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2017年12月28日

【民進党再生・野党統合シリーズ3】 立憲民主党にも野党統一会派結成・統合を呼びかける責任がある -国民は右でも左でもなく民進党的な中道を望んでいる- 17.12.28

 民進党は親元の責任もあり、立憲民主党と希望の党の双方に、まずは野党統一会派の結成を呼びかけ、その後(できれば7月の参議院選挙前早い時期に)野党統合して新党を結成し、参議院選挙で勝利し、次の総選挙を政権選択選挙に持ち込むことを念頭に置いている。

<「主張を鮮明にした」から高得票したのではない>
 ところが、立憲民主党の枝野代表は、54名と大勝利(といっても希望の党を上回ったにすぎず、野党第1党としては最小)した後、「数合わせは意味がない」、「主張を鮮明にしたから支持を受けた」と発言している。明らかに勘違いである。前号で指摘したとおり、立憲民主党の高得票は、政策・理念に共感したというよりも、むしろ、判官贔屓と民進党の代替が重きを占めていたのである。
 12月に入ると、政策と理念を同じくする人に来ていただきたいとして、立憲民主党の拡大に力を注ぎ、大塚民進党代表の友党として統一会派結成、という呼びかけに応じない姿勢を示していた。12月26日3回目の全国幹事会と両院議員総会の合同会議という丁寧なプロセスを踏み、立憲民主党と希望の党の双方に正式に統一会派を申し出たが、にべもない返事しか返ってこなかった。他党を寄せ付けない姿勢は、2ヶ月前の小池の排除とダブってくる。明らかに自己矛盾に陥っているのである。

<野党第一党の党首は野党をリードして政権交代を果たすこと>
 初めての代表として張り切っているのはわからないでもない。しかし、少なくとも衆議院ではもとから野党第一党であり、常に他の野党もリードし政権交代に導く責務がある。前原前民進党代表が、前任者とは異なり野党第一党として勝負に出たのも、その故である。ただ、私の自由党や社民党とはどうしたか、という問いに対し、「自由党さん、社民党さんは、それはそれぞれの党がお決めになることで、私が他党のことまで判断しない」、と寝惚けた答えしか返してこなかった。こんな狭い了見だからできたばかりの希望の党にやられっぱなしで、結果は無残な大失敗だった。

<枝野の小池化は危険な兆候>
 それを枝野代表は、小池と同じ排除の論理を振りかざし、他党からの合流つまり引き抜きまでしているのである。更に「立憲民主党が大きくなっていくことを目指すので、再編を考えていない」とのたまわっている。狭量にすぎ、野党第一党の党首の自覚が見られない。
 枝野代表の言うとおり、政策・理念が一致しないと会派は組めないなどと言っていたら、日本に会派や政党はいくつあっても足りなくなってしまう。政治家の考えはまちまちであり、政策や理念が全て一致することなどあり得ないからだ。
 調子に乗る立憲民主党が野党統一会派を拒み続けている姿を見た国民が、枝野立憲民主党の驕りを見逃さないはずがない。自民党からいじわるされ、オリンピックで森喜朗に、そして都政で内田茂に対抗する健気な小池は支持されていたものの、希望の党の結成後にリベラルを排除するいじわるな小池になり、瞬く間に支持を失ったのと同じ構造が生じつつある。12月26日の連舫元代表の民進党離党・立憲民主党入党は永田町の茶番劇として国民は冷ややかに見ており、支持を失うことに拍車をかけるに違いない。

<国民は枝野代表に安倍政権への対峙を期待>
 我が国で小選挙区比例代表制が導入されてから二大政党制による政権交代が理想とされ、現に我々民主党は2009年8月にそれを成し遂げている。アメリカの共和党・民主党のように、それぞれの政策が幅広い考えの政治家を抱えて党内議論をして政策をまとめるのが熟練政治家の腕の見せ所である。
 枝野代表は、ずっと党の中枢を占め、訓練の場を人一倍与えられてきたにもかかわらず、どうも熟練の域に達していないようである。いまだ組織運営のコツを掴んでいないようだ。いろいろな考えの持ち主をまとめて引っ張っていくというガバナンスから逃げ、安易な純化路線を歩もうとしている。これでは政権交代はできない。数を大きくしないと安倍政権は倒せないのだ。安倍政権打倒という大きな目標に向かい、些細な違いには目をつぶっていかなければならない。枝野代表は、数合わせはしないとか、内側の数合わせをしたら期待を裏切ると発言しているが、国民はむしろ数を合わせて自公政権に対峙していくことを望んでいるはずである。ここを見誤っていると思われる。

<リーダーには撤退の決断こそ必要>
 もう一つ気になることがある。枝野代表は排除で小池とダブるのに加え、自己陶酔し暴走する姿は前原にもダブって見えてくることである。別のブログで触れたが、前原も排除や踏み絵の段階で小池に向かって啖呵を切って「それなら民進党で戦う」と撤退していたら、こんなに傷は大きくならずに済んだだろう。枝野代表も今が突っ張り路線から撤退する潮時である。
 話は横道に逸れるが、私の国会質問の引用から始まる『満州開拓団の真実』(小林弘忠著/七ツ森書館)を涙を流しながら読んだ。日本軍の暴走、そして1945年6月から始まった和平工作がずるずると長引き、撤退を知らない軍部に押し切られていたことが、原爆投下、満蒙開拓団の集団自決を招いてしまったことが、怒りに満ちて書かれていた。ある時には撤退こそ勇気のいることなのだ。

