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2020年10月30日

【花シリーズ②】 19歳のアメリカ人女子大生が気付いた日本の花の文化 -高山村の中庭の花畑に魅かれた鋭敏な感性- 20.10.30

<仕方なく長野で過ごしたインターン>
 ローレンのことを思い出すと、なんとなくほのぼのした感じになる。ローレンはハーバード大学で日本の近代史と日本語を学ぶ19歳の女子大生だった。縁があって私が6月から夏休みの間インターンとして東京の議員会館で引き受けることになった。しかし、国会が延長されなかったため、仕方なしに地元の長野に帰った。その時、高校の後輩のアメリカ留学帰りの日本人学生と日本語がペラペラのアメリカ人大学院生の3人を引き受けていた。

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     高山村の農道にて

<私でなく、外国人女子大学生に目も口も行く訪問>
 当時私は、日本の美しい村の1つののどかな農村・高山村の戸別訪問をしていた。言葉の問題があり結局私がずっと一緒に連れ歩くしかなかった。ところが、私の顔を覚えてもらうための支持者訪問なのに、隣に人形のような顔をした女子大生がいると、そちらの方ばかり見て私の顔をほとんど見てくれない。そればかりか、たどたどしい日本語で受け答えし出すとローレンと会話を始めるのだ。これでは何のために支持者訪問かわからない。ローレンに早速その苦情を言うと、そういうことがすぐわかる勘のいい娘で、翌日からは私が一応話終えてから玄関に顔を出すようになった。
 しかし、小首をちょっとかしげながら手を振ってこんにちはとやると、またローレンとの話が始まって、さっぱり訪問件数が増えないのだ。ただ、ローレンは日本の政治の一端を経験すべく議員会館に来たのにもかかわらず、片田舎に連れてこられて、毎日私と一緒の支持者訪問では可哀相だという罪の意識もあり、以後はすべてローレンの好きにさせることにした。

<日本のNPOに興味を持ち、今イギリスのNPOで働く>
 健気な女子大生で、将来はNPOで働きたいので、日本のNPO活動を体験したいと言い出した。ローカル紙のイベント欄でやっと見つけたのは、千曲河川敷の外来植物・アレチウリの駆除である。真夏の事なので暑いし、秘書に行かせようとしたが誰も手を上げない。そこでまた仕方なく私が作業服に着替えて付き合った。
 その後、またボランティア活動したいというので、探したがちょうどいいのがなく、再び川絡みで志賀高原を流れて来る夜間瀬川の河川敷のゴミ拾い。こちらもヘトヘトに疲れ切った。
 そして今は、母の母国イギリスのNPO(Social Finance)で貧しい人々のために汗をかいているという。まさに初志貫徹であり、そういう点では清々しい気持ちになる。

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     夜間瀬川の河川敷にて

<日本式風呂が気に入る>
 最初に気に入ったのは日本の風呂。農村の支持者訪問は昼寝の時間(午後1時から3時位まで)は、ピンポンすると起こしてしまうことになりお叱りを受けることになる。訪問して票を減らすのでは元も子もないので、その間は仕方なしに近くの山田温泉の豪華な温泉宿「風景館」に連れて行き、中学の同級生のマネージャーに頼んで、名物の露天風呂に入らせることにした。
 温泉通の日本人でもすぐ気に入るところであり、ローレンも気に入った。1時間位で上がって来いと言っておいたのに、なかなか上がってこない。女将さんを探し出して、谷底の露天風呂に督促に行ってもらい、やっと上がってきたが、白い肌が茹蛸のように真っ赤になっていた。

<興味のネタは尽きず神社巡りもし出す>
 それ以来の彼女の興味の対象はだんだん広がっていった。次に興味を示した神社巡りもすることになった。私はいつの間にかお姫様の意のままに動く家来になっていた。
 飯山市の小菅神社に例の昼寝の時間にわざわざ連れて行ったついでに、熱くて有名な野沢温泉の「大湯」にも立ち寄ることにした。今度は早く上がって来いと言っていたのに、またいくらたっても上がってこない。そのうちワイワイキャーキャーという声が外にまで聞こえ出した。後からの釈明によると、あまりに熱いのでちょうど一緒に入った日本人の女子大生とともに、水を一生懸命入れてぬるくしようとしていたのだ。熱い湯を楽しみに来た地元の人が一緒に入っていたならカンカンになって怒るところだろうが、叱られずにこれまた1時間以上入っていた。何にでも興味を持つ年頃だから仕方がない、と再び寛大な気持ちになるしかなかった。

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     飯山市小菅神社にて

<土産物屋で長居するもチャッカリ娘は何も買わず>
 温泉街に土産物屋はつきものである。当然色々なお土産物に興味を示した。その当時はまだ外国人観光客、特にうら若い外国人女子大生は珍しかったのだろう、人の好いおばさんたちが喜んで相手をしてくれた。ところが私には信じられないのが、さんざっぱらこれはなんだあれはなんだと聞きながら、どこでも一切何も買おうとしないのだ。私は、店の皆さんにすまないので何か買ってやろうとさえ思ったが、そこまで甘やかすのはいけないと口を出さずにいた。30分また30分と物色しながら結局何も買わなかった。

