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【羽田孜元総理 追悼シリーズ2】羽田さんのくどき上手に乗せられた羽田チルドレン-堀込さん・北沢さんの無私の温情にほだされる- 17.09.08

 羽田さんは、その後農林族のドンとして急激に力を付け、政界の梯子を着実に登っていった。農林族議員と農林水産省の役人の付き合いは濃密になるが、羽田さんは偉くなり過ぎ、私の根回し対象ではなくなっていた。羽田さんが1985年に初めて農林水産大臣になられた時は、私は食品流通局企業振興課の補佐。大臣への説明は少なくとも課長以上である。

<長野県初の総理誕生>
 私がその後羽田さんを垣間見たのは、1990年ウルグアイラウンドのブリュッセル関係会議である。例によって8人衆がこぞって援軍に来られ、私はロジ隊長としてその対応のスケジュール案を作る中心にいた。今思うと錚々たる顔ぶれの布陣である。羽田・加藤・大河原太一郎・鹿野道彦・二田孝治・遠藤武彦。社民党からは村沢牧・山下八州夫・・・。
 この他にも、自民党選挙制度調査会長(90年2月)、政治改革推進本部選挙制度委員長(同4月)、大蔵大臣(91年3月)と、政治改革の中心人物として更に内閣の重要閣僚として重きを成していった。一方私は、91年7月から3年間、OECD代表部(パリ)に出向して日本を留守にした。この間に羽田さんは大きく動き、93年6月には自民党を離党、新生党党首、8月には細川内閣で副総理兼外相、94年4月には細川さんの後を受けて第80代首相になられた。
 69日間という短い首相在任中だったが、その間にパリに来られた。パリに長野県人会があり、大歓迎会が開かれたが、私は別の高官の訪欧の手伝いでドイツ等に出向き、この会合には参加できなかった(パリで最初にできた日本料理店「宝」の経営者は長野県出身で、会長を務めていた)。

<丁寧な衆議院出馬要請>
 そして接触が再開したのは、私が94年9月に帰国し、水産庁企画課長となり、海洋法条約の批准と関連法の制定を担当した頃である。仕事とは直接関係なく、秘かなもの、つまり長野1区衆議院選出馬のお誘いだった。
 ここにも羽田さんの人柄が如実に反映されている。旧2区の同じ選挙区で戦っていた堀込征雄さん(元社会党・社民党)も同じ民主党となって、堀込さんは比例区単独に回っていた。堀込さんも中堅農林議員だった。堀込さんから話があり、すぐに羽田さんからも接触があった。私はそんな気は全くなかったので、当然逃げ回った。しかし、お2人ともなかなかしぶとかった。そうこうするうち、2000年6月、衆議院選挙の日が到来して、別の方が民主党公認で出馬した。私は、これで逃げ切ったとホッとしていた。ところがお2人は、党本部が押し付けた(?)候補とやらをほとんど応援されなかったという。
 そして再び、静かにプレッシャーがかかり始めた。ただ、「とっとと決断して出ろ」というような高圧的な態度は一切なかった。もしそういう言い方をされたならば、私は即座に断っていただろう。羽田さんはくどき上手なのだ。私ごとき者に対しても丁寧で「あのこと考えておいてくれよな」が食事か会合の前後につくだけだった。私は会う度に、電話を受ける度に、追い詰められていった。

<全く外に漏れなかった出馬の動き>
 ダメな理由をいろいろ並べていた時に、とてもじゃないが妻が納得してくれないとも言い訳した。すると、「奥さんの都合のいい時に是非お邪魔したい」、と言われて困り果てた。私の女房は、元総理だろうと遠慮せずにお断りをするに決まっていたからだ。とてもそこまでには及びません、と必死でお断りした。
 私は今思うと、もっと失礼なことも言っていた。「もしこのことが事前に新聞等に出たら、絶対に出ませんから」と半ば脅迫していた。政治家は口が軽いといわれるが、私の関係した3人(途中から北沢俊美さんも加わった)は例外だった。03年9月まで一切外に出ることはなかった。

