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2014年3月28日

頑張れウクライナ ―紛争の種をはやく摘むべし-14.03.28

<鉄のカーテン>
 海外出張を度重ねると縁がある国とない国というのが出てくる。私にとってはウクライナ、キエフは非常に縁のある国、都市になっている。
 初めてキエフに行ったのは遥かかなた昔1985年、まだ、ソ連の鉄のカーテンの時代でチェルノブイリ原発事故の1年前である。官房企画室に長くいると海外出張のチャンスが巡ってくる。ほとんどの人は欧米先進国に行くが、私は国際協力課の担当も嫌がるアフリカか中南米のODAがらみで出張したいと申し出ていた。気のきいた担当が、「篠原さん、最も行けないところであればソ連です。普通行政官は誰も行けません。ただ、日ソ農業技術協力で研究者なら行けます」と教えてくれた。
 その年のテーマは土壌で既に3人の博士と土壌班の係長1人の4人布陣が決まっていた。私はさっそく土壌班長に私を行かせてくれと直談判に及んだ。班長は研究者で原課に研究所から出向していた管理能力も育成中(?)の研究エリートだけあって、話が分かり、私を行かせてくれることになった。私がアメリカ農業は、土壌も水も収奪型で持続性に問題があると書いた論文が功を奏していた。その土壌班長が後に農林水産技術会議事務局長・会長となる三輪睿太郎である。もちろんその時は12年後の1997年に私がNO2の研究総務官としてコンビを組むとは夢にも思っていなかった。これは人の縁である。

<元々違う国だったロシアとウクライナ>
 モスクワ、キエフ、レニングラードの土壌博物館や大学を16日間かけて回った。初の共産圏諸国への出張であり、印象深い出張だったが、特にキエフのヨーロッパと違った色彩の教会や建物が心に残った。少々自慢話めくが、私はソ連の崩壊までは予測しなかったが、ウクライナはいずれ独立するに違いない、と確信した。なぜかと言うと、キエフ空港に到着したところ、似たようなキルリ文字で空港の名前が2つ書いてあった。片方はロシア語、片方はウクライナ語だという。大学を紹介する綺麗な本も同じく2つの言語で書かれていた。「どっちの言葉を大事にして先に使うのか」と尋ねたところ、ニヤリと笑って「当然、ウクライナ語だ」と答えが返ってきた。
 ソ連は専門家に農業のダメぶりを見せないために、農地全体が真っ白に覆われた11月以降しか受け入れていなかった。モスクワは物不足で並んで買い物する人が目立ったが、キエフには食べ物も、洋服も豊富にあった。それも不思議だったので、「なぜモスクワには食べ物が少なくてキエフにはあるのか」と聞いたら、「あれは違う国だから送らなくていいのだ」、といった。ソ連は、名前の通りソビエト連邦であり、ロシア共和国とウクライナ共和国はもともと別の国だったのだ。ウクライナは1991年ソ連の崩壊とともに独立した。

<20年振りのチェルノブイリ30Km圏の入り口の写真>
 それから20年近く経ち私は2005年国会議員になっており、外務委員会視察でキルギスとウクライナに出張した。当選回数の多い先輩諸氏が行くべきところ、旧ソ連諸国(CCIS)は人気がなく(?)次々と辞退し、2期生の私にまわってきた。ウクライナには、私にはどうしても訪れたい所があった。原発事故を起こしたチェルノブイリである。「霧の中のチェルノブイリ」(2005年11月8日)に書いたが、30Km圏の鉄条網の入口で写真を撮ってきた。その後、予想だしないことであるが、6年後の2011年4月、同じ入口で、今度は農林水産副大臣として部下を連れて写真を撮ることになった。今度は非常事態省の案内で石棺にまで近づいて、無残な原発事故の残骸を見ることができた。(「原発の墓場チェルノブイリ再訪」11.4.28

<原発事故後学童疎開地だったクリミア保養地>
 そのウクライナが今危機に瀕している。3回も訪れたキエフがクリミア半島の分離独立、あるいはロシアへの編入で大騒ぎとなっている。私に親切にしてくれた色々な人たちの顔が頭に浮かび、非常に切ない思いに駆られている。特に一番最近の話で言えば日本に5年留学し、ウクライナで通訳を務めてくれたオリガさんの顔が一番真っ先に目に浮んでくる。原発事故が起きた1986年4月26日にどこに居たのかという話から、キエフの児童のクリミア半島への疎開の話が出てきた。小学生の彼女が1986年夏、高放射線量を避けて3ヶ月を過ごしたのはクリミアの保養地であった。その思い出の地がロシアに編入されたのである。

<コザックの有能なウクライナ人>
 大国の隣に位置した中小国というのは、その大国に対し一種異様の感情を持っている。アメリカに対するカナダあるいはメキシコの感情であり、半分は憧れ、半分は反発になる。ウクライナではロシアに対する反発の方を強烈に感じとれた。
 ロシアの料理はそれほどうまくないと言われているが、食べ物が豊富なウクライナの料理はボルシチに代表されるような非常に美味しいものがある。ただ悩み深い国であるということも分からないでもなかった。なぜかと言うと、一番最初に訪れた時、大学から空港に行く間に時間があるということで、どうしても見て欲しいところが有るということで連れて行かれたのがナチスの侵攻に対して戦ったウクライナ人のジオラマであった。ナチスがヨーロッパを席巻していた当時、ウクライナの中でもナチスに加担する人もいて、ヒトラーに忠誠を誓う書簡を送ったそうだ。一方、対独戦は相当熾烈になり、第二次世界大戦で最大の被害者を出している。つまりコザックの血をひく勇猛果敢な国民なのである。
 音楽の世界(ホロヴィッツ、リヒテルといったピアニスト)でも、スポーツの世界(サッカーのシェフチェンコ、大鵬)でも世界的に有名な人たちを多く輩出しており、非常に優れた民族である。

