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2016年1月27日

同じタカ派、中曽根と安倍の大きな違い-国家戦略ない安倍政権は危ういかぎり- 16.01.27

<中曽根元首相の提唱によるAPPF出張>
 1月14日から23日まで、アジア・太平洋議員フォーラム(APPF)への出席のためカナダのバンクーバーに出張した。国会は、参議院の補正予算審議が行われる1週間に当たり、衆議院はほとんどの会合がないため、国会開催中なのにゆっくり出張できるという仕組みである。
 中曽根康弘元首相(以下敬称略)が提唱して始めた会合であり、毎年日本から5名程度参加し、24回目を迎えている。当然私は初めての出席であるが、英語で議論しないとならないため、通訳がいるとはいえ英語ができる者のほうが望ましい。今まで私にこうした会合への出席の声がかかることはほとんどなかったが、民主党からは私1人だけ、自民党からは中曽根の秘書を長くやり、衆院5期、参院1期のベテラン柳本卓治氏、元外交官の山口壮氏(衆5)の2人、公明党角田秀穂氏(衆1)、参議院からもう一人田中茂氏(無所属)の計5人。

<珍しい2人の継続的対応>
 柳本氏は連続出席13回、田中氏は事務方とし第1回(1993年)からずっと参加しているという。日本にしては珍しく継続性のある対応がなされている会合だった。大体の国から2~5程参加し、今回で見ると各国から46本の議案が提案され、それをもとに4~5つの分科会(ワーキンググループ)に分かれて議論をし、最終的に27本の決議文が採択された。私は「中東和平プロセス」を担当し、議論に参画した。
 会議自体は、ぎすぎすしたものではなく、共通論議を持つために現下の課題について意見を言い合うことにより共通認識を持ち、友好を深めるといった類のものであり、議員外交の一つである。柳本・田中両氏は、中曽根の秘書を勤めた関係で、APPFの頼もしい常連だった。

<大勲位中曽根の大きな器>
 お二人から中曽根のことを書いた著書をいただき、行き帰りの飛行機の中で通読させてもらった。おぼろげながら知っていることも多かったが、改めて大勲位中曽根康弘の器の大きさを痛感した。
 中曽根は、世界平和研究所も設立している。連続当選20回、56年衆議院議員をやり、5年間首相を勤め、最後は小泉純一郎首相から比例区への転出を詰め寄られ、「政治的テロ」と怒りながら2003年85歳で引退、今97歳で健在である。
 三角大福中と称される派閥間抗争の果て、最後に首相となり、後述するように世界の首脳と対等に渡り合える大政治家となった。今、思い返してみると、最近のチャラチャラした首相と比べると圧倒的に存在感があった。
 以下同じタカ派の安倍首相(以下敬称略)と比べてみる。

<靖国参拝を自制した中曽根と虚勢を張る安倍>
 安倍は3世議員で、当選5回、戦後最年少の53歳で首相の座に就いた。それに対し、中曽根は群馬の材木屋の次男で、内務省、海軍を経て、戦後すぐ衆議院議員になったものの、同期の田中角栄の後塵を拝すこと10年、64歳になっていた。
 2人ともタカ派で、憲法改正を主張していたし、靖国神社への参拝にもこだわりをみせた。中曽根は1985年8月15日終戦記念日に、戦後の首相として初めて靖国神社を公式参拝した。中国ではこのことは大問題になった。ところが、翌86年からは、中国との関係も考慮して参拝しなかった。それに対して安倍は、アメリカや側近の静止にもかかわらず、再任1年目の2013年12月26日に突然参拝した。中曽根は胡耀邦総書記との友好関係もあったが、一国のトップとして日本外交の行末を考えての自制だった。安倍は、自らの趣味を全面に出し、中韓の関係を悪化させても平然としていた。私が、一昨年の予算委で近隣国と敵対関係になる点で、日本が「極東のイスラエル化」していると詰問した所以である。

<中曽根仕事師内閣と安倍お友達人事>
 閣僚人事も違いが極立つ。中曽根は、自分と安全保障観等が大きく異なり、派閥も違う田中派の重鎮後藤田正晴(内務省の先輩)を内閣の要・官房長官に据えた。つまり側近人事なりお友達人事などせず、仕事のできる者を閣僚に据えた。それに対して安倍は、第2次内閣の最初を除けば、自らの趣味でお友達人事を繰り返し、また女性登用とやらで国民の人気取りをしている。片や仕事師内閣、片や趣味の人気取り内閣である。