<高山村の中庭の花に魅かれる>
 七夕にも浴衣にもと日本で見るもの体験するものに興味を示し続けたが、最後に最も興味を示したのは、日本の花だったような気がする。
 高山村は傾斜地にあり、水回りが良く農家の豪華な庭には決まって池がある。大きな石と松という例の美しい日本式庭園である。ところがローレンが興味を示したのはそれではなく、その辺に雑然と咲いている中庭の何のことはない花だった。そして早速それを写真に撮りだした。おかげで、私の支持者訪問は途中から結構能率的にいくようになった。
 そこでサービスで隣の須坂市の豪華なオープンガーデンにも連れて行った。観光客に来てもらうようにパンフレットまで出来上がっていた。しかし、そういうところにはあまり興味を示さなかった。私は、正直に顔に、そして態度に表す素直なヤンキー娘の趣味が段々とわかるようになっていた。

<愛でる花の対象が違った感性>
 彼女の一番の興味の対象は、その辺の農家の庭先に植えてある花になった。日本的な庭園は、彼女には同じに見えるのに対して、庭先の花壇はみんな表情が違うと言うのだ。そういえば、アメリカの庭には芝生と生垣しかない。アメリカ人は長野弁の「ずく」(こまめな根気)を出して花壇を作るようなことはしない。だから彼女には、片田舎の農家の庭先の花が色とりどりであり、バラエティーに富んでいることにびっくりしたのであろう。
 最後に私に「一体何ヶ月講習を受けたらこのような花壇を作れるのか」と聞いてきた。私は思わず吹き出した。この辺の農家のおばさんやおばあちゃんたちが手入れをしているが、研修を受けたなどの話は聞いたことがない。自然に勝手にやっているだけなのだ、と正直に答えたけれども、彼女は最後までこれを信じようとしなかった。

<日本の文化は花も食も庶民生活にあり>
 大半の日本人も外国人も日本の花の美しさというとすぐ高級な花をふんだんに使った生花を思い描く。しかし、鋭敏な10代の荒っぽい感性は、庶民が適当に手入れしている庭先の花に軍配を上げたのである。
 私にはそれほど芸術心はないけれども、ローレンに教えられてからは、支持者訪問の折、花壇の違いを見て歩いている。そうするとローレンの言った通り、本当にみなさんの思い思いの花が咲いており、生物多様性をもじって言えば「花多様性」に富んでいるのだ。
 和食は世界遺産(ユネスコ無形文化遺産)になったが、私はその真髄は高級料亭の日本料理ばかりにあるのではなく、各地に伝わる庶民の伝統食にこそ息づいていると思っている。
 写真からお気付きかと思うが、ローレンは数年前のインターン生である。しかし何年前かは伏せておく。
 いつかイギリスで研修なしで、高山村と同じ花壇を作り手入れをしているローレンと昔話をしたいと思っている。

2020年10月29日

WFPのノーベル平和賞受賞は食料安保の重要性を示唆 -日本にもいつか来る食料不足- 20.10.29

 今年も平和賞には318もの個人団体が推薦されていた。SDGsでは17の目標のうち、貧困対策に次いで2番目の目標に30年までに飢餓ゼロを設けている。そうした中で、2020年にはWFP(世界食糧計画)がノーベル平和賞を受賞した。歓迎すべきことであり、日本もこうした問題にある程度関心を持っていくきっかけになればいいと思っている。

<世界に普遍性がある日本型農業>
 農林水産省に入ってから2年間(1976~8年)のアメリカ留学の機会を得、中西部の大規模農業を実体験し、いろいろ考えさせられた。
 世の大半の人々は、アメリカ型の大規模農業こそ世界の見本となる農業だと勘違いしている。私は、アメリカの持続性がない環境破壊的農業には疑問を感じ、むしろ自然と調和した日本型農業の方が世界に普遍性があるという確信を持つに至った。そしてこれを世界に広め飢餓から救う国際協力に貢献したいと考えるようになった。

<スペイン語を学び中南米でも働けるように準備>
 その対象の一つが中南米である。すでに多くの日本人移民がブラジルの野菜や果物あるいはジュートなどについても、きめ細やかな栽培方法により農業生産力のアップに貢献していた。そういう意味では日本型農業には実績があるのだ。
 そこで留学中に時間を割いてスペイン語を勉強した。ポルトガル語のブラジル以外はすべてスペイン語が公用語になっていたからである。

