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2019年8月27日

【政僚シリーズ7】外交官 杉原千畝の人道博愛精神と矜持-上司の命令と良心のはざまで揺れ動く苦悩に思いを馳せる- 19.08.27

 杉原千畝の功績を伝える「リトアニア杉原記念館」(カウナス)を訪問した。用意された2本のビデオ(杉原の故郷 岐阜県八百津町とユダヤ人入港地敦賀市の作成)を見て涙した。私はもともと涙もろく、寅さんの映画を見ながら涙を流す私を見て、幼い頃の子供から不思議に思われ笑われていた。今もその癖は治っていない。

<杉原の逡巡と博愛精神優先の決断>
 まず杉原がどのようにして6000人のユダヤ人を救ったか簡単に紹介する。
1940年7月18日 杉原は多くのユダヤ人がリトアニアのカウナス日本領事館の前に列をなしているのに気がついた。詳細は省くが亡命ユダヤ人が生き残るには、蘭領キュラソー島に行くと称して日本の通過ビザを取るしか脱出方法はなかった。日本はドイツと同盟関係にあり外務省は冷たく拒否しろという返電しかしてこなかった。杉原はそれが国益にかなうか逡巡する。そして、職を賭して人道博愛精神を優先した。それから1カ月余、ソ連のリトアニア占領による国外退去の日までのみならず、列車の中でもビザを書き続けた。
(8/28 西村氏から1938年猶太(ユダヤ)人対策要綱でユダヤ人を排斥せずに公正に扱うと定めていたと指摘がありました)

<家族への温かい愛>
 杉原は、早大で英語を学び、その後外務省の官費留学生としてハルピン学院ではロシア語を学んだ有能な諜報部員だった。だから、並みの外交官よりも一歩先の情報を掴み、展開を読めたのであろう。万年筆が壊れ、ペンにインキを付けて書かざるをえなくなっても、累加が家族に及ばないように一切手伝わせなかった。「保身よりも人命救助を」と夫の決意を促した妻幸子は、腱鞘炎になりかけた夫の手を優しくマッサージするだけだったが、杉原は睡眠不足のためその最中に眠り込んでしまった。死力を尽くしていたのである。
 この気配りもむなしく、1945年ルーマニアで終戦を迎えた時には、ソ連の国外退去命令違反から家族もろとも収容所に入れられている。1947年帰国後も、退職させられ収入の道を閉ざされている。

<ユダヤ人にも降り注ぐ愛>
 杉原は、いかつい顔写真から察するに信念の人であろう。しかし、単なる同情心で、本国の命令に背いてビザを発行し続けたのではあるまい。「私のしたことは外交官としては間違ったことだったかもしれない」と素直に認めている。「しかし、私を頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった。大したことをしたわけではなく、当然のことをしただけである」と淡々と当時の心境を語っている。この高潔な心に胸を打たれる。

<日本国への崇高な愛 - 真の国益を追求>
 他の国々や他の外交官と同じようにナチスに迎合してユダヤ人を見殺しにする理不尽は、杉原の良心が許さなかったのはもちろんである。しかし、その奥で今の今だけを見ることなく、遠い将来を見据えて、ユダヤ人を助けることが日本(人)の毅然とした道義を示し、世界に信頼されることになると考えたに違いない。その証拠に、ビザを手渡す時、一人ひとりに「バンザイ・ニッポン」と言わせていたという。日本国を背負う外交官の矜持として、「命のビザ」の発給こそ、日本への感謝を忘れるなとしっかりと釘を刺していたのである。
 つまり、真の国益につながると、ある種の確信を持ってたのである。まさに日本国への限りない忠誠心である。

<人種差別に抗する国士・外交官>
 当時ドイツは全ヨーロッパを手中に収め、ソ連とポーランドも分け合っていた。そのドイツの反ユダヤ主義は凄まじかった。それに抗うことは、下手をすると日本の当面の国益を大きく損なう恐れがあった。当然のこととして、杉原の外務省における出世の道は閉ざされることになる。しかし、日本や世界の見ぬふりに同調することができず、杉原は本国の訓令に反し、世界の潮流に迎合しなかったのである。

