« 2016年2月 | メイン | 2016年4月 »

2016年3月31日

民進党結成で快進撃―野党結集を拡大し、小沢・亀井に援軍を頼み、政権奪取を目指す― 16.03.31

<3年越しの党名変更>
 3月27日、やっと民主党から新しい名前の党・民進党が誕生した。私は13年2月5日のブログ「民主党の再生は野田首相の議員辞職と党名変更から始まる」で党名変更を言い出したが、多分1番最初に言い出したと思っている。
 前者はまだ実現していないが、後者は3年かかってやっと実現した。長くかかったが、民主党の再建、政権復帰の第一歩が遅ればせながらやっとスタートしたのだ。遅れた分、今後は脱兎のごとく快進撃を続けなければならない。国民もそれを切望しているはずである。

<誰も見向きもしなかった13年参院選の野党共闘>
 12年末総選挙では民主党への失望はあったが、国民・有権者は自民党に戻ったわけではなかった。比例区の票の流れでみると、民主が09年の2984万票から3分の1の968万票と2016万票も減らした。そしてそのほぼ同数の2093万票が、みんな(525万)、維新(1226万)、未来(342万)の3野党に向かっただけだった。この結果をみれば国民は自民党に飽き足らず、政権を担えるきちんとした野党の出現を望んでいることは明らかである。それには、野党統合し、新党で出直すことが政権奪還の一番の早道である。
 私は2013年の参院選に向けて、例によって提案ペーパーを書き、31の1人区を5野党統合して闘えば、いくらでも勝てることを表で示して関係者に当たった。民主と維新、みんなが統合すれば13勝18敗。生活、社民まで含めた統合なら25勝6敗であった。ところが、幹部が動かず実現できず、その結果1人区は、民主0、非自民が岩手の平野達男と沖縄の糸数慶子の2人だけ、比例区でも7人という、大惨敗を喫した。なぜ3年前に今の野党統合なり野党共闘ができなかったのかという悔しい思いが先に立つが、3年経ってやっとここまできたかという思いもある。

<野党共闘・野党統合に否定だった岡田代表>
 その後14年末の総選挙に際しても維新との統合でどれだけ勝てるか、また11ブロックで共闘したら8~9議席増えることも示した。私は後で知ったが、私の提案ペーパーを持って細野豪志議員他3人が、海江田代表に野党共闘を直談判したが聞き入れられなかった。その時の国政選挙担当代表代行は岡田であり、その後の代表選の討論会では維新と統合しようとしたとして細野を攻撃(口撃?)したのである。
 民主党議員の大半が野党共闘ないし野党統合を模索しているのに頑なに拒否していたのが岡田代表であることを考えると、その後1年余り、よくここまでこれたというのが実感である。しかし、もっと早ければ、すなわち13年参院選前や14年衆院選前なら、もう野党新党は政権復帰していたかもしれないのだ。もっとよく先を見据えてやってほしいというのが私の切なる願いである。

<第一に代表選で人心一新→×新鮮味のない新党体制>
 民主党はいつもToo Lateなのだ。また、失敗をひきずらないために、このメルマガ・ブログで露骨な提案を続けることになる。なぜなら時間がそれほど残されていないからだ。
 野党統合を国民に理解してもらうためには、維新と民主の統合だけでは足りない。ワクワク感を持ってもらわないと参院選の勝利、その後の総選挙での政権交代には結びつかない。そのためには党名や綱領を新しく変えるだけでも足りない。やはり、執行部の陣容を一新し、変わったぞということを国民にわかってもらわなければならない。つまり常識的には代表選が一番である。しかし、岡田‐松野両代表が代表は岡田さんでいき、代表選は参院選後ということを確認事項の6番目で決めている。
 3月27日にはそれに従って、岡田克也民進党初代代表が選出され、新党の人事は、山尾志桜里政調会長が目新しいだけの平凡なものに終わった。 代表代行と目されていた松野頼久前維新代表は一切役職には就かず、江田憲司代表代行となり、民進党は長妻昭、蓮舫と3人の代表代行を抱えることになった。こんな時に大幅に入れ替えなくてもいいと思うが、もう少し工夫したほうがいいというのが一般的だろう。

<第二に更なる野党大結集が必要 → 社民・生活・無所属への呼びかけ>
 世論調査では、民進党には6〜7割の国民は期待しないと答えている。3年3ヶ月の政治運営があまりにもひどかったからであり、そう簡単に不信は拭い去れない。しかし、政党支持率が10%に満たないのだから残りの3割が期待してくれていると前向きにとらえてもよいような気がする。 国民はやはり正直である。民進党に「ワクワク感」がないからである。民進党は参院選に向けて大きく変わったということを示していかないとならない。
 人心一新ができないとなると、次は、維新(その分派 改革結集)だけでなく、生活、社民、その他多くの無所属議員にも統合を呼びかけることだ。党内議論の中で岡田代表は、維新以外の党にも広く結集を呼びかけると約束したが、どうも腰がひけている。民進党には小沢元代表への拒否反応があるからである。