<百戦練磨の中曽根とキャリア不足の安倍>
 中曽根は、弱小派閥を率いてのし上がろうとしていたことから、政局をよく見ていたのだろう「風見鶏」と呼ばれた。そして鈴木善幸の後を受けてやっと首相になった。外相か蔵相のどちらか1回という首相の条件は満たしていなかったが、科学技術庁長官、運輸相、防衛庁長官、通産相、行政管理庁長官、自民党総務会長、同幹事長と豊富な経験があった。一方、当選回数の少ない安倍は省を抱える大臣はしたことがなく、小泉に取り立てられて官房長官をしただけである。政治的キャリアは雲泥の差がある。

<中曽根の財政再建とバラマキの安倍>
 政治手法も違っている。中曽根は、鈴木善幸の要請により土光敏夫第二臨調会長と二人三脚で行政改革に取り組み、国鉄民営化を成し遂げた。1982年に首相の座に就くと「増税なき財政再建」を貫き、予算編成も対前年増を認めないマイナスシーリングを継続した。今のような国の借金経営を潔しとしなかったのである。その結果、次の竹下登内閣では1990年15年振りに赤字公債に頼らない予算編成が実現できた。
その後、財政再建のため売上げ税の導入を試みたが国民の抵抗があり失敗し、次の竹下政権の消費税までおあずけになってしまった。しかし、これも中曽根が汗をかいたことが結実したのである。中曽根は、行政改革ばかりでなく財政改革にも真剣に取り組んだのである。
 それに対し、安倍は経済重視を謳い、三本の矢なる言葉で国民を欺きながら放漫財政に堕している。消費税の10%への増税を延期し、軽減税率の導入も決めている。さらに見苦しいのは、年始早々の補正予算の審議でもさんざん攻撃された、低所得者への3万円の臨時給付金である。これまた趣味の憲法改正に向けて参議院でも3分の2を得るための人気取り(バラマキ)政策である。国家の財政再建などどこ吹く風という無責任な政治を続けている。

<中曽根首脳大国外交と安倍の弱小国外遊>
 最も大きく異なるのは外交姿勢である。
 中曽根は、1983年1月早々日韓国国交正常化後初めて公式訪問、全斗換大統領と会談し40億ドルの経済協力を約束し両国関係を発展させた。中旬にはアメリカに赴き、レーガン大統領とは後々ロン・ヤス関係と呼ばれるきっかけを築き上げている。4月にはASEANにも飛び、アジア重視の日本の姿勢を明らかにしている。APPFはまさにこの延長線上にある。
 これに対し、安倍は中国と韓国の関係をこじらせ、アメリカともうまくいかず、TPPや安保法制でゴマをすりまくって、やっと日米同盟を維持しているにすぎない。地球儀俯瞰外交とやらで、とりたてて用事もない弱小国を訪問してはODAをばらまき、外交をしているつもりになっているだけである。
 中曽根はウイリアムズ・バーグサミットでも、その日本人離れした堂々とした体躯もあって他国の首脳と比べても見劣りせず、積極的に発言した。5年のうちにレーガンばかりでなく、ミッテラン、サッチャー、ゴルバチョフ等とも友好関係を造り上げ、日本の存在感を高めている。オバマに信頼されず、中間首脳に毛嫌いされる安倍とは格が違ったのである。

<憲法改正を封印した中曽根とこだわる安倍>
 一方中曽根は、若い時から何かとアメリカにおもねる吉田茂に対抗して憲法改正を叫んでいたが、首相の間はその時にあらずとして封印して臨んだ。
 国家を担うという姿勢が大きく違っていることがよく分かる。よく政治の劣化といわれるが、首相の劣化が特に著しい。それにもかかわらず、衆参ダブル選とか自民党総裁の任期延長(いずれも1986年)とか、安倍には中曽根を意識した政局対応が見受けられる。
 国家戦略を練りに練った上での中曽根と違い、安倍はやり方があまりにも姑息であり、日本を危うい方向に向けていくだけである。危険を感じざるをえない。

2016年1月12日

参院選は野党勝利で安倍政権の9条改正阻止 -憲法改正の参院選争点化は許されず- 16.01.12

 1月4日、第190回通常国会が開会した。私は共産党が今まで開所式に参加したことがない、ということを知らなかった。初めて共産党も参加して天皇陛下のお言葉を賜りお迎えして粛々と論戦が始まった。

<臨時国会不開催は憲法違反>
 しかし、安倍政権の国会軽視を露呈する始まりとなった。
 憲法53条に「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いずれかの議院の総議員四分の一以上の要求があれば、内閣はその召集を決定しなければならない。」と規定されている。与党がさっぱり秋の臨時国会を開こうとしないので、野党5党が臨時国会の召集を要求したにもかかわらず、安倍内閣は召集せず、通常国会となってしまった。明らかに憲法違反である。岡田・松野両代表が糾弾した。ところが、いつものとおり、その分通常国会を早く開催した、と開き直って答弁した。
【ただ、岡田代表は2012年6月に、民主党の党規約(3分の1以上の議員の要請により速やかに召集)違反をして両院議員総会を開催しなかった幹部の1人である。】
(ブログ:『民主党の憲法・「党規約」違反は許されず 2012.6.26』