<排除により得をしたのは立憲民主党>
 立憲民主党の皆さんは枝野代表をはじめとして、当初苦しい選挙戦を強いられた希望の党に反感があることはよくわかる。しかし、もっと太っ腹になってほしい。もしもあの排除がなかったら、立憲民主党は生まれなかったのである。前号で述べたとおり、もう落選と諦めていた議員の多くが、思いがけずの得票で小選挙区から当選できたのである。
 皮肉なことに小池や前原はリベラルを排除せんとして、逆にリベラルの拡大を許してしまったのである。立憲民主党の「17年当選者の17年と14年との得票数・得票率」(別紙)でみるとおり、小選挙区当選は6人から14人に増えた。前職15人全員、元職16人、新人23人(巨大与党自民党ですら19人)と54人も当選し、小さな党にもかかわらず比例単独が8人当選した。当初の排除の時は肝を冷やし、恨み骨髄に達していることはよくわかるが、結果は大勝利であり逆恨みをする筋合いはない。付言すれば、本当の被害者は第一に排除により無所属で出馬せざるを得ず落選した者であり、第二に当初の大きな期待にもかかわらず、風が逆風に変わり議席を失った希望の党の落選者なのだ。だから、ここは一つ大人になり、逆転の発想で先頭に立って野党統一会派を呼びかけるぐらいの度量の広さを示してもおかしくない。

<元の鞘に収まる>
 私は、複雑な民進党の選対委員長を仰せつかっている。1年半後の19年の参院選勝利に向けて、友党と仲良くしていかないとならない。だからあれこれ言うのは遠慮してきた。友党のみならず他の野党とも協議を重ねていかなければならないからだ。なぜなら誰が考えても32の1人区は1人の候補に絞らなければ野党が勝つ術はない。それを国会内の野党統一会派すらできないとしたら、候補者の一本化などできるはずがない。できれば1日も早く野党統合を実現して、私が他の野党と一本化の協議などしなくてもすむような状況を作り出しておかないとならない。
 今回の合流劇は異様であり、国民がきちんと判断して立憲民主党を支援したわけではない。大半の国民は、右でも左でもない、中道・リベラル、リベラル・保守、穏健保守・穏健リベラル、こういった真ん中の政党を望んでいる。それが外ならぬ民進党なのだ。今で言うなら右の希望の党は自民党の補完勢力とレッテルを貼られ支持を失っており、左の立憲民主党も今の強硬路線を続けるかぎりいずれ国民の支持を失っていく。民進党は前原前代表に消されかけたが、首の皮一枚で繋がったのである。日本には「元の鞘に収まる」という賢い言葉がある。一刻も早く旧民進党のもとに収まり、政権交代に向け第一歩を踏み出さなければならない。

2017年12月27日

【民進党再生・野党統合シリーズ2】 野党統合に向けた第一歩は野党統一会派から始まる -立憲民主党も希望の党も心を広くして大同団結すべし- 17.12.27

<3党による野党統一会派、そして野党統合は当然の成り行き>
 民進党はいってみれば、派生した2党の親元の党である。その親元の党が国会において統一会派の結成を立憲民主党、希望の党の両党に申し入れることについて、全国幹事会の了承を得て、12月26日の両院議員総会・全国幹事会・自治体議員団等役員合同会議で議論し、決めてもらうことになっている。全国8ブロックでのヒアリング、2回の全国幹事会等により、地方の意見を十分に聞いた上での決定プロセスであり、9月28日にいきなり決めた前原執行部と比べて、丁寧さにおいては比較にならない。

<頑なな立憲民主党の態度は?>
 小さい党のままでは国会でも力を発揮できない。やはり、まとまって数を増やしていかなければならない。国会内での友党との統一会派、そしてその先の野党統合は当然の成り行きである。その元民進党の3党がまとまっていくということに、希望の党は前向きに検討しているが、立憲民主党は異を唱え続けている。私には全く腑に落ちない。以下にその理由を述べる。
 今回の総選挙は暴挙だった。9月19日に解散風が吹き始め、9月25日に希望の党結成、9月28日の解散の日に民進党が希望の党に合流決定。10月3日希望の党の排除に対抗して立憲民主党が結成。10月10日告示され、2党とどちらにも属さない無所属の3つのグループで選挙が行われた。その結果、立憲民主党が野党第一党の55人、希望の党は多くの候補を立てたものの50人、元民進党の無所属は22名中19名が当選した。

<政策や理念の判断材料を提供できなかった一夜漬け政党>
 そして、今のその選挙結果を重んじ、ヘタに統一会派、統合などにすべきではないという論調が聞かれる。しかし、私はそうは思わない。なぜなら2党ともいわば一夜漬けの政党にすぎないからだ。例えばもし、立憲民主党なり希望の党が1年前に結成され、党の政策や理念が国民にそこそこ知れ渡った上で選挙に入ったならまだしも、そんなことがわからず投票日を迎えたのである。そして立憲民主党は「ヤマ」が当たり、高得点(高得票)を取ったのに対し、「ヤマ」が完全にはずれ精鋭の中堅を18人も落として、単位を落としてしまったのが希望の党である。
 12月14日の両院議員懇談会後、蓮舫元代表は、「枝野代表に政策について話を聞いてみる」と述べている。元党代表のプロでさえこの程度の認識しかない。国民・有権者が立憲民主党をよく理解して投票したとは思えないことを心得る必要がある。