<政権交代の大功労者は小沢一郎>
 2007年の参院選、小沢代表は1人区を農業者戸別所得補償を引っさげて田舎だけを回り、29の1人区で23勝6敗となり、大勝利をあげた。私は当時ネクスト農林水産大臣として小沢の選挙戦術を垣間見るにつけ、舌を巻いた。
 私は3日間抵抗し続けたが、農業者戸別所得補償と自ら命名し、参院選の目玉政策として位置付けた。そして田や畑を背景にビール箱の上に乗って、農家のおじさん、おばさんを前にしてマイクを握る小沢代表の姿がいつもTVに映し出された。これにより農民に民主党の農政の目玉がすっかり焼きつけられた。こんなことが出来るのは小沢しかいない。今反TPPで32の1人区を徹底的に回れば、07年以上の勝利が可能となるというのに、小沢と同じ感度のいい幹部はいない。
 この大勝利、逆にいうと自民党の大敗北により安倍首相は、秋の臨時国会冒頭で腹痛を理由に突然辞任した。そしてこの勝利をきっかけに、ねじれ国会となり、2009年8月の総選挙で政権交代が実現した。ところが、政権交代に多大な貢献をした小沢の大恩を忘れ、社会保障と税の一体改革を巡り、小沢グループを追い出してしまった。

<第三に乱世には経験と知恵ある参謀が必要→小沢と亀井に民進党への参画を要請>
 新聞報道によると野党選挙協力のリーダーシップをとり続ける志位和夫共産党委員長も、小沢と亀井静香のアドバイスを受けているという。亀井も自社さきがけ政権を演出した政界再編・政権交代の仕掛け人である。2人と縁もなく考え方も違う志位委員長のほうが素直に耳を傾け、同じ自民党だった岡田代表が2人を遠避けているのは、もったいない話である。社会党左派と組むという大胆な仕掛けを造った亀井、いわゆる農林族でもないのに農業者戸別所得補償の有用性を理解し、それを引っ下げて選挙に臨むという政治勘を持つ小沢の2人は、日本の政界にとって貴重な存在である。
 民進党は、今幸運にも野党側にいる小沢と亀井に頭を下げて参画してもらうことである。かつて野中広務自民党幹事長は小沢・自由党との連携に「悪魔にひれ伏してでも・・」と有名な言葉を残したが、今は2人は多分扉を開けて待っているはずである。そして小沢と亀井を恐れているのは他ならぬ自民党である。岡田新代表が「政権交代のラストチャンス」というなら、自民党を困らすことが必要である。

<民主党の名前だけでなく、元幹部も拒否される>
 我々が、野党統合について両院議員懇談会を開いた3月3日同日、野田前首相が「一番足を引っ張った元代表(小沢一郎)さえ来なければいい」「一番ごちゃごちゃ言ったのは元代表でした」と、それこそごちゃごちゃ発言していた。
 私は既に民主党の再生には野田首相の議員辞職が必要と述べた。なぜなら野田前首相こそ羽田元首相の「政権交代後の第1回目の総選挙を勝ち抜き、自民党を10年近く野党の立場に追いやり、日本の政治を変える」という重要な使命を、強引な政権運営と愚かな解散で打ち砕いた張本人だからだ。私は、羽田元首相からこの援軍を頼まれて政界に入り、今もその目的を完遂すべく汗をかいている。
 小沢を民進党に入れるべきでないというのなら、野田はそれ以上に新・民進党にいてもらいたくない政治家である。民主党の名前がいかに嫌われているか、新名称の世論調査で知ったはずである。しかし、それ以上に政権交代を無にした民主党の幹部に対する拒否感が強いことを肝に銘じなければならない。
 最近週刊朝日(4月1日号)で室井佑月が、小沢を民進党に入れないと発言した野田に対し「ゴチャゴチャいってるのは、あんただがね」と反撃し、野田前首相を、バッサリ切ってしまったらいいと切って捨てた。これが大方の国民の声である。

