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きのこにかけた荻原勉さんの見事な人生 - 右手にロマン、左手にそろばん - 19.2.25

<地方の人生の達人に会う楽しみ>
 私は、農林水産省の役人時代にモノを書いたのをきっかけにあちこちで講演を頼まれて行っていたが、途中から大きな会合には行かず、小さな会合に好んで行くようになった。なぜかというと、そういった時にお会いする地方の全国各地の農業に生きる人々に会いに出かけて行ったので、お邪魔した地域の人生の達人というような人たちに会うと心が晴々したからである。

<参議院比例区立候補と勘違いされる>
 2003年に私が羽田元総理らに勧められて選挙に出ることになり、挨拶まわりに行ったら、「大勢全国にファンがいるからなぁ」と多くの人が参議院の比例区に出るのだと勘違いしていた。
 今、国会議員になってからはそうしたことは一切できず、同僚議員の応援に行くだけである。現役時代、私は多分日本で一番農業の原画を見てまわっている人間だったかもしれない。それから15年、すっかり疎かになっている。ただ、同僚議員には「篠原教(?)」の信者がまだあちこちに存在している、と嫌味めいたことを言われている。

<地元中野市の傑物荻原勉さん>
 今年の2月22日、私の地元中野市のケーアイ・オギワラ(荻原きのこ園)の当主、荻原勉さんの「旭日小綬章」の叙勲祝賀会に招かれて参上した。何のことはない、全国各地の前に、ごく身近にも突出した人物がいたのである。中野市議会議員として43年6ヶ月、そして半世紀に及び中野市のきのこ産業を引っ張り支えた大功労者である。

<変遷を遂げてきた中野市農業>
 私は農水省(当時)に入省するまでは、日本の農業は中野市と似たり寄ったりだと思っていた。しかし、中野市の農業は他の地域と違っていた。こんなにバラエティーに富んだ作物を作っている地域は他にない。現在、JA中野市にいくつの部会があるか定かではないが、私がちょっとした論文を書いた20数年前は26部会もあった。果樹としてもりんご・桃・葡萄・プラム・プルーン・ネクタリン・さくらんぼ・梨と何でもある。更に品種も豊富でりんごでは、ふじ・秋映・シナノスイート・シナノゴールド・王林と続き、葡萄では巨峰・シャインマスカット・ビオーネ・ナガノパープル等何品種もある。花はシャクヤク・アスター等、野菜ではアスパラガス・丸ナスがある。そうした中で最大の売上高を誇るのがきのこである。
 戦後すぐは、ご他聞に漏れず養蚕が主な収入源であった。我が家でも家中が蚕臭く、跡取りとして育てられていた私はそれが嫌で、密かに自分の代になったらやめてやろうと思っていた。ところがよくしたもので、途中から養蚕は一斉になくなり、りんごにとって代わった。お蚕様は農薬にはからきし弱く、両立できなかったのだ。我が家の例でいえば、途中でアンゴラウサギを飼ったり、タバコを作ったりもしたが、大体りんごと桃に定着していった。

<経営の危険分散、労働力の分配から生まれた複合農業>
 そのりんごも1959年、台風7号・15号(伊勢湾台風)と年に2回ほど大型台風で壊滅的打撃を受けたため、台風が来る季節の前に収穫できる桃が導入された。桃が山梨県と同じようにできるのなら葡萄もできると取り入れられたが、甲州葡萄ではなく巨峰で日本一の産地となっていった。進取の気鋭に富んだ中野の農民は、このように次々と新しい作物に挑み成功させていった。個々の農家も30aぐらいずつ数種の作物を作り、地域全体でも様々な「売り出し作物」を造り上げていった。いわゆる複合経営である。中野の多品種生産は経営の危険分散と労働力の分配を兼ねていたのである。水田の転作が問題になった時には集中する労働力からこれ以上果樹を増やすわけにはいかず、労働力の余っている春に収穫期を迎えるアスパラガスが盛んに栽培された。しかし連作障害の問題が生じて生産量が減ってしまった。