<東西分化融合の地は紛争の絶えない地>
 ところが問題はやはり、東西の融合地点であることから必然的に東西の紛争の狭間に立たされることである。長い歴史の中では、あちこちの支配下に置かれ、ウクライナという国は最近まで存在しなかった。ウクライナ人と言われているが、スラブ系であり我々からみるとロシア人と大して変わらない。ソ連の首脳ではフルシショフが典型的なズングリむっくりのウクライナ人であり、髭の生えたとんがった顔のスターリンはグルジア人である。
 ウクライナの民族構成は、ウクライナ人 77.5%、ロシア人17.2%と西側のキエフ付近はウクライナ人が大半であるのに対し、東側はロシア人が多くなる。他にタタール人も0.5%ほどいる。問題となっているクリミアでは、1944年5月にナチスの占領から解放された後、スターリン時代のソ連が、タタール人はナチス占領下で彼らに協力したと非難し、20万人のタタール人を強制移住させた。代わって多くのロシア系住民がソ連の他の地域からクリミアに移住してきたためウクライナの東側でのロシア人勢力が強くなっている。しかし、ソ連崩壊後多くが戻り、今やタタール人が15%となっている。彼らは再び怯えているに違いない。いずれにせよ紛争の種はつきない。

<今も紛争の種だらけのウクライナ>
 西側は、国家予算の1割をつぎ込むチェルノブイリという負の遺産を抱え、比較的豊かな東部を切り離してはやっていけなくなる。一方、東部はさっさと分かれてロシアに編入し安定的な経済支援を得たいという思惑がある。ロシア側にも、クリミアにあるセバストポリ基地はソ連時代からあり、黒海艦隊の艦船はロシア81%、ウクライナ19%の比率で分割し、ロシアは基地を租借している。そしてこの租借を打ち切られる検討もされており、ロシアとしては、地中海への窓口であるクリミアの基地を失うわけにいかないという焦りもあったのではないかとも見られている。
 ただ、もともと考えてみれば、ロシアの成りたちはキエフ大公国にあるし、戦後処理やソ連の参戦を決めた1945年2月のヤルタ会談はクリミアであったし、ロシアの心臓部に当たる。ロシアからすれば、ウクライナもクリミアもロシアにあってしかるべきだというのだろう。だからプーチンはソ連の崩壊を「20世紀最大の地政学上の悲劇」といい、復活を考えているという。何事にも一理はあるのだ。
 日韓、日中、日露にも領土問題があり、紛争地がある。しかし、いずれにしろ大国が武力を背景に国を分断したり、その一部を編入したりするのは穏やかではない。

<第二次東西冷戦か?>
 ウクライナやクリミアがどのようになってゆくのか気が気でない。ウクライナでは、2月に首都キエフや西部での大規模な反政権デモが起こり、親露派の政権が崩壊した。そこにはティモシェンコ元首相の所属する政党「祖国」だけではなく、反ユダヤ・ファシズムを主張する過激な極右の政党の存在も見え隠れする。ウクライナ人は自分の国の行く末を本当に心配して、しょんぼりしているというのが手に取るように分かる。
 国際情勢に与える影響も半端ではあるまい。やっと独立したバルト三国は、いつ編入されるのかとおびえ始めている。ロシアのような大国は接する国も多い。アメリカやEU諸国も黙っていまい。米ソ冷戦が終わり、東西対立の危険は遠ざかっていたが、再び元に戻ってしまうのではないかという懸念も生じてくる。
 それにしても、日本は極東の島国。国内が相当乱れても民族問題で二分する心配のない恵まれた国である。国内に分断の種を抱えながら、揺れ動く国際情勢に翻弄されるウクライナと比べたら、日本の政治などたやすいものである。それにもかかわらず、ピリッとしない政治状況は反省しないとなるまい。

2014年3月26日

巧みな党内運営で分裂を防ぐ維新の会-両院議員総会の採決で切り抜ける松野頼久幹事長の知恵―14.03.26

<特定秘密保護法で維新の会は両院総会採決>
 特定秘密保護法は、民主党は反対したが、維新の会は修正で合意し、結局は賛成した。みんなの党は、3人が退席、江田憲司は離党し分裂の引き金になった。維新の東(石原系、立ちあがれ日本)と、西(橋下系、大阪維新の会)の対立はいつものことだが、特定秘密保護法をめぐってさらに複雑な様相を呈した。東でも修正合意に賛成する藤井孝男、山田宏と、法案に反対する片山虎之助、小沢鋭仁、松野頼久に割れた。両院総会では藤井と片山が怒鳴り合う一幕もあった。
 しかし、この状況を切り抜けたのは、松野幹事長と小沢国対委員長の知恵である。両院議員総会で採決をし、賛成27、反対23でようやく賛成ということで分裂をまぬがれている。

<原子力協定を巡り両院議員総会の採決で再び分裂回避>
 これと同じことが、議論の多いトルコとアラブ首長国連邦(UAE)との原子力協定でも行われた。対トルコが賛成25、反対33で「反対」、対UAEも賛成28、反対31で「反対」で、反対することになった。これにクレームをつけたのが石原慎太郎共同代表である。例の調子で、「ばかばかしい。(多数決は)高等学校の生徒会のやり方だ。私は採決の時賛成しますよ」、「1年生と何十年もやってきた議員が同じ1票なんておかしい」等暴言を吐いた。