<優しい国民は判官贔屓>
 さすれば、なぜ立憲民主党が希望の党を上回る支持を得たのか。
 まず第一に、判官贔屓である。「緑のタヌキ」に騙されていいように踊らされ、排除され止むを得ず立ち上がったのが立憲民主党という図式ができあがった。優しい日本国民はその健気な姿に同情したのである。結成直後のネットのフォロワー数がすぐに自民党を追い越したという。東京都知事選の時は自民党にいじめられる小池に同情し、小池が圧勝したのと同じ雰囲気である。今回はその小池がいじめる側にまわり悪役となった。そして国民の反感を買い急激に支持を失い、希望の党は奈落の底に突き落とされた。
 調子に乗る立憲民主党が野党統一会派を拒み、民進党から引き抜き(?)をしている姿を見た国民は、枝野立憲民主党の驕りを見逃さない可能性が高い。

<消えた民進党の代わりが立憲民主党>
 第二に、国民がリベラル政党の消滅を恐れたのである。今まで支持してきた民進党が候補者を立てず消えてしまった。希望の党がその代わりかと思ったら、あにはからんや自民党の補完勢力でしかないことに大半の国民は気付いてしまった。そこで民進党に近い党を探したところ、立憲民主党ということになっただけの話だ。つまり、民進党の後継党と思われたからである。

<篠原は、比例は希望の党への投票をお願い>
 私の長野1区でみてみる。「比例区はどう書いたらいいのか」とミニ集会でも再三聞かれた。その時に私はいつも決まって答えていた。「希望の党の幹部は排除とか踏み絵とかやり出したロクでもない連中である。中道リベラルでなく「邪道リベラル」。寛容改革保守(かいかくほしゅ)でなく小池は「不寛容この上ない最悪党首(さいあくとうしゅ)。民進党ならば比例単独で議席を得ることがほぼ約束されていた、寺島義幸元衆議院議員が急遽4区に移動させられている。5区の中嶋康介候補と2人は到底小選挙区での当選は見込めず、比例復活しかない。だから希望の党と書いてもらいたい」とお願いした。

<「しのはら党」支持者は篠原の気持ちを忖度して「立憲民主党」に投票>
 しかし、直接お願いできた人はほんのわずかで、結果は長野県に候補者が全くいない立憲民主党が5万9千票、希望の党は3万9千票と、約2万票の差が開いている。これは、いわば篠原党の支持者が篠原を袖にした党名は書けず、私の気持ちを忖度(良い忖度?)して、「立憲民主党」と書いてくれただけの話である。なにも立憲民主党を全面的に支持したのではなく、忽然と姿を消された民進党に一番近い、「代打」にすぎなかったのだ。

<立憲民主党の大躍進の中身と将来予測>
 全国的には立憲民主党が63名と希望の党(198名)の3分の1の候補者なのに、比例区で1,108万票(20%)と希望の党の968万票(17%)を140万票も上回ったのは、上述のとおり愛しの(?)民進党に一番近い党だからである。それを立憲民主党が熱狂的に支持されたが如く誤解しているのは、大きな間違いである。
 17年の当選者のうち14年に出馬した者28名の得票数・得票率を別表にしてみた。14年に13名が落選、比例復活9名、小選挙区で6名だったのが、17年には、小選挙区当選14名と倍増している。判官贔屓とリベラルを消すなという国民の声が押し上げたのだ。
 このことを立憲民主党の候補で実証してみる。まず、代表の枝野は、得票数で29,061票、得票率で11.3ポイント増やし、菅直人は6,536票、1.9ポイント、生方幸夫は14,958票、7.3ポンイト増やしている。(別表参照)
 そして将来を占うならば、いわば瞬間風速で14年に戻ってしまう可能性が高い。

<希望の党の候補者は民進党での活動を評価、比例復活のため比例区も希望と書く優しい支持者>
 一方、希望の党の候補者は、小池人気に乗じて得票数を伸ばし悠々当選かと思われていた。私は途中まで我慢したが、踏み絵までは許し難いと無所属での立候補を決意した。その当日10月3日はまだ風向きはわからなかった。しかし、どんどん逆風が強まり、親しい南関東の同僚議員は、日に日に有権者が逃げていくのがわかったと嘆いた。別表に示すとおり、選挙前に希望の党に移った者に対する風当たりは強く、長島昭久と笠浩史以外の4人は14年と比べ得票数も得票率も下げている。
 希望の党に投票した者は、小選挙区ではかなり希望の党は胡散臭いと思いながら候補者の活動を評価して投票した。そして大半が小選挙区では勝てそうにないので、落としては大変と比例区も希望の党と書いてくれたのである。つまり、候補者が先であり、希望の党は二の次だったのだ。

<希望の党も先細りする可能性>
 その証拠に小選挙区では198名を立てて、1,143万票(21%)を獲得したのに対して、比例区は968万票(17%)と175万票(4%)も下回った。やはり希望の党は嫌で書かない者も多くいたからである。新党にもかかわらず2%前後の支持率に喘いでおり、このまま行くと希望の党は今後支持率を上げることは至難の業であろう。
 つまり、双方とも民進党のいわば「遺産」で票を伸ばしたり、当選できたのであり、このままでは先行きが危ういことが伺える。

