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【羽田孜元総理 追悼シリーズ1】うるさい農林族のまとめ役だった若き日の羽田孜元総理 -誰も悪口を言わない誠実な政治家- 17.09.04

 8月28日、長野県出身で唯一の首相、羽田孜さんが亡くなられた。心から哀悼の意を表したい。明治以降150年余、47都道府県だから平均でも3~4人の宰相を輩出していいはずだが、残念ながら長野県は羽田さん1人である。
 私は、農水省を辞めた直後の2003年に衆議院議員となり14年。羽田さんの強い勧めがなければ、政界入りなどなかった。羽田さんがどれだけ立派な政治家だったのかを数回にわたり、私とのかかわりの範囲でまとめてみる。

<農林政務次官を契機に農林族の幹部へ>
 羽田さんは、農林水産大臣を2回(1985年12月第2次中曽根内閣、1988年12月竹下内閣)を務めるなど農林族のドンだったが、最初からそうだったわけではない。最初は逓信委員会に所属し、郵政政務次官になるなど、当選3回まではもっぱら郵政族として活躍していた。
 当時の長野2区(今の3区に相当)は定員3人のところに、自民2、社民1と55年体制を体現した選挙区となっていた。自民は井出一太郎・羽田孜の2人で、井出さんが農林大臣も経験した農林族。しかも羽田さんが初当選した1969年、三木内閣の官房長官もされていた。中選挙区制の下では、数人の衆議院議員のそれぞれの得意分野が決まり、その分野のプロになればすんでいた。つまり、同一選挙区で2人の農林族は不要であり、羽田さんの出る幕はなかったのだろう。
 今もそうだが、閣僚人事はいい加減である。今回の斎藤健農林水産大臣は素人大臣もいいところである。かつて「盲腸」と呼ばれた当時の政務次官の人事はもっとひどく、ただの処遇としか考えられていなかった。羽田さんは郵政政務次官の後、当選3回目で突然農林政務次官となった。立派なのは、これを契機として農林族としてのし上がっていったのだ。この機会を最大限に活かしたのは羽田さんの力によるものである。

<重要な米価決定>
 私はもちろん、長野2区(現3区)に羽田孜という若き代議士がいるのは知っていた。ただ、農林省長野県人会で遠くから眺めていただけである。そして1976年12月、農林水産政務次官をされたが、私は8月から2年間のアメリカ留学中で、この時日本にはいなかった。私が羽田さんの存在を明確に知ったのは、1982年から3年務めた大臣官房企画室の頃である。羽田さんは1980年自民党農林部会長、1981年農林水産委員長を歴任し、押しも押されもせぬ農林族の幹部となっていた。
 当時、米価決定は農林水産行政の中で最重要のイベント。三番町分庁舎で米価審議会が開かれ、生産者、消費者が意見を述べ合い、消費者米価と生産者米価が決定されていた。生産者は全国各地から押し寄せ、三番町を取り囲み、主婦は白のエプロンに消費者米価値上げ反対と書き込み、タスキをかけて対抗した。これを「おしゃもじデモ」と呼んだ。この2つの価格の差(生産者米価が常に消費者米価を上回った)が「食管の赤字」、いわゆる逆ざやで政府が埋めていた。当時の米の総農業生産額に占める割合は半分をはるかに超え、米からの収入はいわば農家の基本給でもあり、春闘のベースアップと同率に決められることもあった。

