« アベノミクス農政批判シリーズ6 「規制改革会議提言逐条(項目)反論コメント2」 14.07.10 | メイン | 滋賀県知事選シリーズ② 三日月個人演説会の篠原スピーチ ―本音ユーモア紹介-14.07.11 »

滋賀県知事選シリーズ① 三日月滋賀県知事候補応援―勝利して安倍政権の暴走にブレーキ-14.07.11

私は、5月24日の「チームしが」事務所開き以来、出入り15日に及び、大津の安ホテルに泊まり滋賀県知事選の応援に明け暮れている。12年末の野田自爆解散の大敗北以来、同僚議員の選挙応援は、平岡秀夫山口県区参議院補選、打越明司鹿児島2区補選に次いで3回目だが、今回幸いに手応えを感じつつある。

<篤農家松井浄蓮に始まる滋賀県との縁>
 私は、同じ大津のホテルに陣取っているが、1979年以降貯めておいた滋賀県関係者の名刺のコピーを持参している。いつの頃からか名刺を各県別に整理し始めたが、滋賀県は少ない部類に属する。それでも一箱に達している。ただ年代が偏り、ほとんどが1980年代のものである。奥村展三前衆議院議員にチェックしてもらったところ、大半が亡くなっていた。

 私は、ふとしたきっかけから農政についてモノを書き始め、本をだし、それが故に全国各地に呼ばれるようになった。そうした一人に、大津市坂本の萬世協会、麦の家に住む松井浄蓮という篤農家がいた。エコノミストに掲載された拙論「アメリカ農業の知られざる弱さ」(1981年9月22日号)を読み、私の職場、内閣府の内閣総合安全保障閣僚会議担当室に尋ねてきたのだ。当時既に80才を超え、作務衣に高下駄で内閣府(総理府)の守衛さんから「変な人が篠原さんに面会に来ている」と電話があった。
 私を見て「フーフー」と言いつつ、上から下まで眺めていた。「こげな若い人とは思わなんだ」が第一声だった。私には、このような農家の老人がエコノミストを読んでいること自体が不思議だった。

<聴衆の一人が武村正義知事>
 そして、坂本の麦藁で葺いた家の囲炉裏端での勉強会にお邪魔した。ただのメンバーではなかった。もちろん近隣の農家の皆さんもいたが、猪木正道、山岡力、渡部忠世京大教授の方々、比叡山の高僧、そして若き日の武村正義滋賀県知事がいた。私のほうこそ話を聞かせていただきたい人たちばかりであった。
 それから10年間1991年にOECD代表部への出向でパリに行くまで、毎年1回は必ず勉強会に参加した他、全国各地の松井ファンの所へも一緒に連れて行かれた。松井さんはただの農民ではなく、1961年のはるかかなた昔、農業基本法成立時に、自民党の農林部会に唯一反対論を述べる参考人として呼ばれていた。その時の小委員長が井出一太郎衆議院義員(後の農林水産大臣、官房長官)。「小さくともやっていける、規模拡大ばかりは間違っている」と意見陳述したという。拙書「農的小日本主義の勧め」と通ずる考えであった。

<三日月出馬への関わり>
 武村さんとも1983年以来、30年間以上の付き合いになる。私の全国後援会会長もやっていただいている。嘉田由紀子知事も10年以上前からの知り合いのエコロジスト仲間である。詳しい経緯は一切省くが、今回の滋賀県知事選出馬、嘉田知事からのバトンタッチ、武村・嘉田・三日月トリオの結成には少なからずかかわっている。
 かくして今回の滋賀県知事選の責任の一端を担わなければならない立場にあるため、今日7月11日で15日目の大津滞在になる。

<効果がそれなりにあった農協回り>
 私のこうしたときの役割はいつも決っている。農協(16)巡りである。6月9日に回り始めたが、組合長の皆さんにもなると、私が何をしているか知っている方も多く話が弾み、途中で中断。2回目は、告示直前の25日になってしまった。
 その間6月13日に、それこそデタラメな規制改革会議の農業委員会、農協、農業生産法人に関する提言がまとめられた。18日には農林水産委員会でこの件で質問した。後藤田正純内閣副大臣が、用意されたダラダラ答弁を長々とするのに辟易した。
 その時の質問一覧、議事録、私のいつも用意する関係資料を持って、残りの農協を回った。農政連(農協の政治団体)は、いつものとおり自民党系の候補の推薦を決めていたが、アベノミクス農政批判(シリーズブログ1~6)にあるとおり、農協側、農家側の反発はかなり強い。これが次号のちょっとした話もあるが、三日月有利に動くことは間違いない。私は、名刺交換した相手の皆さんのメールやFAXに上記のブログも送付して、三日月支援を訴えた。いつにも増して効果はあったと思っている。