<大同団結して政権交代を目指す>
 両方の比例区の票を足したら2,076万票(38%)と、自民党の1,856万票(33%)を220万票(5%)も上回った。民進党単独ではここまでは無理だっただろうから、分裂選挙はそれなりに効果があったという者もいるが、後講釈もいいところである。国民は民進党の内輪揉めのほうに関心がいっただけのことである。2党の争いに埋没して割を喰ったのは共産党であり、21から12に議席を減らしている。
 そして、無所属が最多の19人の本家の民進党は衆議院に候補者を立てなかったことから、なくなったと誤解されている。三党の中では、最も危うい仮死状態の党に過ぎない。辛うじて無所属で最多の小選挙区当選者を出したが、既に2人が離党している。
 幸いにして参議院は野党第一党である。また、国民が本当に望んでいる野党の受け皿は、左に寄りすぎた党でもなく、第二の保守党でのなく、「民進党的な」中道、リベラル政党なのだ。我々野党の究極の目標は政権交代であり、それぞれが別々に票を伸ばすことではない。3つに分かれていては政権奪取はできない。従って我々には3党が大同団結し、新党を結成していく途しか残されていない。
(12月25日脱稿、28日修正)

【民進党再生・野党統合シリーズ1】 残った民進党は野党統合をリードすべし -民進党再生を巡る「通説」を再考する- 17.12.27

 私は、正直なところ民進党を今後どうしていくかということについてはよくわからない。だから、中川正春座長の下に検討会が行われているが、あまり発言していない。今までは散々建白書を書いてこうすべきだと言ってきた。私なりに先が見えたからである。ところが、参議院が44名。衆議院は無所属で戦って小選挙区で当選してきた人たちが10数人、こういった変則的な党をどうやって運営していくか。しかも、民進党から派生した立憲民主党と希望の党がある。その2党との関係を考えると頭がこんがらがって整理がつかなかった。
 しかし、年末に向けてそれではいけないという事で、いろいろ議論してきている。前原前代表の大失敗のツケが回ってきたのである。順調にいけば民進党はなくなって、全て希望の党に移っているはずだったが、全く違ってきてしまった。前原代表だけが希望の党に移ったけれども、参議院の民進党はそのまま、政党助成金も残り、地方組織も残されることになった。そうはいっても、衆議院の数が圧倒的に少ない。しかも、2019年春には統一地方選挙、7月には参議院選挙が控えており、参議院の比例区の立候補者は一日でも早く決めてほしいと願うのは当然である。
 以下に、いろいろな考え方について問題点を述べる。

<民進党は前原前代表により解党されている>
 「解党的出直し」という言葉は、蓮舫代表時の都議選の結果を受けたヒアリングの時もよく聞かれた。私はそんなことは一つも言っていない。だからその当時の野田幹事長は、篠原さん以外、大半の人が解党的出直しと言ったけれども、具体的に何か言っていただきたい、と注文をつけてきた。しかし、今の現状を見ると解党などと言う必要は全くないと思っている。 
 なぜかというと、民進党は前原前代表により既に解党されてしまっているからである。だから解党という言葉をつけるなら「既に前原代表によって解党されてしまった民進党」と言って、枕詞に使うぐらいで十分である。だから今後、民進党をどうしていくかという議論のたたき台(中間報告)から解党的出直しという言葉が消えている。当然の帰結である。

<民進党は政治的には「仮死状態」>
 これを例に出すと一番わかりやすい。私を含め「無所属の会」は、政治的には無所属で戦ってきた。形式的には民進党衆議院議員であるが、政治的立場を重んじなければいけない、ということで、無所属の会にしている。これについては政党助成金欲しさに民進党のままでいる、というとんでもない言いがかりをつけられているが、我々はそんなケチな了見で民進党のままでいるわけでは毛頭ない。
 だから私は、選挙直後の10月23日には無所属の皆で新しい党を作っていけばいいと思っていた。そして、それを当選後の記者会見で述べていた。ところが、下手に民進党が残っているから混乱が生じ、前述のような誤解を受けているのである。民進党は言ってみれば、形式的には残っているけれども、民進党の衆議院の立候補者はゼロという時点で、少なくとも衆議院民進党は「仮死状態」に陥っていることになる。前原前代表が選挙の後、頃合いを見計らって参議院も自分とともに希望の党に移ると宣言しており、多少の時間差はあっても参議院民進党も「仮死状態」になっている点では同じなのだ。

<仮死状態から蘇生するには、新しい名前が必要>
 それがそのまま存続することになったのだから、仮死状態から蘇ることになる。一方、大半の人たちは民進党はもうこの世に存在しないと思っている。そういう党がまた「昔の名前で出ています」というわけにはいかないから、新しい党の名前に変えて再スタートを切るという考え方はあってもいいと思う。そうすると、単なる名称変更だというクレームがすぐつく。そうした批判を回避するために、わざわざどこかの党と一緒になるのは本末転倒である。党名変更は、そこそこ時間をかけて他の党と合流する時にするのが素直であり、今すぐやる必要はない。
 ただ、民進党はなくなったと誤解されている今、統一地方選挙や参院選を控え、一刻も早く新しい名前を、という要望に応えるには、仮死状態から生き返るのだから単純に名称変更する途もあってよいのではないか。