<日本型農業論や地産地消・旬産旬消が受け入れられる>
 私は85年にちょっとした農政論文・記事を書いて以来、更に書いてほしいと要請され、それが積もりに積もって、本も数冊出していた。週末には講演にも出かけ、妻からは家族をかえりみないと大ブーイングを受けていた。
 ごく一部の太っ腹な立派な上司はこうした私の活動を奨励したが、大半の狭量な上司は快く思わず、役人は黒子に徹すべきだと面罵する者もいた。しかし、当時は根拠のない農業過保護論が罷り通っており、農政もあちこちから叩かれどおしなのにもかかわらず、それに対し論陣を張る人がほとんどいなかった。それどころか逆に、変な経済学者の競争一点張りの農政論にやられっぱなしだった。そのうちに私の「日本型農業論」や「地産地消・旬産旬消」といった考え方に共鳴する人たちが徐々に増えていった。だから私は天命と思い、省内での出世(?)は諦めて執筆・講演活動を続けていた。

<墓穴を掘ったつまらぬ言い訳>
 私の著書等がそれなりに評価されたのか、某大学から55歳までに来てほしいと要請されていた。妻は衆議院選挙などとんでもないと大反対し、是非大学教授になってほしいと懇願した。一方、私の役人離れした活動が嫌われたのか(?)、私は現役行政官としては初めての「農林水産政策研究所(旧農業総合研究所)所長」を拝命した。時の中川昭一農林水産大臣は「行政と研究所の架け橋」と美名で持ち上げたが、明らかに当時の幹部には邪魔だったのだ。 
 農林水産省の人事もよく承知しておられた羽田さんは、その後しばらくして「そんな所にいるより早く国会議員になったほうが、あんたが本に書いていた理想の社会の実現に10倍、100倍のパワーで取り組める」と督促してきた。ところが私は「いや、変わったところですけど、○○さんが次官になったら再び本省に戻す、と言われてますから」と言い訳して断り続けた。
 しかし、つまらぬ言い訳はするものではない。その人が諸般の事情で次官にならずに退任してしまった。すると間髪を入れず「○○次官の件はなくなった。もう戻れる可能性はない。もう出馬したほうがいい。これが最後だ」と言って来られた。私の根負けであり、応ずるしかなくなった。

<堀込・北沢の二人の先輩の温情>
 北沢さんはその頃付き合いはそれほどなかった。しかし「篠原さんみたいな役人だか学者だかわからない人をこんな世界に入れ込むのは心苦しい。落ちてダメだったら俺は来年(2004年)の参議院選挙には出ずにあんたに譲る。女房からもうやめろと言われているから丁度良い」とポロリと漏らされた。私は慌てて「いや、その時は、全国にそれなりのファンがいるので『地方区は北沢、比例区は篠原』でやってもらえば十分です」と遮った。
 また、岡田克也幹事長が『全員小選挙区立候補し、比例区は惜敗率』という方針を打ち出した時は、もっけの幸いで「堀込さん、1区で出るしかないですよ」と進言し逃げようとした。「何を馬鹿なことを言ってるんだ。1区はあんたのためにとってあるんだ。俺は上田以外では選挙活動はしない。それに例外のない規則はない」と取り合わなかった。岡田さんがこの例外を認めず、堀込さんの4区へ移封が断行され、そのときは当選したがその後は本当に地元活動はせず、そのまた次は落選し引退された。(一方、例外を一切認めないといった岡田さんは、2005年と2014年に例外を認め、大顰蹙を買った。一方で非情な措置をとり、一方はえこひいきである。)
 私はこのお二人のそれこそ温情溢れる対応にも応じないわけにはいかなかった。

<受け身の政治家の歯ぎしり>
 最初に声をかけられてから足かけ8年経っていた。今考えてみると、かなり長いやりとりだった。私をそれほどまでに待っていただいたことに敬意を表して出馬を決意した。大学教授のタイムリミット55歳に達していた。
 私は政治家になりたくてなりたくてなった者とは全く違う経路を歩んでいる。全面的「受け身」で政界に入ることになった。政治家になってからは。羽田さんの目標、二大政党制による政治の活性化に全力を尽くし、その一心で動き回っている。ただ、正直なところ羽田さんや小沢さんのように感度のよい政治家や堀込さんや北沢さんのように心根の優しい方が少なくなり、心が折れそうである。