<脳科学者 茂木健一郎の耳の痛い話>
 今回の民進党結成党大会の4人のゲストスピーカーの激励は、厳しい注文のオンパレードだった。
 脳科学者として有名な茂木健一郎教授は、「民進党は2009年の政権交代の後、国民を裏切ったことを反省してほしい。最近、Google社の「アルファ碁」という人工知能が世界一の碁の名人に勝った。なぜかというと、失敗を反省し覚えたから勝てたのだ。民進党の皆さんも反省なくして進歩はない」と注文をつけた。
 私は、安倍首相は07年の政権の挫折の原因を見極め反省し、学習していると思う。それにひきかえ、我が党の幹部は相変わらずお友達人事(メリーゴーランド人事)を繰り返し、失敗を他人のせいにしている。反省が足りなすぎるのだ。

<4月が民主党の将来の鍵を握る月>
 これで一段落と安心してはいられない。4月24日には、北海道5区と京都3区の2つの補選があり、その先に参院選がある。ひょっとすると衆院選とのダブルになるかもしれないと言われている。私は、4月2、3,4日と北海道5区の応援に入るし、その直後6日からTPP特別委員会も始まる。
 従って4月は忙しくなる。新しい党・民進党で全力を出して国会活動にそして政治活動に取り組んでいくつもりである。

2016年3月20日

【TPP交渉の行方シリーズ52】アメリカの碩学の反TPP - スティグリッツ教授の日本へのアドバイス - 2016.3.20

 ノーベル経済学賞を受賞(2001年)したスティグリッツ・コロンビア大学教授が来日した。
 主たる目的は、シカゴ大学時代(1965年頃)の恩師、故宇沢弘文東大教授の一周忌の記念講演だったが、ついでの第一番が宇沢さんが共同代表を務めていた「TPP阻止国民会議」での勉強会の講師で、そこに私が会長を務める「TPPを慎重に考える会」が乗ることになっていた。ところが、安倍政権が途中から入り込み、16日に首相官邸で開いた国際金融経済分析会合で、消費税率10%の引き上げに反対意見を述べ、大きく報道された。

<宇沢教授3大関心事:公正、環境、平和>
 その翌朝、これまた便乗組の岡田代表以下民主党幹部とTPP組とが丸テーブル3つに分かれ、約30人弱で1時間講演していただいた。前々から、TPPは日本のためにもアメリカのためにもならないと公言し、新聞にも寄稿したりしていることは承知していたが、話を直接聞いたのは初めてである。率直な話し方といい、その含蓄のある内容といい、宇沢さんの弟子ならではと合点がいった。
 スティグリッツ教授は、宇沢教授はGDPを増やすことだけに関心がいく並みの経済学者とは違い、公正、環境、平和の3つを重視していたと懐かしんだ。私は宇沢教授の本は数冊読んでいるが、スティグリッツ教授が恩師の価値観をそのまま受け継いでいることがよくわかった。
 以下、その概要を紹介する。

<消費増税より炭素税の導入>
 日本は経済成長率が低いとの批判があるが、それよりも生活の質が大切であり、それほどの心配は無用。アメリカの方が問題は深刻だ。例えば、日本は平均寿命が長い。それに対し大学卒ではないアメリカの白人男性の寿命が急激に下がっている。なぜならば、賃金が40年前より低く、生活が苦しくなっているからだ。
 格差が拡大している。この点は、日本にも同じ悩みがある。格差是正には消費増税などせずに、もっと需要を喚起する政策を取り入れた方がよい。
 税制なら、炭素税は政府の財政にも貢献するし、経済も強くする。相続税は収入を増やし、公平(分配)に役立つ。
 他に包摂(inclusion)や差別をなくすことも必要だ。例えば、元気な高齢者に働いてもらうのもよい。

<TPPは多国籍企業のロビイストが書いただけ>
 圧巻はTPPについての主張である。講演の半分近くをTPP批判に充てた。
 TPPは自由貿易協定(Free Trade Agreement)だというが、それなら3頁ですむ話なのに、何と6000頁。誰も全部を読みこなしていないだろう。
 オバマ大統領は、21世紀の世界のルールは中国に書かせず、アメリカが書くと言ったが、多国籍企業のロビイストが書いているだけのことで、大企業に都合よく書いている。
 特許等知的財産のルールが問題である。特に薬の問題が大きく、安いジェネリックにできないようになっている。大きな製薬会社の利益が増えるようになっており、アメリカ人の健康が損なわれることになる。この分野でもいいことはほとんどない。

<ISDSは害だらけ、アメリカ議会は批准しない>
 特に投資条項は好ましくない。
 1980年頃までは、CO2の排出など問題にならなかった。今は違う。地球に代わりはなく一つしかない。環境を壊したらおしまいである。だから、環境規制は必要だが、カナダ政府の規制により損害を被ったとアメリカの企業がISDSで訴えて、カナダ政府が敗けている。タバコの規制も訴えられている。ISDSは新しい差別をもたらし、人間の健康や環境をも害する懸念がある。
 アメリカにとってTPPの効果はゼロであり、アメリカの議会で批准されないだろう。従って、日本も批准すべきではない、とまで言い切った。
 TPPはいずれにしろ害だらけであり、賛成できない。
 原中勝征前日本医師会会長が閉会のあいさつで、まるで宇沢教授の講演を聞いているようだと結んだ。全く同感である。