<暴走老人石原慎太郎共同代表も党決定に従う>
 この問題について石原共同代表が調査会長を任されたところ、3月6日の第1回エネルギー調査会は、会長の独演会となり、「自分は党の方針に反対で原子力協定には賛成なので賛成する」と明言した。それに対して大阪維新の会系若手議員の浦野靖人が「党を出ていったらよろしいですやん」と離党勧告し、その後も別の議員が「出て行ったらいいじゃないか」と批判を続けた。たまりかねた園田博之が「石原さんがそんなことを言うと党崩壊につながる」と発言の撤回を求めたが、石原共同代表は応じなかった。その後、調整がなされ、石原共同代表も矛を収め、党の方針通りに反対していくことになった。
 高校の生徒会だろうと国政政党だろうと、民主主義の基本は多数決であることをまざまざと見せつけた一件だった。

<松野幹事長に引き継がれた党の決定システム>
 私はこの一連の動きを横目で見ながら、松野幹事長の見事な党内ガバナンスに感心していた。そして、昔の一件を思い出し、「あの時にも両院議員総会を開いていたら」と悔やんでいた。
 先日松野幹事長と廊下であった折りに、「社会保障と税の一体改革でもめた時に、篠原さんが両院議員総会で採決をして、分裂を防ごうとしたのを、今私がやっているんです。あの時も篠原さんの提案通りしていたら...」ということを言い出した。私のかいた汗は、あの時は野田執行部の愚かな独善的対応により実ることがなかったが、こんなところに生きていたのである。
 維新の会の安倍首相を凌ぐタカ派的体質の政策はとても私には相容れられないが、党運営については一致する。政治は異なる意見をどうまとめるかの芸術でもある。

<民主党分裂の引き金になった執行部の裏口からの遁走>
 台風一過の2012年6月18日、雨と風が強い夜、党本部の地下で、社会保障と税の一体改革の真剣な議論がまた行われた。皆も必死でなんとかまとめなければならないと、中山義活議員が意見を言いまとめるための提案をしたところで、突然進行役がこれで打ち切ると宣言。執行部(ひな壇に並んでいた者)が、用意してあった裏口から遁走したのである。取り残された我々は、虚しさだけが残った。私はこれが党分裂の引き金になったと思っている。
 TPP、原発再稼働についても野田執行部は強引そのものであり、こんな不透明な進め方をする政党にはいられないという怒りが込みあげている時であった。逆に言えば、きちんと民主的に決めるなら、政党人として当然従うという声も広がっていた。

<両院議員総会に向けたたった1人の署名集め>
 詳細は二つのブログ「台風直撃の日の民主党合同会議(2012.6.25)」と「消費増税法案の採決に棄権した理由(2012.6.27)」に書いたが、私は、社会保障と税の一体改革で、このままいくと党が分裂してしまうという危機感から行動を起こした。
 6/7に「民主党の『民主的合意形成を実現する集い』」の会を立ち上げ、私一人の名前で両院議員総会の開催を求めて署名を集めた。全議員の3分の1(当時は132名以上)の要請があれば、速やかに両院議員総会を開かなければならないという党規約があり、156名の署名を集めて両院議員総会を要請した。ところが、野田執行部はこれに対し、党の命運を決する問題だったのにもかかわらず、政策マターは扱わないとか言い訳し、私の集めた156名の要請を無視し、両院議員総会を開催しなかった。私は、代議士会で「こんな正当な手続きも踏まない政策にはとても賛成できないので棄権する」と発言し、採決を棄権した。多くの同僚が反対・棄権し党を去っていった。その中に松野頼久(反対)、小沢鋭仁(棄権)がおり、後に維新の会に合流した。

<回避できた民主党の分裂>
 私は今でも正々堂々と採決して賛否を決めていたら、少しは造反する者が出ても、分裂することはなかったと思っている。石原共同代表が反対の大義を失うように、小沢一郎はじめ反対者は離党の大義を失い、離党できなかったであろう。たらればの話だが、分裂を防ぎ、まだ民主党政権が続いていたかもしれない。
 野田執行部は世紀の大事業をやるのだなどと舞い上がり、党内融和のために汗もかかず知恵も出さず、せっかくの政権の座をみすみす放り出してしまったが、その混乱をじっと見ていた勘のいい松野幹事長は、あの時の教訓をしっかりと記憶し、今維新の会の党内運営に取り入れているのである。そして、あのうるさい一言居士の石原共同代表も従うことになっている。彼我の政治感覚の差、度量の差を感じずにはいられない。

<懐の深い自民党の暴走チェック機能>
 安倍内閣がいまだ60%近くを維持する高支持率に恐れをなしてか、自民党内でも村上誠一郎が一人気を吐くぐらいだった。しかし、特定秘密保護法がろくに党内議論もせずに無理して通したことから流れが変わった。幹事長も政調会長も総務会長もと党三役がそろって、集団的自衛権の行使容認について慎重な対応を求め始めた。
 極めつけは9年ぶりの総務懇談会である。これまでの開催例をみると、03年のイラク復興支援、05年の郵政民営化と、党内を二分する問題の時には開催されている。
 自民党総務会は、やんわりと安倍首相の「解釈改憲」なり「閣議決定による集団的自衛権行使容認」にくぎを刺した。やはり、与党経験の長い政党には知恵が潜んでいる。これを宏池会OBの古賀誠がバックアップしている。

<民主党に訪れる試練>
 民主党は今その「立ち位置」が問われている。国民に対しては「居場所」という言葉を度々使ってきたが、野党民主党がどういう方向に行くのか国民は注視している。特定秘密保護法の反対、集団的自衛権の行使は容認せず、と党内の意見をまとめてきている。次の関門は、トルコとアラブ首長国連邦との原子力協定である。
 私は、与党時代、ヨルダン、ベトナム等との原子力協定に棄権し、全役職停止という処分を受けている。 前回は、党内論議が行われていることを知らずにいて、急に本会議にかかったので棄権した。しかし、今回は5回の党内論議に皆勤し、大反対の意見を述べている。
 民主党は与党からの大量離党者がなぜ生じたのか、そしてなぜ3年3ヶ月の短い政権に終わってしまったかを真剣に反省し、党内運営にもっと汗をかき知恵を絞らないとならない。