<食料安保担当で内閣の総合安保担当室に出向>
 帰国して2年後の1980年、鈴木善幸内閣が発足した。岩手の漁村の網元に生まれ、漁民のために尽くせが家訓の鈴木首相は、当時のタカ派的傾向が著しくなったことを懸念し、安全保障は軍事力よりも平和外交、食料安全保障、エネルギー安全保障等総合力が必要だとして、総合安全保障関係閣僚会議担当室を設置した。私の健気な心掛けが天に通じたのか、同担当室に食料安全保障担当で出向することになり、ここで2年間食料と安全保障(平和)についてとくと勉強し、考える機会を得た。私の視点に安全保障が加わり、国会議員になってからも外務委員会に4年、安全保障委員会に1年所属し、外交・安全保障の問題を追いかけている。そうした中で何よりも追及し続けているのは、食料と平和(安全保障)のことであり、農政もここにすっぽり入り込むテーマなのだ。

<国際機関で働くために博士号も取得>
 その後OECD代表部勤務(パリ1991~4年)の時に、またもう一つ国際協力に思いを馳せるきっかけが生じた。河野前外相が盛んに言い始めたが、日本は多くの拠出金払っている割には国際機関に人を出していない。なぜなら国際機関には博士号が採用の必須の要件だが、日本人で社会科学の分野の者はあまり博士がいないのも一因である。
 そこで仕事で関わりのあるEUの農業交渉のノウハウをネタに博士論文にまとめ、京大農学部から農業経済で博士号も取得した。

<FAO勤務に備えるも人生は思うように行かず国会議員へ>
 私の念頭に置いた行き先は、前述のとおり、日本型農業の伝道(?)であり、農業問題を広く扱うFAO(世界食糧農業機関)である。WFPもちらっと考えたが、下痢体質で180cm、60kgのきゃしゃな体は、紛争地域や衛生状態の悪いところで耐えられる自信がなく、WFPは対象からはずれていた。
 ところが人生はうまくいかないもので、羽田孜首相等にさんざん勧められて衆議院議員になってしまった。国会では博士号など何の価値もなく、スペイン語など使う機会はほぼなし。青春時代の夢の計画はどこかにすっ飛んでしまった。しかし、私の頭の片隅には常に世界の食料生産に貢献し、世界から飢えをなくしたいという思いは今も続いている

<飢餓撲滅が平和に繋がると認めたWFPノーベル平和賞>
 WFPのノーベル平和賞の受賞は遅すぎた。何故なら国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)も国連児童基金(ユニセフ)も既にもらっている。私はいつかWFPにも順番が回ってくるだろうと確信していたが、それが今回実現して喜ばしい限りである。1961年に発足し、63年から活動開始し、世界80ヶ国以上での献身的活動が評価されたのである。
 安倍内閣になり、日本ではますます軍事の安全保障だけが強調されてきた。そうした中、1980年に鈴木首相が食料安全保障も含む総合安保の必要性を強調してから40年の歳月を経た今、食料と平和のつながりが世界で認知されたのだ。

<紛争・戦争と飢餓の悪循環を断ち切る>
 ノーベル賞委員会は、「「紛争と戦争は食料不足、飢餓を引き起こし、食糧不足と飢餓は戦争を起こし、暴力の仕様の引き金となる」と指摘し、その上で「食料の安全保障を高めることは世界の平和の可能性を高める」と説明している。食料が十分でないところに紛争が発生するということであり、紛争が食糧不足を招いているということでもある。
 この今回のWFPのノーベル平和賞の受賞が、コロナ禍を機に食料そして農業にもっと目を向けるべきだと教えてくれたのである。世界には食料難にあっている約1億人の子どもたちがおり、今回コロナ禍の中満足な輸送もできなくなり、さらに多くの人たちが食糧難にあえいでいる。今年は過去最多の1億3800万人の食糧支援を行ったという。こういった現実は日本ではほとんど知られていない。

<健気なボランティア活動への評価>
 今年の4月から6月の国際線の運行が92%も減少した中、WFPは今年5月から8月アフリカ中南米などに1,184便を独自に運行し、計338の支援組織のスタッフ、2万1,166人を輸送している。2019年には過去最高の約80億ドル(8,470億円)の資金を集め、世界の紛争地域に食料を届けまくった。ノーベル賞委員会はコロナ禍の中「医療的ワクチンを得る日まで、食べ物が混乱に対する最大のワクチン」だとも述べている。

<日本も飢餓を我が身と考え、世界の飢餓にも関心を>
 ノーベル平和賞受賞の新聞記事に、今まで100人以上の人たちが紛争地域でテロの犠牲になっていると小さく書かれていた。死と隣り合わせで働いた人たちの犠牲のもとにいただいたノーベル平和賞である。日本の国会では、紛争地域に自衛隊を送った、送らないといった浮世離れした審議で時間を浪費していたが、WFPの人たちは、その間にもイエメン等とんでもなく危険な地域で汗を流している。日本も国際貢献するなら、もっと違った分野でできることがたくさんあるのだ。
 ノーベル平和賞が誰でも知っている政治家だったらもっと大きく報じられただろう。ところが、地味なWFPの受賞については、どの新聞も一応は報じてはいるが、残念ながらたった一回で終わってしまい、掘り下げはほとんどない。
 食料不足問題は決して日本にとって対岸の火事ではなく、マスク不足はいつ食糧不足になるかもしれないのだ。我々日本人も「飢え」を我が身と考えると同時に、世界には貧しくてまともに食べ物にありつけない多くの子供たちがいることに思いを馳せなければならない。