<民進党に名称変更しても支持率が上がらなかったのは大胆な新党結成にならなかったから>
 16年3月27日、維新と民主が合併して民進党になった時の例を挙げて、党名を変えても支持率が上がらない、と言う人がいる。
 私は、12年末の総選挙の大敗北以来ずっと、野党大統合の必要性を訴え続けてきた。紙に書き、同僚議員に訴え、幹部に直談判し、両院議員総会・懇談会等でも主張し続けてきた。その結果、やっと党名が変更されたが、中途半端だったのだ。
 維新だけでなく生活と社民とも統合し、4野党で統合することになっていたにもかかわらず、それをせずに維新1党のみとの合流でお茶を濁してしまった。また、党が変わったということを内外に示すためにも、見慣れた幹部を総入れ替えすべきところをそのままにし、山尾志桜里政調会長というとってつけた人事でごまかした。

 例えば、菅直人・野田佳彦の2人の元首相は、新生民進党にはご遠慮いただき、更に、小沢一郎・亀井静香を取り込んだなら、支持率は急上昇し、今頃は政権交代できたかもしれないのだ。
 
<一夜漬けの政党は政策の判断材料を提供していない>
 しかし、9月25日に希望の党ができ、9月28日に民進党が希望の党に合流することを決めた。その後、排除問題が生じ、10月3日に立憲民主党ができ上がっている。いわば一夜漬けの2つの政党である。政策も何も提示できなかったのである。その証拠に、民進党の両院議員総会のみならず、その外でもいろいろ発言している蓮舫元民進党代表ですら「枝野代表に会い、どういう政党なのか直接話を聞きたい」と述べている。プロの政治家ですら今でも立憲民主党がどういう党かわからないというのに、10月22日の投票日の段階で、一般国民がわかっていたはずはない。
 その選挙結果であり、私はそれほど重視する必要はなく、さっさと統一会派を組むなり野党統合していったとしてもとやかく言われる筋合いはないと思っている。
(12月21日脱稿)

2017年12月10日

【羽田孜元総理 追悼シリーズ3】 羽田さんが恐れていた今の民進党の惨状 -羽田さんの供養に政権交代のできる政治を実現- 17.12.10

 私が衆院選出馬をくどかれていた時に、羽田さんが何を言われたかは既に3回(09年9/14)(11年7/16)(13年2/7)、少しずつ書いている。しかし、あらためて羽田さんの目指されたことを知ってもらうべくブログ・メルマガに書き、今の皆さん、特に民進党全議員の部屋には届ける予定だった。そして、9/4、9/8と2回までは掲載し、最終3回目をと思っていた矢先、前原代表の突然の希望の党との合流話・解散総選挙で中断してしまった。今日(12月10日)上田市で「羽田さんのお別れの会」が開催されるので、三ヶ月遅れて掲載することにした。

〔この件については、8/31夕刊フジ『鈴木棟一の風雲永田町』に、羽田孜氏「政権保つには農政」「篠原孝に『君に任せる』」と、簡潔明瞭にまとめていただいているので、その一部も別添に掲載する。〕

<民主党統合の象徴だった羽田さん>
 03年秋、私の出馬会見後、民主党と自由党が統合した(いわゆる民・由党合併)。私は羽田さんに、「小沢さんのようにあちこちで政党を壊してしまう者と一緒になるのは危険じゃないですか」と尋ねた。羽田さんの答えは、「俺は、当選同期でずっと昔から小沢のいいところも悪いところもよく承知している。力のある政治家で、自民党政権を倒すという共通の目標があるから大丈夫だ。それに民主党を終いの棲家とすると約束したから、俺が統合にゴーサインを出したんだ」。
 そのとおり、政権交代まではうまく行った。その後はいろいろあったが、危機は福田・小沢会談で大連立が決まったものの、民主党が反対して流れた時だった。小沢さんは党首をやめると怒ったが、羽田さんの慰留でとどまった。その頃から、羽田さんは脳梗塞で言葉も歩行もままならなくなっていた。しかし、民主党の分裂を救ったのである。その後の分裂は、一部の勢力が愚かにも小沢さんをイビリ出したものであり、小沢さんが好んで飛び出したのではない。羽田さんはまさに、民主党統合の象徴だった。象徴を失った民主党はその後衰退の一途を辿ることになった。

<思わず涙がこぼれた小沢さんの弔辞>
 羽田さんは、小沢さんにはさんざん煮え湯を飲まされているのに最後まで信頼し、わだかまりはなかった。9月8日の葬儀で小沢さんはツトムちゃんと語り掛け、「来る者を拒まず、去る者はそっと見送り」「再び来る者は何もなかったように迎える」と付け加え、羽田さんの懐の深さ、包容力称える弔辞を述べた。一緒に自民党と戦った同志の心の底からほとばしり出る言葉であり、私は思わず涙がこぼれ出た。