2014年3月20日

安倍政権下で国立追悼施設の建設を -集団的自衛権の行使や憲法改正より国益にかなうー 予算委員会報告9 14.03.20

<ロンドンエコノミストの炯眼>
 安倍首相は、野党自民党時代、民主党が日米同盟関係を粉々にしていると非難していた。60年以上政権の座にある自民党政権には、外交のノウハウがあると自信満々だった。そして歴代政権がそうしているように政権についてからすぐアメリカ訪問しようとしたが、どうも歓迎されず、ようやく年が明けた2月になって訪米した。12年末の総選挙時の選挙公約では、TPPに断固反対するという、いわゆる「政策ポスター」を貼りまくったのにかかわらず、コメなどの聖域が認められるからTPP交渉に参加するという日米共同宣言を外交上の勝利と大見得を切った。日本の重要5項目の聖域を、交渉によっては認められることにしたのは安倍外交の成果である、とメディアも提灯記事のオンパレードだった。
 それに対して、ロンドンエコノミスト(13年3月2日)はそもそも安倍政権のタカ派的な姿勢がアメリカ政府を悩ましている、とその当時から警告を発していた。ロンドンエコノミストの指摘が顕在化するのは13年12月26日政権1年目の節目の靖国神社参拝である。安倍首相本人のみならず周辺の人たちの歴史認識、特に従軍慰安婦問題に関するタカ派的発言が重なり、中国・韓国との関係はそれこそ冷え切っていた。

<外交上の大失敗>
 今も政権発足後1年以上経ているのに両国首脳の二国間会談が行われていない。七年前はアメリカよりも中国、韓国訪問を先にしたのと大違いであり、異様な隣国との関係が続いている。私は2月27日の予算員会で「極東の『イスラエル』化する日本」の表を示し(予算委資料15)(14.1.10ブログ)「本当に日米同盟関係なり、外交関係は回復したのか。もっとひどくなっているのではないか」と問い質した。安倍首相は他の質問者への対応と異なり、私の質問に対してはあまりいきり立たない。この時も素直にその非を認め、「外交問題になっているのは大変不幸だ。まだまだ私の努力も足りないと認識している」と答えている。

<警告を発し続けたアメリカ>
 アメリカは確かに勝手な国である。南京大虐殺、従軍慰安婦等歴史認識問題をいろいろあげつらいながら、片一方で、国際法上も許されない広島・長崎への原爆投下、その他東京大空襲等の非戦闘員への爆撃について頬被りして何も語らない。後述する安倍政権の偏った人事で選ばれた側近(?)が、この件について過激な発言を繰り返すが、一理あることである。お互いに批判は控え、逆に非は非として認め合う度量が必要である。靖国神社への参拝のどこが悪いといった開き直りは、一国のトップとしては絶対にやってはならないことである。
 安倍首相の靖国神社参拝へのこだわりは予想されたことから、2013年秋に訪日したケリー国務長官とヘイゲル国務長官はそろって千鳥ヶ淵戦没者墓苑に参拝し、靖国神社に参拝すべきでないというアメリカの意志を明確に伝えていた。それにも関わらず、安倍首相は敢えて参拝したのである。

<安倍お友達人事は失敗の連続>
 この時期での靖国神社への参拝は、いくら安倍首相が二度と戦争を起こさないと誓うためとか、お国のために生命を捧げた人たちに手をあわせてどこが悪いと取り繕っても、明らかに外交関係を損ね国益に反する。籾井勝人NHK会長、百田尚樹、長谷川三千子の両NHK経営委員、衛藤晟一首相補佐官、そして本田悦郎内閣参与等側近ら、安倍首相の色がついた人たちの一連の発言が、これに追い討ちをかけている。日中関係のみならず、安倍首相が殊更重要視する日米同盟関係も相当ギスギスしたものになってしまった。ただ、今更参拝すべきでなかったと嘆いても始まらない。

<安倍首相にしかできないこと>
 我々はここからいかに各国との関係を修復していくかを考えなければならない。
 逆説的になるが、私は安倍首相こそ隣国との関係をこじらせる靖国神社問題を解決する絶好のポジションにいると考えている。世の中では同じことをしようとしても、あの人が言うなら仕方ないということがよく言われる。遺族会や靖国関係者の信頼が厚く、保守派の代表的政治家と目され、なおかつ現職の内閣総理大臣として靖国神社参拝を敢行した安倍首相にしかできないことがある。靖国神社に参拝し続けた小泉首相ですらできなかったことである。
 それは靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑の関係を明確にし、日本の国立戦没者追悼施設問題を解決することである。これは靖国神社を大切にし続けてきた安倍首相にしかできないことなのだ。私は予算委員会でもこの点を指摘し、安倍首相の行動を促した。マスコミはどこもこの点を取り上げなかったが、視聴者の中にすぐ気付いた人もいた。実は、今回の質問の中でこの点こそ私が最も訴えたかったことである。

<タカ派のレーガン大統領だからこそ軍縮交渉に成功>
 予算委員会で私はレーガン大統領の核軍縮を例に挙げた。レーガン大統領はアメリカを象徴する威勢のいい、明るいトップリーダーであった。冷戦時代のまっただ中、デタント(緊張緩和)の必要性が叫ばれていたにもかかわらず、ソ連を「悪の帝国」と名指しで非難し、タカ派路線を突っ走った。「力による平和」が必要だとしてソ連との軍拡競争に明け暮れていた。しかし、一方で米ソ核軍縮交渉を始めることになった。
 1985年ゴルバチョフという相手に恵まれたこともあり、精力的に2人の会談がもたれ、1987年12月、中距離核戦力全廃条約が成立した。皆がそんなことができるのかと見守る中、2692基の核弾頭、弾道ミサイル、巡航ミサイルが廃棄されたのである。長い間の米ソ冷戦から脱却する第一歩となった。こうしてレーガンは歴史にその名をとどめたのである。