<世界は杉原を評価するも日本は冷淡>
 1947年やっと帰国を果たしたが、杉原が自ら納得していたとおり、外務省(日本政府)には冷たく解雇された。それに対し、世界のユダヤ人は放っておかなかった。杉原捜しをはじめ、1969年杉原はイスラエル政府に招待され、ユダヤ人を救った人に与えられる「ヤド・バジュム賞」の栄に浴している。生誕100年の2000年に、外務省に「勇気ある人道的行為を行った外交官 杉原千畝を讃えて」というプレートが作られた。解雇から53年後、イスラエルの賞から31年後のことである。

<時流に迎合するばかりの政僚>
 かつての領土拡張主義は、今の経済拡大主義に、軍部は安倍官邸に例えられよう。ナチスのヨーロッパにおけるドイツ一強と反ユダヤ主義は、トランプのアメリカ・ファーストや人種差別と似ている。
 森友学園問題も加計学園問題も、要所に一人の杉原がいたら官邸の暴走を止めることができただろう。それを今は寄ってたかって官邸に媚びを売り、忖度を積み重ね、書類を改ざんし、嘘をつき、誰も罰せられることがなかった。これでは政僚が跋扈しても仕方あるまい。この彼我の違いに私は愕然とせざるをえない。日本の政治は劣化し、官僚のモラルも低下の一途である。私が数年前から政僚シリーズで取り上げている所以がここにある。最近この点について鋭く指摘する「官邸官僚」(森功著)が発刊されており、一読に値する。

<平和を愛好する日本を示唆する杉原の惻隠の情>
 国を守るのは何も軍隊に限らない。国の評価を高め信頼を得るのに微笑外交も必要だろう。しかし、ユダヤ人の危機に当たり、情を尽くした杉原の行動は、アウシュビッツでもリトアニアでも繰り返された虐殺(カウナスの第9要塞の下に多くのユダヤ人の虐殺死体が眠っている。ユダヤ教では遺骨の掘り起こしが禁じられている)の正反対に位置し、世界が讃えることになった。日本人にはこのような切羽詰まった人道的危機の経験があまりなく、こうした問題には極めて鈍感である。
 大国に翻弄され続けた小国リトアニア(人口300万人余)は、人道問題にひときわ敏感である。遥か彼方の昔から国や人権を蹂躙され続け、第二次世界大戦でもナチスとソ連の挟間で苦しみ抜いた悲惨な経験を忘れないからである。だから、今で言えば香港問題に目を光らせ、我が物顔に振舞う中国のチベットやウイグルに対する対応を批判し、一帯一路にも組していない。一本筋の通った外交を展開している。そうした中で杉原への感謝と日本への敬愛には確固たるものがある。全て杉原一人の功績の故である。

<政治家は身を賭して真の国益を追求し、官僚は権力に阿(おもね)ることなかれ>
 我々政治家は、杉原の先見の明を見習い、当面の国益よりも次世代のための国益を追求しなければならない。反軍演説をして衆議院議員を辞めさせられた斎藤隆夫という傑物の例がある。私は記念館のビデオをじっくりと見ながら、杉原のような人物が政府の中枢を占めていたら、日本はもっと違っていただろうと今更ながらの感慨にふけった。
 幹部の官僚は安倍政権の内閣人事局を背景にした理不尽な強権発動に盲従してほしくない。杉原と同じように良心に従って次世代の国益のために潔く仕事をしてほしいと願うばかりである。

