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72年を走り抜いた熱血市議、市川久芳氏を追悼 -水害から地域を守り、地域の活性化に捧げた熱烈な活動は地方議員の見本-20.10.7-

私がこのブログ・メルマガに追悼文を書くのはめったにない。しかし、長年(といってもこの10数年来)の友人である市川久芳飯山市議会議員のブログ・メルマガは書かずにはいられない。なぜなら、この類い稀なる活動的な市議会議員の功績を、一人でも多くの関係者の記憶にとどめていただきたいからである。

<30数年に及ぶ執念の定点観測>
 私が市川市議と初めて会ったのは、飯山市の中央橋の下で開かれた飯山地域を水害から守る会合だった。水害の危険を知る人たちが数十人集まっていた。市川市議は驚いたことに、中央橋の土砂がどんどん溜まっていくのを30数年間にわたって定点観測し、それをカメラにおさめていた。二度三度大水害を経験している市川市議は、その危険性をずっと指摘し冊子を作り、そして地域住民や行政担当者に警告を発し続けていた。それから市川市議から山のような資料が次々と送られてくるようになった。
 市川市議は勝山グループと呼ばれる建設会社の役員でもあった。私は詳しくは知らないが、産業廃棄物の処理等いろんな資格を自ら勉強し取得していて、市川市議がいなければ事業が継続できないようで、会社にとっても必要不可欠な人だった。

<「砂利トラ」が走らなくなって河床が高くなる>
 かつては川の土砂を土建業者がしょっちゅう掘削してきたが、いつの頃からか土建業者による掘削は一切禁止され、トラックが走らなくなった。これは団塊の世代ぐらいしかわからないが、昔はトラックの代表はダンプカーで建設用の砂利を運ぶ『砂利トラ』だった。何故かというと高度経済成長の建築ブームであり、川砂利がコンクリートの建物には一番良いそうで、建設会社が競って川底にたまった砂利を取り合っていた。それを運ぶトラックが、道に水を滴り落としながら疾走していたのだろう。しかし、河川の掘削は河川法2の条により許可制となっており、厳しく糾弾下におかれ禁止されてしまった。その結果千曲川だけではなく、あちこちの川に土砂が溜まりどんどん河床が高くなっていった。

<かしがった(傾いた)慰霊碑を廉価で修復する男気>
 市川市議とは水害防止が結ぶ縁で親しくなったが、その後全面的に市川市議にお世話になる出来事があった。私は、集団自決をした『満蒙開拓団高社郷』の悲惨さを国会の予算委員会(2014年1月31日)で取り上げた。その慰霊碑が中野市の箱山の中腹にあった。ところがだんだんと関係者が少なくなり、慰霊祭が開けなくなっていた、さらに悪いことには、立派な慰霊碑が片方に傾いてきてしまっていて、それを修復するのに450万円もかかるという。そこで立ち上がってくれたのが市川市議である。土建会社に勤めているのでそういったことはお手のものである。450万円かかるといわれていた修復費がいつの間にか30万円になり、すぐに修復してもらった。市川市議の男気の発露である。

<市川市議の馬力全開の真骨頂、高校生も参加する慰霊祭の定期開催>
 更にそこからが本番で、市川市議の獅子奮迅の活躍であった。集団自決した人たちの直系の子孫はおらず、年下の弟や妹、傍系のいとこやはとこの類いの親戚しか生き残っていない。慰霊祭の開催が危ぶまれる中、市川市議が立ち上がり、持ち前の牽引力で地元の高校や市町村議会議員を巻き込み、集団自決があった8月25日には大々的に慰霊祭を開けるようになった。地元の高校にかけあったり、地元の新聞社に連絡したりするといったことは、市川市議の指示に基づいて私の秘書が担当した。私の秘書は8月になると市川市議の秘書も同然だった。
 戦時中、国策により遠い満州の地、しかも1番北の果てに配置された長野の農民は、終戦時に真っ先にソ連軍の侵攻をまともに受けることになった。頼みの関東軍は既に去り、置いてきぼりにされ、満州の地で集団自決によって命を終えた開拓農民たちがあまりにも哀れである。市川市議は開拓民の心情を想い、ほっておけなかったのだろう。最後に満州の方向を向いて全員で「ふるさと」を合唱する時は、目に涙が溢れていた。