<羽田さんの篠原口説き文句>
 1996年ころから羽田さんから、長野1区に出馬してほしいと口説かれる時にいろいろ言われたが、恥ずかしながらその当時、羽田さんが何を言っておられるかよく理解できなかった。それどころか、私に甘い言葉をかけてくると半分疑っていた。ところが、よく聞いていると、何年経っても「ミスター政治改革」から始まる口説き文句が変わっていなかった。いずれかの時を境にして、ようやく理解ができるようになった。なぜかというと現実にそのとおりに動いてきているからである。
 これを再現してみる。
 民主党は都市政党である。都市の住民に働きかけることにより政権を獲れると皆は思っている。俺も獲れるだろうとは思う。しかし、都市住民はすぐ批判勢力になる。従って都市政党、都市部の議員だけだと政権獲りはできても、その後の最初の総選挙で多くが落選し、政権が自民党なり他の党にいってしまう。それでは元も子もない。細川さんと俺の非自民政権10カ月が2年半か3年半になるだけだ。

<政権維持には農政が必要>
 大切なのは政権を獲った後の第一回目の総選挙で必ず民主党が勝利し、自民党を最低で5・6年、うまくいけば10年は野党暮らしをさせることだ。さもないと自民党は官僚依存体質や政官財の癒着、そういったところから脱しきれない。これを皆分かっていない。
 民主党が政権獲りのために、それ以上に民主党が政権を獲った後それを維持するために、君の助けが必要だ。田舎の有権者は都市の有権者に比べて律儀で、一旦心をつかめば支持し続けてくれる。民主党だからではなく、その人で当選できる議員をいっぱい作っておかなければならない。そのためには農政をアピールしなければならない。我が民主党サイドには農林水産大臣経験者は、俺と田名部匡省と鹿野道彦の三人いて、実はこちらのほうが質はいいが、中堅は小平忠正、堀込征雄、鉢呂吉雄しかいない(筒井信隆・山田正彦は落選中)。特に若手はゼロに近い。
 「君が本に書いていることは、役人でもOBになってもそう簡単に実現できないだろう。ところが政治家になれば、君の理想も10倍、100倍のパワーで実現できる。是非長野1区から選挙に出て欲しい。君に民主党の農政を任せる。民主党に参画してくれ」
 こうして、羽田さんのストーカー行為(?)は1995年から2003年まで足掛け8年に及んだ。一度たりとも命令調の高圧的態度などとられなかった。

<農業者戸別所得補償で政権交代に貢献>
 20年前(1997年)によくここまで見通されたなあと感心するばかりだ。私に農政を任せるという約束は、2期目(2006年)にネクストキャビネットの農林水産大臣となることで証明された。小沢さんが代表(つまりNC総理大臣)であり、小沢さんのお墨付きを得て農業者戸別所得補償を引っ下げて全国を回り歩いた。目玉政策の内容がわからない農村を抱えた同僚議員の要請により、毎週末応援に行っていたので体をこわしかけ、やせた体が,増々細くなり、クタクタになった。党幹部でもなく、ヒラ議員がこれだけあちこちを回った例はないと思う。私は、ミスター年金で一躍有名になった長妻昭さんに対し、「農村地域限定の地ビール的応援弁士」を称していた。聴衆の中には決まって私の本の読者が混じっていた。そして、同僚議員は大体それを口実に私に応援に来てくれと依頼してきた。
 その結果2007年参議院選は29の1人区で23勝6敗と民主党側が大勝利し、参議院でねじれが生じてしまい、国会運営がままならなくなった。その直後、秋の臨時国会で安倍首相は突然辞任した。更に、2009年8月の衆院選では農村部でも勝利し、308議席を得て政権交代を実現した。史上最も多い農村部議員が誕生した。羽田さんの要請になかった政権交代にも相当貢献したのである。

<民主党に対する期待感が失望感に変わる>
 羽田さんは、「民主党はいっぱい公約を作りすぎ、あれもこれも手を広げ過ぎる上に、政権運営の経験がないのでうまく行かない。期待感が失望感に変る」と心配されていた。この言葉はずうっと私の耳にこびりついている。
 農政では他から予算を持ってくる(16兆円を特別会計から拠出するなど絵空事を言っていた)などと言わず、着実にできることだけに手を染め、公共事業(土地改良事業)予算を農業者戸別所得補償の財源に充当した。従って農民には失望感など与えることがなかった。一方、急激にやろうとした社会保障と税の一体改革で党も分裂してしまった。当初は農村漁業再生プランで日本を再生と言っていた菅直人総理が、地域社会、なかんずく農村社会を潰してしまうTPPに参画するなどと言い出し、それを野田佳彦総理が受け継ぎ、私の目論見は潰えてしまった。まさに期待感が失望感に変った典型である。
 そして12年末総選挙である。私自身は、羽田さんの見通しを十分承知していたので、政権交代した時に、次の選挙を考えて身震いした。
 
<的中した「都市部の浮動票頼みの議員はほとんど落選する」という予測>
 09年8月には16万票だったが、半減するかもしれない。どうやって減少を食い止めるか思案の挙句、私は確実な名簿作りに励み、そこだけ重点的に働きかけることにした。ちなみに09年は、街宣車に乗り、あちこちで止まってマイクを握る(いわゆるストップアンドゴー)を繰り返すだけだった。それに対し12年は、ミニ集会を精力的にこなし、公示後も60回以上のミニ集会をこなす、全く逆の選挙活動をした。そのため、若手イケメンでもなく、閣僚を経験した銘柄議員(?)でもないのに、数少ない小選挙区勝利者の一人となった。これも羽田さんのお陰である。
 12年選挙で民主党は、僅か57議席に転落した。特に143人もいた新人は、民主党で6人、他党で5人再選されただけだった。羽田さんの心配が見事すぎるくらい的中してしまった。
〔12月10日付記:17年秋の希望の党の惨敗もまさにこの延長線上にある〕