<レーガン大統領と安倍首相の共通項>
 これが軍をないがしろにし、軍縮を主張していた大統領であったらできなかったことである。アメリカの強烈な産軍複合体、軍部OBその他がこぞって反対するからである。それに対して、名うてのタカ派の軍備拡張論者、レーガン大統領が軍縮を言い出しても、仲間のタカ派、軍関係者、軍事産業関係者も文句を言えないことになる。
 それと同じことが、安倍首相の靖国神社の対応にも言えることになる。日本がいつまでも靖国神社にこだわっていては、中韓はもちろんのこと世界各国との友好関係は保てなくなってしまう。死者に対する文化の違いから、いくら説明しても説明しきれるものではない。

<A級戦犯の合祀が問題の靖国神社>
 1978年、国神社の宮司が突如A級戦犯14名を合祀したことから靖国神社問題が始まった。それまでは、天皇陛下や歴代首相も参拝し、何も問題はなかったが、東京裁判でA級戦犯とされた人たちを祀ったことから、以降天皇陛下は参拝せず、1985年に中国、ついで韓国があれこれ言うようになった。中韓2国の主張は誇張しすぎ、執拗すぎ不愉快ではある。しかし、高社郷の開拓農民人を集団自決に追いやるような無謀な戦争を遂行した責任者をも一緒に祀ることには釈然としない。罪は罪であり、責任をとるべき者はとらなければならない。
 誰かがこのややこしい靖国神社問題を解決しないとならない。今までも何回もこの問題を解決しようと試みられたが、全て頓挫している。一番最近では、2001年12月福田康夫内閣官房副長官のもと、「追悼・平和祈念のための記念碑等施設のあり方と考える懇談会」も設けられた。そして2002年に「国を挙げて追悼・平和祈念を行うための国立無宗教の恒久的施設が必要であると考えるに至った」と結論されたが、実現には至っていない。

<誰もがわだかりなく参拝できる施設が必要>
 日本には軍人を祀る靖国神社はあっても、満蒙開拓でソ連軍の侵攻により命を失った人たち、東京の大空襲の犠牲者、原爆投下で亡くなった人たち等、民間人を含めたすべての戦没者を祀る施設がないのは不平等でしかない。軍人以外でも祖国の礎となって命を捧げた人々に感謝してお参りし、それこそ二度とこのような愚かな間違いをしないための誓いをする施設が必要なのだ。アメリカのアーリントン墓地の無名戦士の墓、イギリスのトラファルガー広場の戦没者慰霊塔、フランスの凱旋門の無名戦士の墓に並ぶ日本の国を代表する追悼施設ができれば、中韓を含む世界の首相も何のわだかまりもなく参拝し、日本の首相であろうと誰であろうと参拝してもとやかくいわれなくなるのだ。
 いかなる国家も、国家のために命を捧げた戦士に対して敬意を払う権利と義務がある。そして、その対象は軍人に限られるべきものではなく、あらゆる戦没者としなければならない。

<禍(靖国参拝)を転じて福(中韓との良好な関係修復)と為す>
 今、安倍首相はこの点では絶好のポジションにある。外交上相当の国益を冒し、靖国神社に参拝したのである。この安倍首相が靖国神社のA級戦犯合祀問題を解決し、中国・韓国、あるいは欧米にもとやかく言われない国立の追悼施設をまとめると言い出しても文句のつけようがない。靖国神社をお参りし英霊に対し最大限の敬意を表した安倍首相が言うのであるから、日本遺族会も靖国神社もそう簡単に反対できまい。靖国神社で会おうといって散った英霊をないがしろにするものではないからだ。
 これは、ハト派政権には絶対出来ないことであり、歴代自民党首相でも安倍晋三だけしかできないことなのだ。ピンチはチャンス、禍を転じて福と為す典型にすることが出来るのだ。
 これを解決すれば、近隣諸国とのいざこざが一挙に減ることになる。これは安倍首相が目論む、集団的自衛権の行使を認め、国防軍を作ることより、ずっと外交的な成功として歴史に名が残ることになる。私は安倍首相に、本当に心から靖国神社問題を解決してもらいたいと思っており、それが靖国神社に眠る英霊たちの願いでもあると確信している。もし本気で安倍首相がこれを解決するためならば長くやってもらってもよいと思っている。

2014年3月14日

農業・農家・農村をないがしろにする日本―農業過保護は50年前の話-予算委員会報告8 (兼TPP交渉の行方シリーズ17) 14.03.14

<規模拡大の進まない耕種農業>(予算委資料6)
 前回ブログのとおり、耕種農業では規模拡大は遅々として進まない。日本の平均経営面積が0.88haから2.3haに拡大したが、アメリカは73倍(170ha)、オーストラリアは1304倍(3025ha)と足元にも及ばない。英(84ha)、仏(54ha)、独(56ha)にも遠く及ばない。アメリカのとうもろこしの栽培面積35万k㎡は、日本の総面積37万k㎡とほぼ匹敵する。
 輸入金額では飼料用穀物が約5000億円と豚肉を凌いで農作物では最大である。輸入量は1197万tに達し、これを生産するのに必要な面積は、163.2万haと日本の総耕地面積465万haの約3分の1に当たる。
 つまり、規模においてはとても諸外国と肩を並べるような農業経営というのは無理なのだ。

