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昔はみんな貧しかった、けれどもあったかかった —小学校の同級会で懐かしい写真、文集、版画集に出会う- 2016.03.16

<戦後日本を体に刻み込んだ団塊世代>
 団塊の世代は戦後日本の変化の真っ只中で成長し、今は老境に入っている。昭和20年代末に小学校に入り、30年代末に中学を卒業してすぐ就職した人たちは「金の卵」と呼ばれ、ほとんどが地方を離れて都会で就職した。高校を卒業した人たちも半分近くが地元を離れた。しかし、私の周りではその多くがまた地元に戻っている。また、大学を出て都会で就職した者も故郷に戻ってきている。それだけ故郷長野が忘れられないのかもしれない。実は私も老いたら生まれ故郷に戻り、晴耕雨読の余生を送るのを夢に見ていたが、今、中途半端な戻り方をしている。
 小学校・中学校の同級会はほのぼのとした空気が漂う。皆同じような集落に生まれ、中学卒業までずっと一緒だったからだ。今のような格差はなく皆同じように貧しく、何となくゆったりして和気藹々と暮らせたと思う。

<竹馬の友の強い絆>
 同級生の半分近くがずっと生まれ在所に住み続けている。彼等が万年幹事を務めてくれるお陰で、数年おきに同窓会が開かれている。私は選挙でお世話になっていることもあり、余程のことがないかぎり優先して出席してお礼を述べることにしている。
 〔 2003年の秋、私が何もわからず110年代議士が続く小坂家の4代目、小坂憲次衆議院議員の対抗馬として立候補した時、羽田孜元首相は「比例復活当選は必ずできる。ひょっとすると小選挙区で当選できるかもしれない」と勧めていたが、地元の人たちや農水省の同僚たちは「絶対に当選しない」と確信(?)を持っていた。そうした中で私が僅か6244票差に迫る大善戦(?)で比例復活当選した時は、皆びっくりしていた。信濃毎日新聞は「小・中・高校の同級生のネットワークの勝利」と解説した。まさにそのとおりだった。 〕

<3校に分かれた小2の合同文集>
 私は今回の長丘小の同級会に、2年生時の文集を出席者の30人分コピーして、手土産に持って行った。今や中野市北部4校の統合が既定路線となった我が母校は、当時、壁田分校(小4までで5年から本校)と大俣分校(小2までの複式学級で3年から本校)と2つの分校があり、小2は3ヶ所に分かれていた。そうした中、低学年の3学年合同の文集が作られていたのだ。昔懐かしいガリ版刷りで、質のあまりよくないわら半紙でできたものである。実家でゴミとして捨てられる寸前だったものを、偶然に気付いて回収していた。私は「皆さんの小学生のお孫さんとどっちの作文が上手いか比べてみてください」と紹介した。恥ずかしながら私のものは「バス」というたった5行の短い詩だった。そういえば、村中の細い道を砂ぼこりをあげてバスが通り始めたのが小2の時だった。

<手のこんだ卒業記念版画集>
 似たようなお土産を持参した者が他に2人いた。幹事の渋川隆久君(壁田、A組)が珍しい卒業記念版画集を持ってきた。5年から2クラス、84人となった。全員が100枚近く刷り、それぞれが皆のものを自分で綴じた本物の手作りの作品だった。
 我がB組には名前が載っておらず、私など何を彫ったか忘れていた。中には「僕の希望、相撲を彫った」と覚えている人もいた。回ってきた版画集から必死で探したところ、「T・S」とイニシャルを左隅に彫り込んであるのを見つけ、それでやっとバスケットボールを彫った自分のものが特定できた。

<半世紀前の貴重な写真は学校行事のみ>
 もう一人愛知県尾張旭市から参加した岩崎元重君は、セピア色になりかかった古い写真を持ってきた。数年前には、やはり埼玉県在住のFさんが写真を持って参加してくれた。
 1950年代の中頃でも今と違ってカメラなど家にあるはずがなく、小学校の記念行事の時ぐらいしか写真を撮ることはなかった。だから写真というと学校絡みのものだけである。ところが、その貴重な記録写真も我が家ではどこかに紛れ、出てこなくなった。今だと父母が保管しておいてくれるだろうが、当時の農家は朝から晩まで働き詰めで忙しく、そんな余裕はなかった。「勤め人」とかも多少いたが、大半が農家という純農村地帯だった。だから、春の田植えと秋の稲刈り時期に「農繁休業」があり、その分夏休みは8月1日から16日までと決まっていた。子供も大切な労働力だったのだ。

<保管管理力に欠けるダメ長男>
 私は中学生ぐらいの時には写真や文集の哀れな姿が時々気になり、整理しようと思ったこともあったが、ついに手付かずじまいだった。長男であり、自分で跡を取るので、どこかにあればいつでも整理できると思っていたからだ。ところが私は家を出てしまい、弟が跡を継ぎ、私は時々帰省するだけ。土蔵が2つもあったし、広い家と納屋もあり、いくらでも保管スペースはあったが、ずっとほったらかし。かくしてほとんどの私の思い出の品々はゴミとなりどこかへ消えていった。
 ちなみに隆久君は長男で跡取りだが、真面目できちんとした性格から多くは保管しているという。ところが、地元に居続ける他の長男・跡取り組の場合は、私と同様に新築や改築等の折にどこかへいってしまったようだ。

