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リベラルなワシントン州がトランプ大統領の入国禁止令を止める-ジム・マクダーモット議員にみるアメリカの良心- 17.02.28

 トランプ大統領が出現して1ヶ月余が経った。私はあまりにも酷い日本のマスメディアのトランプ批判・攻撃に対して、就任直前に3回連続でトランプの通商政策について、言っていることは間違っていない、と書いた。しかし、トランプ大統領のやっていることについて全て大賛成ということではない。私が疑問に思う1つに皆から批判されているイスラム7カ国からの入国禁止がある。アメリカはこんな荒っぽいことを大統領令でできる国なのだ。

<アメリカ大統領も憲法違反はできず>
 ところが1月30日にワシントン州のファーガソン司法長官が違憲であり、一時差止めるべしと初めて提訴した。それが2月3日、シアトルの連邦地裁で認められ、一時差止めにより入国が許されていた。翌日、司法省が直ちに連邦高裁(サンフランシスコ)に上訴したが、11日三人の判事全員一致で一時差止めを支持する決定がなされた。まさにスピード審査であり、アメリカは三権分立が完全に機能している国だと感心した。
 それに怒ったトランプ大統領は、移民に関する第2の大統領令を出すと言っていたが、先延ばしされている。最高裁への上訴も控えざるをえなくなっている。司法が行政(トランプ政権)の暴走にストップをかけた。私は1976~78年にかけてワシントン大学に留学した。今回の大統領選でも西海岸はクリントンが制しており、ワシントン州は元々民主党の金城湯池だった。その州の良心が今回のトランプ政権へのお灸を導き出したのだ。

<ルーズベルトの大統領令で12万人の日系人が強制収容所入り>
 人種差別と大統領令の関係になると、すぐ頭に浮かぶのは1942年2月19日のルーズベルト大統領による9066号である。約12万人の日本人が10ヶ所の施設に強制収収容された。アメリカ史上歴史に残る汚点である。しかし、アメリカはここでも民主主義の国である。46年後の1988年レーガン政権下で、「市民の自由法(強制収用補償法)」が成立し、政府が重大な誤りを謝罪した。
反省し償ったのは国だけではない。私は個人としてもこの行為を恥じ、政治家としてずっと償い続けた人を知っている。ワシントン州シアトルに選挙区がある民主党のジム・マクダーモット下院議員である。

<元々リベラルなワシントン州の更にリベラルな議員>
 私がマ議員に初めて会ったのは、明確に覚えているところで2012年春(民主党政権時代)のことだった(後述するように多分、日米議員交流プログラムの東京会合でずっと前に言葉を交わしていたかもしれない)。TPPの意見交換のため、桜井充、吉良州司両議員とともに米・加の2カ国に出張し、帰りに私一人で地元シアトルの事務所に立ち寄った。
 TPPにも反対しており、意見が合った。大きな事務所の中でTPPを巡り1時間以上話し込んだ。その後再び立ち寄る機会があり、その時は例の“STOP TPP”ネクタイを届けた。その場ですぐ身に着けかけたが「いや待てよ、これはオバマ大統領にあげたほうがいいな」とウインクして軽口を叩くザックバランな人でもあった。

<日系人強制収容所の罪を償い続けた政治生活>
 経歴によると、中西部の医学部出身の精神科医で、ベトナム戦争に従軍していた。その後ワシントン大学の医学部に勤務したのが縁でシアトルの街中の選挙区から下院議員としてずっと当選し続けていた。
 直接政治家としてキャリアやきっかけを聞いてみると、おやと思うところが多かった。医学部の卒業の日に、同期で一緒に学んだ親しい日系人から第二次世界大戦中の強制収容所のことを聞かされ、アメリカはそんなことをしていたのかとびっくり仰天したという。彼はそれを恥じ、政治目標の1つに重大な誤りへの償いをあげ、実行していた。ワシントン州の日系人のいろいろな会合に常に参加していた。2012年の春も、シアトルの桜の満開に合わせて開催されていた日系人の小さな会合に顔を出し、私はそこでも顔を合わせることになった。シアトル総領事の話によると、退役軍人の会でも全体の会合よりも、ヨーロッパ戦線で勇名をはせた日系人の442部隊等の小さな会合を優先してくれていた。つまり日系アメリカ人の意見を政治の場に反映することに意を注ぎ続けてきたのである。

