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鈴木宗男元衆議院議員が頼りにされる理由-24年前に垣間見た驚くべき直観力- 18.12.21

 入管法と漁業法という固いブログが続いたので、柔らかい話を一つしなければならないと思っている。

<東の鈴木、西の山田>
話は二十数年前にさかのぼる。漁業法シリーズ 4で触れたように、私は1994年から3年間海洋法関係法成立のためにあちこちで汗をかいていた。中国漁船・韓国漁船を追い出して、日本漁船がきちんと獲れるようにする200海里の設定は誰も反対する人はいなかったが、TAC法(これ以上獲ってはいけないという漁業資源管理の法律)は反対する人がかなりあった。今のように安倍一強で何でも数で押し切る国会ではなかったので、法案を通すために関係国会議員の根回しというのは不可欠であった。ただ、その根回し相手の中で際立っていろいろ注文をつける2人の議員がいた。東の鈴木宗男、西の山田正彦である。山田さんは国会議員になりたてで、課長の私が根回しに行っても何ら差し障りはなかったし、課長補佐でもよかったかもしれない。それに対して、東の鈴木さんは既に当選4回の重鎮であり、漁政部長なり次長なり長官が行ってもおかしくなかった。鈴木さんは中選挙区時代は漁業はあまり関係がない十勝中心でよかったが、1994年に小選挙区制が導入され、釧路・根室の北海道7区に変ったため、漁業関係の比重が格段に高くなり、力のいれようは大変なものだった。しかし、上層部は敬遠しがちになり、いつの間にか私の担当になっていった。私は今で言うパワハラ的上司に耐えられということで、よくそうした上司の下に異動させられたこともあったし、どうもこの手の議員にも強いと押し付けられる形になっていた。

<鈴木事務所にフリーパスの命令>
 ところが、議員会館の鈴木事務所は、今のように広くない議員会館で、門前市を成すとはこのことで陳情客で溢れかえっており、廊下にズラヅラと椅子が用意してあって順番待ちであった。他の先生方も回らなければならないので鈴木さんは後回しにして、他の先生方を回り夕方遅くなってやっと行くというのが続いていた。すると鈴木さんが、「俺のところにこんなに遅く来るとはなんだ」と怒り出す。私は「そんなことを言ったって先生のところは、門前市を成して陳情客が山ほどいて入れないんだから、他の先生のところに回るのは当然じゃないですか」と口答えした。すると「何をばかな事をいっているんだ。TAC法と200海里法ほど大事な法律はない。人が並んでいようといいから俺の部屋にすぐに来い」ということであった。話の早い人なのだ。

<聞いてしまった野中自治大臣への警告電話>
 私は、次の日から他の人の話を中断して私の話を聞いてくれた。しかし、電話をしているときに電話を切ってすぐというわけにはいかない。そして、ちょっと変った野中広務自治大臣が相手の電話を聞いてしまうことになった。といってもその時は大変とも思っていない。
「野中大臣、オウムは霞が関にサリンをばら撒いた。あれは警察に恨みがあったからです。松本でも裁判官に対してそうした。警察を狙っているとしたら、トップの国家公安委員長であるあなたが確実に標的にされている。心配でしょうがないから身辺警護をきちんとして下さい」という内容であった。私は、正直言って時の権力者・実力者に調子のいいことを言って取り入っておられるなという印象を受けていた。とこころが数日後の3月30日、国松孝次警察庁長官が狙撃され瀕死の重傷を負った。いまだ犯人はわかっていない。

<バカなワルの考えることは分かる>
私は、法律の内容や情勢が変わったりするたびに鈴木さんに報告し、了解を得ていたが、次に訪問した際、「ちょっと外れましたね」と言ったところ、「何を言っているんだ、当たっていてあんな重傷を負っているじゃないか。玉も当たったし俺の予測も当たって国松警察庁長官は瀕死の重傷をおったじゃないか」とにやり返された。「それはそうですね。すみません」と謝り、「ところでそういった情報は何で入ってくるんですか」と聞いたところ、「そんな情報が入ってくるわけがないじゃないか。俺の勘だけだ」という返答。「何でそんな予測が出来るのですか」に対して、「いいか俺は馬鹿で悪いんだ。世の中にはおまえのような真面目なのばかりじゃないんだ。俺と同類項の悪いバカどものが何を考えているか手に取るようにわかる。だけれどもオウムはちょっとぬかっていて、国家公安委員長が担当大臣で本当の最高責任者なのに、警察庁長官が警察のトップだと思ったために、国松警察庁長官が犠牲になっただけだ」。