<日本にはピリッとした大御所学者がおらず、マスコミもTPPになびいてばかり>
 アメリカの学者は日本の学者よりずっと率直のようだ。国に媚びを売ることなどせず、ダメなものはダメと言い切っている。アメリカの各紙への投稿等や訪日時のインタビュー記事で反TPPであること、積極経済論者だと若干は知っていたが、直に話を聞くとやはり印象が強烈である。そしてふと思うのは、ノーベル経済学賞とは言わないまでも、政府の主要審議会の委員を務める日本の並みいる経済学者の中に、このような学者がいないことに、一抹の寂しさを感じた次第である。

<なぜかTPPに関心がいかない日本のマスコミ>
 私は、消費税も所得税と法人税と並ぶ日本の三大税収源の一つにすぎず、税率の上げ下げにそんな大騒ぎするものではないと思っている。それよりもずっと衝撃が大きいのがTPPである。入手した官邸会合資料にはTPPに触れた部分もあったが、残念ながら東京新聞と日本農業新聞が報じただけで、他の五大紙は全く扱っていない。今までは全容が明らかになっていないから仕方がないと思っていたが、今少なくとも条文は明らかにされている。アメリカでは大統領選の争点となっているのに、日本はTPPは批准するのが当然のような扱いで、どこも取り上げようとしない。民主党幹部も記者会見等でこのことに全く触れていない。

<民主党も共和党も国民もTPPに反対しているアメリカ>
 アメリカでは、率直なのは学者だけでなく、国民も同じである。
 共和党の重鎮がトランプ旋風をおかしいと感じ始めて、指名阻止に乗り出したが、今もその勢いは止まらない。トランプ氏は、スティグリッツ教授と同じく、貿易協定は雇用を奪い、賃金を下げていると批判し、共和党の支持者の多くもTPPに反対し始めている。工場労働者の多いミシガン州もトランプ氏が大勝した。トランプ人気の一つに貿易で中国、日本に負けている、TPPなど結ばず、アメリカを強い偉大な国にすると主張していることもあるようだ。
民主党でもサンダース氏が、クリントン元国務長官がNAFTAに賛成し、TPP反対に躊躇した、と批判しミシガン州で勝利している。かつて自由貿易を支持していると思われた共和党も、元々反対の民主党も、こぞってTPPに強烈なNOを突きつけ始め、政治的対立要因となりつつある。

<民主党も共和党もこぞって反対するTPPは批准の見込みなし>
 そして、今や共和党支持者の方(たぶん白人が多い)が、民主党支持者より自由貿易に否定的になっている。格差が拡大し、アメリカ人全体が貧しさを感じるようになったからである。昨年春、オバマが遺産(レガシー)にしたいというTPPに対し、民主党がこぞって反対したが、共和党の賛成により、やっとTPPの署名にまで漕ぎつけた。オバマ大統領は、太平洋に重点を移すリバランス外交の上で、TPPを中国と競争する上での通商外交上の戦略の要にしている。ところが、今や頼みの共和党もそっぽを向きだした。スティグリッツ教授も予測したとおり、2016年にはとても批准されないだろう。

<安倍政権の悪巧みを打ち砕く>
 一方、我が日本は、予算案の参議院通過も目前となり、政府与党はTPP特別委員会の設置を急いでいる。日本がTPPをリードしているという格好をつけたいというのが一番の理由のようだが、もう一つ参議院選前に厄介なことを済ませてしまおうという悪い魂胆も垣間見える。
私は、こんな悪協定を批准させないように頑張るつもりである。

2016年3月16日

昔はみんな貧しかった、けれどもあったかかった --小学校の同級会で懐かしい写真、文集、版画集に出会う- 2016.03.16

<戦後日本を体に刻み込んだ団塊世代>
 団塊の世代は戦後日本の変化の真っ只中で成長し、今は老境に入っている。昭和20年代末に小学校に入り、30年代末に中学を卒業してすぐ就職した人たちは「金の卵」と呼ばれ、ほとんどが地方を離れて都会で就職した。高校を卒業した人たちも半分近くが地元を離れた。しかし、私の周りではその多くがまた地元に戻っている。また、大学を出て都会で就職した者も故郷に戻ってきている。それだけ故郷長野が忘れられないのかもしれない。実は私も老いたら生まれ故郷に戻り、晴耕雨読の余生を送るのを夢に見ていたが、今、中途半端な戻り方をしている。
 小学校・中学校の同級会はほのぼのとした空気が漂う。皆同じような集落に生まれ、中学卒業までずっと一緒だったからだ。今のような格差はなく皆同じように貧しく、何となくゆったりして和気藹々と暮らせたと思う。