<ナイスガイ三日月大造>
 順序が逆になったが、三日月大造候補を紹介しておかなければならない。
 一言、「ナイスガイ」(いい奴)である。43才と私と二回り近く違う。彼は若いので「三日月」と呼び捨てにする当選同期議員が多いが、私は秘書も記者も官僚も党職員も皆年下になってしまったが、全員「さん」付けで呼んでいる。調子のいい三日月さんは、尊敬の念が込められているとは思えないが、私を形だけは(?)「先輩」と呼ぶ。
 私のそこそこの鑑識眼からすると、なかなかの上玉で、ひょっとして将来の総理候補かもしれないと思い、多分嫌がられていると思うが、少々お節介をし、世話を焼いてきた。将来性を見込んだからに他ならない。

<数少ない議運・国対肌>
 「民主党には、理屈をこね政策を話す立派な人はいっぱいいるが、まとめ役や裏方をきちんとできる人が少ない。三日月さんは、声はでかいし、人柄はいいし、物怖じしないし、調子もいいし、議運・国対をやったらよい。民主党は政権運営がからきし下手クソだったのもここに問題があったからだ。竹下登首相も大島理森副総裁も皆議運・国対育ち、民主党にも必要になるから、そっちで汗をかいたらいい」が私のアドバイス。もう一つ余計なことを言うと「第二の安住淳」を目指し、超えろということである。
 それに従ったのかどうか不明だが、少なくとも議員をやめる以前は、議運の筆頭理事で国対副委員長、誰からも愛される男である。有権者の目も節穴ではない。接すれば接するほどファンが増えていくタイプである。

<日吉中学校生徒会長の手腕>
 嘉田後継として知事選出馬話が持ち上がった時は、大半の同僚議員は止めた。しかし、私は積極的に背中を押した。一議員より組織のトップに向いていると思ったからだ。後述(例の私のユーモア入り紹介話)もするが、日吉中学校が荒れ狂っていた時に、生徒会長として「We love日吉」というスローガンの下にまとめ上げ鎮静化させたという。大物政治家の片鱗を当時からみせていた。彼が政治家を目指すことになる原点という。
 初出馬の折り、川端達夫県連代表の所にいい大人が「中学生の三日月さんに大変お世話になった。そのころから政治家に向いている。いつか政治家になってほしいと思っていたらやっと出てきた。是非当選させてほしい」と言ってきたという。「いい大人が何で中学生の三日月の世話になるんだ」と不思議に思ったところ、当時の日吉中学校のPTA会長だった。困り果てていたのを見事に収拾してくれたのが少年三日月であり、その資質を当時から見抜いていたのだ。
膳所高校、一橋大学を経て、JR西日本に8年間務めた後、一念発起して松下政経塾に入り、2003年衆院選挙に初出馬以来4期連続当選。与党時代は国土交通副大臣も勤めている。
 衆議院議員の座を捨てての出馬も、JR西日本退職と同様に決断のいることである。要するにトップの資質として必要な決断力もある。とうより大胆すぎるぐらい大胆なのだ。

<慢心が過ぎる安倍首相と一強与党自民党>
 自民党は鹿児島2区補選では、日米共同声明まで遅らせ、合意の記者発表もごまかすなど相当いかがわしい気配りを見せた。しかし、今回は完全に舐めてかかっていたのか、安倍首相は、国会中とこだわっていた集団的自衛権の閣議決定をいったんは延期したが、自衛隊発足60周年の記念日7月1日にぶつけてきた。趣味の方を大事にして、滋賀県知事選を忘れていたのだろう。安倍政権は慢心によりつまらぬ意地で政権運営をし出しており、安倍政権の余りの暴走に、自民党支持者ですら恐怖感を抱き始めている。
 幸いにして、自民党の度重なる敵失、すなわち集団的自衛権に関する閣議決定、都議会と国会での女性蔑視ヤジ、石原環境相の「金目」失言等々があり、三日月候補に風が向きつつある。マスコミ各紙の世論調査も、三日月僅かながらのリードと伝え始めた。国会議員選挙と異なり、勝ち馬に乗らんとする人たちも現れている。

<地道な選挙活動に徹する>
 自民党は、石破幹事長以下閣僚や人気の小泉進次郎内閣府政務官等総出でテコ入れ中である。対する我が民主党は、自民党対民主党の対立を避けるため幹部や大物著名議員が前面に出ることは避けつつ、私のような同僚議員が中心となって三日月応援を行っている。
 選挙活動の中心は、40年前の武村県政以来の草の根自治の伝統を受け継ぐ「チームしが」であり、個人演説会は前述のトリオに地元関係国会議員、地方議員等が弁士となっている。私も人手が足りなくなった時には、弁士に駆り出されている。
 私は、事務所で皆さんに迷惑をかけないように、応援に入ってくれた同僚国会議員をねぎらう役目を果たしている。7月10日の夜には一般の方々に電話かけもしてみたが、2時間80人で完全拒否は2人だけ、なかなかの好感触である。このままの好いムードが続いてくれたらと願っている。このあたりで安倍政権の暴走を止めないとならない。