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2018年5月30日

西郷隆盛の庶民・農民への暖かい姿勢が今につながる‐農水省の名物男西郷正道新ネパール大使の足跡‐ 18.05.30

<大河ドラマをずっと見れるのは15年振り>
 国民は、次から次と出てくる政治の嘘、行政の乱れ、野党の不甲斐なさなど数えきれない今の政治状況にあきれ果てている。私にも大きな責任があり、批判の資格はない。それに腹立たしくて論ずる気にもなれない。
 そうした中、久しぶりに明るいことに触れたい。私は久方ぶりに大河ドラマを楽しんでいる。15年間金帰月来で、週末は地元を夜遅くまで回り、大河どころではなかった。今は国会活動に専念し、その疲れを癒すべく、日曜日は東京にいる。

<幕末の私のえこひいきは、一に榎本、二に西郷>
 もう一つは、私はもともと栄達を極めた歴史上人物よりも、義を重んじ筋を通して生きた人物に魅かれ、西郷隆盛もそうした私の趣味の人でもある。幕末の人物では榎本武揚も同じだ。特に後者は、農水省退職後に研究対象とし、本にまとめたいと計画していたぐらいである。余計なことかもしれないが、五稜郭で賊軍として一敗地にまみれた榎本が殺されずにすんだのは、黒田清隆の奔走もあるが、最後は慈悲深い西郷が生かせておけと断を下したからである。

<一番遅く原稿が届いた西郷農務官報告>
 西郷隆盛につながる西郷正道(ネパール大使)が農林水産省の役人になっていると知ったのは、28年前(1991年)の国際部の対外政策室長時代である。私は年10回を超える海外出長の合間に、あちこちに農政関係の雑文を書いていた。その折、時事通信社の出している「農村経済」という8頁ぐらいの冊子の野村編集長に、各国大使館の農務官による外国の農業事情の特集を組みたいと、情報を載せてほしいとお願いされた。二度ほど同じ課で働いた元部下が、立派な報告をしているので、もっと多くの人に読んでもらいたいと要請してきたからである。農水省が全省庁の中で1番多く各国大使館に出向させていた。その中で大国インドからは梨の礫だった。私は少々きつく、それぞれの人事担当者(水産、農業、土木・・・)にも書きぶりを報告した。すると、どこにもありそうな言訳とともに西郷一等書記官(農務官)からすぐ報告が届いた。

<西郷隆盛を彷彿させる大人物>
 連載は大好評で、喜んだ野村編集長は3分の1余が帰国した秋にすき焼き屋で一席設けてくれた。西郷大使は、1番遅かったのに一人で数人前を食べ大声で喋りわっははと大笑いし続けた。体格も上野の銅像そっくりで、物怖じなど全くせず誰をも話に巻き込む大人物だった。
 私は、その直後OECD代表部参事官として3年間パリに駐在した。詳しくは既に「花の都パリの外交赤書」(講談社α新書)に書いたが、いい話は省かれドジ話が中心となってしまった。確か西郷大使の大活躍振りも原稿にあったがボツになっていた。他の国と比べ、特に国内省庁の代表格の農林水産省からは英語もろくにできず、日本の会議参加者はくるくる変わり、会議で存在感を示せることは少なかった。こうした中、西郷大使は別格の出張者だった。

<環境の西郷誕生、最高位ポストへ>
 1992年日本の環境サミットもあり、世界は環境問題に本格的に取り組み始めており、OECDでも既に「貿易と環境」は大議論になっていた。そこに新しく「農業と環境」が大きなテーマとなり、特別な会議が続くことになった。私は、技官人事のトップ(後に西郷大使もその地位に就くことになる)に、「英語ができ日本の主張を堂々と主張できる者を、ポストが変わっても続けて来させてほしい」と強く要請した。その返事が「君が知っているかどうか、西郷を送る」という嬉しいものであった。
 西郷大使は、前述の日本人離れした体格、万人に好かれる円滑な人柄と類稀なる人を魅きつける才覚で、知る人ぞ知る存在になっていた。そして7年後副議長も務め名物男になっていった。
 その後も食品安全委員会、環境政策課長、バイオマス政策課長と環境絡みの少々偏ったポストに歴任し続けたにもかかわらず、技官の最高ポストである技術総括審議官兼農林水産技術会議事務局長となり退官。この度ネパール大使に任命された。(20年ほど前から、農水省の立派な国際通がどこかの大使になるルールが確立している)

