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2018年10月 9日

常に前を向き直進していた入沢肇元林野庁長官(参議院議員)‐私が見本とした役人道を突っ走った先輩を追悼する‐ 18.10.09

 私は農林水産省の10年先輩を追悼せずにはいられない。静かに去り、葬儀も近親者だけでしめやかに執り行われただけなので、せめて私のブログぐらいではその功績を讃えたい。(関心のない方は読み飛ばして下さい。)

<遠くから眺めた理想の役人像>
 私は、一度も同じ局内で上下関係になったことはない。入沢さんが、1980年に内閣審議官室に出向した折、私も内閣総合安全保障関係閣僚会議担当室に出向しており、同じ総理府内閣府の建物にいたのが一番近くで、あとは遠くから仕事振りを見ていただけだ。しかし、入沢さんの残した足跡を垣間見るにつけ、ほとほと感心し、いつの頃からかその仕事振りを見本とし、自分もかくありたいと思うようになった。

<「外食産業」を行政対象とする先見の明>
 私は、大臣官房企画官企画官を3年もした後、企業振興課のNO.2、総括補佐になった。その頃本を書き、週末に講演に行っていたので、並みの課長は普通の補佐(?)がいいとして私の受け入れを嫌がったという。ところが、髙橋政行課長(S38年入省で入沢さんと同期)は、かつて仕えた事のある方で、喜んで引き受けていただいたという。
 そこに外食産業対策室があつた。今でこそ外食産業と言われるが、当時(1980年代前半)は厚生省が衛生面から規制するだけで、役所が産業として位置付け、行政対象とすることはなかった。それに気がついて、室を造って乗り出したのが入沢さんだった。私は髙橋課長の下で、問題あるから室を造った印象のある「対策」をやめ、「外食産業室」にすると同時に、「技術室」を新たに要求して設置が認められた。後者も入沢さんが鉱工業技術研究組合の仕組みを導入して、食品産業の技術開発予算をつけ始めていたものが大きくなり、室として構えられるようになったものである。二つとも入沢企業振興課長の時代に始められており、その先見の明に舌を巻いた。

<実現しなかった遊漁規制>
 二つ目が、沿岸課長時代(1984年頃)に手を染めた遊漁船を取り締まる法律だった。漁業者が自分の小さな漁船を使って小遣い稼ぎを始め、海釣りブームの勃興期とかさなり、あちこちで海難事故や漁業者とのトラブルが起きていた。入沢さんは、遊漁者の安全性確保や漁業秩序維持の観点から、法案を提出せんとした。
 入沢さんは、晩年よく法律を20数本作ったと自慢したが、紛れもない事実だから仕方ない。しかし、この時は釣り人の安全確保は農水省の所管ではない、と硬直的なことを言う法制局が立法化を拒み、漁業者も規制を嫌う遊漁船主と釣り人に邪魔される漁業者で賛否が割れ、法案は提出できなかった。

<数年後に思い知った入沢さんの警告>
 1988年横須賀沖で、海上自衛隊の潜水艦なだしお(排水量2250トン、乗員74名)と遊漁船「第一富士丸」(154総トン、定員44名)が衝突し、第一富士丸が沈没し、乗員・乗客30名が死亡した。今のモリ・カケ問題同様に船長らが航海日誌を後に改竄したと報じられ、瓦力防衛庁長官が引責辞任した。麻生財務大臣は全く責任を取らないが、当時の政府・自民党は健全だった。
 その時になって世間ははじめて入沢さんの指摘を知り、没になっていた入沢法案がほとんどそのまま議員立法として提出され法律となった。もし、入沢法案が成立していたら、痛ましい事故は起きなかったかもしれない。