2020年10月13日

【しのはら孝 メールマガジン600号】日本学術会議の6人任命拒否でボロを出した菅強権内閣 -学界への介入は絶対に許されず-20.10.13

菅政権は鳴り物入りで発足したが、安倍政権の継承ということを自ら語っている。
 私が既にブログ(9月9日付<政僚シリーズ9>)で指摘した通り、最も継承してもらいたくないことは官邸の強権的な政治の手法だった。ところが最も脱ぎ去らねばならないことが、より強固になって継承されていることが明らかになった。日本学術会議の6人の議員の任命拒否である。

<人事で政僚を動かした安倍内閣>
 安倍内閣の特徴は、簡単にいうと霞が関の官僚を人事権を振りかざして官邸に目を向かせることだった。官邸に大挙して乗り込み(出向し)、アベノミクスのスローガンのもと日本の政治を歪めたのは経産省出身の政僚である。2月27日の突然の一斉休校、そしてアベノマスクと頓珍漢な政策に肩入れし、結局安倍政権の退陣を早める結果となった。経産・政僚が官邸を動かしたつもりが、実は経産官僚が一番人事で籠絡され利用されていたともいえる。つまり、どっちもどっちだったのだ。

今回菅内閣発足に伴い幸いなことに、こうした経産・政僚が官邸からほぼ一掃された感があり、歓迎すべきことである。しかし、残念ながら強権的体質はそのまま残ってしまっている。

<安倍官邸の意向に沿う者しか選ばれない〇〇会議>
 安倍内閣が次に悪用したのは、小泉内閣以来の官邸に設けられた〇〇会議である。ここに御用学者、御用評論家、御用財界人を集め、そこに権限を持たせ、思いつきの政策を打ち立て、それを霞が関に押し付けてきた。これが相当日本の政治を歪めていることが国民の目にはあまり明らかになっていない。
一つの例をあげれば集団的自衛権を認めた過程である。官邸に設けた、懇談会のメンバーは、すべて集団的自衛権を容認する者ばかりであった。私はそのことを予算委員会で直接安倍総理に質したところ、空虚な議論を排すためだと平然と答弁した。〇〇審議会、〇〇会議といった諮問機関には色々な考え方の人達が集まって、議論し真っ当な結論を得るためのものである。それを最初から一方的な人達だけ集めていたのでは、まともな政策ができあがるはずがない。

<○○会議や審議会の役割>
 ところが安倍政権は〇〇会議なりを自分の政策をヨイショする機関としか考えていなかった。簡単に言うと検討したという格好付けや権威付けに使われていただけである。ところが、7年8か月の長期政権になると委員の中に総理の虎の威を借りて、あれこれ新しい利権の発掘に手を染め出す者も現れてきている。官邸一強の弊害の一つは、〇〇会議の暴走を許したことである。

<各省審議会は改革が進み、官邸の〇〇会議は逆行して御用会議化>
 私が水産庁企画課長(1994~97年)のときに今の水産政策審議会を他の会の担当をしたが、内向き志向の強い農林水産省では、19ある農林水産省の審議会のうち獣医師審議会を除いた他の全ての座長が農林水産省OBであった。御用審議会的な様相を呈していたため、座長がその省庁OBではお決まりの議論しかできず、野党民主党として全て座長はその省の出身者ではない者に変更せよと主張しそれが取り入れられた。
このように各省庁の審議会は御用審議会にならないように改革が行われていったのに対して、官邸に設けられる〇〇会義が官邸の言いなりの、都合のいい方を向く人達だけで塗り固められていったのである。規制改革会議、国家戦略特区有識者会議といった類いがその代表である。
行政改革を標榜する菅内閣はこうした自己矛盾に気づいていない。

<御用〇〇会議委員に改革は任せられず>
 菅首相は就任早々霞が関の官僚を恫喝した。
10月13日のフジテレビ番組で、政府が政策を決めた後も反対する官僚は異動させる方針を示した。「私ども(政治家)は選挙で選ばれている。何をやるという方向を決定したのに、反対するのであれば異動してもらう」と述べた。
その論理を借りれば、官邸の〇〇会議のメンバーこそ、国民に名前を書いていてもらったわけではなく、国家公務員試験に受かったわけでもなく、ただただ官邸が勝手に選んだだけの人たちである。その人たちに行政を牛耳られるのはあってはならないことである。