<日系人への償いで日米議員交流プログラムを主導>
 シアトルで初めて会った時の別れ際に厳しい言葉が出てきた。「You(お前、あんた?)は英語がそこそこできるではないか。それなのになぜ日米議員交流プログラムに参加しないのか。民主党が政権をとっているのに、継続性もなくあまり政策通とは思えない議員ばかりが来ている。ちゃんと出席し続けなければダメではないか」と言われた。このプログラムは、日本側は大野功統・元衆議院議員と松田岩夫・元参議院議員が主導し、アメリカ側はマ下院議員が主導する議員外交の場になっていた。マ議員は、日本側二人の中心議員が引退してしまい、そこにアメリカの議員も最近は日本よりも中国に興味が移りつつある状況を憂い、私に警告を発したのだ。マ議員の終始一貫した姿勢に胸を打たれ、絶対にこのプログラムに参加しなければなるまいと心に決めていた。

<日本側からも参加を要請される>
 そして2012年5月、早速日本側の仲介者に参加を申し入れ、アメリカに行くことになった。すると日米経済交流財団の畠山譲理事長(元通産省審議官)の訪問を受けた。URの最中に四極通商等でよく一緒に仕事をした旧知の方だった。私が日米議員交流プログラムに参加することを喜んでくれる一方で、「民主党もこのプログラムを大事にしてほしい、篠原さんのような方にぜひ継続して参加していただきたい」とマ議員と同じことを要請された。
 私は東京で開かれる日本の会合は半分ぐらい参加していた。しかし、励ます会もしないためお金のない私には、アメリカへ行く費用を出せる余裕がないため、日米韓交流で一度韓国に行ったことがあるだけだった。だがこの時に日米議員プログラムの渡航費用等は全て日米経済交流財団から出ていたことを知った。それならばもっと早くから参加したのにとほぞを噛んだ。

<マクダーモット議員との約束を果たせず>
 ところが私は、その直後2012年夏の民主党を分裂させる元凶となった「社会保障と税の一体改革特別委員会」の委員にさせられた。ほとんど毎日開かれるため、1週間も続けて休むのはまずいということになり、私は行けなくなってしまった。どうも私がTPPがらみでいろいろなアメリカ議員に会い、TPP反対だ、反対だと言われるのを恐れた幹部が、わざと私を行かせないようにと社保特委の委員にしたようだった。このためマ議員にも、畠山理事長にも義理をかくことになってしまった。
 私はその後、二人の要請を受けて、このプログラムをきちんと立て直し、日米議員外交を充実したものにすべく、下準備をし始めた。例えば、参加者を適当な内輪だけで回していくのはよくないと思い、英語ができる将来立派な政治家になるだろうと思う2期生に声をかけていた。ところが、いろいろな不手際があり、その2期生がずっと続けて行き、私が3年連続行けない羽目になった。

<ワシントン州のリベラルが大統領の暴走を止める>
 そして2016年春、やっと日米議員交流プログラムでの訪米が実現した。しかし、3年の月日は長く、残念ながらマ議員は14期28年(1989~2017)で引退を表明しており、ワシントンDCで会うことはなかった。私に日米議員交流の必要性を訴えたマ議員の現職中に約束を果たせなかったのは痛恨の極みだった。私はすまないという気持ちから、今年(2017年)も誰も行きたがらない日米韓交流プログラムで2月21~23日までソウルに行って来たところである。
 2016年の大統領選をマ議員は苦々しく見守っていただろう。彼の主張はほとんどサンダース議員に近かったと思われるが、クリントンが民主党の大統領候補となり、挙句の果てにトランプが大統領に選ばれてしまった。私と同様にTPPを絶対阻止せんとしていたのだからTPPの崩壊は喜んだが、移民に関わる措置は許せないものだっただろう。これでは、70年前の日系人の二の舞になると気を揉んでいたに違いない。
 ただ、ここでも神風が吹いた。マ議員のような人がいるワシントン州のリベラルな空気が、トランプの暴走を止めたのである。今はマ議員も安堵しているに違いない。