<市議会の暴れん坊質疑者>
 ほかには地方創生のために亀井静香衆議院議員の下で作った「根っこの会」の会合に出席したり、ともかく地域をなんとかしなくちゃならないという気持ちは並み並みならぬものがあった。こうした人を回りがほっておくはずがなく、いつの間にか飯山市議会議員になった。その後の活躍も目を見張るものがあった。いろいろな資料をきちんと作り、市議会で質問をし、かつ新聞折り込みでその結果を全て市民へ届けるという、他の市議会議員には見られない活動ぶりであった。
 まるで国会審議並み、いやそれ以上の念入りな資料で、質問(糾弾?)振りも一筋縄ではいかなかった。答弁者からはさぞかし恐れられ嫌われたであろう。見方によってはあまりにも傍若無人な発言やあまりにも熱心な活動が反感をかったのだろう、私も市民の一部から「市川市議とあまり付き合うな」と忠告も受けることもあった。

<飯山ワインにかけた夢>
 ほかにも岳北地域の振興のため、千曲川べりの耕作放棄地にワイン用のぶどうを植えて、飯山をワインの産地にしたいという夢も描いていた。飯山市の1番南にある綱切橋の北側は積雪量が多く、北信地方の特産物でもあるりんご・もも・ぶどう等の果樹栽培ができなかった。しかし、地球温暖化でだんだん暖かくなり、積雪量が少なくなっている。ワイン用のぶどうは小さな畝立てで、雪によって枝が折れたりしないので、飯山でもできる。寒暖の差があるからいいぶどうができる。北信地方では徐々にワインの産地ができてきていたし、飯山市もワインの産地になれないことはないと、飯山ワインの実現にも相当心血を注いでいた。

<国会議員や学者も虜にする希なキャラクター>
 19号台風水害直後に嘉田由紀子参議院議員(前滋賀県知事で水害や河川の専門家)一行を一緒に案内した折には、強引なスケジュール変更をしたり、いつものように長口舌を連発した。私が思い余って注意したところ、嘉田参議院議員から「篠原さんいいのよ。私の父も地方政治家だったけど、全く同じようなタイプ。自分がいいと思ったことを必死で追い求めているだけなの。気にしない!」と、たしなめられてしまった。不思議なことに同行した名立たる大学教授たちも、いつの間にか市川市議のファンになっていった。
 それだけではない。片方の目の視力を失っていたが、これを障害者と認定せよという「片目失明者友の会」という全国グループの副会長になり、厚生労働省にかけあい全国大会を取り仕切り頼りにされていた。誰にも屈託なく人なつこく話しかける市川市議は、鈴木宗男・貴子父娘や阿部知子といった国会議員とも仲良しになっていった。
 私も市川市議に振り回されながらも、いつしか大ファンになっていった。そしていつしかしばらく連絡が来ないと気になる存在になっていた。そうした市川市議の活動ぶりが飯山市民の目に留まらぬはずはなく、2期目の市議会議員選挙は、堂々第二位の当選だった。多くの飯山市民も私同様に、ハラハラしながらも温かい目で見ていてくれたのである。

<やり残したことが多すぎる!>
 これからもまだまだやってもらわなければならないことが山積だった。そうした矢先の突然の不幸であった。水害防止については、市川市議の悲願であった戸狩と立ヶ花の狭窄部の掘削も国土交通省が進めることになり、今まさに実を結びつつある時であった。満蒙開拓慰霊祭については、地元の皆さんの支持も受け、高校生も参加するセレモニーが継続する目処がたっていた。片目失明友の会の活動も腰の重い厚生労働省も検討し始めていた。ワイナリーについてもあと5年したら多分、飯山ワインが出来上がったと思う。この点がとても気がかりであり、引き継いでくれる者の出現を願わずにいられない。
 全力で駆け抜けた市川市議の一生、特に後半の市議会議員としての活動は、誰の目にも、目を見張るものがある。本当に大切な人を亡くしてしまったと悔やむばかりである。