2019年8月10日

ハンディのある棚田を守るのは日本国政府の重要な仕事‐経済効果一辺倒では棚田は生き残れない-19.08.10

<環境関係の議連に多く加入>
 私は様々な議員連盟に加盟している。数は少なくしているがそれでも3~40にはなっている。そうしたものの中に棚田振興議員連盟がある。嬉しいことにこの通常国会で棚田振興法が議員立法で通過している。超党派の棚田議連でまとめたものであり、全会一致で反対する人はいない。しかしながら、実際のところ棚田は急速に減っている。このほかに私は菜の花、有機農業、ラムサール、水力発電、バイオマス、再生可能エネルギー、食の安全、高レベル放射性廃棄物等の環境に関する議連に多く入っている。おわかりと思うが、いずれも業界団体とは無縁の、言ってみればエコロジスト(?)として私の趣味である。そして、私は「棚田学会」の会員でもある。

<議員連盟のメリット>
 与党だけではなく野党でも励ます会を開く人たちは、こぞって諸々の業界につながる議員連盟に入っているが、私にはそういったものはほとんどない。業界団体が関連する議員連盟に入るのは、励ます会を開くときに2万円のパーティー券を少なくとも1枚買ってもらえることになるからだという。多くの国会議員は1年に一度、この励ます会を開催し政治活動の資金を得るが、私は、2冊の本を書いた2012年、そのお披露目に1回開催しただけである。私の議員活動は、政治資金パーティーに頼らず、4つの財源すなわち、議員報酬、文書交通通信費、政党助成金、同級生や支援者からのご寄付が全てであり、これに達したらそれ以上の活動はしない方針できている。従ってカレンダーもなし、後援会もバス旅行もなしですませている。

<ふるキャラの石塚の奔走により棚田学会設立>
 棚田学会の仕掛け人は、田舎ミュージカル劇団「ふるさとキャラバン(ふるキャラ)」を率いていた石塚克彦である。このことは既に昔のブログ(束の間の棚田サミット(西伊豆.松崎町)出席でTPPを考える - 10.11.11)に書いているので繰り返さないが、残念ながら4年前に亡くなっている。石塚は全国各地を回っていたが、多分芸術家の感性だろう、中山間地域の過疎化により荒れ放題の棚田に胸を痛めたのである。石塚の熱意にほだされて奔走し、ふるキャラを事務局にした棚田学会が誕生した。それから20年が経過したのである。
 1980年頃にできたふるキャラに拙書のフレーズがミュージカルの台詞に使われていた。後に羽田孜元首相が応援団長になり、今は、役人時代から団員だった古川康衆議院議員も、保利元会長の選挙区を引き継ぎ、棚田議連の事務局長をしている。つまり私や古川は筋金入りの棚田ファン(ふるキャラファン)といってよい。
 私は、その延長線上で、国会議員になり棚田議連に加盟し保利耕助(前衆議院議員)会長の下、公明党の西議員とともに裏方で棚田議連を支えてきた。

<棚田学会創立20周年記念学会に集まった古きよき友人>
 参院選挙の最中に、棚田学会ご一行が、「姨捨の田毎の月」で有名な千曲市の棚田の現地見学に訪れので、最盛期だったアンズを差し入れに駆けつけた。その時に、8月3日の創立20周年記念学会に是非出席してほしいと誘われ、いつもの悪い癖で安請け合いをしたため、長野市の夏祭りびんずる祭りの日だったが、久しぶりに出席した。
 私はできれば午後の記念講演や事例報告も聞きたかったが参院選の疲れが残っており、とても暑い日で外へ出るとフラフラしたので休み、学会創設当時の古いお友達と会える事を楽しみに夕方の懇親会場(東大山上会館)に出かけていった。さすがにメンバーは相当変わっていたが、20年前の学会創設時の仲間たちに会えて久しぶりに歓談できた。
 今回のテーマは文化的価値というものである。棚田は何よりも食料生産のためだったけれども、1990年代から水源涵養や国土保全の機能とともに文化的な価値を見出すようにになった。1999年に「姨捨の田毎の月」は名勝に指定され、同年、農林水産省は「日本の棚田百選」を認定した。その後2001年に「白米の千枚田」も名勝指定を受け、更に2004年から「文化的景観」として文化財保護の対象になっている。現在では世界農業遺産などを含め、文化財としての棚田の指定・認定が広く行われている。

