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【解散総選挙シリーズ3】篠原が無所属出馬を決意した理由-前原代表の英断は大歓迎、しかし、政策協定は受忍限度を超える-17.10.07

 私の無所属出馬についてはさまざまなメディアで取り上げられたので、最後にしようと思うが、報道では伝わりきらない部分もあったので今回の顛末をまとめた。

 民進党と希望の党の合流について、じっと前原・小池調整、(実際は玄葉・若狭調整になっていた)を見守っていたが、途中から変な方向になっていった。小池百合子代表が丸ごと受け止められるわけではないと言い出し、更にリアルな安全保障政策を認める人しか受け入れないとエスカレートしていった。

<篠原が排除リストに掲載される>
 民進党の両院議員総会(9月28日)では前原代表の決断が大歓迎され、意見を言うのも憚られる雰囲気が漂っていた。選別しリベラルを排除するようなことは一切言われていない。そうしたなか、私は個人に詰め腹を切らせるようなことは絶対してはならないと意見を言った。ところが翌日東京の夕刊紙に排除者リストなるものが出回り、それが毎日新聞にも掲載されるに及んだ。よく見ると単純なリストであった。私がかねてから民主党(民進党)の古い殻を捨てる象徴として、出て行ってもらうべきだと言っていた菅直人、野田佳彦の2人の前総理ばかりでなく、大物の岡田克也、安住淳、枝野幸男、長妻昭こういった人たちまで排除されているのである。その他に近藤昭一、辻元清美、阿部知子と旧社民党なりのリベラル派。東京選挙区で多分希望の党側の候補者が決まっている選挙区の者。私の事務所の中では、うちの代議士は拒否されるほどのリベラルではないのは明らかだが、かといってそれほど大物だったのか(?)と疑問に思われていた。

<突然届いた政策協定書はサインせず>
 そうした状況の中で、10月2日夕方18:56に党本部からメールが届いた。その内容たるやびっくり仰天だった。離党届と小池百合子代表宛ての政策協定書である。この内容は、報道等で明らかにされている通りでありであり、私の14年間の政治生活、政治信条とは相容れないものであった。また、内容そのものの前に、私が重ねて個人をチェックするようなことは絶対あってはならない、党と党との対応でやるべきであると意見を言い、全員が移ると断言していた約束を完全に踏みにじるものであった。だから当然私はそんなものにサインをして出すつもりはなかった。
 私は極めて当たり前のことをしているだけなのに、私のこの行為が新聞・テレビで大きく報じられていた。新聞報道された8項目は憲法改正を進めるだけなく安保法制を容認しろというものであった。それを10項目の柔らかい表現にしたから認めろと言っている人たちもいたが、衣の下に鎧が隠れているのである。いや鎧が先に見えてしまったものを、少し文章を直しても誤魔化しでしかない。

<突然届いた政策協定書は未提出に対して続いた希望の党での出馬要請>
 3日朝9:00締め切りであった。こういったことはあまり明らかにすべきではないとは思うけれども、ある程度きちんと説明しておかなければならない。締め切り時間直後、前原代表と玄葉選対本部長代行から当然希望の党で出てくれと電話やメールがあった。私は拒否し、提出しなかった。
 長野県には、3区で井出庸生前衆議院議員と競合している寺島義幸元衆議院議員をどうするのかという問題があった。民進党のままでいくなら、ほぼ単独比例1位で処遇される目途がついていたが、希望の党との合流ではそれもままならなくなり、空いている4区に出馬するしかなかった。しかし小選挙区当選はかなりの難関であり、比例で復活当選する道を切り開いていかなければならない。それには希望の党からたくさん出馬するしかない。

<予想された新潟県の混乱>
 私が両院議員総会で、警告し、修正しろと迫ったブロックごとに民進党か希望の党か決めるという意見が無視されたため、新潟県では既に重大な問題が発生した。6人全員希望の党で出馬しないことが明らかになった。新潟は、もともと2016年の参議院選で野党共闘により自由党の森裕子を当選に導いている。それに続く県知事選のときも、同じ図式で米山隆一の大逆転勝利を呼び込んでいる。
 このようにあうんの呼吸で見事な野党共闘が出来上がっているのを、潰してはならず、従来通りの方針で行くという事になっていた。結果的には西村智奈美(1区)、梅谷守(6区)が立憲民主党、あとの4人は無所属となっていた。民進党が大量得票して議席をもっているのは長野と新潟であり、その延長線上で比例区の票も長野と新潟から出さなければならないという状況にあった。既にそれが大きく崩れていた。

