されながら、その大恩ある首相を公認を外された候補を応援したからといって除籍せんとしたのである。もちろん、こんな非常識なことは通るはずもなく却下され、細野前幹事長は幹事長を退くことになった。当然のことである。政治には理も必要だが、より情で動かされる。

<二人の師匠の股裂きという言訳>
 「自分だったらそんな大恩のある人の言うことはすぐ聞く、日本の伝統文化を重んじ長幼の序を重んじる安倍首相ならば、小泉元首相がこれだけ真剣になって忠告していることを聞いて然るべきではないか」。普通の人は、今の経済を重視するのは分かっている。それに対して二人の元首相は、ずっと先の次の世代のことを考えているのである。政治家は、先の先の国のこと国民のことを優先してしかるべきである。
 首相は「もう一人の政治の師の森元首相が原発推進で間に立たされている」と、弁解の答弁であった。口先だけは一応小泉元首相を立てているが、森元首相の官房副長官も、小泉元首相の強い推挙で実現しており、恩義の程度は桁違いでとても比べられるものではない。

<捨て身の師匠小泉に理あり、弟子の安倍に情なし>
 しかし、私はどう考えても安倍首相が小泉元首相の乾坤一擲の提言を無視することがいろいろな問題の根源にあるように思われる。小泉元首相は、安倍政権を倒すとかお灸をすえるとか、そんな小さなことは考えてない。ただひたすら日本の将来を心配し、原発をなくして、日本の国土の崩壊を阻止し、日本人を救おうとしているだけなのだ。安倍首相は素直に大恩人の進言を聞く以外に途は無いと思うが、どうも自信過剰(10月21日の予算委員会の私の言葉でいえば慢心)が過ぎる。
 権力者は、多くの人に耳を傾け、その行使に慎重でなければならないというのに、どうも安倍首相は逆の途を進んでいる。

<このままでは、周りが逃げていくかもしれず>
 靖国参詣ではアメリカの忠告を無視、原発政策では、大恩人の小泉元首相の最後の叫びを聞かず、TPPでは公約と逆のことをし不安をかき立てている。これでは、いくらアベノミクスで経済が上向いている気配があるとはいえ、周りの信を徐々に失い、孤立し裸の王様になってしまうのではないか。そのうちに国民の信(支持率)にその証が表れてくるだろう。それでも日本がうまくいくのならいいが、どうも突然ガタがくるような気がしてならない。

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