<説明する気のない安倍首相>
 満を持しての国会のはずなのに、安倍首相の「最近の海外出張に関する報告」は、ダラダラと外遊振りを述べるだけであり、麻生財務相の補正予算の説明も僅か3分、A-4紙2ページ余の短いものだった。補正予算をさっさと通すために、ただすっ飛ばして原稿を読み上げるだけだった。安倍首相は口癖のように「国民に対して丁寧に説明して理解を得ていく」と言うが口先だけで、全くその姿勢が見られない。強引に法案を通してしまえばあとは知らん振りで、再び懲りずに強引な政権運営に逆戻りである。国会や国民を無視していることは明らかであり、野党席から「まじめにやれ、手を抜くな」とヤジが飛んだ。
 夕方、16時30分から飯山市の定例の新年会が予定されていたが、私は欠席の予定だった。ところが、あまりの短い2つの演説のため本会議が早く終わったので14時56分東京発の「はくたか」に間に合い、少々遅れて出席できた。まさに北陸新幹線効果である。

<政治が乱れると右傾化・左傾化し、中道が空白化>
 歴史を振り返ると、政治が乱れると右傾化と左傾化が生じ、中道が空白となる。戦前でみるとまず左傾化が進んだが、1925年の治安維持法の制定を契機にして、政府が共産党弾圧をし始めた。その一方で軍部が台頭し、とうとうあの無謀な第2次世界大戦に突入してしまった。今、政府・自民党が衆議院で294議席を占め、一方2014年総選挙で共産党が8議席から21議席と3倍増する中で、中道リベラルの民主党が72議席と弱小勢力に成り下がった。戦前と全く同じ状況が生じているのは、政治が乱れている証拠である。

<参院で改憲勢力3分の2を目指すと明言>
 一方、安倍首相は年頭記者会見の所感で憲法改正を目指すと明言した。世論調査(共同通信社)で、9月の安保法成立直後38.9%に下がった安倍内閣支持率が、12月には半数に迫る49.4%に上昇したことで自信を深めたのだろう。第1次安倍政権では教育改革を連呼し、挙句に2007年の参院選には憲法改正に言及し挫折していった。それにもかかわらず、1月10日のNHK日曜討論において、自公+おおさか維新で3分の2を確保して改憲を目指す、と明言した。
 私は、憲法改正をやみくもに否定しない。必要ならば、そして国民がそれを望むならば改正したらよい。ひたすら今の憲法を絶対視する必要はない。ただ、時の政権が声高に憲法改正を叫ぶのは許されることではない。しかも高飛車に選挙の争点にするなど前代未聞である。憲法は安定したものでなければならず、政権は抑制的に振る舞わなければならない。だから憲法96条で法律よりもずっとハードルの高い両院の3分の2の賛成による発議という条件を課している。
 安倍首相は、第2次安倍政権でまず憲法96条の3分の2以上の発議を2分の1に変えようとした。まさに邪道であり、憲法調査会では自民党議員からも反対の意見が出るほどで、早々に諦めた。その次に試みたのが、2014年7月1日の集団的自衛権を認める閣議決定であり、それに続く前通常国会での安保法制の強行採決である。

<当たり障りのない緊急事態条項で様子見か>
 そしてまず手始めに念頭にあるのが、世界各地で起きているテロ、大災害、戦争等が起きた時に、政府の権限を拡張する緊急事態条項である。国会議員の任期を延長することも考えられている一方で、基本的人権を制限することにもつながる。9条の改正による自衛隊の海外派遣といった国民の猛反発を喰うものを隠して、もっともらしいものを例として持ち出したのだ。言ってみれば改正の手慣らしであり、お試しである。野党や国民にも受け容れやすいものを取り上げ、改正の足掛かりとしようとしている。次に向けた姑息な癖玉であり、騙されてはならない。
 一方、「加憲」の公明党は環境権の明記等、誰も反対できないことを主張する。おおさか維新は地方分権も含めた統治機構改革を優先課題としている。