<耕種農業の規模拡大は生物条件の悪い地域でしか進まない>
 日本や東南アジアで大規模農業が行われてこなかったのには理由がある。雨が多く、日照時間も長い地域は、生物生産能力も高く、従って土地生産性も高い。だから、手間をかけるだけの価値があり、集約的農業が発達した。それに対し、緯度が高く冷涼で、降雨量も少ない地域は、土地の生物生産力も低く、粗放的農業しかできなかった。つまり労力をかけても見返りがないことから大規模粗放農業化につながったにすぎない。
 日本の農業は雑草と病害虫との闘いでもある。高温多湿の日本は、植物生産にも向いているし、昆虫(農業生産にとっては害虫)や菌類(病原菌))の生育条件にも向いている。人間に都合のよい作物を選び出したところで、雑草と病害虫の攻撃に晒される。だから土地生産性を重視して集約的農業が発達したのである。それに対し、北緯50度、年間降雨量が600mmぐらいの大陸国では、人間に都合のいい小麦だけを栽培しても、雑草もそれほど生えず、病害虫の発生も少ないので、人工管理しやすく、大規模粗放農業が可能になる。つまり、工業と異なり、農業は自然条件によって異なる形態にならざるをえず、日本には「日本型農業」しか定着していないのだ。

<第二次財界農政>
 日本農業が過保護というプロパガンダは、財界の農政提言が出された第二臨調時代から、ずっと定着してしまった。それがまた再び産業競争力会議、規制改革会議の農業が何にもわからない人たちの議論で再び農家過保護論が沸騰している。
 日本の農政を変える提案が、農政や農業の専門家が誰一人メンバーとなっていない産業競争力会議から出ている(予算委資料10)。安倍総理は、私の集団的自衛権の行使を容認する者ばかり集めた安保法制懇は偏っているという指摘に対し、「空疎な議論は排除するため、安保法制懇は専門家ばかりにした」と答弁したが、そうであるならば、農政について何もしらない門外漢が、空理空論を述べているだけにすぎない産業競争力会議はおかしい。それで日本農政を決められ、農業を壊滅されてはたまらない。

<農業予算を減らし続けた日本>
 財界が一丸となって吹聴した日本農業過保護論は、全くの間違いである。今、世界で予算的に見てこれほど農業をないがしろにしている国はない(予算委資料7)。
 総予算は1970年の7兆9497億円から、92兆6115億円と11.6倍になっている。大きく増えた理由の一つは、厚生労働省の社会保障予算の拡大である。40年前には1兆2200億円(15.4%)にすぎなかったものが、今は、29兆4300億と、24.1倍(31.8%)に増えている。
 防衛省は、7.2%の割合が5.1%に下がったけれども、金額では8.2倍になっている。文科省も、割合こそ11.4%が5.8%と減ったけれども、予算額は5.9倍に伸びている。
 それに引き替え農林水産省の予算は、9177億円から2兆2976億円と僅か2.5倍に増えたにすぎず、割合は、11.5%から2.5%に激減している。これでは農業を大事にしてきたと言えるはずがない。

<国際比較をしても保護の度合いが低い日本>
 もう一つ、外国と比べた場合である。日本ほど農業を保護している国はないとよく言われるが、これこそ本当にとてつもない間違いなのである。(予算委資料8)

① なにを以て比較するかというといろいろあるが、まず一つは、国家予算に占める農林水産予算の比率がある。これを日韓米英独仏の6ヶ国で比べると、日本はイギリスの1.3%についで2.5%と下から2番目である。つまり農業保護が2番目に低い国ということになる。1番過保護は韓国で、5.9%である。

② 次に、農林水産予算の生産性。これは、簡単にいうと農林水産予算が何倍の生産額を生み出しているかという指標である。日本が2.49倍と1番効率のいい国になっている。一番過保護で生産性が低いのは、先ほどの農林水産予算に対する比率と違ってイギリスで、農業予算の1.28倍しか生産していない。

③ 次に国民一人当たりの農林水産予算は、あまり差がない。一番少ないイギリスが179㌦。一番大きいフランスが283㌦と、1位と6位が大体1.5倍ぐらいの差であり、差が一番少ない指標である。つまりどこの国も農業については同程度の国民負担をしているということになる。日本はこの点でもイギリスについで2番目に低い183㌦になっている。

④ 1農家当たりの農林水産予算。他の国は水産予算が含まれておらず、日本は農業予算だけだともっと少ない。これは各国の差がかなり大きくなる。まさに農家を保護しているかどうかという最も直接的な指標であるが、日本は1農家当たり9,200㌦ともっとも低く、1番保護水準の高いドイツの48,100㌦と比べると、約5分の1以下になっている。
 日本に農産物を大量に輸出しているアメリカは、ドイツに次ぐ2番目の農家保護国(38,000㌦)であり、日本の農家の約4倍の手厚い保護を受けている。つまり、保護されているから生き残っているということである。
 日本は、小規模零細農業が多く、農家が手厚く保護されているという一般的な認識と大きく異なり、日本は少しも農家を守ってこなかったのだ。だからこそ農家戸数は激減し、後継者が育つことがなかったのである。「農業を保護し、農業の生産性の向上をしてこなかった」という通俗的論評がいかに間違っているかわかっていただけると思う。

⑤ 1農家当たりの直接支払い額になると、日本はこの政策を導入していない韓国についで低い3,100㌦である。一番大きいドイツは、21,556㌦と日本の約7倍に達している。直接支払い制度はEUで考案されいち早く導入されたこともあり、独、英、仏とも大体同じレベルであり、アメリカですら日本の約2倍となっている。日本は民主党政権下で農業者戸別所得補償としてやっと本格的に導入されたが、それでも欧米諸国と比べてずっと少ない。