<竹馬の友の強い絆>
 同級生の半分近くがずっと生まれ在所に住み続けている。彼等が万年幹事を務めてくれるお陰で、数年おきに同窓会が開かれている。私は選挙でお世話になっていることもあり、余程のことがないかぎり優先して出席してお礼を述べることにしている。
 〔 2003年の秋、私が何もわからず110年代議士が続く小坂家の4代目、小坂憲次衆議院議員の対抗馬として立候補した時、羽田孜元首相は「比例復活当選は必ずできる。ひょっとすると小選挙区で当選できるかもしれない」と勧めていたが、地元の人たちや農水省の同僚たちは「絶対に当選しない」と確信(?)を持っていた。そうした中で私が僅か6244票差に迫る大善戦(?)で比例復活当選した時は、皆びっくりしていた。信濃毎日新聞は「小・中・高校の同級生のネットワークの勝利」と解説した。まさにそのとおりだった。 〕

<3校に分かれた小2の合同文集>
 私は今回の長丘小の同級会に、2年生時の文集を出席者の30人分コピーして、手土産に持って行った。今や中野市北部4校の統合が既定路線となった我が母校は、当時、壁田分校(小4までで5年から本校)と大俣分校(小2までの複式学級で3年から本校)と2つの分校があり、小2は3ヶ所に分かれていた。そうした中、低学年の3学年合同の文集が作られていたのだ。昔懐かしいガリ版刷りで、質のあまりよくないわら半紙でできたものである。実家でゴミとして捨てられる寸前だったものを、偶然に気付いて回収していた。私は「皆さんの小学生のお孫さんとどっちの作文が上手いか比べてみてください」と紹介した。恥ずかしながら私のものは「バス」というたった5行の短い詩だった。そういえば、村中の細い道を砂ぼこりをあげてバスが通り始めたのが小2の時だった。

<手のこんだ卒業記念版画集>
 似たようなお土産を持参した者が他に2人いた。幹事の渋川隆久君(壁田、A組)が珍しい卒業記念版画集を持ってきた。5年から2クラス、84人となった。全員が100枚近く刷り、それぞれが皆のものを自分で綴じた本物の手作りの作品だった。
 我がB組には名前が載っておらず、私など何を彫ったか忘れていた。中には「僕の希望、相撲を彫った」と覚えている人もいた。回ってきた版画集から必死で探したところ、「T・S」とイニシャルを左隅に彫り込んであるのを見つけ、それでやっとバスケットボールを彫った自分のものが特定できた。

<半世紀前の貴重な写真は学校行事のみ>
 もう一人愛知県尾張旭市から参加した岩崎元重君は、セピア色になりかかった古い写真を持ってきた。数年前には、やはり埼玉県在住のFさんが写真を持って参加してくれた。
 1950年代の中頃でも今と違ってカメラなど家にあるはずがなく、小学校の記念行事の時ぐらいしか写真を撮ることはなかった。だから写真というと学校絡みのものだけである。ところが、その貴重な記録写真も我が家ではどこかに紛れ、出てこなくなった。今だと父母が保管しておいてくれるだろうが、当時の農家は朝から晩まで働き詰めで忙しく、そんな余裕はなかった。「勤め人」とかも多少いたが、大半が農家という純農村地帯だった。だから、春の田植えと秋の稲刈り時期に「農繁休業」があり、その分夏休みは8月1日から16日までと決まっていた。子供も大切な労働力だったのだ。

<保管管理力に欠けるダメ長男>
 私は中学生ぐらいの時には写真や文集の哀れな姿が時々気になり、整理しようと思ったこともあったが、ついに手付かずじまいだった。長男であり、自分で跡を取るので、どこかにあればいつでも整理できると思っていたからだ。ところが私は家を出てしまい、弟が跡を継ぎ、私は時々帰省するだけ。土蔵が2つもあったし、広い家と納屋もあり、いくらでも保管スペースはあったが、ずっとほったらかし。かくしてほとんどの私の思い出の品々はゴミとなりどこかへ消えていった。
 ちなみに隆久君は長男で跡取りだが、真面目できちんとした性格から多くは保管しているという。ところが、地元に居続ける他の長男・跡取り組の場合は、私と同様に新築や改築等の折にどこかへいってしまったようだ。