<緊急事態に備えるなら衆参ダブル選挙を禁止すべし>
 私は、もし改正するとしたら立憲主義、すなわち国民が政府の暴走を抑えることを優先すべきだと思っている。
 安全保障絡みでいえば、自衛隊を自衛のための軍隊として憲法上も明確に位置付け、その代わり絶対に海外になど派遣しないことを明記すべきである。統治でいえば、いつも与党に利する7条解散を認めず、内閣不信任案が通った時しか解散を認めないようにすることである。諸外国にも政府(与党)が勝手に議会を解散できる仕組みはない。このために政権交代が生じにくくなっていたといっても過言ではない。
 これがひいては今取り沙汰されている衆参ダブル選挙の否定につながっていく。憲法は政治の安定のために二院制をとっている。選挙中に参議院の半分しか国会議員がいないということになれば、国会が国家の緊急事態に対応できないことになる。大袈裟に緊急事態などというなら、まず衆参ダブル選挙を禁止することである。

<憲法改正を主張する資格のない安倍首相>
 連立を組む山口公明党代表も、「国民に具体的な問い掛けをする段階には至っていない」と参院選での争点化に慎重である。安倍首相も予算委員会で何を改正するのかという問い掛けに対しては「新しい時代にふさわしい憲法のあり方について国民的議論と理解が深まるように努める」という抽象的答弁に終始している。まさに9条改正隠しに他ならない。
 憲法学者が憲法違反とする集団的自衛権をも解釈改憲とやらで強行し、憲法違反をして臨時国会を召集せずにしらばっくれているのに、しゃあしゃあと憲法改正を口走る。憲法を無視していながら都合のいい憲法改正に固執するのは、まさに矛盾以外の何物でもない。憲法を守らない安倍政権に憲法改正を言う資格はない。1月6日の代表質問で松野維新代表が指摘したとおり、まさにブラックジョークである。

<参院選勝利で安倍首相の暴走にブレーキ>
 長野県でも1人区となる参議院の候補者として、1月11日の民主党長野県連の常任幹事会で杉尾秀哉元TBSニュースキャスターを公認候補として党本部に申請することが決定した。4期24年務めた北沢俊美元防衛相が引退を決意し、参院選勝利に向けて動き出した。万が一参院選でも自公(+おおさか維新)が3分の2の多数を占めると、安倍政権が一気に9条改正に突っ走ることが予想される。絶対に阻止しなければならない。
 参院選は32に増えた1人区が勝敗を左右する。2007年に民主党が29の1人区で小沢代表を筆頭に農業者戸別所得補償を掲げて戦い、民主党は18、野党共闘5と大勝し、自民党は鹿児島、大分、山口、福井、和歌山、群馬の6県でしか勝てなかった。これにより安倍首相は突然辞任することになった。今年の7月も反安保法制、反TPP、反原発で同じような大逆転に向けて頑張らないとならない。

2016年1月 3日

平成28年 地元各紙新年号への寄稿 16.01.03

各紙新年号への寄稿 『拡大・成長を前提としない社会(長野経済新聞)』 『ミニマリスト・シンプリストの生き方(長野建設新聞)』 『身近な物で生き抜く(北信ローカル)』 を以下に掲載します。

『拡大・成長を前提としない社会』

 自動車業界は年末の税制改正の場で、消費税10%へ引き上げる時に自動車取得税の廃止を求めてきた。私は昨年初めて経済産業委員会に所属し、1年間議論している間に農政の世界と比べるとかなり違和感の多い理屈に出くわした。
 例えば、自動車の月間販売台数が伸びず停滞していることが問題視され、減税して消費を刺激するべきであり、環境を理由とした増税などとんでもないというのがその一つだ。農政の世界では少子高齢化に伴う人口減と食生活の変化から、米の消費量が毎年8万t減ることを当然のことと受け止め、あれこれ対策を講じている。
 藻谷浩介の『デフレの正体』の指摘を待つまでもなく、我々は今や成長・拡大のない社会を前提として物事を考えていかないといけない時期に突入しているはずである。それにもかかわらず、自動車のような日本の主要産業は相変わらずかつての栄光を追い求めていることに驚かされた。
 アメリカに要求されて軽自動車の増税が行われた。TPPで関税自主権を失って平気な日本は、今や徴税権もアメリカに奪われてしまっている。自動車業界のいう軽自動車は地方の「足」であり、必需品だという主張は正しい。長野県は軽自動車の世帯辺り普及順位が全国第3位(1.02)、上位市町村にも川上村(1位 2.25)、南牧村(4位)、中川村(5位)と並ぶ。しからば、公共交通網が発達していて車の必要のない東京では、むしろ増税して消費を抑制する税制があってもいいはずである。ところが、まだ減税して車を売りつけんとしているのだ。これでは国の財政が立ち行かなくなるのは当然である。
 我々は縮小社会に本格的に向き合っていかなければならない時を迎えている。
(長野経済新聞)