<漁業者の反対を押しても理想を追及する姿勢は入沢さんに学ぶ>
 後述するとおり海洋法条約批准200海里設定の折、私は水産庁企画課長を拝命した。そして、入沢さんと同じ漁業者の反対に遭遇することになった。
 海洋法条約は加盟の条件として、200海里内の漁業資源管理制度を求めていた。私は、もっけの幸いとして、親魚の獲りすぎをやめる漁獲制限を課す、通称TAC法の制定に力を注いだ。ところが、漁師はそこにある魚を獲るのが仕事だと、来年のことなど考えようとしていない。内部への説明会開いても水産庁OBを含む漁業界は大反対だった。
 この時に心の支えになっていたのは、反対があっても理想を追い求めるという入沢さんの心意気であった。親切な上司が「漁業者や漁協の反対する法律は通るはずなく、お前に傷つく。200海里を設定して、中国・韓国漁船を追い出すだけでよい」と忠告してくれたが、私は引かず、主要紙の論説委員回りをして、味方になってもらい(例:某紙は社説で、「乱獲の海を許すな」と応援してくれた)、3年弱かかってTAC制度を造り上げた。20年後の今マグロまで対象にならんとしている。やっと資源管理の有用性に気付いたのだ。

<他の追随を許さない数々の実績>
 こと程左様にいろいろ必要なことに気がつき、実行される人であった。要するに感度がずば抜けていい人なのだ。構造改善局長として経営基盤強化法に認定農業者制度を織り込み、また林政部長、次長、長官と歴任した林野行政でも、赤字の国有林野事業特別会計の改革に取り組み、林業経営の改革を回る林野三法を成立させるなど、業績は枚挙にいとまがない。
 これだけ立派だと部下には怖れられる。しかし、52年入省の後輩は「知恵のない上司は、部下に新しい予算や法律を考えろというが、入沢さんは自分で考えて指示される。それを理解できない奴が文句を言うが、入沢さんほど仕えやすい上司はいなかった」と述べている。まさに正鵠を得ている。

<入沢追い落とし1月人事>
 私との個人的係わり合いはなかったが、1994年OECD代表部を終え帰国した折に、ニアミスがあった。人事雀の多くが、私が林野庁企画課長だというのだ。すると、入沢林野庁長官から「篠原君、やっと君とコンビが組めそうだ」と電話があった。だからその気になって髙橋官房長に内示を受けに行ったところ、水産庁の企画課長と少し違っていた。
 そして二つ目の係わりは、1997年普通はありえない1月の幹部人事である。S38年入省なのに、37年組のトップを走っていると皮肉を言われるほど枢要ポストを歩き、次官間違いなしといわれていた入沢さんが退任し、その異例の人事の末席に私の水産庁企画課長から某庶務課長への異動が連なっていた。
 皆が入沢退任にはびっくりしたが、私の人事も多くの人にとっては意外な人事だった。水産庁の某幹部は、「篠原課長は、海洋法対策室長として200海里の設定や新しい制度の導入に成功したのに、評価されていない。やはり水産は農政よりずっと格下なのか」と嘆いた。また、他の人事好きは「入沢派への粛清だ」と解説したが、私もこの人事を断行した前次官から、入沢さん同様に煙たがられたのだろう。

<世間が放っておかず参議院議員に>
 次官には、同期の髙橋さんが就かれた。私は前述のとおり若かりし頃二度べったりお仕えしてきた方であり、申し分ない方だった。髙橋さんの後任には一気に3年とんで41年組から就いたが、3年も居座りかなり歪んだ人事を行い弊害が生じてしまった。私は密かに二人とも次官にと願っていた。役人OBは世間からは最終ポストで評価されるからだ。
 ところが、よくしたもので、世の中は入沢さんを放っておかず、自由党の全国比例2位の待遇で迎え(当時は拘束比例名簿制で当選間違いなかった)、参議院議員を1期務めた。
 入沢さんへの恩返しであろう、外食産業の雄・すかいらーくが研究所の理事長として迎えている。また、帝京大学の法学部長もやられた。

<国会議員になっても指導の電話>
 議員を退かれてからも農林水産行政に係わる意欲は相変わらずで、講演を頼まれ全国各地に出向いた。アベノミクス農政には腹を立て、10年後輩の私にあれこれ電話をかけてその是正を強く働きかけてこられた。電話で農政論議をこんなにした先輩はいない。官界、政界、学界と、三界(?)に身を置いたのは共通であり、二人はいつの間にか「馬が合う」ようになっていた。
 近親者だけの葬儀といういかにも入沢さんらしいものだったが、私は先輩から連絡があったので、通夜に押しかけご冥福をお祈りした。いつも前を向き直進した、これほど情熱的農林水産行政マンはそうは現れないだろう。