 こうした数字からみても、日本の農業は予算的にも何も保護されていないということが明らかである。保護されている度合いが高いのはヨーロッパ諸国であり、ひょっとすると日本は農業大国アメリカよりも保護度合が低いといえるかもしれない。

<間違ったイメージの原因>
 なぜ、このようなトンデモナイ「デマ」なり、「プロパガンダ」「マインドコントロール」がはびこっているのか、私にはよくわからない。私が国会でつまびらかにする前に、農林水産省(大臣官房)が、きちんと世間に説明すべきものをその努力を怠っているのも一因である。
もう一つ考えられるのは、やはり土光(第二次)臨調時代に貼られた「3K(国鉄、コメ、健康保険)赤字」「過保護」のレッテルが今も生き残っていることである。1970年代は、予算資料7のとおり、農林水産予算の総予算に占める割合は11.5%と、2013年(2.5%)の4.6倍を占めていた。この頃の国際比較をすれば、相当高い保護水準だったと思われるが、この40~50年で大きく変わったのである。ところが、日本のマスコミや経済評論家は、この間違ったイメージで論評し、それがはびこってしまっているのだ。

<それほど高くない日本の農産物関税>(予算委資料9)
 次に問題の関税である。これは、当然アメリカの農産物の平均関税が5.5%と低い。しかし、主要な国ではEUが19.5%、日本が11.7%とEUより低い。韓国が62.2%と比べて日本よりかなり高くなっている。コメなどは関税を高くして守っていることは厳然たる事実である。しかし、だからといって鎖国しているようにとられているのはもってのほかである。日本は農産物の総生産額5.7兆円に匹敵する約5.5兆円の農産物を輸入しており、この結果を見れば閉鎖的だなどといわれる筋合いはない。むしろ開国され過ぎているのだ。
 このように関税においても農業予算においても、日本が農業の過保護な国とは言えない。ところが農政議論をする時にいつも出て来るのが、「規模拡大が進んでいない」、「農業は過保護だ」であり、この間違ったイメージを大前提にして議論が進んでいる。

<関税が必要な理由>
 これでお分かり頂けたと思う
① 果樹・野菜は新鮮さが必要であり、それなりの国産志向があることから、日本はそこそこやっていける。そのため日本の関税は著しくゼロに近づき、ほとんど自由化されているといってよい。

② 狭小な土地という制約をうけない畜産は極限まで規模を拡大している。

③ 土地の制約を受ける土地利用型農業(米、麦、大豆、菜種、そば等)は、どうあがいても新大陸の広大な農地と同じ(労働)生産性に達することは不可能である。

 もし関税をゼロとするならば、EU諸国と同じように直接支払いにより農業ないし農家を保護していかなければ、農業も農家も農村も存続していけない。
 ところが、日本には残念ながらそうしたコンセンサスもなく、今は財政負担能力もない。となると関税で守るしかないということになる。関税はどこの国にも認められている権利であり、WTOも関税をゼロにしろとはいっていない。それを関税ゼロが出発点というTPPは、国境をなくし同じ国にしろという意味であり、そもそも相当無理があるのだ。関税ゼロはよく言われるように、日本がアメリカの51番目の州になるのと同じことなのだ。国民はこのことにまだ気付いていない。それよりも何よりも我が国の伝統文化、社会制度を壊す道具となりかねない危険なものなのだ。

2014年3月10日

規模拡大が極限に進んだ日本の畜産 -牛肉・豚肉・乳製品に関税が必要な理由- 予算委員会報告7 (兼TPP交渉の行方シリーズ16) 14.03.10

<二つの重大な誤解を解く>
 2月27日、私はTPPとエネルギーの集中審議で予算委員会に立った。TPP本体は、決裂であり、この件については自公の質問者が質していることを想定し、私は「なぜ牛肉と豚肉の関税が必要か」を根本から、国民に、そして閣僚や議員にわかってもらうために、講義調の質問をした。そのため、わかりやすいデータを時間をかけて作成し、11個のパネルで示した。
 余談だが、パネルは1枚だけは党が負担、残り10枚は自前であり、かなりお金がかかる。しかし、国民にわかってもらうためには必要な出費である。
 我が国の農業、農政については様々な誤解・曲解がある。安倍総理の言葉を借りるなら悪質なプロパガンダ、マインドコントロールである。その中から、日本の農業に関税がなぜ必要かということに関し二つの重要な誤解を解かなければならない。
 間違ったイメージの一つは、日本の農業は規模が小さく、規模拡大の努力をしていないということ、そして、もう一つは、保護が行き過ぎて競争原理が働いていないことである。

<耕種農業に向かない狭い国土>
 米、小麦、大豆、そば等のいわゆる土地利用型農業(耕種農業)については、規模拡大が進まない。1960年に0.88ha.だったものが2010年1.98ha. 2013年2.3ha.と僅かに拡大しただけである(予算委資料3)。農民は兼業化してもやはり自分の農地を耕したいという強い気持ちをもっており、1年に数日しか使わない高い田植機や稲刈機に巨額の投資をしている。経済学上ありえない非経済的行動をとっている。
 しかし、私は農民の農地への執着は極めて健全なことと思っている。農民が農地への愛情を失うようになったら、農業は亡び、国も亡んでしまう。だから経営耕地面積の規模拡大が進まないことを一方的に嘆く必要もない。ひたすら規模拡大を是として、農地を使い捨て、最終目的は転売利益を得ようという企業の手に渡してはならない。