<運命を悟って準備した末っ子たち>
 それでは、地元を離れた元重君やFさんがなぜ保管しているのか。答えは簡単、自らの境遇を知り対応したからである。元重君は物心ついた頃には父親が亡くなっており、何人もいる兄弟姉妹の1番下、自分は生家を離れる運命にあることを承知していた。だから、大切なものを皆きちんと揃え、引越しの時も常に一緒に持ち歩いていたのだ。Fさんも4人兄姉妹の次女であり、少なくとも嫁に行く時には同じ理由で一切合切を持って行ったのだろう。
 中野の地元で近所に嫁いだ女性には、いつでも来られるという気の緩みがあり、それほど持ち出していないようだ。いつも帰れていたが、そうこうするうちに兄や弟にお嫁さんが来て、そう簡単に実家で物捜しができなくなり、そのままになってしまったという。
 かくして若い頃に故郷を離れて遠くに行った人たちほど、貴重な思い出の品々を持っていることになる。

<みんなが知り合いの濃密的多縁社会>
 小2年の時の誕生会の写真は、母親たちが後ろに全員並んで写っていた。驚いたことに、私は全員どの同級生の母親かほぼ特定でき、なんと近所のお母さんたちの名前まで甦ってきた。常日頃から家族同士がお祭り、○○普請、運動会、農協の共選所と、しょっちゅう交流があったから、我々子供たちも顔を知り、名前も覚えられたのだ。つまり、皆一緒に混じり合って生きていたのだ。
最近小中一貫校にということがよくいわれる。しかし、昔は長丘小は長丘中も同じ場所にあった。中学の野球の遠征試合には、小学生が先輩中学生の自転車の荷台に乗り応援に行った。運動会も一緒でリレーは9学年となり、延々と続き逆転また逆転でいつまでも終わらなかった。だから、相当上の先輩から下の後輩まで自然に知り合うことになった。それほど親密的なベッタリした社会、いわば「多縁社会」だったのだ。

<都会はどんどん離れていく無縁社会>
 東京では品川区を手始めに小学校から学区制を緩めて自由に選べるようにしている。つまりその時から隣り近所がバラバラだということである。子供はその家の子だけでなく、地域社会の、そして国の子と言いつつ、政策や制度は逆を向いているのだ。それでは社会の紐帯が崩れていくのは当然である。かくして都会では、皆が助け合う社会は消え去り、ギスギスした冷たい社会、つまり「無縁社会」へと変容を遂げている。その象徴が遺体で発見される1人暮らしのお年寄りである。過干渉ともいえる田舎の多縁社会ではあり得ない話である。
 そういえば私の小学校時代には転出者が1人いただけで、あとは1人も出入りがなかった。中学校も4クラス200人で転入転出者はゼロだった。近頃は労働力の流動性から農地の流動性まで、何でも動けばいいように叫ばれているが、当時はほとんどが知り合いで、何らかの関係のある固定した社会だったのだ。そして皆が誰にもあたたかかった。

<初めて海を見た興奮が甦る柏崎海岸の写真>
 小5の時の柏崎の海岸の集合写真を見ても、あの時の興奮を思い出さずにはいられなかった。皆貧しく家族旅行などなかった。高学年になり、初めての一泊旅行が海を見るための修学旅行だった。大半の者は初めて見る海に興奮した(後日談になるが、1978年アメリカ留学中のクラスメートとの雑談で人生で一番びっくりしたことについて話した時に、初めて海を見た時だと話した。すると、周りがざわついた。そして勇気ある1人がつぶやいた。「日本なんかどこでも海など見えるじゃないか。世界地図では太平洋の端の点(dot)ではないか」)。だから、岬の先っちょにあった「北冥館」という旅館の名前までも鮮明に覚えていた。
 
<働き蜂団塊世代の哀れな境遇と民主党に広がった小さな縁>
 私は同窓会のたびに、そして古い写真を見るたびに半世紀前の出来事に思いを馳せて懐かしい思い出にひたっている。しかし、役所の深夜労働から国会議員の金帰月来と仕事に追われ、役所関係と政治家関係しか付き合いのなかった私には、18歳まで育った故郷以上の寄って立つ基盤は存在しない。
 2010年、国会で「孝君、元重君がよろしくと言ってたよ」と女性から声をかけられた。私の知る元重君は1人しかいない。振り向くと山尾志桜里議員だった。
 元重君は山尾議員の選挙区に住んでいる。きっかけはどうなのか知らないが、ともかく私の所属する民主党から出馬しているということで、元重君は山尾議員の支持者となり、ポスターも数枚貼ってくれているという。新たな縁の始まりである。そして、今国会でガンガン言う女性が苦手で反発する(?)安倍首相を保育所問題でたじろかせ、時の人になっている。嬉しい限りである。