<農民や弱者の立場のわかる西郷どんの経歴>
 大河ドラマ「西郷どん」では、今奄美大島に島流しにされ、ヤマトンチュウ、なかんずく薩摩藩に苛斂誅求される農民を庇う西郷隆盛の姿が描かれている。西郷は月照和尚と入水自殺、その後二度も島流しにされている。それこそ地べたに這いつくばり、辛酸を舐め続けた人物であり、弱い立場の人たちの気持ちがわかる人物になっていたのだろう。立身出世に走る明治政府の重鎮とそりが合わなくなっていくのは仕方のないことだったかもしれない。西郷どんは、庶民・農民の立場に立つ人であり、また敵をも赦す優しい人格者だったのだ。敗軍で次々と首がはねられ、欧米列強はその残忍さに驚いたが、西郷どんは、賊軍となった庄内藩の罰をとがめず、上記の榎本武揚も救っている。

<西郷大使に流れる農政のプロ・西郷どんの血>
 その血は、西郷大使にも脈々と流れていた。農学を学び農水省に入り、上司から可愛がられ、部下からは慕われた。西郷どんは上司や周りから警戒され最後は非業の死を遂げたが、三男西郷従道の直系の西郷大使は、もっとおおらかな大人物だった。そして何よりも農民のために尽くしたことは共通である。NHKも粋な計らいをするようで、西郷大使の娘が冒頭の上野公園の銅像の除幕式のシーンに出演した。
 OECD事務局の農業局や環境局の職員が日本に出張してくる時は、スカイライナーで上野駅に降り立ち、風貌がそっくりの銅像を見てから霞が関へくることが多かったという。国際的にも西郷家の血は十分に魅力的だったのだ。そして、役人としては最後の仕事、ネパール大使として着任することになった。ネパールと日本の橋渡し役になること請け合いである。

2018年5月18日

【政僚シリーズ5】 政僚の跋扈が生んだ決済文書の改ざん、忖度政治-日本の官庁全体が全自動忖度機になってしまった-18.05.18

 私は、この件について数年前から「政僚」シリーズであまりにも官邸支配が強くなりすぎており、その機能の中心となっているのが内閣人事局であると指摘してきた。情けない限りである。私はもう、日本の優秀な官僚制度は相当部分死んでいると極論も吐いてきた。公文書の隠蔽、改竄で役所の中の役所と言われる財務省もそのようになりつつあるというのは、愕然とせざるを得ない。

<忖度政治を生んだ元凶は内閣人事局>
 昔はそれぞれの役所の幹部人事は、形式的にはトップの大臣だが、実質的にはそれぞれの役所の事務次官がやっていた。しかし、今のように大臣、副大臣、政務官が2年3年やるならば、政治家に人事を任せたほうがいいと思うようになった。政治家のほうが、いろんな有象無象の人たちと会って仕事をしてきているので、役人よりも人物の観察眼を備えていると思う。
 

 しかしそれが、ほとんど接触のない内閣人事局の政治家が、官邸の意向で霞が関の人事に口を出せる仕組みになってしまった。これがアメリカのRevolving door(リボルビングドア)のように3000人余の幹部が政権交代と同時に一気に変わるというならいいのだけれども、日本は全く異なる。その弊害がまさに出たのが、今回の一連の忖度行政政治ではないかと思う。今や霞が関の役人は官邸はおろか大臣、局長等には歯向かうようなことは一切できないということである。これでは前川喜平前文科事務次官ではないが、行政も政治も歪められるばかりである。