<鈴木さんの欠席で総務会も1回延期>
「お前にはわからんだろうが、俺のように馬鹿で悪いのはワルの考えることが手にとるようにわかるんだ」。私は、この言葉に何と表現してよいかわからないが、ストーンと胸に響くものがあった。正直で、格好をつけずに物事を考えておられるのが伝わってきた。これだから力を成していくのだと得心した。
 ただ、暴れん坊の鈴木さんには本当に振り回された。自民党の手続きの最後は総務会をクリアしなければいけない。総務会の日が決まり、閣議提出の日も決まった。ところが、総務会が流れることになったしまった。鈴木さんが何か用事で大阪に行っており、欠席したからだ。塩川正十郎総務会長は、「鈴木議員のいない総務会で了解をとっても、あとで何を言われるかわからないので、総務会を開かない」というのだ。なんと熟議(?)あるいは合意を大事にする政党かと恐れ入った。というより、日頃の鈴木さんのパワーがそうさせたのである。閣議が一回延び、関係者からは私の不手際と非難が集中したが、いかんともしがたかった。

<野中・鈴木コンビの成立>
野中・鈴木コンビは後々世の中に知られることとなった。私は二人の濃密的関係の成り立ちを知る由もないが、この身震いする事件の警告も野中大臣の鈴木さんの信頼醸成に一役かったのではないかと思う。その後、1998年小渕恵三内閣で野中さんが官房長官になられ、鈴木さんが副長官に抜擢された。

<政治家になっても続く縁>
鈴木官房副長官の時も、また呼び出され筋の悪い要求をされ、私はとても受け入れられないと理由を述べて抵抗すると、それを逆手にとられて鈴木さんの思い通りにさせられたこともあった。しかし、ともかく一筋縄ではいかない国会議員であり、いろいろな場面で見せる政治家としての切れにはほとほと感心した。
2003年秋、私が選挙に出る時には、鈴木さんは437日に及ぶ長期勾留から保釈されたばかりだったが、選挙のやり方について励ましの手紙を頂いている。
ここに最近のことも付け加えなければなるまい。2014年の総選挙で娘の鈴木貴子さんが新党大地ではなく、民進党の北海道比例単独1位で出馬することになった。詳細は省くが、鈴木さんと私の長年の関係故に結実したものである。しかし、その後自民党に行ってしまっている。残念だが政治とはそういうものである。

<山田さんの当たった変な予測>
 山田さんのところにも日参していたが、山田さんは、九段の議員宿舎で地元の五島列島から送ってくる魚や地鶏で鍋を作ることがあって、そこに頻繁に呼ばれていた。こちらは仕事が忙しく行きにくかったが、夕食を食べる代わりにと仕方なく付き合っていた。その時に「お前は役人としてはちょっと変わっている。だからあんまり出世できないだろう。俺が保証する。だから転身したほうがいい。小沢さんに話すから選挙に出ろ」と突然言われたことがある。「何をばかな事を言っているんですか」と取り合わなかった。ところが、10年を経て私が衆議院議員になることになった。山田さんにはそのことを忘れていてほしかったが、しっかり覚えていて「俺が言った時に国会議員になっていたらよかったのに」と言われてしまった。そして、筒井信隆、故仙谷由人、鮫島宗明の4人で当選祝いをしていただいた。
 鈴木さんは政界復帰を画策しており、山田さんはもう叙勲もいただいているが、種子問題、TPP等で元気に活動しておられる。2人ともまだまだ元気である。私も頑張らないといけないと思う次第である。