<霞が関の官僚は中立が原則>
 人事で人を動かす快感を覚えたのであろう。内閣人事局がそのはしりだが、その後検察の人事にも介入した。黒川弘務を検事総長にし、政府与党へ検察が手を出すことを事前に防ごうとしたのである。このように人事で強権を発動して、政治をあるいは行政を牛耳るというのは邪道でしかない。閣僚を自分の趣味で選ぶのは政治の世界であるからそれは許されることではあるが、霞が関の官僚は政権がどう変わろうと国民の奉仕者であって、一つの政権だけを向かせるというのは行き過ぎである。

<アメリカの回転ドアの合理性>
内閣人事局による霞ヶ関の官僚の支配を批判はしているが、民主主義の権化であるアメリカでは、リボルビングドア(回転ドア)と言われ2期8年で政権が交代すると同時に、ワシントンD.C.の政府の高官約3,000人が一斉に変わる。
アメリカには民主党系、共和党系に色付けされるシンクタンクがあり、次の政権交代を目指して、準備を怠らない人たちの受け皿になっている。閣僚は日本と違って閣僚は政治家の中から選ばれるのではなく、そうしたシンクタンクの研究員からも、大学教授、財界人等の有識者からも選ばれている。つまり、アメリカは、政権交代を前提とした仕組みが社会のシステムとして、出来上がっているのだ。

<私の質問を褒めてくれた加藤陽子東大教授も拒否される>
ところが日本では、自民党一強でずっと同じ党が政権を担当しており、同じような人たちばかり選ばれることになり、偏った政策ができてしまう。今回の日本学術会議の会員の拒否は学者の世界に手を突っ込むものであり、到底容認できない。政府に批判的な言動を重ねたから、それをチェックし任命拒否をするというのは行き過ぎもいいところである。
任命を拒否された中に私と関わりのある学者が1人入っている。加藤陽子東大教授(日本近現代史)である。加藤教授は私の国会での地産地消、旬産旬消についての提案型質問(2015年2月12日予算委)に目をやり、たまには国会審議も見て環境問題も考えたら良いと書いてくれたことがある。私の考えに共鳴する人だから少々過激な方かもしれないがそれぐらいで排除されるのは許し難い。
手前味噌になるがそのさわりを引用して紹介する。
「...オーラの出ている議員を発見した...運輸部門が約20%も増加している点を衝き、輸入食糧・木材の長距離輸送自体の環境負荷を問題とした。無駄な移動自体の抑制を図る発想なので説得力を持つ」(毎日新聞夕刊2005年4月6日)

<学者の世界には政治が踏み込むべからず>
学者が全員御用学者になったらいったいどうなるのか。学者には政府の考え方に縛られることなく、虚心坦懐的真っ当なコメントや、解説を加えてほしいと国民全体が願っているはずである。それを、官邸の方だけを向く茶坊主だらけ学者になってしまう世界は異様である。
一世を風靡した山本七平は著書に全会一致の決議は無効であると書いている。皆が同じ事しか言わない審議会とか会議というのは、危険なのだ。甲論乙駁(こうろんおつばく)いろんな意見があって議論を戦わせた上で、結論を得られていくのが1番真っ当ではないかと考えている。

2020年10月 9日

【花シリーズ①】花の空輸は不要不急の代表ではないか - 花は地産地消・旬産旬消に徹し空輸などやめる - 20.10.9 -

<貯蔵が利かない花こそ旬産旬消が原則>
 コロナ禍の中でみんなが大変な影響受けているが、農業界では花農家と肥育牛農家が一番被害を被った。高級牛肉は、料亭やレストランの需要が激減してしまった。しかし、肉はまだ冷凍・冷蔵ができる。それに対して花は長い貯蔵は利かず、その時に使われなかったらおしまいである。つまり、旬産旬消しかない代物なのだ。冠婚葬祭が典型的であるが、大会やイベントの自粛の影響は大きく、需要が突然消えてしまった。
 私も会員の野党系「花き議連」は、4月16日江藤農林水産大臣に花の消費拡大対策を講ずるように要請に押しかけた。その成果もあってか、5月を消費拡大のため「母の日月間」にしてキャンペーンを行うことになった。

<花農家に持続化給付金の申請を勧める>
 コロナ対策で、事業を展開できずに影響を受けた者に対して100万円補助する、持続化給付金が出されることになった。第一次補正と第二次補正合わせて4兆2千億円と、農林水産省の本予算2兆3,000億円と比べてもいかに膨大かがわかる。
 私は秘書に命じて、影響を受けた農家も対象になるのだから花農家に持続化給付金の申請をするように勧めて歩かせた。なぜなら、ほとんどの農家はそんなことは自分に関係ないと勘違いしている。木島平村の農家が500軒で100万円ずつもらえるとしたら、木島平村に5億円のお金が入ることになり、村全体がうるおうことになる。
 ただ問題は農家の大半の人たちはパソコンなどをいじったことがないことだ。そこはよくしたもので、都会で働いている孝行息子・娘が代わってやってくれているようで、喜ばしい限りである。