<前原代表の果敢な政権選択選挙への形作りは五重丸>
 私は政治家の矜持としてこんなものにサインはできず申請していない。それなのに公認リストに入っていたため、改めて辞退するという形になった。私は不条理なことに排除リストに載り、その排除リストからも再び排除(?)され、公認されてしまったのだ。
 前2つの私のメルマガ・ブログを読んでいただいたらよくわかるとおり、私こそ政権選択選挙がしたい、それをやろうと言ってきた。なかなか歴代代表がそれに踏み切らなかった。それに対して前原代表は敢然とそれに挑戦したのである。私は、その点は政治家として高く高く評価すべきことだと思う。そしてあのとても承服できない政策協定書がなければ、私も渋々ではあるが希望の党に移る前原方針に従っていただろう。

<あまり具体的知恵がなかった民進党幹部>
 詰めが甘いという批判があるが、それは酷であり当たらない。解散風の吹き始めたのが19日、解散が28日で10日もなかったのであり、小池都知事も全て認められるはずがない。ただその後がよくなかった。ちょっと愚痴を言えば、ずっと野党統合による政権選択を目指し、いろいろシミュレーションをしていた私に少しでも相談してくれていれば、違った展開がみられたにではないかということである。
 例えば、北海道と北陸信越などもう出来上がっているところは民進党のままでやるということである。案の定北海道は大混乱になり、一旦は全員無所属となったが、それでは比例区の復活がないということで、ほとんどが立憲民主党で出て、松木謙公以下、数人が希望の党ということになった。北海道も元から民進党のままで、野党共闘が出来上がっていたのである。共産党も全面協力体制をしいた。依然として選別・排除の問題は残るが、それぞれのブロックが判断できればもっとうまく対応できただろう。

<胸が張り裂ける同僚議員の苦しみ>
 私は、2日夜疲れた目をこすりながら夜中まで何人かの親しい同僚議員に「こんな屈辱的な政策協定にサインし提出するつもりはない」とショートメールを送った。だまって何も返事が来ない者が大半であったが、「そのようにしたい、しかし、できません。篠原さんがうらやましい」という悲痛な叫びの返信もあった。哀れなことに、鼻をつまんで横を向いてサインして提出したという者もいた。つまり同僚議員の大半は様々な事情から無所属で戦うと啖呵が切れないのだ。私は、まだ幸いにして前回自民党候補に2万票弱の差をつけたが、このくらいは一気に逆転される可能性がある。退路を断っての決断である。
 そういった弱い立場に乗じて、公認をしてやるから金を出せという前代未聞の政策協定書を突き付けたのだ。政治は弱者に光をむけなければならないというのに、本家本元からしてこうした強権発動、上から目線では先が思いやられる。私の行動は、そうしたことをしたくてもできない人を代弁しているだけなのだ。

<思わぬ共産党の配慮に感謝>
 有難いことに、共産党が私のそうした動きを察知し、はじめて候補を取り下げていただいた。それは私の小選挙区の当選は、岡田、安住といった大物のような盤石な基盤もなく危ういからである。つまり私が小選挙区で勝てなかったら、反安倍の議席を失うことになる。共産党は、私が退路を断ったこと配慮してくれたである。伝統ある政党というのは、きちんと対応できるとつくづく感心した。私は候補予定されていた長瀬由希子さんのためにも頑張って選挙区で勝利しなければならない。

<引き続く試練>
 私の決断は、今のところ支持者の多くから好感を持っていただいている。しかし、私もついカッとして口が走ってしまった感もあり深く反省している。無所属出馬前のご意見メールの大半は、希望の党での出馬はまかりならんというものだった。しかし、今度無所属出馬を決めると、党の決定に従わないのはなんだ、希望の党で出馬をせざるをえない人の立場を考えろ。共産党と組むのかといった批判が届く。つまり、政治への要求は様々なのだ。全ての要望に応えることは不可能に近い。
 こうなれば、私も必死になって議席を確保し、新しい反安倍連合をまた再興するしかないと思っている。7日に一連のことが落ち着き、遅れて新聞に目を通したら、苦渋の判断をして無所属や新しい立憲民主党で出馬せんとしている者が多くいた。
 もう明日からはこの無所属出馬の経緯にはあまり触れずに、本来に戻り、私の政策を地道に訴えていこうと思っている。