『ミニマリスト・シンプリストの生き方』

 江戸時代末期から明治時代にかけて日本に来た欧米人たちは、東洋のなぞの
国・日本をつぶさに観察し、多くの手記を残している。それらをまとめた名著『逝きし世の面影』には、今の日本ないし日本人とは真逆の印象が書かれている。例えばあまり働かない、祭りが多く楽しみ方を知っている、子供を社会全体で大切にする等である。
 今と違うものの一つに、欧米人が驚く簡素な生活スタイル、特に家屋に物が置かれていないことが挙げられる。大名屋敷でも豪商の家でも、多分床の間付きのお座敷に通されたのであろう。その簡素な美しさに感嘆するのである。
 それから150年余、全く逆の生活スタイルが定着した。日本人ほど物に執着する国民はなく、部屋には電化製品から洋服まで、それこそ物に溢れている。
 こうした生活スタイルに疑問を感じ始めた人が多くいるのだろう。「断捨離」という言葉が人口に膾炙した。つまり、物を抱え込まずに思い切って捨てていかないといけないことが徐々に浸透していったのだ。その前にいらない物は造らない、買わない、使わないことが必要なのだ。
 その延長線上に、ミニマリスト・シンプリストがある。
 本当に必要な物だけに限るという、新たな簡素な生活スタイルである。ある意味では最も合理的な生き方であり、違った意味では何もなかった昔の生活スタイルに戻ることでもある。不必要な消費を煽り、GDPを上げるなどというのは全く邪道なのだ。
(長野建設新聞)


『身近な物で生き抜く』

 昨年末、長野市篠ノ井塩崎地区を訪問していたところ、蕗の薹に出くわした。11月が異様に気温が高く、野菜が大豊作で白菜、大根が大きく値下がりしたが、蕗まで出てくるとは驚き以外の何物でもなかった。このまま地球温暖化が進めば世界の農業が変調を来たしてくることは間違いない。
 COP21がパリで開催された。オバマも習近平も演説をしたが、さんざんCO2を出して温暖化の原因をつくった先進国と、これから豊にならなければならない発展途上国の溝は最後まで埋まらなかったようだ。しかし、地球温暖化対策は待ったなしで取り組まなければならない、世界共通の課題である。だからといって、原発というのは通用しない。再生可能エネルギーとか水素社会とかいろいろいわれているが、私は要は生活様式の改善以外に途はないと思っている。つまり、成長を諦め、便利さを追い求めず、足ること知って生きることである。
 必要最小限のものしか置かないという、ミニマリスト・シンプリストという言葉が出回り出した。日本人が一番いろいろなものを抱えて生きている事が知られているが、それを削ぎ落とそうという動きである。人は身の回りで何でも調達して生き抜くようにするのが一番自然なのではないか。つまり、食の世界では地の物、旬の物を食べて生きることをもう一度思い出す必要がある。これが異常気象に立ち向かう一つの方法ではなかろうか。
(北信ローカル)

2016年1月 2日

押し寄せる近づく地球温暖化 ‐ 成長は諦めて地球をいたわる生き方に転換すべし ‐ 15.12.30

<雪の降る前に出てきた蕗の薹>
12月上旬、長野市篠ノ井塩崎地区を訪問した折、日当たりのよい庭先に蕗の薹が出ていたのには仰天した。1月末でも2月中旬でもない。12月上旬のことだ。雪が解ける頃に出てくるのに、雪が降る前に出てきたのだ。地球温暖化が「忍び寄る」どころではなく、もっと凄い勢いで「押し寄せ」てきていることが実感できる。12月28日現在、北信州のスキー場にも雪がなく、かき入れ時の年末年始にスキーができない恐れがある。

<目に見えてきた地球温暖化の悪影響>
 気温の変化は我々にはよくわからない。体感というものは実は鈍感なのだ。目に見えるようにならないと気が付かない。目に見えるものに雪があり、積雪量が急激に減っているのに気付く。これがヨーロッパアルプスやグリーンランドだと氷河の後退である。そして南の島々だと海面の上昇である。
 長野県の北部地方にも、昔は猪などいなかった。鹿と違い、豚と同じく短足なので、冬の雪の中で歩けなくなり住みつけなかったのだ。ところが、雪が少なくなると時を同じくして北上し、今は各地で畑や田んぼを荒らし回っている。中山間地域の農民を悩ます鳥獣害の中にも地球温暖化が色濃く影響を及ぼしている。つまり、あちこちに急激な変化が現れてきているのだ。