<タダの代議士便(長野から私自身が新幹線で運ぶ)で女性議員に花を届けて消費拡大に貢献>
 その途中ではたと気がつき、ささやかながら自ら消費拡大に貢献することとした。そこで上京の度に(大体花束で5人分、価格は1万円前後)持っていき、旧知の女性議員に贈ることにした。私の事務所では「タダの代議士便」と呼ばれている。背丈のあるトルコキキョウは横にできず腕が引きちぎられそうだった。私は通常の出荷についているプラスチックのバケツ(?)は当然取り除いたが、鮮度を保つためのもので、中身約5,000円の花の輸送費は約6,000円、と本体より高くなっている。つまり花こそ地産地消すべき代表的なモノなのだ。
 悲しいことに、女性議員はそれほど多くいないので9月末、その時々の花を5回運び、長野県の花・りんどうを最後にほとんどの人に届け終わった。ただ私の上京・議員会館滞在と時間の合わなかった数人の重鎮には届けずじまいなのが気掛かりである。

<花は「不要不急」の代表か?>
 私は1978年、2年間のアメリカ留学から戻ると農水省農蚕園芸局総務課に配属されたが、その時に果樹課が「果樹花き課」という名前に丁度変わったところで、「胃の糧は食料、心の糧に花」のスローガンの下、1兆円産業を目指すことにしていた。つまり国民の生命を守るために絶対不可欠の食料と比べると、花は今風に言えば典型的な「不要不急」のものであり、それまで農政の対象としても軽視され続けていたのである。今は幸いにして「花きの振興に関する法律」もできて、農家収入を確保するための有用な作物として振興対象になっている。

<切り花の輸入割合は26%>
 花の生産額は多い方から、菊の625億円を筆頭に、2位は大臣就任祝い等の時に山と届けられる胡蝶蘭に代表される洋ラン(314億円)、そしてユリ、バラが続く。
 個人消費は国内消費で約1.1兆円の産業になっているが、花きの生産額は約3分の1の3,687億円、農業総生産額、9兆2,742億円のわずか4%に過ぎない。県別では愛知、千葉、福岡等の都市近郊の暖かい県が主要産地であり、花きが農業生産額全体の2割近くを占めている県もある。
 政府は、農産物の輸出を5年後に5兆円ととんでもない過大な目標を掲げているが、実態はかけ離れている。輸出は138億円(うち植木、盆栽が120億円と大半を占める)、切り花は僅か9億円。それに対して輸入は切り花が大半で、輸出の約50倍の511億円である。花全体では国内生産9割、輸入約1割であるが、高価な切り花類の輸入割合は数量ベースで26%を占め、カーネーション、バラ、菊類の輸入割合が高い。輸入の主な相手先は、コロンビア、マレーシア、中国そしてアフリカのケニアにまで及んでいる。

<今は飛行機が飛ばず花の輸入が止まり、価格は前年を上回る>
 最近は切り花の輸入割合が増えており、例えばカーネーションでいうと2007年は国産が66%だったのが、10年後の2017年には輸入ものと国産ものが逆転し、輸入が6割になってしまっている。つまり他の農産物と同じく輸入ものに相当押されているのである。
 ただ、3、4月は暖地の花は需要を失い大ピンチに陥ったが、寒地の長野の花が本格的に出回る5、6月頃から花の価格はそれほど下がらず、むしろ前年比で上回るケースもあるという。その理由は前述の通り、その頃には輸入が4分の1を占める切り花が、国境を閉められ、飛行機が飛ばなくなったために止まっているからだ。コロンビアの花の4割、ケニアのバラの7割は空輸されているのだ。1カ月程かかる船便はコールドチェーンにより鮮度を保つため膨大なエネルギーコストがかかっている。いずれにしろ、地球環境上問題のあることなのだ。
 私は食料・農業問題を考えるうちに、「地産地消・旬産旬消」こそ基本的概念(golden rule)だと思い造語した。これが政治家にも工業製品にもそして再生可能エネルギーにも当てはまることがわかってきたが、ドンピシャ当てはまるのが実は花だったのである。

<グレタさんは花の空輸を許さない>
 グレタ・トゥーンベリさんは去年の秋、国連総会に招かれた時もスエーデンからソーラーパネル付きのヨットでニューヨークに行っている。ジェット燃料で空気を汚す飛行機はなるべく使わないようにしているのだ。それから数ヶ月、航空業界は、コロナ禍で飛行機を飛ばせなくなり軒並み経営難に陥っている。地球環境に悪いことは控えるべきという彼女の価値観からすると、発展途上国から空輸で花を輸入するというのは許されることではない。
 カーネーションの輸入の7割を占めるコロンビアは、年間を通じてほぼ一定の気温で、加温施設等一切不要であり花の適地である。ケシの産地で麻薬の巣窟となっていたが、アメリカ等先進国が技術援助し、花の一大生産国となった。それがまた元に戻るのは困るが、だからといって空輸されて日本に来る地球環境を考えたら控えなければならなないことである。
 日本は最近やっと千人の入国を許可すると言っているが、雀の涙である。となると旅客機はほとんど使われないということになる。そうした中で活路を見出そうとしているのが、貨物輸送である。そこで何が運ばれてくるかというと、生鮮物つまり花であり高級野菜である。