<知恵と工夫と進取の気鋭の行き着く先にあったきのこ>
 そうした時に冬の労働力が余っていることに目をつけて、寒さを利用できるきのこ栽培が始まった。それに率先して取り組んだのが荻原さんである。荻原さんの住む大熊は「延徳田んぼ」と称される善光寺平の東側に位置し、すぐ背後に志賀高原に連なる山が切り立っており、これ以上耕地を広げることはできなかった。「延徳田んぼ」は田んぼと称されていることからわかるとおり、湿地で果樹には向かなかった。そのためかつては冬の水田には中野の特産柳行季の材料になる柳が生産されていたが、プラスチックにとって代わられ、瞬く間に消えていった。そこにきのこ栽培が登場したのである。
 竹原地区のような果樹に向いた扇状地、西南斜面の土地ではきのこ栽培は誕生しなかったであろう。竹原のような地の利がなかった所であるからこそ窮余の策できのこ栽培が取り入れられたのだ。
 「地の不利」を逆手にとってのきのこ栽培だったが、それを支える「人の利」にも恵まれた。阿藤博文・前JA中野市組合長は同じきのこ栽培農家であり、事務方でも今日本きのこマイスター協会理事長を務める前澤憲雄・前JA中野市常務という仲間があり、その周りにも多くのきのこ農家がいた。

<中野市をグイグイ引っ張ったリーダー>
 荻原さんは最初から先頭に立ってきのこに邁進した。有志により文集が作られていたが「この道ひとすじ」がタイトルであり、サブタイトルは「右手にロマン、左手にそろばん」というものであった。荻原さんの一生を端的に言い当てている。
 同じきのこでも、えのき茸からブナシメジ・なめこ・エリンギ・黒あわび茸と種類を増やしている。また荻原さんは、種菌の安定供給のために種菌の培養センターを造って中野市全体のきのこ栽培業者に喜ばれている。その結果、JA中野市農協は278億円もの売上高を誇っており、その8割近くをきのこが生み出している。きのこに依存し過ぎであるが、他にシャインマスカット等の葡萄も増えており、いくつもの「売れ筋」作物を抱える中野市農協は今も健在である。残念ながら私が幼い頃から手伝ったりんごの生産量が減っているのは寂しい限りである。

<JA中野市のずば抜けた業績>
 中野市は人口4万人強の小さい市であり、農地面積も2,053haと長野県全体の3.0%にすぎないが、生産金額では278億円を超える大農場である。現場を知らない霞が関農政は農業改革という空念仏を唱え、合併ばかりはやし立てるが、JA中野市はずっと一市一農協で通している。先頃も近隣のJAみゆき(飯山市・木島平村・野沢温泉村・栄村)、志賀高原(山ノ内町)、須高(須坂市、小布施町、高山村)、長野(長野市、飯綱町、信濃町、小川村)、千曲(千曲市)等が一つになり、JAながのというどでかいJAとなったが、それに加わることはなかった。関係者によると、合併しないかという声すらかからなかったという。なぜなら、財政状況が群を抜いてよく相手にされないと端から諦めていたからである。売上高は合併した大JAながのの310億円に匹敵する。

<好ましいドン>
 私は叙勲祝賀会でも荻原さんを絶賛した。
 このように中野市は非常に農業でうまくいっているが、荻原さんがこうしたことの最大の功労者である。歴代のどの市長でも、歴代のどの農協組合長でも、歴代のどの商工会議所会頭でも、議員たちでもかなわない。
 世の中に首領(ドン)と呼ばれる人がいる。日本ボクシング連盟のドンは横柄な振舞いで放逐されたが、中野市のドンである荻原さんは周りに畏敬の念を持たされた本物のドンである。中野市の経済界・農業界に君臨し続け、今日の繁栄をリードしてきたのである。まさに叙勲にふさわしい業績であり、心からお祝いを申し上げたい。