<農家を守らずに生産性だけを目指した畜産は経済学上の優等生>
 2月26日夜、翌日の予算委の質問の整理をしている最中にテレビ朝日の報道ステーション古舘伊知郎キャスターの声が耳に入ってきた。産業競争力会議の新浪剛史ローソン社長と大根の契約栽培を始めた農家を紹介、やればできる日本農業といったストーリーの企画物だった。古館キャスターは日本農政は農家は守ってきたが、農業は守ってこなかったといういつもの一般的なコメントを述べていた。
 しかし、真実は全く逆なのだ。日本は農業の生産性を重視するあまり、効率性のみを追い求め、農家を見殺しにし、さっぱり守ってこなかったのである。だから農家戸数は急激に減少してしまった。それは、この50年間の畜産業の変遷を見るとよくわかる(予算委資料1)。
 一口に農業と言われるが、上述の耕種農業と面積をそれほど要しない農業、すなわち畜産や果樹・野菜等とでは大きく異なる。日本の農地なり土地の狭さの桎梏を持つ耕種作物とそうでないものとの差である。

<飼料穀物を原料とする加工畜産>
 日本の畜産は、いわば「加工畜産」である。この言葉も私はかなり昔から使い始めたが、今はすっかり定着している。つまり、外国、特にアメリカから約1200万tもの大量の資料用穀物(とうもろこし、こうりやん等)を輸入し、それを農家が肉、牛乳、卵に加工生産しているのが日本の畜産である。それは「これといった鉱物資源に恵まれない日本は鉱物資源を輸入し、それを原料にして製品を製造し、外国に輸出するという加工貿易立国で生きていくしかない」と、社会科の教科書で教えられたことの延長線上にある。
 鉱物資源と同様に農地も足りないのだ。だから広い農地を必要とする農作物の一部も輸入しないとならない。主食(米)は死守して日本で作るが、その他は外国から輸入しても仕方ないということになり、小麦、大豆、飼料穀物等は国内生産を諦め、輸入の拡大により対応してきたのである。

<鉱物資源も農地も足りない狭い日本>
 今、我が国の農林水産物の総輸入額約8兆円は、日本の農林水産業総生産5.7兆円を上回る。食料自給率は40%だが、生産金額でみた場合でも国内生産は42%とほぼ同じレベルだ。
 その点では、日本の畜産をもう一つわかりやすく言えば、いわばAnimal Farm(動物農場)なのだ。工業と同じように、外国から飼料用穀物を原料として輸入し、日本で加工品(肉、牛乳、卵)を生産しているが、工業との違いは、外国に輸出せず、ほとんど国内で消費していることである。その点、オランダは加工畜産で輸出し、日本の工業と同じことを農業(畜産)でしていることになる。

<卵は図抜けた物価の優等生>
 卵は物価の優等生といわれる。1960年も1Kg当たり198円、2013年の今もKg当たり194円とほとんど変わらない。他はすべて値上がりしているのにまさに驚異的なことである。(予算委資料5)
 この間にサラリーマンの月給は、1960年が1万8500円、2013年は32万3000円と17.5倍に、同じ農作物のコメは60Kg/円で、60年に4,162円であったものが、2013年には14,582円の3.5倍となっている。一方、杉丸太は、1㎥あたり60年に11,300円が、13年に11,500円と卵並みにほとんど値上がりしていない。急斜面ばかりで卵のように規模拡大ができないため、日本の林業は衰退し、中山間地域は限界集落だらけになっている。
 ちなみにJR運賃は、山手線1区間10円が130円と13倍、ビールが大瓶1本は125円が315円と2.5倍、森永ミルクキャラメルは、20円が120円になり、6倍となっている。つまり、卵と杉丸太以外は、程度の差こそあれ皆高くなっているのだ。

<にわとりが走り回る農家の庭先>
 1960年、鶏を飼っている農家戸数は360万戸もあった。いわゆる庭先養鶏である。どこの農家にも「にわとり小屋」があり、放し飼いされていた。私もそうした典型的な農村、農家で育っている。冬に注文した黄色いかわいいひよこが各農家に配られてきた。それを暖かい部屋でかつ電球で暖めて大事に育て、大きくなったら小屋に入れた。
 1960年代の農村は貧しく、また自給自足体制が相当残っていたのである。卵を産まなくなった老鶏は祖父が捌き、チキンカレーや鶏肉のすき焼きを作った。これは子供の誕生日の定番の料理だった。のどかな農家の暮らしが営まれていた。

<すさまじいインテグレーション>(予算委資料4)
 しかし、10年後の1970年、卵生産者は167万戸と激減した。急激に経済成長が進み、社会構造、産業構造が変化しはじめたのである。その後、養鶏と採卵鶏は急激に規模拡大が進んだ。いわゆるインテグレーションであり、今はわずか約3000戸(正確には約3000経営体)となった。1970年比560分の1に減り、飼養羽数の規模は70羽が今は49,400羽と706倍となった。大半の人々はこの極端な規模拡大への突進の事実を知らない。

<養豚は世界一の規模>(予算委資料1)
 日本の畜産業は他の分野もそれぞれ急激に規模拡大した。そして日米韓英独仏の6か国の中では、日本はアメリカに次いで規模が大きくなっている。なかでも養豚では1,435頭とアメリカの946頭を凌ぎ1番大きくなっている。ヨーロッパ諸国と比べた場合、他の畜産はイギリスには劣るが、大半は独仏を凌ぐ規模となっている。このように畜産の世界では効率性を重んじるあまり、畜産農家が次々と消えていくことことには何の意も注がなかったのである。
 このように、畜産の規模拡大、特化はすさまじいものがある。従って、規模拡大によるコスト削減は極限に達しているのである。古舘コメントと大きく異なり、日本は農家を見捨てて、農業だけを守ったのである。ところが、まことしやかに農家を過剰に保護したため、生産性が向上しなかったと、全く間違ったイメージが定着してしまっている。