<愛すべき日本の田舎を残す>
 ある者は電車に何時間も乗り、ある者は車を飛ばして故郷の同級会に駆けつける。しかし、今や盆・正月の帰省客も年々少なくなっている。人口が減少し、格差社会ではないが、都市と農村の断絶が生じているからである。
 3・11の東日本大震災から5年を迎えた。あの大災害の折にも沈着冷静に振舞い、暴動も起きなかったことに世界は驚愕した。1923年9月1日の関東大震災では、朝鮮人襲撃事件が起きていたのと比べるとよくわかる。日本人的なものを色濃く残す東北地方だから、粛々行動できたのだろう。これが東京や大阪の災害だったら多分こうはいかなかったかもしれない。
 愛すべき日本を残すには、田舎的なるものを残さなければならない。

2016年3月 4日

3年かかった党名変更決定- 安倍政権打倒には野党大統合しか途はない -2016.03.04

<岡田代表の提案に珍しく(?)全面賛成>
 先週、民主と維新の合流話がやっと決着した。2月24日(水)民主党の臨時常任幹事会が開かれ、岡田代表から経緯が報告され、合流に向けてのスケジュールや基本的な考えが示された。もちろん異論を唱える者もいたが、北陸信越ブロックの幹事として参加していた私は、全面的に支持すると発言した。大体が岡田代表とは違う意見のほうが多いのに、一瞬珍しいこともあるなぁという雰囲気が漂った。後述するように私の長年の願いと一致していたからだ。
 ここまで来るのに鹿野道彦素交会会長、大畠章宏顧問以下、素交会が相当一丸となって陰で一連の動きをリードし支えたことだけを記しておきたい。我々は、水面下で地道に野党統合、名称変更に向けて工作してきており、やっとそれが実を結んだのだ。

<野党統合は必須>
 野党統合は、維新との統一会派から始まった。私は、1強の自民党に対抗するためには維新だけでは足りず、全野党一丸となって安倍自公政権に対峙していかなければならないと考えており、かなり前からその方向で動いてきた。例えばいわゆる海江田降ろしが一段落した後(2014年8月)、すぐに海江田代表に「野党結集を呼びかけるべきだ」と進言した。それを受けて海江田代表は、生活と社民と統合していくという私の進言とはちょっとはずれたことを言い出し、少々物議をかもした。その後、14年末選挙前にも野党統合して安倍政権に立ち向かったほうが、議席数を増加させるとペーパーを書いて一部の人に働きかけた。これが前原、松本、細野、長島の4人が海江田代表への野党統合要請の際に使われていたことを知った。
 私の思いは、野党第一党が全野党に分け隔てなく結集を呼びかけるということだった。それがやっと動き出したのだ。

<全野党統合と党名変更は一対>
 2月26日(金)、民主と維新の党首会談で7項目の確認事項が紙で示されて、新党に向け確実な一歩を踏み出した。しかし、2党だけでは国民にはアピールしない。野党の大半が結集する形にならなければならない。幸いにして国民もそれを望んでいる。野党共闘の声は永田町よりも「戦争をさせないママの会」等の市民団体が中心に叫ばれている。永田町の鈍い(?)政治家よりも一般市民のほうが感度もよく、政治状況がわかっているといえる。野党はこうした声に真摯に応えていかなければならない。ある新聞はやっと民維が民意を汲んだと皮肉りつつ歓迎した。
 岡田代表も松野代表も生活、社民等その他の野党や無所属に幅広く声をかけて、参集していくべきだといろいろな場で明言した。これに連動して後述する名称変更が必要となってくる。民主党は、3年3ヶ月のドジな政権運営の負の遺産から抜け出す道はこれ以外にない。新しいスタートは、新しい名前でないとならない。

<維新のための党名変更ではない>
 2012年末総選挙の大敗北を受けて、私が党名を変更して再スタートするしかない、と真っ先に提案した(「党名変更で国民に民主党の再生をアピール」2013年2月15日ブログ)。その後ずっと主張し続けてきた。そして3年が経ち、やっと多くの人たちが同じことを主張するようになった。それこそ長い道のりだった。
 ところが残念なことに、民主党離党者が半分も占める維新のために党名を変えるなどとんでもないと誤解をする人がいる。離党者に対してわだかまりがあるのはわからないでもないが、出て行かざるを得ないようなまずい運営をしたほうにこそ問題があったのだ。私はむしろ与党からの大量離党を招いた、野田執行部のマネージメントのまずさのほうがずっと罪は重いと考えている。
 安倍政権打倒という大儀に殉じ、かつての仲間割れは水に流してもらわなければならない。民主党以外から新党に加わる人にとっては「民主」の残骸が残るよりも、新しい名前の新党がいいに決まっている。大同団結の証として新しい党名が必要なのだ。未来に向けて新しい名前になるのである。民主党自身が生まれ変わったことを国民に示さなければ、低迷する党勢を回復することもできず、また政権交代の受け皿にもなれない。

