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頑張れウクライナ ―紛争の種をはやく摘むべし-14.03.28

<鉄のカーテン>
 海外出張を度重ねると縁がある国とない国というのが出てくる。私にとってはウクライナ、キエフは非常に縁のある国、都市になっている。
 初めてキエフに行ったのは遥かかなた昔1985年、まだ、ソ連の鉄のカーテンの時代でチェルノブイリ原発事故の1年前である。官房企画室に長くいると海外出張のチャンスが巡ってくる。ほとんどの人は欧米先進国に行くが、私は国際協力課の担当も嫌がるアフリカか中南米のODAがらみで出張したいと申し出ていた。気のきいた担当が、「篠原さん、最も行けないところであればソ連です。普通行政官は誰も行けません。ただ、日ソ農業技術協力で研究者なら行けます」と教えてくれた。
 その年のテーマは土壌で既に3人の博士と土壌班の係長1人の4人布陣が決まっていた。私はさっそく土壌班長に私を行かせてくれと直談判に及んだ。班長は研究者で原課に研究所から出向していた管理能力も育成中(?)の研究エリートだけあって、話が分かり、私を行かせてくれることになった。私がアメリカ農業は、土壌も水も収奪型で持続性に問題があると書いた論文が功を奏していた。その土壌班長が後に農林水産技術会議事務局長・会長となる三輪睿太郎である。もちろんその時は12年後の1997年に私がNO2の研究総務官としてコンビを組むとは夢にも思っていなかった。これは人の縁である。

<元々違う国だったロシアとウクライナ>
 モスクワ、キエフ、レニングラードの土壌博物館や大学を16日間かけて回った。初の共産圏諸国への出張であり、印象深い出張だったが、特にキエフのヨーロッパと違った色彩の教会や建物が心に残った。少々自慢話めくが、私はソ連の崩壊までは予測しなかったが、ウクライナはいずれ独立するに違いない、と確信した。なぜかと言うと、キエフ空港に到着したところ、似たようなキルリ文字で空港の名前が2つ書いてあった。片方はロシア語、片方はウクライナ語だという。大学を紹介する綺麗な本も同じく2つの言語で書かれていた。「どっちの言葉を大事にして先に使うのか」と尋ねたところ、ニヤリと笑って「当然、ウクライナ語だ」と答えが返ってきた。
 ソ連は専門家に農業のダメぶりを見せないために、農地全体が真っ白に覆われた11月以降しか受け入れていなかった。モスクワは物不足で並んで買い物する人が目立ったが、キエフには食べ物も、洋服も豊富にあった。それも不思議だったので、「なぜモスクワには食べ物が少なくてキエフにはあるのか」と聞いたら、「あれは違う国だから送らなくていいのだ」、といった。ソ連は、名前の通りソビエト連邦であり、ロシア共和国とウクライナ共和国はもともと別の国だったのだ。ウクライナは1991年ソ連の崩壊とともに独立した。

<20年振りのチェルノブイリ30Km圏の入り口の写真>
 それから20年近く経ち私は2005年国会議員になっており、外務委員会視察でキルギスとウクライナに出張した。当選回数の多い先輩諸氏が行くべきところ、旧ソ連諸国(CCIS)は人気がなく(?)次々と辞退し、2期生の私にまわってきた。ウクライナには、私にはどうしても訪れたい所があった。原発事故を起こしたチェルノブイリである。「霧の中のチェルノブイリ」(2005年11月8日)に書いたが、30Km圏の鉄条網の入口で写真を撮ってきた。その後、予想だしないことであるが、6年後の2011年4月、同じ入口で、今度は農林水産副大臣として部下を連れて写真を撮ることになった。今度は非常事態省の案内で石棺にまで近づいて、無残な原発事故の残骸を見ることができた。(「原発の墓場チェルノブイリ再訪」11.4.28

<原発事故後学童疎開地だったクリミア保養地>
 そのウクライナが今危機に瀕している。3回も訪れたキエフがクリミア半島の分離独立、あるいはロシアへの編入で大騒ぎとなっている。私に親切にしてくれた色々な人たちの顔が頭に浮かび、非常に切ない思いに駆られている。特に一番最近の話で言えば日本に5年留学し、ウクライナで通訳を務めてくれたオルガさんの顔が一番真っ先に目に浮んでくる。原発事故が起きた1986年4月26日にどこに居たのかという話から、キエフの児童のクリミア半島への疎開の話が出てきた。小学生の彼女が1986年夏、高放射線量を避けて3ヶ月を過ごしたのはクリミアの保養地であった。その思い出の地がロシアに編入されたのである。

