« 政僚シリーズ5 政僚の跋扈が生んだ決済文書の改ざん、忖度政治-日本の官庁全体が全自動忖度機になってしまった-18.05.18 | メイン | 【食料安保シリーズ1】 自衛隊を憲法に書くなら食料安保も書き込むべき-安倍首相の都合の良い理屈を一人歩きさせてはならず- 18.06.05 »

西郷隆盛の庶民・農民への暖かい姿勢が今につながる‐農水省の名物男西郷正道新ネパール大使の足跡‐ 18.05.30

<大河ドラマをずっと見れるのは15年振り>
 国民は、次から次と出てくる政治の嘘、行政の乱れ、野党の不甲斐なさなど数えきれない今の政治状況にあきれ果てている。私にも大きな責任があり、批判の資格はない。それに腹立たしくて論ずる気にもなれない。
 そうした中、久しぶりに明るいことに触れたい。私は久方ぶりに大河ドラマを楽しんでいる。15年間金帰月来で、週末は地元を夜遅くまで回り、大河どころではなかった。今は国会活動に専念し、その疲れを癒すべく、日曜日は東京にいる。

<幕末の私のえこひいきは、一に榎本、二に西郷>
 もう一つは、私はもともと栄達を極めた歴史上人物よりも、義を重んじ筋を通して生きた人物に魅かれ、西郷隆盛もそうした私の趣味の人でもある。幕末の人物では榎本武揚も同じだ。特に後者は、農水省退職後に研究対象とし、本にまとめたいと計画していたぐらいである。余計なことかもしれないが、五稜郭で賊軍として一敗地にまみれた榎本が殺されずにすんだのは、黒田清隆の奔走もあるが、最後は慈悲深い西郷が生かせておけと断を下したからである。

<一番遅く原稿が届いた西郷農務官報告>
 西郷隆盛につながる西郷正道(ネパール大使)が農林水産省の役人になっていると知ったのは、28年前(1991年)の国際部の対外政策室長時代である。私は年10回を超える海外出長の合間に、あちこちに農政関係の雑文を書いていた。その折、時事通信社の出している「農村経済」という8頁ぐらいの冊子の野村編集長に、各国大使館の農務官による外国の農業事情の特集を組みたいと、情報を載せてほしいとお願いされた。二度ほど同じ課で働いた元部下が、立派な報告をしているので、もっと多くの人に読んでもらいたいと要請してきたからである。農水省が全省庁の中で1番多く各国大使館に出向させていた。その中で大国インドからは梨の礫だった。私は少々きつく、それぞれの人事担当者(水産、農業、土木・・・)にも書きぶりを報告した。すると、どこにもありそうな言訳とともに西郷一等書記官(農務官)からすぐ報告が届いた。

<西郷隆盛を彷彿させる大人物>
 連載は大好評で、喜んだ野村編集長は3分の1余が帰国した秋にすき焼き屋で一席設けてくれた。西郷大使は、1番遅かったのに一人で数人前を食べ大声で喋りわっははと大笑いし続けた。体格も上野の銅像そっくりで、物怖じなど全くせず誰をも話に巻き込む大人物だった。
 私は、その直後OECD代表部参事官として3年間パリに駐在した。詳しくは既に「花の都パリの外交赤書」(講談社α新書)に書いたが、いい話は省かれドジ話が中心となってしまった。確か西郷大使の大活躍振りも原稿にあったがボツになっていた。他の国と比べ、特に国内省庁の代表格の農林水産省からは英語もろくにできず、日本の会議参加者はくるくる変わり、会議で存在感を示せることは少なかった。こうした中、西郷大使は別格の出張者だった。

<環境の西郷誕生、最高位ポストへ>
 1992年日本の環境サミットもあり、世界は環境問題に本格的に取り組み始めており、OECDでも既に「貿易と環境」は大議論になっていた。そこに新しく「農業と環境」が大きなテーマとなり、特別な会議が続くことになった。私は、技官人事のトップ(後に西郷大使もその地位に就くことになる)に、「英語ができ日本の主張を堂々と主張できる者を、ポストが変わっても続けて来させてほしい」と強く要請した。その返事が「君が知っているかどうか、西郷を送る」という嬉しいものであった。
 西郷大使は、前述の日本人離れした体格、万人に好かれる円滑な人柄と類稀なる人を魅きつける才覚で、知る人ぞ知る存在になっていた。そして7年後副議長も務め名物男になっていった。
 その後も食品安全委員会、環境政策課長、バイオマス政策課長と環境絡みの少々偏ったポストに歴任し続けたにもかかわらず、技官の最高ポストである技術総括審議官兼農林水産技術会議事務局長となり退官。この度ネパール大使に任命された。(20年ほど前から、農水省の立派な国際通がどこかの大使になるルールが確立している)

<農民や弱者の立場のわかる西郷どんの経歴>
 大河ドラマ「西郷どん」では、今奄美大島に島流しにされ、ヤマトンチュウ、なかんずく薩摩藩に苛斂誅求される農民を庇う西郷隆盛の姿が描かれている。西郷は月照和尚と入水自殺、その後二度も島流しにされている。それこそ地べたに這いつくばり、辛酸を舐め続けた人物であり、弱い立場の人たちの気持ちがわかる人物になっていたのだろう。立身出世に走る明治政府の重鎮とそりが合わなくなっていくのは仕方のないことだったかもしれない。西郷どんは、庶民・農民の立場に立つ人であり、また敵をも赦す優しい人格者だったのだ。敗軍で次々と首がはねられ、欧米列強はその残忍さに驚いたが、西郷どんは、賊軍となった庄内藩の罰をとがめず、上記の榎本武揚も救っている。

<西郷大使に流れる農政のプロ・西郷どんの血>
 その血は、西郷大使にも脈々と流れていた。農学を学び農水省に入り、上司から可愛がられ、部下からは慕われた。西郷どんは上司や周りから警戒され最後は非業の死を遂げたが、三男西郷従道の直系の西郷大使は、もっとおおらかな大人物だった。そして何よりも農民のために尽くしたことは共通である。NHKも粋な計らいをするようで、西郷大使の娘が冒頭の上野公園の銅像の除幕式のシーンに出演した。
 OECD事務局の農業局や環境局の職員が日本に出張してくる時は、スカイライナーで上野駅に降り立ち、風貌がそっくりの銅像を見てから霞が関へくることが多かったという。国際的にも西郷家の血は十分に魅力的だったのだ。そして、役人としては最後の仕事、ネパール大使として着任することになった。ネパールと日本の橋渡し役になること請け合いである。