<負の遺産の一掃のため「民主」の名は捨てる>
 正直なところ、もう一つ党名を変えなければならないやむをえない理由がある。全国各地で汗をかいている仲間が、民主党という名前だけで強烈な門前払いにあっている。衆議院小選挙区で直に有権者に接する民主党議員が等しく経験していることである。2015年春の統一地方選の際にも、多くの候補者がポスターに民主党の名前をなるべく小さくしたり、民主党とは一切言わないなど、苦労している者も多かった。負の遺産が重くのしかかっているのだ。この人たちを晴れ晴れと政治活動ができるようするためにも傷ついた党名はやはり捨て去るべきである。
 党の幹部は選挙基盤も安定しているし、あまり支持者訪問をしなくてもよくなっているので、その苦しみがわからない。また、参議院議員は有権者との接触の機会が少ないため、幹部と同様にあまりピンとこない。こうした人たちが、党名は民主党でいいじゃないかとか、変えるとしても略称「民主」になるような新党名にしないといけないと主張する。現場の苦しみがわからないのだ。

<生まれ変わったことをアピール>
 維新との統合だけでは、選挙目当てと烙印を押される。いくら全野党に結集を呼びかけたところで、なかなかスムーズに進まないとなると、また批判される。
 この一連の岡田代表のぐずぐずした対応と、野田政権時代と同様に一握りの者だけが、目立つポストに就き続けることへの反発から、岡田代表交代論が広がっていた。野党統合を進めろ、成就した暁には代表交代では、岡田代表が受け入れるわけがない。私は岡田交代論の鎮静化に動いたが、それでもまだくすぶっている。確かに民主党が新しく生まれ変わったことを世間に印象づけるには、3月27日の〇〇党結党大会に新代表を選出し、執行部を一新するのが筋である。厳しい眼を持った国民は、民主党を潰した野田政権の幹部に不快感を持っている。党内融和を図る観点からも岡田代表を除き全く新しい顔ぶれの新執行部とするのがベストである。但し、あまり波風を立てるのはよくないので、そこには自ずと妥協点が見いだせる。
 しかし、確認事項の6番目に、党員等を募集したうえで、参院選後に代表選を行うとされている。こんな時は国会議員だけで選べばいいのに、何という言訳かと思う。今回遅ればせながら汗をかき決断した岡田代表を、27日の党大会の選挙で粛々と選び、新生〇〇党をアピールすればよいだけなのに、それを避けていることが透けて見えてくる。こうした折にずっと役職をたらい回しにしたメリーゴーラウンド人事の悪癖がでてくる。
 私には民主党が変わったことをアピールするためにもっとどきつい腹案があるが、まだ伏せておく。

<理念・政策の完全一致は不可能>
 数合わせのための野合は望ましくない、まず理念・政策の一致が必要だ、とド正論が述べられる。民・維の確認事項でも「理念・政策の一致を前提に野党が結集する」としている。安保法では5党で廃止法を共同提出し、民維は周辺事態法改正法案等3法案を共同提出している。消費税についても軽減税率導入を前提とした2017年4月の引き上げは認められないと統一見解を発表している。また、原発再稼働でも今は反対で共同歩調をとっている。
 これに対してかなり隔たりがある政策もある。維新は行政改革、定数削減、企業団体献金の禁止にこだわりが強いが、民主党も同じ気持ちであり、要は程度の差である。私の大反対するTPPは維新の中の「元みんな」には、TPP推進という人が多い。しかし、多くの元民主党の維新議員にはTPPへの反対の声が多い。ヒラリー・クリントンや民主党と同じく安倍政権の下、甘利担当相が、やみくもに妥協した結果がよくないということでまとめればいい。
 これに生活、社民が加わると更に複雑になっていく。しかし、すべての理念・政策が一致する政治家などおるまい。皆それぞれ異なる考え方をしており、それを一つにまとめていくのが政党である。綱領は一致できる単純明快なものでも十分である。私はこの際多少の政策の違いには目をつぶり、大同団結していくしかないと思っている。まずは一つになることである。衆院で93人、参院も含めると156人、ここに他の野党・無所属が合流すると200人弱のグループとなり、やっと政権交代の受け皿ができあがる。