<地方・農村から反転攻勢>
 3年3カ月ののぼせ上がった政権運営に対する反発は凄まじいものがある。民主党の流れを汲む民進党は、政権交代の受け皿とは見なされていない。しかし、農政では脈はまだ残っている。農民は農業者戸別所得補償のありがたさ、合理性を知ったのであり、それを導入したのが民主党だということを知っている。都市部は今、大阪は維新、東京は都民ファーストに席巻されてしまった。ここしばらくは大都市での民進党の信頼回復は無理だろう。となると、再び地方の農村から反転攻勢するしかない。
 私は、前原体制のもと、羽田さんの夢を実現すべく、再び汗をかく覚悟である。
(9月16日脱稿)

〔12月10日付記:最後の一行を読むと虚しくなってくる。結果は無残だった。羽田さんの「地方に根を張る民主党に」という大原則を全く無視したからである。我々のだらしなさに怒っておられるに違いない。〕

 【別添資料】2017年8月31日付夕刊フジより

2017年12月 5日

【政僚シリーズ4-2】自民党の質問時間を長くするといういかがわしい魂胆-政策決定からヒラメ学者、ヒラメ評論家を排すべし- 17.12.05

<自民党の身勝手な提案>
 国会の論戦というのは、予算委員会を中心に国民の関心が高いテーマはNHKでTV中継される。16年秋の臨時国会ではTPP特別委員会がずっとTV中継された。その時の与党と野党の質問時間の配分は、野党8・与党2と決まっていた。ところが突然、今特別国会から5:5にするという頓珍漢なことを言い出した。与党がずっと人数が多く、本来は議員数に応じて配分されるべきだ、というそもそも論を持ち出したのである。そんなことを言っていたら、巨大与党ばかりが質問することになる。そもそもこの割合は、自民党が野党に転じた時に、自民党の強い要求により確立された割合なのだ。

<与党は事前審査で議論済み>
 与党は政調(○○部会)を通して与党内で政策立案に相当関与しており、特に法案については、与党の関係系する部会をパスしなければ国会に提出されないことになっている。いわゆる与党の事前審査である。つまり、与党議員は国会に法律案や予算案が提出される前に、○○部会でかなり深く関与しているのだ。だから与党は質問しなくて済むという仕組みになっている。もし、自民党の言い分を聞くとしたら、与党の事前審査をやめるか、野党にも同じように事前審査の機会を与えないと辻褄が合わない。
 それをとんでもないことを言い出したので、すったもんだがあり、特別国会の審議がなかなか始まらなかった。これもすべて「森友・加計問題」をつっつかれたくない、審議時間を少しでも短くしたいという、与党のいやしい魂胆の表れである。
 11月27日、28日の予算委員会は、7:3ということで折り合いがついた。私の所属する無所属の会は、13人がしかない小さな会派であり、共産党の12、維新の会11よりは多いが、2日間で53分の割り振りとなった。他の弱小野党は1人しか質問に立たなかったが、我が会派は原口一博理事が33分と私が20分と2人で立った。従って私の質問時間は今回予算委員会で図抜けて少ない20分だけであった。

<安倍総理と菅官房長官の過去の質問歴を勤務評定>
 私はこの問題をとりあげた。例によって手間のかかった資料を付けた(別紙参照)、時間をかけて安倍総理と菅官房長官の与党時代の1期~4期のときにどれくらいの回数の質問をしたかを調べて表にした(衆議院の国会議事録の簡易検索システムで安倍晋三と入れるとどっと出てくるが、そこから答弁や委員長代理等を除く作業があり、かなり時間を要する資料である)。
 案の定、2人ともほとんど質問していなかったが、それでも合計30数回年数回は質問していた。安倍総理は、厚生(社会労働)委員会に属していたといっていたが、そこでも5回しか質問していない。それならば外交や安全保障ではどうかをみても、それぞれ8回と2回で多いことはない。つまり、与党議員はほとんど質問などしてきていないのだ。予算委員会や決算委員会での質問もあったが、分科会での質問で本委員会ではなかった。分科会というのは、それぞれ特定の大臣に対し30分の時間を割り当てられ1対1で地元の問題について質問するような場所で、与党の議員はあまり皆質問をしたがらず、若手にそのお鉢を回され、「お前やれ」といわれて仕方なく質問に立つようなところである。

<得意気な総理の答弁集団自衛権について>
 それに対して、安倍総理は、与党議員であったが、かつて予算委員会(日米防衛協力のための指針に関する特別委員会の間違いと思われる)で当時の高村外務大臣に、限定的な集団的自衛権の解釈の変更の質問をしたことがあり、集団的自衛権の解釈の変更を迫ったことがある。 このやりとりは、佐瀬昌盛氏(安倍晋三内閣総理大臣の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」有識者委員)の「集団的自衛権」という本に、重要なやりとりとして記載され、その後我々の基本的な考え方の一つにはなった、と得意げに答弁した。
 私は質問通告の際に「華々しい質問をしたがゆえに、今の地位を勝ち得たのではないのではないか」と突き付けていた。だからそんな質問したいなどといっている人にそんなこと言うな、せいぜい質問しても篠原孝程度にしかならないという冗談も混ぜ込んだ。