<目に見えないものは恐ろしい>
 目に見えないものは恐ろしい。その一つが放射能だが、もう一つがCO2(炭酸ガス)だ。
 中国の北京では排気ガスのあまりの酷さに12月19日に4段階で1番酷い「赤色警報」が出て、学校が22日まで3日間も休校になった。PM2.5といい、日本人は「中国はひどいなぁ」と横目で見ているが、つい昨日の日本でも光化学スモッグで休校になっていたのである。そして四日市ぜんそく、水俣病など四大公害病が発生していた。自然環境はおろか人間の命よりも、金儲け・経済成長を優先し造りまくり売りまくっていたのだ。

<アメリカに馬鹿にされていた日本の公害>
 1976年、私がアメリカ留学した時の語学スクールで、ジョークを言う時間があり、先生は公害大国日本をネタに見本を示した。

『東京に旅行に行って間違ってカメラを近くのドブ川に落としてしまった。せっかくの思い出がダメになったと落胆していたが、なんと現像がすんでいて節約できた』
 
というのがブラックジョークである。それだけ日本の川が化学物質の垂れ流しで汚染されているというのだ。事実、工業地帯はドブ川となりすごい臭いが漂っていた。もちろん空気も汚れ切っており、今の中国とどっこいどっこいだったのだ。

<議長国フランスの見事なさばき>
 その後も静かに進んでいるのが、CO2の排出による気温の上昇である。12月12日、パリで国連気候変動枠組条約第21回締約国会議(COP21)は、2020年から実施を目指す新たな枠組み、「パリ協定」を採択した。1997年の京都議定書に中国、インド、アメリカ等が参加せずに実効性を欠いたが、パリ協定は196の国・地域すべてが参加する画期的な条約(協定)となった。 
 さすが交渉ごとに慣れた議長国フランスである。オランド大統領が「史上初の全世界(ユニバーサル)な協定」と自画自賛するように、先進国と発展途上国の差をほぼ取っ払った。うまくいった理由の一つに、世界一の排出国中国の危機感がある。
もちろん、目標達成の義務化は見送られたし、削減水準が足りず、21世紀末に本当に目標どおり気温上昇を2度未満に抑えられるかという問題を含んでいるが、世界全体で削減を約束した意義は大きい。各国は今後パリ協定をないがしろにはできない。

<アメリカと中国が妥協して妥結>
 新興国だからといって野放図にCO2を排出していったら、北京でも上海でも赤色警報が出っぱなしになってしまう。
 先進国だけが勝手に汚しておいて、後進国にも同じ義務を押しつけるのは受け入れられないという理屈はもっともなことであるが、それではいつまでも地球は破壊の途をまっしぐらに進むだけである。習近平主席は、オバマ大統領と歩調を合わせて妥協したのである。
 一方、オバマも産業界の圧力により火力発電規制に反対する共和党が議会で多数を占めている。それに対して、削減は義務でなく、各国が目標を定めて削減の取り組みを国連委に報告し、自主的に削減するだけの行政協定にすぎず、議会の承認は不要だとして、CO2の排出削減に取り組む覚悟を決めた。

<遅れる日本の対応>
 こうして、世界の第1位と2位の排出国が手を握ったのだ。ところが、日本は成長神話にとりつかれ、13年に自国の都市・京都が冠についた京都議定書から離脱している。そして今回も日本が交渉を先導する場面は全くなく、環境団体からは存在が薄いどころではなく、「ない」と酷評された。
 それに加え、2030年までに13年レベルから26%減らす、という目標にはごまかしが含まれている。13年は福島第一原発事故で火力発電が増え、CO2の排出量が増えた時であり、基準年としては不適当なのだ。つまり、下げ幅を大きく見せることができる。各国が自主的に削減目標を設定できるというからくりを悪用している。こうした所で真剣味に欠ける日本の姿が露呈し、世界から白い眼で見られることになる。

<世界は脱石炭火力に向かう>
 原発事故という予期せぬ(本当はできた)出来事であったが、日本は最もCO2排出量の多い石炭火力の割合が5ポイント増えて30%と高くなった。原発再稼動の見通しが立ちにくいので、今後も減らす気配がない。それに対し世界は炭素税の導入に向き始めた。こうした動きに敏感に反応した投資家は、化石燃料から投資を引き下げる「ダイベストメント(投資撤退)」を始めている。そして、石炭を「座礁資産」とも呼び、投資の対象にしなくなっている。それにもかかわらず経済大国・高度経済成長の夢を捨て切れない産業界が、石炭火力規制強化に反対している。見苦しい限りだ。