<コザックの有能なウクライナ人>
 大国の隣に位置した中小国というのは、その大国に対し一種異様の感情を持っている。アメリカに対するカナダあるいはメキシコの感情であり、半分は憧れ、半分は反発になる。ウクライナではロシアに対する反発の方を強烈に感じとれた。
 ロシアの料理はそれほどうまくないと言われているが、食べ物が豊富なウクライナの料理はボルシチに代表されるような非常に美味しいものがある。ただ悩み深い国であるということも分からないでもなかった。なぜかと言うと、一番最初に訪れた時、大学から空港に行く間に時間があるということで、どうしても見て欲しいところが有るということで連れて行かれたのがナチスの侵攻に対して戦ったウクライナ人のジオラマであった。ナチスがヨーロッパを席巻していた当時、ウクライナの中でもナチスに加担する人もいて、ヒトラーに忠誠を誓う書簡を送ったそうだ。一方、対独戦は相当熾烈になり、第二次世界大戦で最大の被害者を出している。つまりコザックの血をひく勇猛果敢な国民なのである。
 音楽の世界(ホロヴィッツ、リヒテルといったピアニスト)でも、スポーツの世界(サッカーのシェフチェンコ、大鵬)でも世界的に有名な人たちを多く輩出しており、非常に優れた民族である。

<東西分化融合の地は紛争の絶えない地>
 ところが問題はやはり、東西の融合地点であることから必然的に東西の紛争の狭間に立たされることである。長い歴史の中では、あちこちの支配下に置かれ、ウクライナという国は最近まで存在しなかった。ウクライナ人と言われているが、スラブ系であり我々からみるとロシア人と大して変わらない。ソ連の首脳ではフルシショフが典型的なズングリむっくりのウクライナ人であり、髭の生えたとんがった顔のスターリンはグルジア人である。
 ウクライナの民族構成は、ウクライナ人 77.5%、ロシア人17.2%と西側のキエフ付近はウクライナ人が大半であるのに対し、東側はロシア人が多くなる。他にタタール人も0.5%ほどいる。問題となっているクリミアでは、1944年5月にナチスの占領から解放された後、スターリン時代のソ連が、タタール人はナチス占領下で彼らに協力したと非難し、20万人のタタール人を強制移住させた。代わって多くのロシア系住民がソ連の他の地域からクリミアに移住してきたためウクライナの東側でのロシア人勢力が強くなっている。しかし、ソ連崩壊後多くが戻り、今やタタール人が15%となっている。彼らは再び怯えているに違いない。いずれにせよ紛争の種はつきない。

<今も紛争の種だらけのウクライナ>
 西側は、国家予算の1割をつぎ込むチェルノブイリという負の遺産を抱え、比較的豊かな東部を切り離してはやっていけなくなる。一方、東部はさっさと分かれてロシアに編入し安定的な経済支援を得たいという思惑がある。ロシア側にも、クリミアにあるセバストポリ基地はソ連時代からあり、黒海艦隊の艦船はロシア81%、ウクライナ19%の比率で分割し、ロシアは基地を租借している。そしてこの租借を打ち切られる検討もされており、ロシアとしては、地中海への窓口であるクリミアの基地を失うわけにいかないという焦りもあったのではないかとも見られている。
 ただ、もともと考えてみれば、ロシアの成りたちはキエフ大公国にあるし、戦後処理やソ連の参戦を決めた1945年2月のヤルタ会談はクリミアであったし、ロシアの心臓部に当たる。ロシアからすれば、ウクライナもクリミアもロシアにあってしかるべきだというのだろう。だからプーチンはソ連の崩壊を「20世紀最大の地政学上の悲劇」といい、復活を考えているという。何事にも一理はあるのだ。
 日韓、日中、日露にも領土問題があり、紛争地がある。しかし、いずれにしろ大国が武力を背景に国を分断したり、その一部を編入したりするのは穏やかではない。

<第二次東西冷戦か?>
 ウクライナやクリミアがどのようになってゆくのか気が気でない。ウクライナでは、2月に首都キエフや西部での大規模な反政権デモが起こり、親露派の政権が崩壊した。そこにはティモシェンコ元首相の所属する政党「祖国」だけではなく、反ユダヤ・ファシズムを主張する過激な極右の政党の存在も見え隠れする。ウクライナ人は自分の国の行く末を本当に心配して、しょんぼりしているというのが手に取るように分かる。
 国際情勢に与える影響も半端ではあるまい。やっと独立したバルト三国は、いつ編入されるのかとおびえ始めている。ロシアのような大国は接する国も多い。アメリカやEU諸国も黙っていまい。米ソ冷戦が終わり、東西対立の危険は遠ざかっていたが、再び元に戻ってしまうのではないかという懸念も生じてくる。
 それにしても、日本は極東の島国。国内が相当乱れても民族問題で二分する心配のない恵まれた国である。国内に分断の種を抱えながら、揺れ動く国際情勢に翻弄されるウクライナと比べたら、日本の政治などたやすいものである。それにもかかわらず、ピリッとしない政治状況は反省しないとなるまい。