<骨太だった伊東正義>
 ここで、一つ昔の役人、政治家の骨太ぶりを紹介したい。河野一郎(河野太郎の祖父)農林大臣の時、この強引な河野農政に対して、全てではないがいろんな場面で意見を言って従わなかったのが伊東正義である。それがために伊東は大左遷を3回させられたという。一番ひどいのは本省の相当な枢要ポストから、名古屋営林局長(今は森林管理局長)に左遷された。普通はそれで終わりである。しかし、ずっと河野大臣が続くわけでなく、最後は事務次官となった。伊東は、国民の公僕として大臣に対しても役人道は曲げなかったのだ。
 その後、満州国で同じ部署で仕事をした大平正芳首相に乞われて政界入りした。政界に入ってから、宏池会に入り池田勇人会長に挨拶に行ったときに、「私は、池田派ではなく大平派です」と最初から言い、池田勇人を怒らせたといった逸話も残っている。伊東の一徹ぶりは、政治不信が吹き荒れた時に発揮された、「いややっぱり精錬潔白な伊東さんのような人に総理になってもらわなければ」という声が沸き起こったが、「表紙を変えても、本の中身が変わらなければ同じだ」と断った。そういう骨太の役人・政治家がいたのである。
 今、そういう役人が仮にいたとしても、内閣人事局から簡単に抹殺されてしまうだろう。安倍内閣は、骨太戦略など「骨太」という言葉を使っている。よくそういう白々しい名前をつけるものだなと思う。私は、政策の前に骨太の役人、骨太の政治家、これがあって然るべきだと思っている。それを内閣人事局でそれぞれの局長、部長(指定職クラス以上)をチェックするという馬鹿げたシステムで潰してしまっている。

<内閣機能は強化され過ぎ、過ぎたるは及ばざるがごとし>
 役所のタガもすっかり歪んでしまった。この機会に諸悪の根源となっている内閣人事局を廃止すべきである。政策としてこれをすべきなどということは各省に指示をだしてもよいが、それを各省が考えて承服できないものは承服できないと言ってもいいと思うし、そうすべきである。かつては、内閣機能の強化が必要だという時もあったことは十分に認める。そのため省益を守って国益を考えていないと問題がすり替えられ、内閣人事局が発足した。官邸が言う事が全てで、一丸となって動くというのはおかしな方向に行き、少なくとも民主主義国家とは言えなくなりつつあるのではないかと思う。

<チェック機能がない日本政治の正常化は内閣人事局の廃止から始まる>
 北朝鮮の金正恩体制を独裁体制と笑っているが、今の日本も安倍超独裁体制になっている。その根幹は、安倍総理がそういう気持ちを持っていなくても、内閣人事局によってその通りになってしまっている。だからこの機会に内閣人事局を廃止することが一番ではないかと思っている。
 トランプ大統領はワンマンではあるが、あちこちにチェック機能が働いている。それに対し日本にはそれがない。統治のあり方を見直さなければならない。

2018年5月11日

懲罰委員長を拝命 18.05.11

<議員数で決まる委員長ポストや理事の数>
 国会のルールは単純で、全て会派の所属議員の数で決められる。委員長をどの会派にいくつ割り振るか、理事を何人出すかということが典型である。例えば、この通常国会前半に所属した無所属の会は、14人で委員長ポストはゼロ。それぞれの常任委員会に1人ずつ委員が配置されることになったので、皆大変だった。委員会は時として席を外したりもできるが、たった1人の委員で、オブザーバーとして理事会に必ず出席せねばならなかったからだ。

<伝統的(?)な当選回数順送りの人事>
 今度、新しい国民民主党になって、委員長ポストが2つ衆議院で割り振られることになった。前通常国会、私と同期でちょっと年上の鈴木克昌さんが沖縄北方対策特別委員会委員長に任命されていたので、次は私の番かなとは思っていた。
 与党の筆頭理事はその分野、例えば農林水産分野の政策も相当にわかる人がなる。法案を通したりするときの折衝の窓口になるので、その分野に通じていなければならない。それに対して、委員長は言ってみれば取り仕切りが大事であって、経験がものを言う。その証拠に自民党で与党筆頭理事は3~4期生のその分野のプロ、委員長は6期生以上ぐらいとなっていた。ただ予算委員長などは与党のポストである。今は働き方改革などで揉めている厚生労働委員会は、野党がデーターは虚偽だったと審議を拒否している中、委員長の職権で委員会を開催したりするので、絶対に野党に渡せないポジションである。かくして、野党にはあまり衝突が起こらないポストが割り振られることになる。

<少々風変わりな懲罰員会>
 懲罰委員会は、常任委員会の1つで、格が高く、委員は総理経験者等が名を連ねる。乱闘国会の時はいろいろ懲罰動議をかけられる人がいるので頻繁に開かれるが、そうでないと滅多に開かれないからだ。早速、麻生副総理、財務大臣を懲罰委員会にかけろと言って来た方がいたが、残念ながらそれは国会の問題ではなく内閣の問題である。