2018年10月 2日

【県民気質シリーズ1】自民党総裁選、石破が安倍首相に15票の僅差で肉薄した本当の理由-愛すべき長野県民気質がタカ派の安倍首相を嫌い篠原にも味方する- 18.10.2

 県民気質とよく言われる。私の友人に、かつてはそんなものはないと言い張っていた、東京生まれ、東京育ちの元気のいい友人がいる。彼は生命保険会社に勤務し、あちこちの支社長を務めた。あちこちから人が集まっている東京で暮らしていた彼は、同じ日本人でそんなに違うわけはないと思い込んでいたそうだ。ところが、彼が全国各地で勤務してみると、保険のおばさんたちの立ち振る舞いが大きく異なり、その時に初めて各都道府県ごとに県人気質の違いがあることがわかったという。

<支社長の2つの悩みと県民気質>
 支社長は、大過なく過ごすことを願うものだが、悩まされるものの一つは、保険金のちょろまかしである。あるデッカイ県の支店は大穴がボンボン空き、20~30年に及んで1億近くのお金を個人の懐に入れられたケースがあった。また、商売で有名なある県では、保険料からの小さなごまかしが多いなど(これらを「営業事故」と呼ぶ)、特徴があったそうだ。
 もう一つは、保険の知識を試す試験(少し基本給が高くなり、通常「保険大学」と呼ばれる)で、より多くの者を受験させ昇給させるのが支社長の業績の一つとして数えられた。ここでも特徴が出て、先のデッカイ県は細かなことは関知せずでさっぱり受験してもらえず、困ったという。

<勤勉熱心でごまかしなしの長野県民>
 次は我が長野県。営業事故は全国一少なく生保業界で重要視される継続率(加入した保険が1~2年後にどのぐらい継続されているか)も全国で常にトップクラスだという。とにかく真面目でお客を騙すこともしていない。試験は黙っていても勉強していて、全員受ける。そして少しずつ上に上がっていく。他県の営業所では合格者が1名いればよいほうなのに、長野県のとある営業所では全員が合格していた。こうしたことからすっかり長野県民が好きになり、退職後、奥さん、子供と度々長野を訪れているという。

<長野県人の篠原の応援に駆け付ける>
 また、その彼が、私が選挙に出るということがわかると、長野にすっ飛んで来て、保険のおばさんたちの自宅へ私を連れ回してくれた。
 彼は、実は私の友人ではなく、私の弟の友人であった。それほど親しいわけではなかったにもかかわらず、なぜ彼が私のところへ応援に来てくれたか。単純明快であった。愛すべき長野の保険のおばさんと同じく、長野で生まれ育った篠原孝は、同じようにごまかしもせず、真面目なはずであり、そういう人に是非国会議員になってほしいということだった。この心意気が通じたのか、私は名門小坂家の4代目、故小坂憲次氏に6,000票差と肉薄し、大方の予想を裏切り(?)復活当選し議席を得ることができた。
 当時の私は、羽田孜元首相に勧められて渋々出馬したが、何をすればいいのか全くわからなかった。それなのに、投票日まではたったの50日しかなかった。選挙の準備は全て整えておくと言っていた関係者は何もしておいてくれず、連れ回しもお座なりだった。そうした中、多分彼が、一番多くの人に会わせてくれた。会社では特定の候補者を応援することはできないことになっていたので、そのルールを守りながら、彼の個人的なつながりで自宅に案内してくれた。この時お世話になった人の恩義は忘れられない。

<財界の大物がいない長野高校卒業生>
 この「クソ真面目」という県民気質が災いすることもある。民主党時代のビルの中に、長野高校の先輩の松林詔八弁護士事務所があった。横路孝弘、江田五月と同期だそうで、長野高校から国会議員が出たのは田中秀征以来だと喜んでくれた。松林弁護士は、選挙資金源確保のため「長野高校出身の財界の大物を会長にして、東京で全国後援会をつくってやる」と言ってくれたので、「是非お願いします」と応えたが、1ヵ月後の返答は悲しいものだった。「篠原君、長野高校出身で財界で重きをなしている者はほとんどいなかった。
 どうも長野県人は口が過ぎて、組織の中でうまく生き抜いて、社長になるような気質はないようだ。弁護士・裁判官のように自分でやるのは向いているが、大きな会社の中ではあまりうまくいかないようだ」と言われた。