<世界から取り残される日本>
 EU諸国も真剣に取り組み始めている。ドイツは脱原発を着実に進めながら、CO2削減にも意欲的に取り組んでいる。イギリスは26年までに石炭火力発電を全廃すると決め、オランダも議会が段階的に閉鎖する議案を可決している。EUは90年比で40%減というのに、日本は90年比にすると18%減と、低すぎる目標でしらばっくれている。世界の環境NGOはこんな見え見えのごまかしに欺されない。
 挙句の果てに、川内に続いて高浜原発の再稼動である。CO2を減らすためにやはり原発に頼るしかないと言い出す恐れもある。これでは世界のはぐれ者、笑われ者である。

<低成長に向けて社会のシステムを大転換する必要がある>
 日本はこうした不誠実な態度を改め、率先してCO2削減に努めるべきである。幸いにして(又は不幸なことに)石油も石炭もないに等しい。あるのは太陽、風、川、活火山、つまり再生可能エネルギー源だけである。「必要は発明の母」という。化石エネルギーのない日本こそ再生可能エネルギーに頼らざるをえない国なのだ。真剣に取り組めば技術革新が進む。CO2を大量に排出する産業構造を改めて、環境に優しい国造りに猛進する時である。
 先頃公開された外交文書によると、1979年に訪中した大平首相との会議で、鄧小平副首相が、中国が一家に1台の自家用車を持つようになれば地球がもたないと予言していたという。今その危険な時を迎えているのだ。中国で日本車の売れ行きが史上最高となったと浮かれている時ではない。中国の大気汚染は偏西風に乗って日本にPM2.5や酸性雨をもたらすことになる。つまり対岸の火事を拱手傍観しているわけにはいかないのだ。もうこれ以上地球を傷めつけることなく、成長・経済拡大から脱却しなければならない。原発もTPPも過去の遺物として葬り去る時なのだ。

親農派 野坂昭如氏の遺言 -戦争体験が風化し、食料がないがしろにされる風潮を憂う- 15.12.17

 私は、1982年に『21世紀は日本型農業で‐長続きしないアメリカ型農業』を書いてからは、農林水産省の役人としては珍しく黒子ではなく、表に出ざるを得なくなった。原稿や講演等を頼まれていた

<親農派三態>
 その時のレジメに親農派三態というものがある。農業に思いをはせて農業が大事だと言ってくれている外部の人たちを三分類したのだ。
 一つが、自然の法則から、つまり「地球の歴史」から見る人たち。エントロピー学派と呼ばれ、自然環境・国土資源の維持保全の観点から、国内の農業を振興すべきだと援軍をしてくれた。槌田敦(『地球文明の次は何か』)、槌田 劭(『未来につなぐ農的くらし』)、室田武(『水土の経済学』)、玉野井芳郎(『生命系のエコノミー』)。後に、「社会的共通資本」という概念を打ち出した宇沢弘文、室田泰裕、藤田祐幸等がこれにあたる。
 二番目は、「国家・民族の歴史」に注目する学者である。この人たちは、食料の安定供給というのを非常に大事にする。ヨーロッパ中世史の木村尚三郎、梅棹忠夫(『文明の生態史観』)、高坂正暁(『文明の衰亡するとき』)等が優れた文明論を展開し、国家存続のためにも、文明の維持のためにも農業が大切だと主張した。

<農業を愛した作家たち>
 三番目は、歴史というなら「人間の歴史」ともいえるが、要は物語を書く作家である。その筆頭に、野坂昭如、井上ひさしの2人が挙げられた。他に、深沢七郎、立松和平、今も存命中の方で挙げれば、倉本聰。他に詩人の山尾三省、谷川雁といった人たちである。芸術家というつながりでは、歌手の加藤登紀子、映画監督の山田洋次、作曲家の喜多郎などもいた。要は芸術家の感性で、物事の重要性を見抜く人たちである。
 いずれも経済合理性だけで引っ張られない、高い見識を持つ人たちである。

<辻井喬が理解した、私のアメリカ農業劣等論>
 先に他の人の話をしておくと、西武流通グループの代表 堤清二(辻井喬)もそのひとりであった。びっくりしたことに私の上記論文を読んでくれていたのであろう、どこかの他の新聞の対談の中に、「農林水産省の篠原孝さんが『アメリカの農業がいい農業であるはずがない』と言っている」と突然私の名前が出てきた。私は、「アメリカの農業が生み出すアメリカ料理というのは、とても立派な料理とは言えない。だからアメリカの農業こそ歪んでいるのだ。バラエティに富んだ味、新鮮さ、そして文化の香りがする日本料理を生み出している日本の農業の方がずっと健全だ」と主張していた。