<高級な花は空輸され、安い添え花は日本産と、他の農産物の逆をいく>
 野菜や果物にしても牛肉にしても、日本の農家が工夫を凝らし芸術品のような立派な果物や高級和牛神戸ビーフを作り出している。しかし花業界は違っている。高級な生け花で言ってみればメインになるような花は、空輸に耐えられる。それに対して、かすみ草、ヒペリカム等のお花の世界では「添え花」はかさばって重く、空輸コストに見合わないので日本の農家が作ることになる。つまり、低価格で儲けの少ないものが日本で作られているのだ。

<コロナ対策に気候変動対策が必要、手始めに空輸花を高関税化>
 ヨーロッパ諸国はコロナ対策で産業構造が変わるということを見通しており、フランス政府はエールフランス・KLMに援助する条件として2024年までにCO2の排出を半減すること、列車で2時間半以内に行ける路線はすべて廃止すること等、気候変動対策を加味した対策を講じている。それに対して我が国のコロナ対策はGo to トラベルやイートとひたすら経済の振興ばかりで、環境への配慮はひとかけらもない。主要先進国と比べ恥ずべきことだ。
 コロナ禍で翻弄される花業界の窮状を救うとともに、地球環境に優しい生き方に転換していくためには花の空輸については高関税を課すなど、新しい発想が必要である。

2020年10月 7日

72年を走り抜いた熱血市議、市川久芳氏を追悼 -水害から地域を守り、地域の活性化に捧げた熱烈な活動は地方議員の見本-20.10.7-

 私がこのブログ・メルマガに追悼文を書くのはめったにない。しかし、長年(といってもこの10数年来)の友人である市川久芳飯山市議会議員のブログ・メルマガは書かずにはいられない。なぜなら、この類い稀なる活動的な市議会議員の功績を、一人でも多くの関係者の記憶にとどめていただきたいからである。

<30数年に及ぶ執念の定点観測>
 私が市川市議と初めて会ったのは、飯山市の中央橋の下で開かれた飯山地域を水害から守る会合だった。水害の危険を知る人たちが数十人集まっていた。市川市議は驚いたことに、中央橋の土砂がどんどん溜まっていくのを30数年間にわたって定点観測し、それをカメラにおさめていた。二度三度大水害を経験している市川市議は、その危険性をずっと指摘し冊子を作り、そして地域住民や行政担当者に警告を発し続けていた。それから市川市議から山のような資料が次々と送られてくるようになった。
 市川市議は勝山グループと呼ばれる建設会社の役員でもあった。私は詳しくは知らないが、産業廃棄物の処理等いろんな資格を自ら勉強し取得していて、市川市議がいなければ事業が継続できないようで、会社にとっても必要不可欠な人だった。

<「砂利トラ」が走らなくなって河床が高くなる>
 かつては川の土砂を土建業者がしょっちゅう掘削してきたが、いつの頃からか土建業者による掘削は一切禁止され、トラックが走らなくなった。これは団塊の世代ぐらいしかわからないが、昔はトラックの代表はダンプカーで建設用の砂利を運ぶ『砂利トラ』だった。何故かというと高度経済成長の建築ブームであり、川砂利がコンクリートの建物には一番良いそうで、建設会社が競って川底にたまった砂利を取り合っていた。それを運ぶトラックが、道に水を滴り落としながら疾走していたのだろう。しかし、河川の掘削は河川法2の条により許可制となっており、厳しく糾弾下におかれ禁止されてしまった。その結果千曲川だけではなく、あちこちの川に土砂が溜まりどんどん河床が高くなっていった。

<かしがった(傾いた)慰霊碑を廉価で修復する男気>
 市川市議とは水害防止が結ぶ縁で親しくなったが、その後全面的に市川市議にお世話になる出来事があった。私は、集団自決をした『満蒙開拓団高社郷』の悲惨さを国会の予算委員会(2014年1月31日)で取り上げた。その慰霊碑が中野市の箱山の中腹にあった。ところがだんだんと関係者が少なくなり、慰霊祭が開けなくなっていた、さらに悪いことには、立派な慰霊碑が片方に傾いてきてしまっていて、それを修復するのに450万円もかかるという。そこで立ち上がってくれたのが市川市議である。土建会社に勤めているのでそういったことはお手のものである。450万円かかるといわれていた修復費がいつの間にか30万円になり、すぐに修復してもらった。市川市議の男気の発露である。