<懲罰委員長は公平中立の立場>
 衆議院の常任委員会委員長は、公平中立の立場を守るため、他の委員会には所属しないことはもちろん、どの委員会の質問にも立たないのが国会のルールである。特別委員長も、常任委員会に所属こそできるがこれも質問には立たないそうだ。
 常任委員長は議長の指名ということにより、5月8日(火曜日)の本会議で一番最初に全会一致で指名された。それを聞いた与党の大物議員が私に「篠原さん、こんな大事な時に懲罰委員長なんてなんで断らないのですか。篠原さんが篠原節でもって加計問題とか追及しなければだめじゃないですか。その機会をなくしていいのですか」と苦言を呈された。
 一部の国会議員の中でポストを断ったり要求したりする人もいるが、私は農水省に30年いて、どこどこに行けと言われてそのポストを断るなどということは、組織としてあり得ないことであり、政治家になってもあれこれ言わず、そのまま言われた通りのポストで仕事をしてきている。
 今回懲罰委員長を拝命したことで、これからしばらく委員会で質問の機会は全くなくなることをお伝えしておかなければならない。

<党では選対委員長>
 それから党の役職で、民進党の選対委員長をやっていたが、国民民主党では大島敦選対委員長の下、選対顧問なる変わった役職を拝命し、選挙対策も助けることになっている。

2018年5月 8日

国民民主党の結成は野党総結集の第一歩 -民進党と希望の党の合流にあらず- 18.05.08

1月から4か月間、ブログ・メルマガを更新せず失礼しました。

<10月下旬民進党の新党への衣替えを主張>
 元々前総選挙の後、民進党はなくなることになっていた。だから民進党の候補者は誰一人として立候補していない。前原代表は個人への踏み絵など絶対しないと約束をしていたのにその約束をやぶった。私はそれには応じられないと、最後の最後に希望の党への公認申請をしなかった。その後、希望の党は大敗北し、参議院の皆さんが怒り、希望の党になど行くものかといい、民進党が残ってしまった。
 それでも私は、民進党が残ってもいいが、国民は無くなったものだと思っているから、新党にすべきだと強硬に主張した。しかし、私の主張はすぐにはとりいれられなかった。そこで12月から1月にかけて、取りあえず統一会派をという提案をしたが案の定ダメだった。

<大塚代表が旧民主・民進に結集呼びかけ>
 グダグダしながら、今やっと大塚耕平民進党代表が、旧民主・民進の皆さんに再結集を呼びかけた。ところが、枝野代表率いる立憲民主党はけんもほろろで、やむを得ず民進党を形式的には存続政党として、名前を変えて希望の党を離れた人たちが合流する形となった。私の主張が半年後にやっと実現したことになる。野党第一党の党首枝野幸男代表が民主党代表と他の野党統合を呼びかけるべきだと思うが、まったくその気配がないのでこういう形になった。

<野党大結集がベスト>
 無所属の会に所属者は14人いた。今のところはっきりしないが、私と平野、原口が残るだけで、野田、岡田、安住等他の人たちは、民進党を離党し純粋に無所属になることになっている。
 誤解をしないでいただきたい。我々はまた希望の党と合流したのではない。私自身は民進党(民主党)のままで、それが国民民主党に衣替えしただけだ。今まで離党したこともないし、今度も離党をしていない。国民民主党の衆議院議員で離党経験のない者は数人しかいない。民進党は昨秋と違って念入りな議論を経て、今度こそスムーズに国民民主党に移る。地方議員を含め相当議論したが、それでも嫌だという人は無所属になるか、立憲民主党に行く。
 私は野党が分かれるのは良くなく、大同団結すべきと思い、ずっとそれで動いてきた。この大同団結は、私は羽田孜元首相の意思を継ぎ、政権交代の出来る責任野党でなければという思いである。
 しかし、この数カ月の間、民進党の選対委員長としての仕事はしていたが、希望の党との折衝や、立憲民進党のアプローチ、無所属の会で一緒になろうという働きかけなどは体調不良のためほとんど関与せずにきた。私が、直接かかわっていたらもう少し形がまともになったのではないかと忸怩たる思いがある。

<今でも枝野代表が野党総結集を呼びかけるべき>
 私は、今のこの段階でも、枝野代表が政党を一緒にするのは無理としても、野党統一会派を呼び掛けていくのがベストだと思う。しかし、なかなかそうはならない。
 この連休明けの政治はどのように転んでいくかわからないが、国民民主党の一員として、安倍政権を質し、野党の総結集をしていきたいと思っている。