<どれだけまずいか試してやろう食べ歩き旅行>
 辻井は文章のプロであり、私よりもっと的確な表現でアメリカの農業の問題点を指摘した。「アメリカのパーティーは願い下げだ。いつも同じ無味乾燥な同じ料理しか出てこない。旅行しても、地域の独特の食べ物がなく楽しみは半減してしまう。だからアメリカでは、『どれだけまずいか試してやろう食べ歩き旅行』しか出来ない」と断じている。言い得て妙である。財界人の中にあって、日本の地域に根差した農業と食を愛してやまなかった。

<朝日ジャーナルの激突討論>
 そうした中、私は朝日新聞の農政担当のベテラン辣腕記者の依頼で、朝日ジャーナルで当時華々しくデビューしていた経済学者の叶芳和と対談することとなった。「日本には500万の農家はいらない。50万の農家が10haずつ耕せばいいのだ」。それから4つの革命とか、いってみれば古典的な経済学の論理に則った農業論である。これが土光臨調の農業批判と相まって、もてはやされていた。私の農業論はそれと真っ向から対立するものと位置づけられた。

<どうしても対談に参加させろと要請した野坂昭如>
 今は廃刊になった朝日ジャーナルは、当時は粋な大学生やちょっと理屈をこねる人たちが、こぞってステータスシンボルとして持ちあるいていた。ところが問題が発生した。その対談にどうしても野坂昭如が参加させてほしいと言ってきたのだ。賢明な編集者は泣く泣く断っている。なぜかというと3人の対談になると、篠原・野坂対叶になることが明らかだからだ。
 1981年11月20日号に、『<激突討論>日本農業に未来はあるか 叶芳和VS篠原孝 「大きな農業」か「小さな農家」か』そしてその後に、『論争を読んで』ということで野坂のコメントが2頁ほど追加されている。
論争には参加せず、我々の原稿を読んで2頁のコメントを寄せたのである。野坂はしぶとく「論争には参加しなくていいが、多分大論争になるのでその場にいさせてくれ」と要望したそうである。私はそれだけ関心を持たれたことに感謝の気持ちでいっぱいだった。ところが、かのベテラン記者は、野坂が口を挟みたいのを我慢するのはあまりにもかわいそうなので、それも遠慮いただいたという。

<価値観が似たもの同士>
 野坂は『「食糧」と「食いもの」の違い』のタイトルの下、思いのたけを述べている。その一部を引用する。

「食糧」と「食いもの」の違い : 野坂昭如
 <前文略>国家的見地よりして、ものものしく述べる時、つい「食糧」という、軍隊用語にかも似たる、世間に馴染み難い言葉を使ってしまう。<略>われわれが、日本人の主食について考える時、どうも「食糧」派と「食いもの」派に分かれる傾向があるように思う。この対談でいえば、叶氏が前者で、篠原氏は後者。
<略>篠原氏の意見は、古めかしくいうなら、水とお天道様をなによりの恵みとして、農地を自由にさせる、耕したい者が耕し、その耕して得られた食いもので、島国に住む人間の、生活の大本を支えようというもの。<略>

<要は大地を守ることだ>
 ぼくは、極端なことをいうようだが、農産物の国際競争力を培う、即ち、自然と拮抗して、農業を営むよりも、日本の特別に恵まれた事情はあるにしろ、太陽と水をなによりのたよりとし、自然にできるだけ逆らわぬ、なごやかな農法を、外国に輸出すべきだろうと思う。<略>
 要は日本の大地を守ることであり、自然をこれ以上こわさないことだ。環境保全と農業は無関係じゃない。<後略>

<最後まで戦争と飢えと戦い続けた戦士>
 焼け跡で1歳の義理の妹を飢えで亡くし、少年院暮らしも経験している。埼玉に住みついてからは、自ら田んぼを耕していた。
 2003年に脳梗塞を患い、その後はずっと奥さんが口実筆記して原稿を書き続けたという。代表作は、アニメ、映画にもなった『火垂るの墓』であり、他に数々の文学賞を受賞している。参議院選挙に立候補したときも、「二度と飢えた子どもたちの顔を見たくない」ということで立候補した。典型的な戦中派、食糧難で困った世代である。
 野坂は、右傾化する日本を心配する一方、棄てられんとしている日本農業にエールを送り続けていた。作家として、ワイセツ裁判でも戦ったが、本当に戦い続けたのは戦争とそれによって引き起こされる飢えだったのかもしれない。私にとっては、野坂は数少ない、農を語れる文化人であり、かけがえのない人だった。

 一度野坂さんとお会いして、農業・食料についてとことん話ができたらなあと思っていたが、ついに叶わぬままお別れすることになってしまった。残念ながら今、作家で、これだけ農業に思い入れをもって発言してくれる人はいない。ご冥福を祈るばかりである。