<理屈をこねる世渡り下手>
 役所の組織の中でも同じで、典型的長野県人の私は上司に対して、こっちの政策のほうがいいのでは、と進言し、嫌われて左遷させられたりしていたのでよくわかることだった。私は、「そういえば長野高校出身者は、田中秀征・猪瀬直樹・日垣隆といった独善的評論家ばかりで、自分の言っていることが正しいと言っているような人しかいませんね」とお返しして大笑いした。要するに、世渡り下手な真面目な人間が多いのだ。その結果と言っては失礼だが、武村正義元蔵相に私の全国後援会会長を引き受けていただいた。

<篠原の連続当選の理由>
 そして私が6期連続して当選し、民主党・民進党に逆風が吹き荒れた時も含め、4回連続して小選挙区で当選させていただいた。同僚議員が、イケメンでもないし若くもない、そんな輝かしい経歴があるわけでもない私が、なぜ小選挙区で当選できているのかと聞いてきた。それは地元活動をしっかりやっているからだと答えているが、なかなか信じてもらえない。
 私が支持されている一番の理由は、一にも二にも私の立ち振る舞いが長野県気質に近いからではないかと思っている。

<野党の本流を動かず>
 まず私は筋を曲げず、ブレることがない。民主党・民進党を離党もせず、野党の本流(?)をずっと歩いている。民主・民進を離党せずにいる衆議院議員は、私と平野博文の2名しかいない。ただ平野は、前原誠司元代表が例外なく希望の党の候補者をつくる、と言いつつ維新に遠慮して大阪で希望の候補者を全く立てなかったので、やむを得ず無所属で出て離党しなかっただけである。
 それに対し私は、小池百合子党首の変な政策協定は拒否し、積極的に希望の党へは行かず、無所属で出馬している。推薦人となって担いだ前原代表の足を引っ張らないように気を使いつつ、横暴な小池党首に屈せず一矢報いるといった決断を、ちゃんと有権者は見て拍手を送ってくれている。

<石破が安倍に15票差の肉薄の理由は吉田博美参議院会長のなせる技か?>
 そして今回のタイトル「自民党総裁選・・・」に触れる。県内の自民党関係議員は6人、そのうち5人が安倍首相を支持、竹下派の吉田博美参議院会長一人だけが石破を支持した。結果は石破が5,391票で、圧倒的に有利な安倍首相が5,406票と15票差にまで詰め寄った。
 全県的には5対1の状況下、石破票がこれだけ肉薄したのは、青木幹雄の再来だと言われる吉田参議院会長の影響力のせいだと思われているかもしれない。しかしながら、地元中の地元の飯田や伊那と違って、私の長野1区にまでは影響力もそこまで及ばない。

<長野県民の戦争嫌いが安倍首相に拒否反応は本当の理由>
 長野県民は元々安倍首相のタカ派的体質が嫌いであり、リベラル志向が強い。なぜ、そんなに戦争が嫌で、タカ派的なのが嫌いなのかというと、次回のブログで触れようと思うが、全国で一番多く満蒙開拓に行かされ、そして帰って来られずに亡くなった人たちが沢山おり、戦争の痛ましさを一番よく知る県民だからである。
 そういったことから「戦争忌避」という感覚が相当強く、その結果が石破15票差の肉薄である。つまり自民党員ですら、戦争体質の安倍はやめてくれという拒否反応があって、石破に多くの票が流れたのである。一般党員には、大臣や委員長といった人参(見返り)は効かず、いくら圧力をかけても結局は秘密投票だからだ。

 私は、こうした長野県民気質が大好きだ。これにより自民党総裁選の僅差の投票結果になったというのが、政治評論家(?)篠原の分析である。