<市川市議の馬力全開の真骨頂、高校生も参加する慰霊祭の定期開催>
 更にそこからが本番で、市川市議の獅子奮迅の活躍であった。集団自決した人たちの直系の子孫はおらず、年下の弟や妹、傍系のいとこやはとこの類いの親戚しか生き残っていない。慰霊祭の開催が危ぶまれる中、市川市議が立ち上がり、持ち前の牽引力で地元の高校や市町村議会議員を巻き込み、集団自決があった8月25日には大々的に慰霊祭を開けるようになった。地元の高校にかけあったり、地元の新聞社に連絡したりするといったことは、市川市議の指示に基づいて私の秘書が担当した。私の秘書は8月になると市川市議の秘書も同然だった。
 戦時中、国策により遠い満州の地、しかも1番北の果てに配置された長野の農民は、終戦時に真っ先にソ連軍の侵攻をまともに受けることになった。頼みの関東軍は既に去り、置いてきぼりにされ、満州の地で集団自決によって命を終えた開拓農民たちがあまりにも哀れである。市川市議は開拓民の心情を想い、ほっておけなかったのだろう。最後に満州の方向を向いて全員で「ふるさと」を合唱する時は、目に涙が溢れていた。

<市議会の暴れん坊質疑者>
 ほかには地方創生のために亀井静香衆議院議員の下で作った「根っこの会」の会合に出席したり、ともかく地域をなんとかしなくちゃならないという気持ちは並み並みならぬものがあった。こうした人を回りがほっておくはずがなく、いつの間にか飯山市議会議員になった。その後の活躍も目を見張るものがあった。いろいろな資料をきちんと作り、市議会で質問をし、かつ新聞折り込みでその結果を全て市民へ届けるという、他の市議会議員には見られない活動ぶりであった。
 まるで国会審議並み、いやそれ以上の念入りな資料で、質問(糾弾?)振りも一筋縄ではいかなかった。答弁者からはさぞかし恐れられ嫌われたであろう。見方によってはあまりにも傍若無人な発言やあまりにも熱心な活動が反感をかったのだろう、私も市民の一部から「市川市議とあまり付き合うな」と忠告も受けることもあった。

<飯山ワインにかけた夢>
 ほかにも岳北地域の振興のため、千曲川べりの耕作放棄地にワイン用のぶどうを植えて、飯山をワインの産地にしたいという夢も描いていた。飯山市の1番南にある綱切橋の北側は積雪量が多く、北信地方の特産物でもあるりんご・もも・ぶどう等の果樹栽培ができなかった。しかし、地球温暖化でだんだん暖かくなり、積雪量が少なくなっている。ワイン用のぶどうは小さな畝立てで、雪によって枝が折れたりしないので、飯山でもできる。寒暖の差があるからいいぶどうができる。北信地方では徐々にワインの産地ができてきていたし、飯山市もワインの産地になれないことはないと、飯山ワインの実現にも相当心血を注いでいた。

<国会議員や学者も虜にする希なキャラクター>
 19号台風水害直後に嘉田由紀子参議院議員(前滋賀県知事で水害や河川の専門家)一行を一緒に案内した折には、強引なスケジュール変更をしたり、いつものように長口舌を連発した。私が思い余って注意したところ、嘉田参議院議員から「篠原さんいいのよ。私の父も地方政治家だったけど、全く同じようなタイプ。自分がいいと思ったことを必死で追い求めているだけなの。気にしない!」と、たしなめられてしまった。不思議なことに同行した名立たる大学教授たちも、いつの間にか市川市議のファンになっていった。
 それだけではない。片方の目の視力を失っていたが、これを障害者と認定せよという「片目失明者友の会」という全国グループの副会長になり、厚生労働省にかけあい全国大会を取り仕切り頼りにされていた。誰にも屈託なく人なつこく話しかける市川市議は、鈴木宗男・貴子父娘や阿部知子といった国会議員とも仲良しになっていった。
 私も市川市議に振り回されながらも、いつしか大ファンになっていった。そしていつしかしばらく連絡が来ないと気になる存在になっていた。そうした市川市議の活動ぶりが飯山市民の目に留まらぬはずはなく、2期目の市議会議員選挙は、堂々第二位の当選だった。多くの飯山市民も私同様に、ハラハラしながらも温かい目で見ていてくれたのである。

<やり残したことが多すぎる!>
 これからもまだまだやってもらわなければならないことが山積だった。そうした矢先の突然の不幸であった。水害防止については、市川市議の悲願であった戸狩と立ヶ花の狭窄部の掘削も国土交通省が進めることになり、今まさに実を結びつつある時であった。満蒙開拓慰霊祭については、地元の皆さんの支持も受け、高校生も参加するセレモニーが継続する目処がたっていた。片目失明友の会の活動も腰の重い厚生労働省も検討し始めていた。ワイナリーについてもあと5年したら多分、飯山ワインが出来上がったと思う。この点がとても気がかりであり、引き継いでくれる者の出現を願わずにいられない。
 全力で駆け抜けた市川市議の一生、特に後半の市議会議員としての活動は、誰の目にも、目を見張るものがある。本当に大切な人を亡くしてしまったと悔やむばかりである。

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