<運命を悟って準備した末っ子たち>
 それでは、地元を離れた元重君やFさんがなぜ保管しているのか。答えは簡単、自らの境遇を知り対応したからである。元重君は物心ついた頃には父親が亡くなっており、何人もいる兄弟姉妹の1番下、自分は生家を離れる運命にあることを承知していた。だから、大切なものを皆きちんと揃え、引越しの時も常に一緒に持ち歩いていたのだ。Fさんも4人兄姉妹の次女であり、少なくとも嫁に行く時には同じ理由で一切合切を持って行ったのだろう。
 中野の地元で近所に嫁いだ女性には、いつでも来られるという気の緩みがあり、それほど持ち出していないようだ。いつも帰れていたが、そうこうするうちに兄や弟にお嫁さんが来て、そう簡単に実家で物捜しができなくなり、そのままになってしまったという。
 かくして若い頃に故郷を離れて遠くに行った人たちほど、貴重な思い出の品々を持っていることになる。

<みんなが知り合いの濃密的多縁社会>
 小2年の時の誕生会の写真は、母親たちが後ろに全員並んで写っていた。驚いたことに、私は全員どの同級生の母親かほぼ特定でき、なんと近所のお母さんたちの名前まで甦ってきた。常日頃から家族同士がお祭り、○○普請、運動会、農協の共選所と、しょっちゅう交流があったから、我々子供たちも顔を知り、名前も覚えられたのだ。つまり、皆一緒に混じり合って生きていたのだ。
最近小中一貫校にということがよくいわれる。しかし、昔は長丘小は長丘中も同じ場所にあった。中学の野球の遠征試合には、小学生が先輩中学生の自転車の荷台に乗り応援に行った。運動会も一緒でリレーは9学年となり、延々と続き逆転また逆転でいつまでも終わらなかった。だから、相当上の先輩から下の後輩まで自然に知り合うことになった。それほど親密的なベッタリした社会、いわば「多縁社会」だったのだ。

<都会はどんどん離れていく無縁社会>
 東京では品川区を手始めに小学校から学区制を緩めて自由に選べるようにしている。つまりその時から隣り近所がバラバラだということである。子供はその家の子だけでなく、地域社会の、そして国の子と言いつつ、政策や制度は逆を向いているのだ。それでは社会の紐帯が崩れていくのは当然である。かくして都会では、皆が助け合う社会は消え去り、ギスギスした冷たい社会、つまり「無縁社会」へと変容を遂げている。その象徴が遺体で発見される1人暮らしのお年寄りである。過干渉ともいえる田舎の多縁社会ではあり得ない話である。
 そういえば私の小学校時代には転出者が1人いただけで、あとは1人も出入りがなかった。中学校も4クラス200人で転入転出者はゼロだった。近頃は労働力の流動性から農地の流動性まで、何でも動けばいいように叫ばれているが、当時はほとんどが知り合いで、何らかの関係のある固定した社会だったのだ。そして皆が誰にもあたたかかった。

<初めて海を見た興奮が甦る柏崎海岸の写真>
 小5の時の柏崎の海岸の集合写真を見ても、あの時の興奮を思い出さずにはいられなかった。皆貧しく家族旅行などなかった。高学年になり、初めての一泊旅行が海を見るための修学旅行だった。大半の者は初めて見る海に興奮した(後日談になるが、1978年アメリカ留学中のクラスメートとの雑談で人生で一番びっくりしたことについて話した時に、初めて海を見た時だと話した。すると、周りがざわついた。そして勇気ある1人がつぶやいた。「日本なんかどこでも海など見えるじゃないか。世界地図では太平洋の端の点(dot)ではないか」)。だから、岬の先っちょにあった「北冥館」という旅館の名前までも鮮明に覚えていた。
 
<働き蜂団塊世代の哀れな境遇と民主党に広がった小さな縁>
 私は同窓会のたびに、そして古い写真を見るたびに半世紀前の出来事に思いを馳せて懐かしい思い出にひたっている。しかし、役所の深夜労働から国会議員の金帰月来と仕事に追われ、役所関係と政治家関係しか付き合いのなかった私には、18歳まで育った故郷以上の寄って立つ基盤は存在しない。
 2010年、国会で「孝君、元重君がよろしくと言ってたよ」と女性から声をかけられた。私の知る元重君は1人しかいない。振り向くと山尾志桜里議員だった。
 元重君は山尾議員の選挙区に住んでいる。きっかけはどうなのか知らないが、ともかく私の所属する民主党から出馬しているということで、元重君は山尾議員の支持者となり、ポスターも数枚貼ってくれているという。新たな縁の始まりである。そして、今国会でガンガン言う女性が苦手で反発する(?)安倍首相を保育所問題でたじろかせ、時の人になっている。嬉しい限りである。

<愛すべき日本の田舎を残す>
 ある者は電車に何時間も乗り、ある者は車を飛ばして故郷の同級会に駆けつける。しかし、今や盆・正月の帰省客も年々少なくなっている。人口が減少し、格差社会ではないが、都市と農村の断絶が生じているからである。
 3・11の東日本大震災から5年を迎えた。あの大災害の折にも沈着冷静に振舞い、暴動も起きなかったことに世界は驚愕した。1923年9月1日の関東大震災では、朝鮮人襲撃事件が起きていたのと比べるとよくわかる。日本人的なものを色濃く残す東北地方だから、粛々行動できたのだろう。これが東京や大阪の災害だったら多分こうはいかなかったかもしれない。
 愛すべき日本を残すには、田舎的なるものを残さなければならない。