<変則的な米価決定>
 米価決定は、一週間はゆうに超えるプロセスを経て決められた。形式的には米審で決まるが、最後に実質的に決めるのは党と政府の折衝である。農林水産大臣、大蔵大臣、そして自民党幹事長等が最終決定者だった。ところがこの年、二階堂進幹事長がそうしたのだろう、農林水産大臣や幹事長ではなく1ランク下の加藤紘一米価小委員長(党)と藤波孝生官房副長官(政府)に任せられることになった。
 今もそうだが、与党自民党に農林8人衆とやらの幹部が物事を決めていた。中川一郎、渡辺美智雄等が大物となり、いわゆる総合農政派の中から、羽田・加藤の2人が抜き出んとしている頃だった。最終段階でその8人衆会合が開かれた。顔も知られていない私が、党職員の下っ端のような顔をして(?)、ただ1人メモ取りに入っていた。(森友・加計問題でメモの存在が取り沙汰されたが、まともな役所はどんな場合もメモを残し、農林水産省の場合は党の会合すら密かにメモを取る)

<加藤紘一さんを救った羽田さんの一言>
 三塚博さんが喚いた。「足して2で割るなんてだめだ。藤波の机を叩いて帰って来い。」渡部恒三さんが、例の東北弁で少々穏やかだが、ほぼ同じようなことを言った。加藤さんは困っていろいろ言い訳をし始めたが、誰も聞く耳を持たない。かくしてさっぱり議論がまとまらなかった。すると黙っていた羽田さんが大きな声で発言した。「皆言い分がある。だけど、米価決定が二階堂幹事長ではなく初めて我々の仲間、加藤米価小委員長に任されたんだ。ここで紛糾したらみっともない。ここはひとつ加藤さんに全面的に任せて拍手で送りだし、一発で決めてもらおうじゃないか。」
 一瞬シーンと沈黙が支配して、確か渡部さんだったと思う。「孜ちゃんがそう言うんじゃ仕方ない」と言って拍手を始めた。それが皆に伝わり、全員の拍手に見送られ加藤米価小委員長が部屋を出て最終折衝に臨んだ。数時間後に戻り、値上げ幅を報告した。羽田さんが「よし、これでいい」とまた大声で発言し、加藤さんをねぎらった。羽田さんが決めた米価だった。

<羽田さんに似た藤波孝生さんの機転のきく調整力>
 本文は、羽田さんの追悼だが、せっかくの機会なので、もう1人羽田さんとよく似た政治家、藤波孝生さんにも触れておきたい。
 上述の加藤・藤波会談は、農林8人衆に見送られてすぐに自民党総裁室で始まった。広い部屋にいるのは、2人とメモ取りの私1人。
 藤波さん(1932年生まれ・当選6回)、羽田さん(1935年生・5回)、加藤さん(1939年生・4回)で、3人とも若手のホープであることには変わりなかったが、人の話をよく聞くまとめ役タイプという点で藤波・羽田は共通だった。藤波さんは既に労働大臣を経験し、第一次中曽根内閣の官房副長官になっていた。大臣経験者が官房副長官になるのは異例のことだった。
 藤波さんは、要求よりも少し上の数字を出してまとめようと申し出た。加藤さんは大喜びですぐに立ち上がって、うるさい農林8人衆の待つ会議室へ戻ろうとされた。

<2時間に及ぶ四方山話>
 それを藤波さんが「加藤さん、そんなに早く帰ると元気のよい農林族の皆さんが簡単に妥協してきたと思うかもしれないから、もう少しゆっくりやりましょう」と制して止めた。それから2人の四方山話が延々と2時間近く続いた。「この辺でいいでしょう」という藤波さんに送られて自民党総裁室を出て、上述の場面へ続いた。
 私は、羽田さんが決めた米価だと書いたが、正確には羽田・藤波の調整で決まった米価といえる。当時、藤波さんこそ誰もが認める将来の総理候補だったが、派閥の親分の中曽根康弘首相の泥をかぶる形で罪を負い、残念ながら首相の座に就くことはなかった。今このような味のある政治家はもういなくなったのではないか。
 今、親しい気の合う同僚議員となっている松木謙公さんは、青山学院大学の大学生でありながら、もう藤波孝生さんの秘書をしていたという。藤波さんの薫陶を受けた松木さんに、他の民進党議員にはない調整能力が備わっているのは、この貴重な経験故だろう。