<与党議員の見せ場は政策立案への関与>
 この問題は根深い。自民党の若手議員が空しく感じているのは、いったい国会議員は何をしているのかという疑問だと思う。野党議員は質問の機会が与えられ、予算委や重要で注目度の高いTPP特委等はTV中継され国民の目に触れる。しかし、与党議員の活動は与党内の会合なので外に見えない。見えないと言っても、与党の政調等でいろいろ意見を言い、それが政策の企画立案に反映され、実は野党議員よりずっと実質的な活動の場が広いのだ。その活動を地元の国政報告会で、この政策は自分の意見でこうよくなった、この予算は自分が主張して増えたとPRすればよいだけだ。残念ながら、我々野党議員にはしにくいことなのだ。それが国民に見えてこないので、TV中継のある国会でも質問をしたいという都合のいい主張なのだ。

<自己実現の場がない与党若手議員>
 27日(月)の予算委員会では石田公明党政調会長が自己実現というのは人間の最後の欲望として一番大切なことであると発言している。つまり、これを引用していうなら、与党の若手の国会議員としての自己実現の場がないということである。与党議員があまりに多過ぎ、○○族にも自ずと序列ができ、大事なことは大体幹部の数人が決定権を持っており、当選回数の少ない議員は出番がないという弊害がみられることは事実である。その結果、多くが採決要員としてしかみられていないという不満が生じているのはよくわかる。

<ヒラメ学者、ヒラメ評論家のばっこを許す安倍政権>
 しかし、それよりもずっと別のところで安倍政権は、決定的なミスを2つ犯している。
 一つは、加計学園問題でも追及したけれども、国家戦略諮問会議、規制改革推進会議、産業競争力会議など、いろいろ勝手な総理の諮問機関が設置され、そこで勝手な政策が作られてしまっていることである。国家公務員試験を通ったわけでもなく、何万人もの国民に名前を書いてもらったわけでもない。言ってみれば政府におべっかばかりをつかうヒラメ官僚ならぬ「ヒラメ学者」や「ヒラメ評論家」、かなり変わった暇な(?)財界人、こういった人たちが勝手なことばかり言い合い、それが政策になってしまっているのだ。
 国家戦略諮問会議でいうなら、ごく少数のワーキンググループで物事が進められている。これは議事録を読んでビックリしたが、八田達夫と原英史の2人がひっかきまわして、ものごとを決めているのだ。この件は別途国会できちんと問い質し報告したいと思っている。なぜなら、前川喜平前文部科学事務次官の言う通り、まさに行政が、そして政治がこれによって歪められているからだ。今の安倍政権の欠陥の中で最大級の問題と思っている。
 こんないかがわしいことをしているから、国会議員は言ってみれば重要な政策の企画・立案の蚊帳の外に置かれている。こういったことをなくさなければならないと思っている。

<強化され過ぎた官邸の機能>
 2つ目は、橋本行革の時に、官邸の強化ということが盛んに言われたけれども、強化されすぎてしまっている。官邸の首相補佐官や、秘書官がかなりしゃしゃり出て政策を決めてしまっている。だから小泉進次郎(元農林部会長、現筆頭幹事長)が、「党が何も関知していない、党は何も議論をしていない」と苦情を言わざるをえなくなっている。この宿痾は、国会の論戦の場に与党議員が出てきたところで、治ることではない。
 与党と野党は自ずとやることが違う。政府与党はそのことをちゃんとわきまえて、与党議員としてふるまえるようにすることが何より大事である。官邸があれこれ指図し過ぎるのを止め、秘書官や首相補佐官がのさばるのも止め、いかがわしい官邸の諮問機関をなくすことである。

<アメリカの大統領を凌ぐ安倍独裁体制は目に余る>
 小泉内閣でも官邸が取り仕切る弊害が見られたけれども、せいぜい経済財政諮問会議だけであった。その際も、当時の自民党は竹中平蔵に「国会議員でもないのにものごとを決めるな」と反発した。それを受け竹中氏はあとから参議院議員となった。
 内閣機能の強化の際は、アメリカの大統領制は見本とされたが、その本家アメリカではトランプ大統領が強権を発動しても、例えばイスラム国からの入国禁止は司法からストップがかかり、今ロシア疑惑が徹底追及されている。アメリカはチェックのきく国なのに対し、我が日本国は安倍独裁体制が進み、どこからも歯止めがかからない。

<官邸農政に農水省はやりきれない空気が漂う>
 農協をどうするかなどという農政の根幹は、農政審で決めなければならない典型的な事項であるが、ほとんどそのようなことはしていない。農政の専門家など皆無の規制改革推進会議や産業競争力会議で決められ、それを農林水産省に押し付けている。それに喜々として従い、あるいは一緒になってゴマをするウルトラヒラメ官僚が内閣人事局の人事権を通じて出世し、農林水産省にはどんよりとした空気が漂っている。私は役所の後輩に同情を禁じ得ない。

 このようなことを続けているのが問題なのであって、それを国会論戦に与党議員が顔をだしたところで、治るものではない。
17.11.28予算委員会資料(安倍総理と菅官房長官の質問回数)