<経済効率優先の日本で消えゆく棚田>
 しかし、残念ながら棚田議連や棚田学会の活動も、棚田の維持には無力である。日本の棚田の減少に歯止めがかからない。高名な学者・評論家が、棚田で有名な過疎地で講演をした折、どうしたらいいとかという質問され、数百年前は山林だったんだから山林に戻せばいい、と平然と答えたという。非効率なものはさっさとやめればいいという相変わらず経済合理主義、市場原理優先である。こうした考えを貫徹すれば、棚田は機械化による規模拡大はできず手間がかかるだけで、とても維持できなくなる。
 インドネシアのバリ島、フィリピンのルソン島、中国の雲南省とどこでも棚田は後継者不足等で維持するのが難しくなっているが、それでも必死になって維持されている。それを、繁栄を続ける日本で維持できないというのは、外国の人たちからすると信じがたいことであろう。皆気付いていないが、棚田こそSDGsのもっともたるものなのだ。これを維持できずにSDGsのバッジだけつけていても恥ずかしいかぎりである。

<国をあげて中山間地域をバックアップするヨーロッパ諸国>
 欧米先進国では、もうとっくの昔から中山間地の農地の景観としての文化的価値が評価され、直接支払いが導入されている。つまり政府の援助により中山間地の農業の営みが継続されているのだ。
 理屈はいたって簡単である。観光客がのどかな田園風景を見て楽しむ。そういったことができるのもこんな辺鄙なところで耕してくれる人たちがいるからである。政府はそういった人たちに報いるため、平地と同じようにやっていけない分、直接支払いで穴埋めし中山間地の農業を守っている。観光に来ない人たちにまで負担させるのかということに対しては、その人が行けなくてもその子孫たちが行って楽しむことができる。更に子孫も行くことがない人に対しては、自分の国にそうしたきれいな景観があるという事だけで満足感を覚える、だから国全体としての農村景観と評価して支援すべきであるという理屈である。こうした考えが国民のコンセンサスとして認められているのだ。
 ドイツ、スイス、フランスの中山間地域の農家収入の大半は、政府のそうした直接支払いで賄われている。ヨーロッパを旅する人たちは、休耕地・荒廃地を見ることがないのに気づいているはずである。ところが、悲しいことにその理由は全く承知していない。
 日本でこのようなコンセンサスはいつ得られるのかわからない。それを農地への規制を緩和して企業を農業に参入させれば解決する、といったとんでもない理屈で棚田が荒れるに任されている。これでは、「今だけ、金だけ、自分だけ」の謗りをまぬがれない。安倍農政は真逆の方向、すなわち競争原理、市場原理一辺倒である。そして、美しい自然を、山川海を汚し、荒らしている。政治の力でこれを跳ね返さなくてはならず、私は必死でこの悪い流れを食い止めるために汗をかいている。

<ハンディを背負った棚田は支援が必要>
 障がい者がハンディキャップを背負いながらも生きていけるように援助することについては、国民のコンセンサス得られつつある。先の参議院選挙でれいわ新選組が重度の身体障害がある2人を国会に送り込み、画期的なこととして受け止められている。
 私が言いたいのは条件の悪い棚田にも同じように援助してほしいということだけなのだ。人間については障がいのハンディを補う支援についてコンセンサスが得られるようになった。しかし、広い真っ平の農地と比べれば中山間地の段々畑や棚田に大きなハンディがあるのに少しも配慮されていない。
 国の援助の他に、もう一つトランプ大統領の批判されるばかりのやり口も弁護しないとならない。ハンディのある産業(物品)を守るために関税である。ところがWTOは関税をゼロに近づけるのがベストと決めつけている。日本の棚田や別号で論ずる水田を守るためには、米の輸入に関税をかけて然るべきなのだ。
 暑い夏だが、頭を冷やして根本に戻って考えてもらいたいものである。